建国節の祝賀 … 6
この人ってば、なに?
気持ち悪い!
なんなの、この手ぇ!
ヴィクトリオ王太子に迫られている最中のモナは、背中にだらだらとたれる汗を感じていた。
王太子はいきなり、モナの手を握ったのだ。名乗りもせずに。
もちろん、名乗られなくても彼が誰なのかは知っていた。王太子殿下は、この国の玉座に、いずれ座る人なのだから。
ヴィクトリオは、やわやわと、ドレスにおおわれていないモナの素肌の部分に触れてくる。
首筋や、二の腕だ。
そのさわり方には、性的ないやらしさがある。
あせったモナは、心の中で絶叫だ。
こんなさわり方で女性に触れてもいいのは、寝室でだけでしょう!
寝室でだって、同意がなかったら、犯罪だわよっ!
モナは深窓の姫君ではない。男女の営みについても、遊学先のアミテージで貧しい人々とともに働いているあいだに、実学として学んでしまった。
娼婦と客の喧嘩の仲裁をさせられたり、出産の手伝いをしたり。
庶民といっしょに、たくましく生きていたら、いくらでもそういう場面にぶつかったのだ。
モナの前では、兄のロワールが、こまりはてている。可愛い妹のためなら決闘だって辞さない彼だが、相手が王太子ではどうにもならない。下手に問題を大きくすれば、父や他の兄弟たちにも迷惑をかけるだろうと。
「おはなしください、王太子殿下」
いつも下町で男どもをあしらっているのと同じ調子で怒るわけにもいかず、モナは弱々しく、言ってみた。
しかし、かよわい姫君ぶった演技は、ヴィクトリオを喜ばせるだけだった。
「そなたは、南三国の王家につながる高貴な血筋の姫と聞く。
どうだ、わたしの愛人にならぬか」
「おたわむれを。王太子殿下には、すでに妃殿下も、お子様もおいでになるではありませんか」
「最近、妃は病弱を理由に同衾を拒むのでな。
わたしは、男子の子供が欲しい。
将来の王子がな。
そなた、わたしに息子を授けてくれぬか?
そうなれば、そなたは未来の国母だぞ」
「ちょっ……、やめ……!」
酒臭い息が、首筋にかかる。
再度、心の叫びをあげるモナである。
だから、あんたは奥さんに嫌がられてるんじゃないの、このトウヘンボク!
自慢の腕っぷしで、ぐいっと王太子の顔を自分の首から遠ざける。
しかし、こまった。
まさか、この場で王太子殿下を突き飛ばすわけにはいかないだろう。
やろうと思えば、できるけど。
いや、できる。こんな筋肉がない、ぶよぶよ男なら。
体術を使えば、投げ飛ばすのもできそう。
やらないけど。
だって、こいつは王太子殿下なのよ! わたしに、どうしろっていうの!
モナは必死である。
「殿下、わたくし、約束が」
「ローザニアの王太子を袖にして、守らなければならない約束とはなんだ」
ねちっこく、王太子はモナの鎖骨のあたりをなでた。そのときだ。
「遊学先からおもどりになられたら、わたしと一曲踊ってくださるという約束です」
凛と通る男性の声が、突然、二人の会話のあいだに割りこんできた。
声の主は、モナの空いているほうの手を取った。
王太子の耳元へ唇をよせ、静かに彼は言う。
「兄上にも、約束を思い出していただかなければなりませんね。臣下の未婚の令嬢には、けして手を出さないという、わたしとの約束を」
その声は、王太子とモナにだけ聞こえる、小さな声だった。
「ローレリアン……!」
王太子のほほは、緊張のために、ぴくぴくと痙攣している。
小声のローレリアンは、もう一言。
「酔いに免じて、一度だけは目こぼしいたしましょう。ですが、肝に銘じてください。今宵、一度限りです」
モナをとらえていた王太子の腕から、力が抜けていく。
つぎの瞬間、モナの体はローレリアンに引きよせられ、気がついた時には、しっかりと抱きとめられていた。
モナは激しく動揺していた。
どうしよう。胸が、ローレリアンの体にあたって。ドレスって、どうしてもっとちゃんと、体を包んでくれないのかしら。
やっぱり、わたしはまだ、ローレリアンのことが好きなんだ。ちょっと体が触れたくらいで、こんなにドキドキしたりして。
そう思ったところで、体が離れた。
体が離れたら、ローレリアンの顔が見えるようになる。
心配そうな顔で、彼は言う。
「大丈夫だった? 兄が失礼をした。おわびする」
「ええ、だいじょうぶ。この程度、どうってことないわ」
明るく笑って返事をしたけれど、やっぱりまだ気持ちが悪い。
モナは手袋を外して、汚いとばかりに指先でつまんだ。ついさっきまで、この手袋ごしに、モナの手は王太子に握られていたのだ。
苦笑したローレリアンが、その手袋を受け取り、そばに控えていた式部官に渡す。
そのままモナの手を取り、ローレリアンは大広間を歩きはじめた。わなわなと震えている王太子の前から、モナをつれだしてくれるつもりなのだろう。
ああ、幸せ。こうして、もう一度、ローレリアンの手を握れるなんて。
その感動を感じた瞬間、モナは、しまったと思った。
なんで、手袋を取ってしまったんだろう。
モナの手は、かなり荒れていた。日焼けやそばかすは化粧でごまかせるけれど、荒れた手だけは、どうにもならない。
ローレリアンと再会するまでの3年間、モナはアミテージで悪戦苦闘していたのだ。
下町の子供たちの家を、なんとかまともな孤児院にまで変え、貧しい人でも通える学校の経営を軌道に乗せ、その合間にはレオニシュ医師の手伝いもしていた。
この仕事をやりとげなくちゃ、アミテージからは離れられない。
その一心で、懸命に頑張ったのだ。
結果が、この手。
これは、貴婦人の手ではない。
ふと、ローレリアンが立ち止まった。
モナが気にしている荒れた手が、もちあげられる。
「きみは、ちっとも変っていないね。
その素敵なドレスのせいで、最初はどこの御令嬢かと、思ったけれど」
どぎまぎしながら、モナは答えた。
「あの、手を離して」
「どうして?」
「だって、荒れてるから」
「この手が、きみは変わっていないのだと、わたしに教えてくれた。この手は、世界で一番、美しい手だよ」
そっと手の甲に、口づけられた。
どっひゃー、どうしよう!
そのモナの心の悲鳴とともに、舞踏会の会場からも歓声があがった。
いつのまにか、音楽もダンスも止まってしまっており、会場にいた人々はみな、ローレリアン王子とモナシェイラ姫に注目していたのである。
それはそうだろう。
いままで女性には見向きもしなかったローレリアン王子が、特定の女性のために怒って舞踏会の会場を突っ切って歩くなんて真似をしたうえ、王太子から女性を奪い取り、「彼女とは、遊学から帰ってきたら、いっしょに踊ると約束していた」などと宣言し、そのあげくに、手の甲へ口づけを贈ったのである。
しかも、その女性は、18歳の妙齢の美女。
ほっそりとした優美な肢体に、個性的な美しいドレスをまとい、黒髪に薔薇をかざっている、名門侯爵家のお姫さまだ。
その血筋は南三国の王家に連なり、王妃にだって立てる身分の女性。
ちょっとばかり変わり者だという噂もあるが、ローレリアン王子殿下も普通の育ちとは言い難い方なのだから、ちょうどつりあいがとれて、よろしいのではないか。
舞踏会の客は、全員が、そう思ったのである。
王子とモナのうしろに、ぞろぞろとついて歩いていた側近たちは、内緒話に余念がない。
「馬鹿だなあ、リアンのやつ。踊る神官なんて滑稽だとかいって、踊るの嫌がってたくせに」
「あの場を丸く収めるためにモナ様の言葉を受けて、約束がどうのと答えしてしまったようだがな。こういう経緯をして、みずから墓穴を掘るというのだ」
アレンとアストゥールの会話を聞いて、モナの兄、ロワールが苦笑する。
「殿下がモナと一曲踊らない限りは、この騒ぎに、収拾はつかないでしょうな」
勝手なことをいいやがってと、王子がこちらをにらんでいるが、側近たちは面白がるばかりである。アレンやアストゥール以外の者達も、言いたい放題だ。
「忍ぶれど色に出にけりとは、まさにこのことですな。切れ者で名高い王子殿下も、色恋沙汰には、うとかったか」
「いやいや、ほほえましいではないか。殿下にも若者らしいところがおありになるとわかって、わたしは、ほっとしましたがね」
「まったくです。このままでは、神々にお祈りするだけで枯れ切った若年寄りになってしまわれるのではないかと、心配しておりました」
側近たちには、苦境にある王子を救おうという気持ちは一切ない様子。
令嬢を助けるために、なりふりかまわず吹っ飛んで行ったのだし、あなたの手は世界一美しいなどと気障な台詞を吐くくらいだから、まちがいなく王子の側にも好意があるのだろう。がんばれ若者よ、といった態度である。
しかも、ローレリアンの目に前にいるモナは、男心をくすぐる可愛らしい目で、彼を見あげて言うのだ。
「あの……、あのね、ローレリアン」
「うん」
「その、迷惑でなければでいいのだけれど、一曲だけ、わたしと踊ってもらえない?」
王子の整った顔が、苦慮にゆがむ。
愛しくてならない、すみれ色の瞳をもつ姫君の希望はかなえてやりたいが。
しかし、その望みが、ダンスとは。
人々の興味本位の視線を浴びながらダンスを踊ったりしては、神聖なる神官位をつつしんでいただき、朝と夕べに静かに祈ることを日課としている王子の自尊心は、著しく傷つくのである。
モナは自分のドレスを、優雅につまんで見せた。
「このドレス、とても素敵でしょう?」
「そうだね」
「一番上にかぶせた布が、砂漠渡りの東国の薄絹なの。その薄絹に、いちめんの刺繍を施したのよ。
この布を、アミテージの新しい特産品にしたいの。
草原の中の街に、いままでにない仕事を生むのは、とても難しいわ。
この薄絹が国中で流行れば、国境の街の女の人たちへ、刺繍の仕事をあげられる」
「なるほど」
「わたし、べつにダンスをしたくて、ここへ来たわけじゃないの。
ただね、建国節の王宮の舞踏会で注目を浴びた女性が着ていたドレスは、その年のローザニアの流行になるのよ。
すこしでもたくさんの人に、このドレスを見てもらいたいの」
「うーん……」
「それに、こっちのレースは、ローザニアの名産品にならないかしらと思っているのだけれど」
「我が国の?」
「そうよ。ローザニアには、優れた織物技術を持つ工場が、いっぱいあるのはご存じでしょ」
「まあね。国の産業の発展については、政府にも重大な責任がある」
「ヴィダリア侯爵領にある織機を作る会社が、レースを編む機械を開発したのよ。
いままでレースだけは人の手で編むものだと思われていたけれど、機械で早くたくさん編めるとなったら、お金持ちだけじゃなくて普通の市民もレースを買えるようになるわ。
そうなれば、市場規模って、ものすごいものになるんじゃないかしら?」
きみはいったい、何を考えているんだと、ローレリアンはあっけにとられる。
「市場規模、だって?」
「そうね、『相手は世界!』みたいな?」
こんなことを考えているお姫さまなんて、この世には一人しかいない。
「モナ!」
「ねえ、ローレリアン。あなたには、どこかの役所から、産業奨励金みたいなお金を融通できる力はある? それとも、どなたか投資家を紹介してもらえないかしら」
「は?」
「レースを編む機械は高価なのよ。実験的な工場をつくるためには、すこし大きな初期投資が必要かなー、なんて。
父には、こんなこと、おねだりできないの。女が男の仕事に手を出すなんて、とんでもないと、叱られてしまうわ」
「…………」
ついに王子殿下は黙りこんでしまった。
モナは、普通の貴族の令嬢ではない。それは、よくわかっていたつもりなのだが……。
ふたりの会話に聞き耳をたてていた側近たちも、あきれ顔だった。
「なんだよ、あの色気のない会話は」
「いや、あれも立派なおねだりだ。その証拠に、愛らしい令嬢に、ねえと迫られて、王子殿下はおこまりだ」
「ほら、こまってる、こまってる」
モナは、とどめとばかりに微笑んで、ローレリアンを見つめた。もちろん、両手は可愛らしく、お祈りの形にあわせられている。
「お願い。わたしと踊ってください。ローレリアン王子殿下」
王子を見あげてくる瞳は、美しいすみれ色だ。いつもローレリンが切なさに胸を痛めながら、懐かしく思っていた瞳である。
盛大なため息をつきながら、王子はモナにエスコートの腕をさしだした。
「お手をどうぞ、モナシェイラ殿」
ぱあっと、モナの顔が輝き、王子は苦笑する。嬉しそうな彼女を見ると、ローレリアンも幸せなのだ。
舞踏会の会場は、割れんばかりの拍手で満たされている。
その中心にむかって、見目麗しい王子と令嬢のカップルが、楽しそうにしゃべりながら歩いていく。
「ねえ、ローレリアン。あなた、神官さまなのに、ダンスも踊れるの?」
「あたりまえだろう。王子と呼ばれるようになってからの、わたしの苦労を察してほしいね。王族に必要とされる教養は、ひととおり身に着けさせられたよ」
「あら、どうせ涼しい顔で、なんでもすぐにできるようになったんでしょう?」
「いや、ダメだね。国王陛下に言わせると、わたしは芸術音痴であるらしい。
美しい絵画や彫刻で国民の腹は満たされないと申し上げたら、お叱りを受けたよ」
「あらぁ、それって真理なのに。
綺麗なものを綺麗だと思える心って、戦争がない平和な時代に、おなかがいっぱいの状態でいて、はじめてもてるものだと思うわ」
「きみ、アミテージで、そうとう苦労したんだね」
「そりゃあもう、山というほど!」
「では、アミテージの貧しい人々のために、せいぜい華麗なダンスを踊るとしよう」
ふたりが大広間の中央にたどり着くやいなや、華やかな音楽が鳴り響く。
そっとモナの耳元に、ローレリアンはささやいた。
「左手で、ドレスの裾をつまんでごらん」
言われたとおりにモナがドレスをつまむと、ローレリアンは大胆に足を踏み出した。
モナは「ひゃあ!」と小さな悲鳴をあげる。
こんなに広い歩幅でステップをリードされたのは初めてだった。
まるで宙を飛んでいくみたいだ。
腰を支えられながらターンを切ると、モナの左手でもたげられたドレスの裾が、風をはらんで大輪の花のように開く。
その効果を見たローレリアンは、「ふむ。これはいい」とうなずいた。そして、モナに「ついてこられるね?」と笑いかけると、くるり、くるりと回転するステップをくりかえして、大広間をななめに横切っていく。
観衆から、どよめきと拍手が湧きあがる。
まさに、軽やかなドレスを見せびらかすためのダンスだった。
しかも、見ている者も、踊っている者も、最高に楽しい。
ローレリアンは、モナが俊敏な名剣士だと知っていて、こんなに大胆にふるまうのだ。普通の貴族の令嬢では、こんなリードには、とてもついていけない。
舞踏会に集まっていた貴族たちは大騒ぎだった。
とくに女性たちは、興奮しすぎて卒倒寸前の者まで出る始末である。
堅物だと思われていたローレリアン王子は、もとが美形なのでたいした貴公子ぶりだし、お相手の令嬢も、とても魅力的。
とにかく、老いも若きも流行に敏感な女性たちはみな、明日になったらただちに、あの薄絹のドレスを注文しようと思った。
その後、薄くて軽いドレスの裾をつまんでくるくる回るダンスは、貴族たちのあいだだけでなく、ローザニア王国の国中で大流行となったのである。