漆黒の御旗 … 5
おなじころ、ローレリアン王子は焼跡の聖蹟をめぐり野辺送りの祈祷をする午前中の日課を終えて、王都大火対策本部へもどる道を小型の二輪馬車に乗ってたどっていた。
下町の道は狭いので、長距離移動の足はどうしても小さな二輪馬車か馬になる。重くて裾が長い聖衣を着ているローレリアンは馬に乗ろうとするとサイドサドルを用いて馬の背に横座りしなければならず、これは馬にとっても人にとってもたいへん疲れる姿勢なので、よほどのことがない限りは二輪馬車を利用しているのだ。
しかし、これがローレリアンの護衛部隊にとっては、かなりの負担となっている。二輪馬車は車軸の上に二人掛けの座席が載る設計になっているから、そもそも屋根や側壁がない。下町の道の狭い曲がり角を曲がるために馬車が速度を落としたりすると、無防備な座席に座っている王子が狙撃の危険にさらされてしまうのだ。
おかげで護衛隊は聖衣姿の王子が下町を移動するときには、建物の屋根の上に狙撃者を警戒するための衛兵を配置しなければならない。ローレリアンは何度も、自分も馬に乗って狙撃されても致命傷をあびる危険が少ない早駆けの速度で街を通り抜けようと提案したのだが、瓦礫が散乱している焼跡を毎日7メレ・モーブ以上歩いてまわって野辺送りの祈祷をなさる王子殿下に、これ以上疲れることをさせるわけにはいかないと、側近たちは主張してゆずらない。
野辺送りの祈祷を始めてからは、今日で三日目になる。
二輪馬車のがたつく揺れに身を任せながら、今日はどうにも集中できない日だったと、ローレリアンは考えていた。遺体を荼毘に付している場所では、さすがに考えが乱れることはなかったが、ひとつの場所での祈祷を終えて次の場所へ歩いて移動するあいだ、ローレリアンは雑念に悩まされたのだ。
その雑念には、昨日の午後からずっと、とらわれている。
父国王と宰相から、結婚をと強く迫られたあとからだ。
焦燥に満ちた思いは、つらつらと頭の中に浮かんでは消える。
自分の子供を産ませたいとまで思える女性は彼女だけだという、飢えにも似た渇望。
子供の髪の色は黒であってほしいと願う、王子として生まれた自分の宿命への呪い。
あのすみれ色の瞳に映る男は、自分だけでありたい。
ほかの誰にも、触れさせたくない。
すべてを打ち明けて、許しを請いたい。
彼女を自分の腕の中に閉じ込めて、わたしと共に生きてくれと懇願したい。
彼女は素晴らしい女性だ。
とても賢い。しかも、その賢さは現実生活の感覚に根差した賢さだ。
金銭感覚ひとつをとってもそうだ。彼女は、貴族の感覚、金持ちの市民の感覚、平凡な庶民の感覚、貧しい人々の感覚といった、すべての階級での感覚を肌で理解している。
その聡明さで成す仕事の結果は、視野が狭い男の仕事の成果をはるかにしのぐ。
機械編みのレースの実験工場を作るにあたって、無邪気な様子で『相手は世界よ!』と言い切るスケールの大きさを見せてくれたり。
男たちを使って、一日で大きな野営病院をまともに機能するようにしてみせたり。
夢見てしまう。
彼女が王子妃の地位を得たら、きっと、なにかをやらかしてくれるだろう。
彼女を王子妃に迎えられたら、この国のためにもなるのではないか。
その思いつきには、あらがいがたい魅力がある。
彼女を妻にと望むことは、自分の身勝手ではない。国のため、国民のためでもあるのだ。ただ、跡取りを生むだけのお飾りの妃ではなく、国民のために何かを成してくれる女性を妻に望むのは、王子としては正しい選択であるはずだ。いまは、外交より内政のほうが、我が国にとっては重要であるはず……。
そうした言い訳を、ローレリアンは昨日の午後から、自分の心の中で何度となくくりかえしている。
彼女を自分の業にしばりたくない。彼女には、ごく普通の幸せを手にしてほしいと願う気持ちも、まだ残ってはいるが。
しかし、どうしても結婚しなければならないとなったら、相手はモナしか考えられない。そう思わずにはいられない自分も、いま確かに、ここにいる。
愛しているのは、彼女だけなのだ。
物思いにふけっているうちに、ローレリアンは花の女神フローラの神殿の前に広がる広場までたどり着いた。いま現在、その広場はたくさんの天幕でおおいつくされ、大火で怪我や火傷を負った人々を収容する野営病院になっている。
天幕の群れの中央には広い道が取ってあるが、ローレリアンはいつもその道を馬車から降りて歩くようにしている。怪我や病気で苦しむ人々の間に、車輪の音を轟かせて入っていくような真似はしたくなかったからだ。
馬車がとまり、先に降りた御者がローレリアンに手をさしのべる。
車軸の上に座席が載っている二輪馬車から地面へ降り立つためには、ちょっとしたコツがいるのだ。乗降口にせり出している車輪に聖衣の裾がひっかからないよう空いているほうの手でローブの布を集め、介助者に軽く手を引いてもらう瞬間を狙って優雅に足をステップから離す。
頭に思い描いた通り、すんなり地面に降りられて、ほっとする。
この頃、ローレリアンはどこへ行っても、大勢の人の視線にさらされている。その視線には高貴な存在への憧れや期待が満ちているから、彼は片時も気を抜けないのだ。ローザニアの聖王子は、つねに人々の尊敬に値する雅で美しく賢そうな男であらねばならない。
ローレリアンが地面に降り立つと同時に、野営病院の天幕から外へ出ていた患者やその家族たちが、喜びの声をあげた。彼らは王子殿下が優しく慈悲深い聖人だと信じている。王子殿下に微笑みかけられると死に瀕した重病人までが救われると、彼らの間ではまことしやかにささやかれていた。
自分のまわりにイグナーツ・ボルン卿を筆頭とする第一護衛小隊の隊員が集まるのを待って、ローレリアンはゆったりと歩きはじめた。昨日、西岸の渡し場で群衆に取り巻かれてしまう出来事に遭遇したせいで、護衛隊士たちは極端に慎重になってしまっているのだ。当分のあいだ彼らはローレリアンに、ちょっとした寄り道すら許してくれないだろう。
道端に並ぶ人々の姿を見ても、ため息がもれてしまう。今日は沿道に衛兵が等間隔で並んで立っている。結果として、王子の顔を見るために外へ出てきている人々は、この線より前に出てはならないと威嚇されてしまっているのだ。
物々しい雰囲気は嫌いだ。
強くそう思いながら、ローレリアンは道の先にある花の女神フローラの神殿のほうを見た。
見た瞬間、口元の笑みが、義務で浮かべるものではなく心からの笑みにかわる。
神殿の入り口には、若き近衛士官アレン・デュカレット卿が副官をしたがえて立っていたのである。『王子殿下の影』と呼ばれる頼もしい親友が、そばにもどってきてくれたのは、やはりうれしい。彼に背中を任せていると、ローレリアンは安心して前だけを見ていられるのだから。
4日も任務から離れていたというのに、アレンの様子に変わりはなかった。ローレリアンと視線が合った瞬間に「やあ、帰ってきたぞ」という意味の小さな笑みがよこされた。それだけが、いつもと違ったことである。その直後には、たちまち厳しい表情となり、ローレリアンの周辺に不審な行動を取る人物がいないか警戒する任務へと、アレンはもどっていってしまう。
だが、そのいつもと変わらない様子が、ローレリアンには嬉しくてありがたかった。
王子であるはずのローレリアンを、平気で「馬鹿だな、おまえは!」とののしってくれる友人が目の前にいて、そして優しくローレリアンの体調を心配してくれる彼女も近くにいてくれる。この野営病院の責任者は第一師団の軍医だが、それはあくまでも建前上のことで、実際の運営権はすべてヴィダリア侯爵令嬢の手中にあるらしい。誰もが、こまったことが生じると、即刻事態を把握して行動を起こす彼女のところへ相談しに行ってしまうからだ。
早くアレンのところへ行って、営倉から出してやらなかったことを、わびたかった。
国民をだます詐欺師めいた行為を、彼に見られたくなかったのは事実だが。
結局、たった一人でがんばってみた、この数日は苦しかった。
モナに助けてもらえなかったら、自分は精神的にも肉体的にも、潰れてしまっていたかもしれない。
そんな打ち明け話を、アレンに聞いてもらいたかった。
正午の太陽の光は、頭上から人々を射す。
風はほとんどなく、地面からは陽炎が立ちのぼっていた。
はやる気持ちをおさえながら、ローレリアンはゆったりと歩む。
午前中の聖蹟めぐりのせいで聖衣はたっぷりと彼の汗を吸い、さらに重くなっている。
しかし、嬉しそうに自分を見ている沿道の人々に、疲れた様子を見せるわけにはいかない。
ひと足、ひと足、丁寧に、優雅に。
あと少しで、この重たい聖衣を脱いで、涼しい場所でくつろげる。
そう思ってローレリアンが小さな吐息を吐いたとき、目の前に幼い少女が走り出てきた。まだあどけない年頃の、小さな子供だ。
その子は手に一輪の花を持っていた。
「おーじでんかっ」
もつれる舌でローレリアンを呼び止め、その花をさしだす。ローザニアの夏の草原でよく見かける赤い撫子だった。
可憐な花は、まだみずみずしかった。
こんな都会の片隅でも、この花は咲いているのか。
花をさしだす幼女は憧れの王子に捧げものができて、嬉しくてしかたがないらしい。こぼれるような笑顔が、夏の日に輝いている。
この笑顔こそが、最高の贈り物だと思う。
きっと、この幼女の親や兄弟は、王都の大火でいろいろなものを失ったに違いない。だが、この花を見て心を動かしてくれたのだ。この子に花をたくして、わたしのもとへ届けてくれた。
「ありがとう、お嬢さん」
立ち止まって、ローレリアンは幼女がさしだす花を受け取った。
「殿下。立ち止まらずに、先へお進みください」
ローレリアンの斜め後ろを歩いていたイグナーツが、いらだたしげに言う。彼の神経の尖り方は、ここ数日、尋常ではなかった。
イグナーツも疲れているのだろう。申し訳ないことだ。
幼女の頭をひとなでし、ローレリアンは護衛隊長を慰労する言葉を口にしようとした。
その瞬間、晴れ渡った真昼の空に、銃声が響き渡った。
同時にローレリアンは、おのれの左肩が吹き飛ぶ衝撃を受けた。
次に訪れたのは、熱した鉄棒を生身に差し込まれるような焼け付く痛み。
またたくまに、肩が濡れていく。生暖かい、自分の血で。
あまりの痛みに、息がつまる。
傷をおさえたまま、片膝を地面についてしまった。
周囲の人々が怒声をあげる。
無事な右の肩の下に、誰かの腕が差し入れられる。
「殿下、お立ちになってください!」
「ここにとどまってはいけません!」
「上だ、上っ! 撃ったのはあいつだ!」
立たなければと思うのだが、足が震えて意識が霞む。人間は本当に弱い生き物だ。痛みのせいで前後不覚に陥るなんて。
「ローレリアンさま!」
イグナーツが立てないでいるローレリアンに覆いかぶさって来るのと、次の銃声は、ほぼ同時だった。
アレンの声が、ものすごい勢いで近づいてくる。
「撃て、撃て、撃て! 射殺してかまわん! あいつを止めろっ!」
命令と同時に、炸裂する複数の銃声。
逃げ惑う人の悲鳴。
足音。
血の匂い。
ローレリアンの上に覆いかぶさっていたイグナーツの身体が、急に重くなった。
いまや、ローレリアンの身体を濡らす血は、自身の物だけではない。
わたしは浴びている。とめどなく溢れて落ちてくる、イグナーツの血を――!
おかげで遠のきかけた意識がもどる。
ローレリアンは大声で叫んだ。
「イグナーツ、しっかりしろ!」
彼の護衛隊長は閉じていた目をあけ、かすかに笑った。
かすれる声がいう。
「ご無事か……、ありがたい」
その一言のあと、イグナーツの口からは鮮やかな色の血が噴き出した。
なんと鮮やかな色だ!
イグナーツに当たった凶弾は、彼の肺を傷つけたのだ。
イグナーツは死ぬ。そうローレリアンが確信した瞬間、力強い男たちの手で、彼の身体はイグナーツの下からひきずりだされた。
作者設定資料によりますと、ローザニア聖王歴300年ごろの銃の性能は、先込め単発フリントロック着火方式で有効射程距離は90モーブ程度。ライフリングは量産型の銃には取り入れられておらず、一般兵士が持つ銃の命中精度はあまりよくありません。動いている標的には、なかなか弾が命中しないらしいです。(銃砲オタのかたは、生ぬるく笑って読んでくださいねw)