漆黒の御旗 …10
ローレリアン王子の護衛隊士たちが街へ散ったあと、時はそのままうつろい、夏の太陽は天空高くへ登っていった。
その太陽が一日で最も短い影を地面に映すころ、ヴィダリア侯爵令嬢モナシェイラ姫は王宮の奥深くに位置する国王夫妻や未成年の王子王女が住まわれる建物の一室で、国王陛下の御寵妃エレーナ姫から謁見の栄誉を賜るべく、じっと座って待っていた。
御寵妃様の侍女たちに茶菓でもてなされながら、モナはあせりで顔をこわばらせている。
王子暗殺未遂事件以来、彼女はローレリアンと会っていなかった。ローレリアンがまだ東岸の街へいたときには、怪我の具合が心配で、何度か御座所に定められた神殿へたずねていったりもしてみたのだが。しかし、訪ねていくと必ず、来客中とか会議中とか言われて面会を断られてしまう。
最初の頃こそ、やはり王子の仕事とは忙しいものなのだなと思っていたけれど、訪ねていく時間をずらしてみたり、小姓のラッティ少年にローレリアンの都合をたずねてみたりするうちに、ああ、これは彼から避けられているのだなあと、嫌でも悟ってしまった。なにしろ「殿下は当分お忙しいと思います」と答えるラッティは、らしくもなくおどおどしており、モナとは目を合わせようとしなかった。
彼から避けられるのは、やっぱり御妃選びの問題がからんでいるからなのかしらと思えば、モナのほうも躊躇してしまって、いつもの勢いでローレリアンの元へ突進していくことができなくなってしまう。
そうこうしているうちにローレリアンは王宮へ帰ってしまい、そして今朝、朝市へ出かけていた野営病院のスタッフから『聖王子危篤』の知らせを受けとった。
その情報を王都へばらまいたのは、王子の命を狙った革命派の団体であろうということは、すぐに世間へ知れわたった。
だが、王宮からは『聖王子危篤』を否定する発表がなされない。
ローレリアン王子を『われらが王子』と慕い、彼の存在に希望を託していた王都の市民はたちまちパニック状態におちいり、街は大混乱となった。
大混乱になったのは公官庁も同じで、『聖王子危篤』の第一報を受け取ったモナは真っ先に情報を求めて内務省に勤める長兄のところへ行ってみたのだが、長兄は財務省との連絡会議へ出席するために外出してしまったとかで、会うことすらできなかった。
侯爵家の屋敷でなら何か情報がつかめるかと思ってもどってみれば、父侯爵は昨夜から帰宅しておらず、司法省に勤める次兄も職場から呼び出しがかかったとかで、いつもより早く出かけてしまっていた。逆に留守番役の兄嫁アンナから、「あなたなら本当のことを知っているかと思っていたのに」と、言われてしまう始末だ。
どうしたらローレリアンの今の状態を知ることができるのか。
さんざん考えたあげく、モナは身支度を整えて宮中へ参内した。国王の御寵妃エレーナ姫からは、野営病院設営に援助をいただいた関係もあって、いつでも訪ねていらっしゃいと言われていたからだ。
侯爵家の姫君が昼間の宮中に参内するのにふさわしい白い夏の外出着で身を包み、ソファーに座ってモナがいま口にしているお茶は、すでに3杯目のお茶だった。侯爵令嬢がおいでになっていることを御寵妃様にお伝えいたしますのでお待ちくださいと、この部屋に通されてから、もうかなりの時間がたっている。
さすがに3杯目ともなると、高級な茶葉を使ったおいしいお茶でも進みはのろくなる。お茶は、カップの中に半分以上残った状態で冷たくなりつつあった。
カップをサイドテーブルに置き、モナは絢爛豪華な御寵妃様の居間の調度をながめまわした。ここはまちがいなく、大国ローザニアの国王から最も愛されている女性の部屋であると思う。「こちらは御寵妃様がプライベートなお客様をおもてなしになる小さなほうの居間ですから、どうぞごゆっくりなさってくださいませ」と案内されたときに説明を受けたけれど、小さいはずのこの部屋は天井も高くて、庶民の家が丸ごと一軒はいってしまいそうな広さの空間だった。
本当は、自分がこの場にいることですら、僭越な行為なのかもしれない。
臣下の貴族の娘にすぎない自分が王子殿下の身を案じて御生母様の元へ押しかけるなんて、はたから見れば王族に対する不敬行為だろう。典礼院の頭の固いお偉い方あたりに、このことを知られてしまったら、父侯爵や三人の兄たちにも迷惑がかかるかもしれない。
でも、いてもたってもいられなかったのだ。
結婚など望まない。そばにいられるだけでいい。なんでもいいから彼の役に立ちたい。友達としてでいいから彼の疲れた心によりそいたい。励ましてあげたい。
あの人は、この世界にただ一人しかいない、わたしの愛する人だから。
早く嫁に行けなんて、彼からは言われてしまったけれど。
彼の代わりになる人なんて、いるわけがない。
たった一人。
わたしのすべてを捧げたいのは、あなただけだと思うのが、恋だもの。
ティーカップをとりあげ、冷めたお茶をもう一口飲んで、モナはため息を押し殺した。
そばに控えている侍女が、もう一杯、熱いお茶を侯爵令嬢へ勧めるべきかどうか迷っている様子が、ひしひしと伝わってくる。そんな侍女の前で、待ちくたびれた様子など見せられはしなかった。
気鬱を慰めるために、窓の外でもながめようか。
そう思ってモナは立ちあがり、窓のそばへ行った。
窓の外をながめれば、なるほど、ここは御寵妃様のお気に入りの居間なのだとわかる。窓の下にはよく手入れされた庭が広がっており、そこかしこで夏の花が咲き誇っていた。その花の配置は窓辺に立つ人のためのもので、おそらくエレーナ姫はこの窓からのながめで、最愛の人である国王陛下をもてなされるのだろうと理解できた。
愛の形はさまざまで、人が百人いれば百通りの愛の表し方がある。
エレーナ姫は恋慕の情だけをたよりに国王陛下へ操をささげて、未婚で王子を生んだあげく、一時は親子の別れを強要されたうえで僻地へ追いやられていた。
でも、彼女は誰を恨むこともなく、いまでも一途に国王陛下を愛している。
この庭を見れば、それがよくわかる。
どんな形でもいいから、あなたを慰められる場所にいられて、わたしは嬉しいというエレーナ姫の心が。
ローレリアンもこの窓辺に立って、お母様のお庭を眺めたことがあるのかしら。
駄目だ……。
なにを考えても、結局はローレリアンのところへ想いが行き着いてしまう。
そう思ったモナが、さっきすわっていたソファーへもどろうとすると、廊下に通じるドアが侍女の手で開かれた。入室してくる高貴な人の名前を客にむかって告げようとした侍女をしぐさで黙らせて、そのドアから室内へ入ってきたのは、ローレリアン王子の母、国王の唯一の寵妃であるエレーナ姫だった。
彼女の姿を目にしたモナは息をのんだ。
エレーナ姫は17才でローレリアン王子を生んだので、まだ十分に若くて美しい人だ。王家に伝わる淡い金色の髪と水色の瞳の持ち主で、口元にはいつも優しげな微笑を浮かべている。たいへんな苦労をしたというのに、前王弟の姫として生まれ深窓の姫君として育った娘時代の面影はいまだ失われることがなく、白百合に例えるのがふさわしいような、可憐で気高く印象的な雰囲気をもつ女性である。国王陛下が、この方をこよなく愛されるのもごもっともなことだと、いまでは国中の人々が認めている。
ところが今日の彼女はひどく面やつれしており、様子もおかしかった。服装はきわめて地味で国王の寵妃が人前に出るときに着るような服ではなかったし、いつも品よくまとめられている髪からは、幾筋もほつれた後れ毛が垂れ下がっている。
しかも、部屋に入ってくるなりエレーナ姫はモナにかけよってきて、有無を言わさぬ調子で両手をモナの腕に絡めて引っ張ろうとする。
「よく来てくださったわ、モナ。お願いよ、わたくしといっしょにいらして!」
「エレーナさま?」
「いいから、早く!」
それ以上何も言わずに、エレーナ姫はモナの腕をひいて歩きはじめた。モナの腕にからめられたエレーナ姫の手には強い力がこもっており、足取りは強引そのもので、いまにも走りださんばかりだ。
先を急ぐ二人の後ろには、侍女や護衛騎士たちが続く。
複数の足音は複雑に絡まってあたりに響きわたり、モナの緊張感は嫌でも高まった。
道のりは遠かった。
300年にわたって歴代の王が増改築をくりかえしたローザニアの王宮は、絢爛豪華な迷路と化している。案内人がいなければ、目的の場所には決してたどり着けないだろうと思うほどに。
いくつもの廊下を通り抜け、階段の上り下りを繰り返して、エレーナ姫はモナを王宮の奥へ奥へといざなった。
やがて建物の内装の雰囲気は、華麗というよりは重厚という表現がふさわしい古いものに変わった。モナもローザニア王国建国当時から王家に仕える由緒正しい血統を誇る侯爵家の令嬢だ。この手の建物の雰囲気が、まだ王宮が城塞として機能していた時代の名残なのだということくらいは知っている。モナが生まれ育った侯爵家の屋敷にも、300年前に造られたという塔が建物の一部として残っていた。
300年前はむき出しの石組みの壁だったに違いない廊下の壁には、丁寧に漆喰が塗り重ねられている。その壁面には古い肖像画がいくつも並べてかけられていた。
「エレーナさま、ここは……」
恐ろしい予感にさいなまれて、モナの心臓は激しく脈打っていた。
エレーナ姫は、ふり返ることなく答える。
「奥の宮の東翼。『黒の宮』ですよ」
やっぱりそうかと、モナはあたりを見まわした。壁にかかっている肖像画は、この宮の歴代の住人のものだろう。どの肖像画も、臣下の令嬢のモナが出入りを許されている王宮の表側のギャラリーに掲げられている歴代の国王や王妃、国政にたずさわって歴史に名をのこした官僚貴族たちの立派な肖像画とは雰囲気がちがう。ある種の影を感じるのだ。奥の宮の東翼といえば、王宮外に宮を持てない惨めな王族が、世捨て人のように暮らす場所であったから。
でも、現在のこの宮の主は――!
中庭に面した広い廊下にでたら、そこには忙しそうに歩きまわる人が溢れていた。どの人も裕福な平民がよく着ている濃い色のフロックコートで身を包んでいる。『黒の宮』の呼び名の由来は、ローレリアン王子の宮に集められた側近たちの服装が、従来の宮廷服とはかけ離れた黒っぽいものだったからだと聞いている。
宮の俗称の元になった光景を実際に目にしてに呆然としていたら、廊下の奥から急いでやってきた立派な紳士が声をかけてきた。
彼は自分の体で、エレーナ姫とモナの行く手をふさごうとする。
「御寵妃様。殿下のご意向では――」
男の言葉を最後までは聞かず、モナの腕を抱きしめたまま、エレーナ姫は相手をおしのけた。
「メルケン首席秘書官。王子はすでに、あなたへ命令できる状態ではないでしょう。ならば、王の寵妃であり王子の生母である、わたくしの命令に従いなさい」
「しかし」
「そこをおどきなさいっ!」
いつものエレーナ姫らしからぬ尖った口ぶりに驚いて、相手の男は身を引いた。その前を、エレーナ姫は小走りで通り抜けていく。
いよいよモナの悪い予感は確信に変わる。
ローレリアンは……!
中庭をめぐる明るい回廊を抜け、ふたたびモナとエレーナ姫は漆喰壁の古い廊下へ入っていった。
そして、一つ目の角を曲がると、そこには見覚えのある赤毛の近衛士官が部下を従えて立っていた。スルヴェニール卿である。おそらく彼は、この場から奥への人の出入りを管理しているのだろう。
エレーナ姫の連れがモナであると気付いたスルヴェニール卿は、丁寧に姫君に対する騎士の礼を取る。
彼の部下が小声でささやいている。「よろしいのですか、隊長」と。
それに対して赤毛の士官は、「いいんだ」と静かに答えた。
道は開かれ、モナはエレーナ姫につれられて、最奥の部屋の前へ。
入り口に立っていた侍従が、うやうやしく扉を開いた。
そこは寝室につながる私的な居間であるらしかった。部屋全体は身分の高い若い男性にふさわしい落ち着いた色味の布と、装飾が抑えられた格調高い家具類で整えられている。中央にはソファーや椅子のセットがしつらえられており、そこに座っていた男たちは入室してきた女性二人を見て、あわてて立ちあがった。
国王の寵妃に対する最上級の礼を取る男たちは、服装からして宮廷に仕える医師だった。しかし、エレーナ姫は彼らからささげられる敬意など目に入らない様子で、ぐいぐいとモナの腕をひいて先へ進む。
次の扉が開かれて、モナは絶望の声をあげた。
王宮が建つ丘の急斜面側に位置し、もともとが城塞であった奥の宮には、国王が国事を行う西翼や舞踏会や園遊会などが催される南翼のように、広大で壮麗な部屋はない。ローレリアン王子の私室も、ごく普通の貴族の居室とそう大差ない広さだった。目がくらむような贅沢とは無縁で落ち着いたたたずまいが、神々の家で堅実に育ったローレリアン王子の生活感覚に合っているからこそ、周囲がいくら「ここは一国の政を預かろうという高貴な方のお住まいにはふさわしくありません」と引っ越しを勧めても、彼はこの奥の宮から動こうとしないのだ。
その王子の寝所には、当然のことながら贅を凝らした天蓋つきのベッドなど置かれていなかった。ベッド自体は人が二人並んで寝ても十分に余裕がある大きさで、ヘッドボードの装飾も凝ったものではあったが。
おかげでモナには、ベッドに横たわっている人の姿がよく見えたのだ。
苦しげに熱い息を吐き、全身にびっしょりと汗をかいて、意識さえもさだかではないローレリアンのことが。
「ローレリアン、モナシェイラ嬢がいらしてくださったわ。妃となった女性を自分と同じような目にあわせるのは嫌だから結婚はしたくないと、あなたは再々わたくしへ、こぼしていらっしゃったけれど。あのとき、あなたが心に思い浮かべていらしたのは、モナシェイラ嬢なのではなくて? ほら、目を開いて、こちらを見てくださいな。あなたの大切な人が、会いに来てくれましたよ。ねえ、ローレリアン。お願いですから、目を覚まして……!」
エレーナ姫は息子に話しかけながら枕元で泣き崩れ、モナはその後ろに立ち尽くした。
こんなことって、あるだろうか。
ローレリアンは数日中にも、黄泉路へ旅立ってしまいそうな様子だ。
だから王子の側近たちは王宮の慣例や王子からの命令を無視して、モナを王子の寝所へ入れてくれたのだ。死ぬ前にせめて、最後のお別れをさせてやろうと。
不思議と涙は出なかった。ローレリアンが死ぬかもしれないと思ったら、ぐるりと世界がまわるほどの、めまいはしたけれど。
でも、まだあきらめるつもりはない。
だって、ローレリアンは、まだ生きている!
たずねたいことだって、いっぱいあるのだ。
あなたが、わたしをそばから遠ざけたのは、わたしの身を案じてくれたからだというの? 王族はつねに誰かから、命を狙われていたりするから。
あなたはこれからずっと、だれも愛さずに、一人で生きていくつもりだったの?
こんな牢獄みたいな、王宮の奥深くで。
黒の宮に着くまでにたどった迷路のような道の記憶が、まるで湧き立つ泉の中にある泡ように、脳裏へ浮かんでは消える。
あの角、あの階段、あの窓からのながめ。
青い芝の匂いがする庭を横切る渡り廊下。
近衛兵が立つ扉。
彫刻で飾られた回廊。
肖像画のなかに姿だけを残す、遠い過去の死人の、うつろなまなざし。
すべてが、まがまがしいものに思える。
この王宮にあるものすべては、ローレリアンを捕らえて離さない、宿命という名の桎梏なのだ。
めまいと震えをこらえて、モナは寝台のそばに膝をついた。
白いシーツの上に力なく投げ出されているローレリアンの手を取り、そっと、ほほをすりよせる。
高熱で苦しんでいるというのに、彼の指先は氷のように冷たかった。これは、よくない兆候だ。残されている時間は、自分が思っているよりも短いかもしれない。
触れた手から想いが伝わるように祈りながら、モナはつぶやいた。
「まっていて、リアン。あなたを、死なせやしないわ」
必ず、あなたを助けてみせる。
そして、誓うわ。
この牢獄のなかで、あなたを一人きりになんかしない。
わたしは、どこまでも、いつまでも、あなたといっしょにいるから。
わたしの命がつきるときまで、この誓いは変わらないの。