漆黒の御旗 …12
さらに時は進み、長い夏の日が暮れようとする夕刻。王子の親友であり護衛隊長でもあるアレン・デュカレット卿は、王都の旧市街の中心地デトリュス街にある憲兵隊の警ら詰所で、地図を広げて考えこんでいた。
朝から部下を走らせ学者の所在をたずねさせた場所の印は、すでに地図の上に100ヶ所以上記されている。しかし、手掛かりにつながる情報は依然として、つかめないままだった。
わかってきた事といえば、ラドモラス学派の学者たちが、例の薬のせいで災難に巻き込まれたらしいということ。
息子が死んだのは医者のせいではないというのに、やつあたりで学者仲間もろとも王都へいられないようにしてしまったという某伯爵の暴挙には、腹が立って余りある。ひょっとしたらローレリアンの師匠のレオニシュ医師も、その災難に巻き込まれて地方都市へ逃げた人なのかもしれない。阿呆に権力を持たせると、ろくなことにならない典型だなと、アレンは思った。
貴族であるというだけで、そいつの好き勝手がまかり通るのが、今の世の中だ。革命派の連中が王権も身分制度もぶち壊して、世の中をすっかり作り替えてやろうと願う気持ちも、わからないでもないからこまってしまう。
そんなことを考えながら夕日に赤く染まる空を見あげていると、焦燥感でいてもたってもいられない気分になった。
あと残されている時間は、どのくらいあるのだろうか。
あの高熱に、ローレリアンはどこまで耐えられる?
代われるものなら、代わってやりたい。
士官になったばかりの自分が死ぬなら、悲しむのは親兄弟と、すこしばかりの部下くらいのものだろう。だが、王子のローレリアンは、そうはいかない。とくに今は、王都の半分が燃えてしまった大火の直後だ。国民が極度の不安状態におちいっているこの国では、王子の死によって何が起こるかわからない。
憲兵隊の警ら詰所は、街の治安を守る憲兵が常時数人駐在するための、ごく小さな建物だった。おなじような詰所が、王都にはあと30カ所くらいある。いまはあししげく出入りするアレンの部下のために入り口を開け放ってあるから、アレンと副官のシムスが座っている場所からは、交通量がけっこう多い表の通りの様子がよく見えた。
そろそろランプに火を入れましょうかと、席を立ったシムスが言う。
「ありゃりゃ、隊長。あれはモナシェイラ様じゃないでしょうかね?」
「なんだと?」
「ほら、あの、すっげー勢いでこっちへ走ってくる馬ですよ。いやあ、勇ましいですなあ。ドレス姿で馬にまたがる御令嬢なんて、俺は初めて見ましたよ」
あわてたアレンが建物の外に出てみると、確かに道行く馬車を次々に追い越して、こちらへ激走してくる馬がある。乗り手は若い女だ。ドレス姿で男物の鞍にまたがっているものだから、白いスカートが風にひるがえっている。
一分もたたないうちに、石畳へ響く馬蹄の音も勇ましく詰所の前までたどり着いたその女性は、ひらりと馬の背から舞い降りて、シムスへ手綱をわたした。
「悪いけど、急ぐの。あなた、わたしの馬の息を整えてきてくださる?」
「はいはい、承知しました」
手綱を受け取ったシムスは、嬉しそうに笑って馬をひいていく。
馬は頑丈そうに見えるが、実は繊細な生き物だ。全力で走らせた後には、しばらくゆっくり歩かせて、あがった息を静め、心拍数を下げてやらなければならない。そうした気遣いをきちんとできるモナシェイラ嬢は、かなりの馬好きにちがいない。だから、酒と女のつぎに馬が好きなシムスは、嬉しくてにやけるわけである。
アレンの前を通り過ぎて先に警ら詰所のなかへ入ったモナは、乱れた髪からヘアピンを抜き取りながら言う。
「おまたせ」と。
続いて詰所内へもどった近衛士官は、腕組みをして険しい顔である。
「まっておりませんし、お呼びしてもいませんが」
「うるさいわね。こういうときは、情報源がどこかなんて、四の五の言っている場合じゃないでしょう。ああっ、もう! 髪がくしゃくしゃだわ!」
モナは手にしたヘアピンを警ら詰所のテーブルの上にぱらぱら落としながら、指で髪を梳いた。豊かな黒髪が肩に落ちかかり、真剣な表情を宿した顔のまわりが柔らかく縁取られる。アレンが少女のように髪を下した彼女を見るのは3年ぶりだった。こんなときでなければ、少年時代の淡い恋のことを思い出して甘酸っぱい気分になったかもしれない。
しかし、いまはそれどころではないのだ。アレンはテーブルに手をつき、意気込んだ。
「では、なにか情報をお持ちですか?」
印だらけの地図を見て、モナはうなずく。
「聞き込みは、あまり成果を出していないみたいね」
「はい。ラドモラス学派の学者たちが、10年前にとんでもない災難に巻き込まれたことくらいはわかりましたが。
ひょっとして、モナさま。ローレリアンの師匠のレオニシュ先生も、その災難の犠牲者ですか?」
「そうかもしれないわ。先生の下町言葉には、中央訛りがあったもの。
それに、わたし、王都へもどるにあたって、レオニシュ先生から何人かお医者様を紹介されていたのよ。
ひとりは、わたしがいま雇っている若手医師の師匠だった人だけれど、この人はお金儲けが大好きな学士院のメンバーだから、ラドモラス学派とは関係ないと思うの。ただ働きの弟子をいっぱい抱えてこき使っている人だから、医者を雇いたいときには当たってみなさいと教えてもらったのよ。きっと、開業資金を提供してくれるスポンサーさえ見つかれば、今すぐにでもその医者の助手を辞めたいと思っている若手医者がいるはずだからって。
実際、モンタン先生はひどい待遇で働かされていたわ」
「なるほど」
「もうひとりは、燃えてしまった東岸の街で小さな荒物屋をやっている人だった。下町へ診療所を開くから、もう一度医者として働く気はないかとたずねていったら、けんもほろろの勢いで追い返されちゃった。10年前、よほどひどい目にあったのでしょうね。
今度の大火では、あの方のお店も燃えてしまったはずよ。あの方や、あの方の家族が無事であることを祈るわ」
「では、その元医者を探しだすのは難しいですね」
「ええ。問題は、最後のひとりなの。
わたしが訪ねていったときには、その先生は数年前に引っ越したとかで、そのまま探すこともせずにいたのだけれど。
モンタン先生と仕事をはじめた時に、その先生の名前を書きつけた紙も、どこかへしまいこんでしまったのよ。屋敷へもどって、それを探していたから、ここへ来るのが遅れたの」
「だから、まってないし、呼んでないって、言ってるのに」
ぶすりと答えたアレンの額に、びたんとモナの平手打ちが飛ぶ。
まさか白いドレスをまとった貴族のご令嬢さまから暴力を受けるとは思っていなかったもので、まともに平手打ちをくらった近衛士官は顔を赤くした。油断していたとはいえ、額に一発食らうなど、武人の誇りが傷つくのである。
モナはといえば、これも顔を赤らめて怒っている。
「あんたったら、王子殿下に仕える近衛士官になったら、急に偉そうになって! 山出しの田舎者だったあんたを、誰が拾ってやったと思ってるのよ!」
「拾ってくださったのは、モナさまの御父君であって、モナさまじゃないですよ! それに、出会った当時のことを思い出したら、めっちゃ腹が立つんですけどっ! 俺ってば、よくぞ文句も言わずに、モナさまの御付きなんかをやってたもんです! ああっ、あれもこれもそれも! 積年の恨みってのは、こういうのを言うんですかっ?! いろいろ思い出して、むかむかしてきた!」
「なによ、過去のことをぐずぐず言うなんて、男らしくないったらありゃしない! だいたい、当時のあんたは子供っぽくって――」
そこへ、モナの馬を落ち着かせて詰所のとなりの柵囲いの中へ入れてきたシムスが、もどってきた。
「うわあ、なんで喧嘩になってるんですか! お二方とも、いまはそれどころじゃないでしょう!」
副官にたしなめられて、アレンは我にかえった。
シムスにまずいところを見られたなと思う。苦労して築き上げた『王子殿下の影』『氷鉄のアレン』の評判が、これでは台無しだ。
不機嫌をあらわにしたままで、アレンはモナにたずねた。
「問題の、引っ越していて会えなかったという、医師の名前を教えてください」
「リーチャ・ペルト。レオニシュ先生の弟子だったというから、歳は40代くらいかしら」
アレンとシムスは、自分たちで作った資料をめくりはじめた。
「あった!」
「3時間くらい前に、第一小隊のサルディが訪ねていって、『ラドモラス学派など知らない』と返答されてますね。場所は――」
地図が引き寄せられる。
「ここだ。南へ下る街道筋のマントニエール。駅馬車の発着場がある広場だな」
「いい場所ですな。その広場でなら、いくらでも辻馬車を雇えます。ペルト先生をとっつかまえたら、すぐに王宮へ連行できますよ」
アレンはシムスへ苦笑を返した。
「人聞きの悪いことをいうな。ペルト先生には、ちょっとそこまで、往診にお出ましいただくだけなのだからな」




