漆黒の御旗 … 3
いっぽう、そのころ王宮での仕事を終えて東岸の街へ帰ろうとしていたローレリアン王子一行は、レヴァ川の船着き場で大群衆に出迎えられて、おおいに慌てていた。
街の人々は新聞を熟読していたから、新たにローレリアン王子の御旗が定められ、王子が御座所とする場所には、その旗が立てられることを知っていたのだ。
庶民はめったなことでは、王族の顔など拝めない。王宮の王旗掲揚台から黒い御旗が降ろされたのを見て、ひと目でいいから我らが王子のお姿を拝見したいという者たちが、渡し舟の船着き場へ押しよせてきてしまったのである。
聖衣姿で馬を操るのはむずかしいので、街中におけるローレリアン王子の移動には馬車が使われていた。その馬車は船着き場の手前で動けなくなり、護衛隊を指揮していたスルヴェニール卿は、やっきになって民衆をおしのけようとし、声をからして怒鳴りまくった。
その怒声を耳にして、ローレリアンはやれやれと、ため息をついた。
「そう怒鳴るな、スルヴェニール。馬車が動けないなら、歩けばすむことだ」
「とんでもございません! 殿下、お待ちください!」
馬上にあったスルヴェニールの制止はまにあわず、馬車から降りた王子殿下は、さっさと歩きだす。護衛隊士たちは冷や汗をかきながら、王子の前に道を開いていった。思いがけず王子殿下のお姿をじかに拝見できた民衆は大喜びだったが、護衛隊士たちにしてみれば、これはとんでもない事態であった。もし、この人ごみに暴漢が身をひそめていたらと思うと、気が気ではない。
おかげで渡し場にたどり着き、無事に王子を舟に乗せたあと、武闘派を誇る赤毛の護衛隊長は、まるで魂の抜け殻のようになってしまっていた。
その顔を見て、ローレリアンは涼しげに笑う。水面に漕ぎ出した舟の上には涼風が吹きわたっており、一行のあいだには、つかのまの休息の安堵感があった。
笑われた護衛隊長は、むきになって抗議した。
「殿下、お願いでございます! 今後は、あのように無防備な状態で人ごみを歩くようなまねはなさらないでください! 危険すぎます! 御身にもしものことあらば、我がローザニア王国はどうなるのです!」
ローレリアンは首にかけていた儀式用の細帯を外し、丁寧にたたみながら答えた。
「さあな。わたしが死んだあとは、また新たな誰かが権力者の地位を目指して、しゃにむに頑張るのだろうさ」
「でんかっ!!」
頭に血を登らせた護衛隊長の赤毛は、怒りのあまり逆立ってしまった。ローレリアンは思わず首を縮め、舟の外の景色に視線をそらせた。
「そう怒るな。悪かった」
王族を怒鳴りつけてしまったスルヴェニールは、何度も深呼吸をしてから「ご無礼つかまつりました」と謝る。ただ、いつものローレリアン王子ならば、護衛隊長の制止を無視して危険な行動を取ったりはしない。さっきの行動に、どこか投げやりになった心情を感じて、スルヴェニールは心配になるのだ。
「ローレリアンさま、なにか王宮で面白くないことがございましたか」
神妙な態度にもどったスルヴェニールに、ローレリアンは苦笑をむける。
「国王陛下から、適当な相手を見つくろってやるから見合いをしろと言われた」
「やや、それは……。殿下も御年22歳。そろそろご結婚をと言われるのは、いたしかたないのではございませんか」
「国王陛下も勝手なものだ。わたしは最初に言ったんだ。田舎で生涯一神官として生きる夢をあきらめて、王子として王都へ帰ってきてやったのだから、結婚の強要はしないと約束してくれと。それなのに今日になって、あれから事情はずいぶん変わったのだ、などと言われる」
「はあ。殿下の夢は、田舎暮らしですか」
「そうだ。いいぞぉ、田舎は。のんびりとしている。小さな村の片隅の神殿で、朝晩御祈祷をして、昼間は畑を耕す。あとは雑役用の馬一頭と、笑顔が可愛い女房の一人でもいれば、それで十分に幸せじゃないか」
スルヴェニールは複雑な顔をした。
「なんだ、その顔は」とたずねる王子へ、「殿下がおっしゃることを想像してみようとしたのですが、できません」と。
スルヴェニールが知っているローレリアンは、大勢の秘書官や事務官をつかって膨大な量の国務を難なくさばき、人々の間にあっては指導者として議論を仕切り、難しい決断を次々に下し、弱音を吐く者には励ましを、嘆く者には慰めを、そして、共に働く者には勇気を与えてくださる、立派な王子殿下なのだ。
だいたい、こんな秀麗な容姿の男には、田舎暮らしなど似合わない。教区の信者もこまってしまうのではないだろうかと、王子の横顔を見て思うスルヴェニールである。連日炎天下で仕事をしているというのに王子の顔は少し赤らんでいる程度で、白皙の美貌は、いつもとまったく変わりなかった。
スルヴェニールの複雑な顔を無視して、ローレリアンは、かなわぬ夢に思いをはせる。
任地は気候が安定しているフェローナあたりがいい。畑には収益性がいい砂糖大根と芋を植える。それから、薬草も少々。田舎には医者がいないから、簡単な病気くらいだったら、神官の自分が診てやることになるだろうから。どんな薬草を植えるかは、春に女房と相談する。彼女は、病気やけがの手当てにも詳しい……。
そこまで考えて、ローレリアンは我にかえった。
彼の想像の中で、小さな神殿のそばの畑をいっしょに耕していたのは、豊かな黒髪を無造作にまとめ、質素な服を着た、すみれ色の瞳の女性だったのだ。そして、あろうことか、その女性のむこうには、外遊びから帰ってきたところらしい黒髪のちいさな男の子がいたのである。畑のなかの小道を走ってくるその子は、嬉しそうに笑いながら「お父さん、お母さん」と……。
「馬鹿な……!」
小さくつぶやいたローレリアンは、膝の上で白い細帯を握りしめた。金糸銀糸で縫い取りをほどこした細帯はたいそう格が高いもので、三位以上の高位にある神官にしか使用が認められていない品だ。
ローレリアンの手のひらには、金糸銀糸のちりちりとした感触が、痛みのように伝わってくる。しっかり目を覚まして、現実を見ろと。
しかし、考えれば考えるほど、ローレリアンは混乱した。
いままでは、周囲から結婚を強要されても、無視で押し通せばなんとかなるだろうと思っていた。しかし、今回の見合い話は、かなり雲行きが怪しい。ローザニアの国益を守ることに命を懸けてきた宰相は、自分と同じことをローレリアンにもやらせる気だ。人生のすべてを、国家にささげろと。
その理屈から宰相は、ローレリアンの伴侶には国内の貴族の娘より他国の王女のほうがよいとして、国交がある国の大使公館へ、ローザニア王国第二王子のもとに嫁に出してもよい年頃の王女がいるか国元へ訪ねるようにと、内々の使者まで送ってしまった。
最初にその話を聞いた時には「国家レベルで見合い話を蒐集しようとは、宰相も馬鹿なことを考えるものだ。相手国は威信を傷つけられたとして、怒るかもしれないではないか。いよいよ宰相もボケはじめたのだろうか」などと思っていた。
ところが、各国の大使からはぞくぞくと「うちの国の王女は17歳で、とても愛らしい方です」とか、「王の妹が御年20歳です。知性あふれる美女であるがゆえに、国内では釣り合う相手が見つからず」などといった返事が返ってきているらしいのだ。他国の王にとっては、自国の王女を大勢のなかの一人としてあつかわれて国家の威信を傷つけられることよりも、大国ローザニアの次の権力者と姻戚関係になれる可能性をつぶさないことのほうが大切であるらしい。
したり顔の宰相は「この秋の国王陛下生誕50年のお祝いのさい、めぼしい姫君を何人かお呼びしてみてはどうかという方向で、話が進んでおります。殿下も、顔すら見たことがない姫君といきなりご結婚では、納得がいかれませんでしょうし」などと言う。選ばせてやるのだから、ありがたく思えという態度だ。
国王はどうかというと、「表向き姫君たちには、余の結婚を祝う使者として遊びがてらローザニアへおいでいただきたいと案内するゆえ、その場で無理やり相手を決める必要はない。だが、結婚に関しては前向きに考えるように」と、やや勢いが落ちる。息子との当初の約束をたがえることになるのだから、父親としては後ろめたいのだろう。ましてや国王自身は長年伴侶に望んでいたエレーナ姫を、正妃に迎えようというのだから。
苦労を重ねてきた母が望み通り父と添い遂げられるのは、喜ばしいことだ。父親の個人的な幸福などどうでもいいが、母には幸せになってもらいたいと、ローレリアンは思う。
しかし、その余波として自分にふりかかってくる事態には、心底困惑する。自分は王位などまったく望んでいないのに、周囲はそうは受け取らない。だから、ローレリアンに、結婚して跡取りを作れなどと言うのだ。
跡取りか。だから、彼女との未来を想像した時に、息子が出てきてしまったのだなと、ローレリアンは苦笑した。
彼女と愛しあって息子が生まれたら、きっとその息子は、黒髪にちがいない。南国の血筋の黒髪は、子孫に強く伝わるというから。それは、素晴らしいことだ。王家の金の髪など、もう誰にも受け継いでほしくない。わたしは、黒髪の息子が欲しい。
握りしめた手から、ちりちりとした痛みが伝わってくる。
現実へ、立ちもどれと。
現実……。
昨夜、わたしのもとに訪ねてきてくれたモナは、まぎれもない現実だ。彼女は誰よりも深く、わたしを理解してくれている。本当は弱い、情けない男である、わたしを。
彼女はわたしを、変に神聖視したりしない。ただ、あるがままに受け入れて、自分もあるがままにふるまう。彼女の無邪気さに、どれだけ救われたことだろう。
そのうえ彼女は聡明で優しくて、誰にでも分けへだてなく愛を与えられる人だ。
困難へ自分から立ち向かっていく勇気と、あきらめずに粘る精神力も持っている。
したたかで、生意気で、時には男を屈服させるほどの気の強さも。
わたしは相当、彼女にまいっている。
ひどく気分が落ちていても、彼女にちょっと励ましてもらっただけで、すぐに元気を取りもどしてしまうほどに。
昨夜だって、あそこまで体調が悪くなければ、彼女を抱きしめたかったのだ。頬にふれられたときには、その手を捕らえて口づけたかった。ただ、疲れた自分の身体がいうことをきかなかったから、行動に出られなかっただけで。
わたしだって、ただの愚かな若い男なのだ。
愛した女を朝まで抱いて眠りたいという、男としてあたりまえの欲望くらい持っている。
自分の息子を産ませたいとまで思う女は、彼女しかいない。
寂しいときには、よく想像する。
彼女の唇は、柔らかいだろうか。
彼女の素肌にわたしが触れたら、あのすみれ色の瞳は潤むだろうか。
褥で彼女があげる声は、どんな声だ?
「殿下」
スルヴェニールの呼びかけで、ローレリアンはふたたび我にかえった。
「大丈夫ですか? お疲れなのでは? まもなく東岸へ着きますが」
すこし痛む眉間に指をあてながら、ローレリアンは答えた。
「大丈夫だ。あまりに日差しが強いので、意識が飛んで白昼夢を見てしまった」
「ああ、そういうことは、よくありますな。連日のこの日差しときたら、まったくまいります。明日は御座船にも日よけを準備させますので。
岸辺に着きましたら、小休止にいたしましょう。わたくしはラッティ坊やから、強く命じられているのです。殿下には、こまめに休んでいただくようにと」
「ラッティは、おまえに命令するのか? 出すぎたまねはしないように、注意しておかなければ」
「いやいや、ちがいます。いつもの調子でうるうると目を潤ませて、『スルヴェニール隊長、お願いします』と、やられたんです。あの瞳で下から見つめられて、逆らえる男はそうそうおりません。まるで小動物ですな。リスとか、ウサギとか、そういうたぐいです」
かかかと、赤毛男は高らかに笑った。
ローレリアンは緊張をゆるめ、遠い空に目を向けた。思わず笑顔になる。ここにも一人、あの少年のしたたかなやり口に、まんまとはめられている大人がいたのかと。
しかし、いまではラッティも、黒の宮にはなくてはならない人材だと思う。いつでも一生懸命で笑顔が可愛い少年は、激務に追われている男たちにとって一服の清涼剤のようなものなのなのだろう。現に、自分もこうして思い悩んでいるとき、あの子の存在に救われたりしているのだから。