漆黒の御旗 … 1
やぶ医者モンタンの予言どおり、一夜だけひそかに憂愁と身体的な不調で倒れ伏したローレリアン王子は、翌朝には元気を取りもどしていた。いつものとおり夜明けと共に起きだして朝の御祈祷をすませ、朝食のあとには精力的に、たまっていた書類相手の仕事を再開している。
王子の側近たちは、かくれてこそこそ言いあった。
弱りはてた男を奮い立たせるのは、じつに簡単だ。いい女を、そばにあてがってやればよい。しかし、ヴィダリア侯爵令嬢は、いったいどういう魔法を使ったのだろうか? 令嬢が殿下のもとへおいでになった時間は、ほんのわずかであったはずなのに。しかも、その場には小姓やら医者やら、複数の人間もいたはずだ。
「ラッティ坊やをしめあげて、なにがあったのかを吐かせてやろうと思ったのですがね」
王子の護衛小隊長の一人、スルヴェニール卿は、陽気に先任の同僚であるイグナーツ・ボルン卿へ言った。
「さすがは殿下お気に入りの小姓です。あの坊主、すました顔でしゃあしゃあと『さあ? ぞんじません。お二人のご様子は、いつもと変わりありませんでした』などとほざくのですよ。わたしは、そのいつもと変わらないお二人のご様子とやらが、どんな様子なのかを知りたかったのに! 接吻のひとつでも、したのでしょうかね!?」
近衛護衛部隊総隊長へ提出する書類の束を小脇に抱えたイグナーツ卿は、苦笑しながら答えた。
「貴卿は元気だな。宵番が明けても、生き生きとしている」
赤毛の男は、声をあげて笑った。
「わたしは体力にだけは自信があるので」
そうだろうなと、第二王子付き護衛部隊長代理の中年男イグナーツ卿は思う。40歳が目前で何かというと身体に疲れが出てくる自分と、この赤毛男はちがう。それに、スルヴェニールは武闘派の軍人だ。部下の訓練や騎馬兵をうまく使って王子の周囲に安全のための空間を確保するなどといった実務には優れているが、他部署との連携を組み立てたり、人員配置の計画を立てたりするのは苦手である。
その点、もう一人の同僚、若き近衛士官アレン・デュカレット卿は頼りになる男だった。最初は士官学校首席卒業などという肩書を持つ青年を、イグナーツはうさん臭いやつだと思っていたのだが、国一番の剣士でもある彼は周囲が驚くほどの速さで部下を掌握してしまったのだ。
アレン傘下の第3小隊隊員は隊長に対して絶対の信頼をよせているので、視線や指先の指示だけで、きびきびと動く。スルヴェニールあたりが何度も怒鳴ってやっていることを、アレンは指さしひとつで済ませてしまうのである。管理職経験が長いイグナーツにはわかるのだが、これはアレンが部下に命令に従うだけでなく、自分で考えて行動する訓練を積ませている証拠である。きっと近い将来アレンの隊からは、優秀な士官が何人も育つだろう。
それに、彼がここにいてくれれば、イグナーツの仕事もだいぶ楽だったはずだ。いまイグナーツが抱えている書類の処理の半分だって、「では、これは俺が引き受けますよ」といって、アレンがやってくれただろう。
ちなみに、その手のことは、スルヴェニールには頼めない。武闘派の赤毛男は数字や公式文書が苦手なので、まかせた書類に間違った数字を書きこんだりして、かえってイグナーツの仕事を増やしてくれるのだ。
イグナーツは大きなため息をついた。
「アレンが営倉から出てくるのは、明日だったな」
赤毛男がのんびりと答える。
「そうですな。あいつも、間の悪い男です。もっとも王子殿下のために働かなければならない時に、お側にいられないとは。師匠から譲られた『王子殿下の影』の二つ名が、泣きますぞ」
「それは、彼のせいではないのだから、しかたがあるまい。とにかく、アレンには一刻も早く現場復帰してもらいたい。彼の小隊が欠けているせいで、ローレリアン殿下の警護体制には、あちこち無理が出てきているからな」
「憲兵隊の応援だけでは、確かに心もとないですな。憲兵隊には、要所の警備任務くらいしかまかせられない」
「アレンの小隊の隊員が、伝令として飛ばされた地方から、だいぶもどってきている。今夜はアレンの副官のシムスに、その連中を指揮させて宵番をまかせようかと思う」
「あの、お祭り男ですか」
スルヴェニールは少し軽薄な感じがする麦わら色の髪の青年のことを思い浮かべ、にやりと笑った。彼にしてみれば生真面目な先任のイグナーツや愛想なしの後輩アレンより、酒と女遊びに詳しいシムスのほうが、親近感を覚える相手なのだ。
いっぽう、イグナーツには、同僚の冗談に乗ってやる余裕などない。そっけなく、これで朝の打ち合わせは終わりだと告げる。
「とにかく今夜は、わたしの小隊の隊員も貴卿の小隊の隊員も、きちんと休ませる。みな、疲労がたまってきているからな」
「明日になれば、アレンのやつを、こき使ってやれますしな」
「4日も、たっぷりと休んだのだ。アレン自身も、働きたくてうずうずしていることだろう。それに、すまないが貴卿には、これから半日しか仮眠を取らせてやれない。宵番明けだというのに、申し訳ないな」
「なになに。これから殿下にお供し炎天下の焼跡へ行軍をしに出かけようというボルン卿に、午後もひきつづき現場任務で働けなどと、申し上げる気はございません。半日休ませてもらえれば十分です。午後の王宮へのお供は、我々第二小隊へお任せください。王宮から外へお出ましになられた王族をお守りする護衛隊士の任務は、24時間態勢が常識ですぞ」
二人の小隊長がそんな話をしていると、急に神殿の廊下の奥が騒がしくなった。
先触れの侍従が、こちらへ走ってくる。
「隊長方、王子殿下がお出ましになります」
「よし、わかった」
うなずいたイグナーツは手に持っていた書類を事務官に預け、神殿の出口ですでに待機している部下へ出発準備の合図をする。
「では、スルヴェニール卿。のちほど」
イグナーツとスルヴェニールがおたがいに敬礼をかわしおえたところへ、王子殿下がお出ましになった。
昨日の夕方、ふらふらになって神殿へ帰り着いたときの殿下と、今朝の殿下は別人のようだった。おろしたての聖衣はすきなく着こなされ、いつもに増して秀麗な横顔には凄味にも似た強い意志の力がやどっているように見える。連日、鮮烈な体験をくりかえされて、王子殿下も考えることがいろいろとおありなのだろうなと、イグナーツは思った。
凛と澄んだ声が、イグナーツに話しかけてくる。
「すまないな、イグナーツ。炎天下の行進につきあわせて。今日は要所要所で休憩も取る。昨日ほどひどい道行きにはならないはずだ。よろしくたのむ」
「どうぞ、殿下。我々護衛隊へのお気遣いはご無用に願います。どこまでも殿下にお供つかまつるのが、わたくしたちの使命でございますれば」
王子につきしたがって外へ出ると、今日も真夏の陽光がまぶしかった。
まぶしさを少しでも和らげようと細めたイグナーツの眼に、神殿の前にできた天幕村の光景が映る。
野営病院に収容された怪我人や病人は、お出ましになる王子殿下のお見送りをしようと、動ける者はみな外へ出てきていた。その人々が、いっせいに、喜びの声をあげる。
人々の口からくりかえし唱えられる自分の名を聞いて、イグナーツの斜め前にいた王子殿下は、ゆったりとほほ笑まれた。
そのほほ笑みにも、なにがしかの覚悟を感じる。以前の王子殿下には、自分のほほ笑みが人々に幸せを運ぶとは信じきれずに、心のどこかでためらっておいでになるようなところがあった。しかし、今日のほほ笑みからは、そのような気配がまったく感じられない。
我が王子は着実に、王たるものにふさわしい素養を身に着けられていく。それは教師たちによっておしつけられる帝王学などではなく、王子自身が困難を克服する過程でつかんでいくものだ。
いまの時代に生まれてローレリアン王子に仕えられたことは、自分の終生の誇りだと思う。
イグナーツは、神々に感謝せずにはいられなかった。




