漆黒の御旗 …11
行動を決意したモナの瞳には、強い光が宿った。
背筋をのばし、ドレスの乱れを直して、寝室のとなりの居間へ出ていく。
そこに控えていた宮廷医や侍従長らは、侯爵令嬢へ敬意を捧げるために、ふたたび立ちあがる。自分より身分の高い女性が室内へ入ってくるときには、立って待つのが習わしである。そして、その女性から「どうぞおすわりください」と言われない限り、彼らはそのまま立っていなければならない。
宮廷医たちは、内心の驚きを落ち着き払った態度でかくしながら、侯爵令嬢の様子をうかがった。医師を名乗る男たちの間で、いまやヴィダリア侯爵令嬢は有名人である。大勢の貴族の奥方や宮廷に仕える侍女をひきつれて大火に焼かれた王都の東岸の街へ乗り込み、うろたえる男たちを叱り飛ばして、たった数日で大きな野営病院の運営を軌道に乗せた女傑だと。
彼女は男勝りに剣と馬をあやつるそうで、令嬢のあまりのお転婆ぶりにヴィダリア侯爵は頭を抱えておいでになるのだという噂も、医師たちの間ではまことしやかに囁かれている。医師たちは、なるほどそういう豪快な女性であるから野営病院の運営などができるのだなと、なっとくしていたのだが。
ところがどうだ。
彼らの目の前にいるのは、可憐な18歳の乙女である。しなやかですらりとした肢体は、未婚の貴族の令嬢らしく純白の襟がつまったドレスで包まれている。あまり肌を露出しないこの手のドレスは、貴族の令嬢が夏の昼間に外出するとき身にまとう常識的な衣装だ。
宮廷に仕える医師ならば、夏場はいつでも同じような姿の女性と毎日のように会っている。
しかし、ヴィダリア侯爵令嬢は特別だった。
襟元や肩口にたっぷりとレースをあしらった白いドレスは、彼女の美しさを引き立てるために、特別にあつらえられたかのように見える。豊かな黒髪と強い意志を秘めた紫色の瞳に、これ以上似合う衣装は他にないのだ。白と黒の対比の中心に紫の瞳があると、男たちはその瞳から目をそらせられなくなる。
ローザニア王国の将来を担う英邁な王子と恋仲だと噂されるのも、これならば理解できる。この煌めく瞳の持ち主ならば、ローザニアの聖王子と並び立っても、位負けすることはないだろう。
その場に居合わせた宮廷医や黒の宮の奥向きを預かる侍従たちは、モナに対して、畏怖の念すら抱いていた。
「お医者様の責任者はどなたですか」
侯爵令嬢の声は、凛とあたりに響く。
「わたくしでございます。ローザニア王国宮廷医筆頭、シジェムと申します」
シジェム医師は白髪まじりの頭を深く垂れた。
侯爵令嬢モナシェイラは、淡々と問いかける。
「王子殿下のいまのご容体は、先日受傷された銃創の悪化によるものと考えてよろしいのですか」
「さようでございます。王子殿下がお忙しいことは重々存じ上げておりますが、受傷されたのちに、もっと御身をいたわってくださればと……。残念でなりません」
「残念とは、もう望みはないということですか」
「ないとは申しません。しかし……」
「手は尽くしたと、おっしゃるのですね?」
「あとは、神々よりの天命を待つしか」
「シジェムさまは、ラドモラス学派の学説をご存知ですか」
宮廷医は驚いて、たずねかえした。
「侯爵令嬢は、ラドモラス学派を御存じであるほど、医の道についてお詳しいのですか」
「偶然ですが、その学派に所属している方から、過去に教えを受けたことがございます」
「それは、どちらで」
「学問都市アミテージへ、遊学したおり」
「なるほど、東のはてのアミテージになら、まだラドモラス学派の残党がいるかもしれませんな」
モナは眉をひそめる。
「残党? まるで犯罪者のようにおっしゃいますのね」
「ご令嬢の恩師を悪く申し上げたくはございませんが、かの学派の学説は、学士院では異端の詐欺扱いを受けております。
一時は王都でもラドモラス学派の医師が何人か診療を行っておりましたが、彼らの治療で10年ほど前に、さる名門伯爵家の御子息がお亡くなりあそばしまして。
その御子息はラドモラス学派がかかわらなくても結局は亡くなってしまわれるだろうというほどの重体ではあったのですが、歳を取られてからやっと授かった大切な跡取り息子であったために、その伯爵の怒りは治療を施したラドモラス学派の医師へむかいました。
金と権力で圧力をかけられた学士院は、ラドモラス学派の医師は学者にあらずとして、学会から追放してしまいました。そのうえ、問題の伯爵の手の者に暗がりで襲われたり、診療所へ火をつけられたりして、仲間の医師までが王都にはいられなくなったのです。
わたくしも、王子殿下のご容態が悪化した時に、ラドモラス学派のことを思い出さなかったわけではございません。
しかし、肝心の彼らが、いまどこにいるのかはようとしてわからないのです」
モナは静かに話を締めくくる。
「わかりました。丁寧に教えていただき、感謝いたします」
「もしや、ご令嬢はラドモラス学派の医師の所在に心当たりが?」
やや興奮気味になった宮廷医にむかって、モナは微笑んだ。
「お答えできかねます。
どうぞ、シジェムさまは、わたくしとかわした話についてはお忘れください。ことによっては、あなたさえも罪に問われかねませんから。
覚悟を決める人間など、少なければ少ないほどよいのです」
男たちは言葉を失って、王子の居間から出ていく侯爵令嬢を見送った。
「ヴィダリア侯爵令嬢、お待ちください!」
一人だけモナのあとを追ってきたのは、王子の首席秘書官カール・メルケンである。彼は声をひそめてモナに言った。
「ラドモラス学派の医者探しには、すでにアレン・デュカレット卿がでかけております」
足を止めて、モナは答える。
「あら、それならどうしてアレンは、わたしにも声をかけてくれなかったのかしら」
首席秘書官は苦笑した。
「理由は、さきほどご令嬢が、シジェム医師に告げたものと同じかと。あなたさまはローレリアン王子殿下の大切な想い人でございます。責任を問われかねない問題には、巻き込みたくないと考えたのでしょう。デュカレット卿は殿下の親友ですし」
「わたしのことは、モナと呼んでくださっていいわ。親しい人は、みなそう呼ぶの。あなたはメルケン首席秘書官ね?」
「さようでございます」
「あなたには、あとでたっぷりと文句があるから、覚悟していらっしゃい! とくに、王子殿下のスケジュール管理に関してね!」
「ははっ」
「スルヴェニール卿!」
かしこまる首席秘書官を無視して、モナは近衛士官を呼ぶ。
「御前に、我が姫君」
「西翼の車寄せまで案内してくれる人を貸してちょうだい。
まったく、王宮ってところは、どうしてこう無駄に広いの! まるで囚人の逃亡を防ぐための迷路を併設した牢獄みたいだわ! 雰囲気悪いったらありゃしない!
それで、アレンはいまどこにいるの?」
「デトリュス街の憲兵隊警ら詰所を拠点に動いているようですが」
「西岸の地理的な真ん中ね。わかったわ」
ぷりぷり怒りながら、ふたたび歩きはじめたモナのあとを、男たちは追う。いつの間にやら事の主導権は、すっかりモナの手中にあった。
しかし、それが不快ではないから不思議だと、男たちは思った。
彼らは死にかけている王子にモナを会わせたら、派手に泣かれて慰めるのが大変だろうなと考えていたのだ。ところが実物の侯爵令嬢は、まだできることがあると言って、ぐいぐい行動する。
おまけに、こんなことまで言うのだ。
「目先の問題がうまく片付いたら、ローレリアンにも説教してやるわ! こんな雰囲気が悪い場所に閉じこもってばかりいるから、元から陰気だった性格が、さらにゆがむのよ! たまには遠乗りなんかにも、つれださなくちゃ! 相手の気持ちを察することもせずに、自己完結で独善的になりがちなところには、矯正だって必要だし! あなた方も、協力してちょうだいね!」
いつも超然とした態度の王子殿下が令嬢から叱られている場面を想像して、男たちは失笑しそうになった。
ローレリアン王子が、この令嬢を愛するのも理解できる。
ここまで本音をさらけ出して、まっすぐに王子へ近づいてくる女性は、ローザニア王国中を探してみても、この令嬢しかいないだろう。しかも彼女は賢くて、若くて、美しいのだ。
メルケン首席秘書官は、服の下に忍ばせた護符に手をあてて祈った。
天と地にあらせられる神々よ。どうか、無事に回復された王子殿下が令嬢から叱られて大喜びなさる姿を、わたくしどもにお見せ下さい――、と。