聖王子の7本の杖 … 4
ローレリアンが道端にいたモナに気づかないほど先を急いでいた理由は、その日の午後、明らかになった。
王子は花の女神フローラの神殿に着くと、服装を聖衣に改めて神官を集め、いくつかの秘儀とされる祈りの儀式を行った。その秘儀によって神気を集めた聖具を手にして、王子は焼野原へ、みずからの足で歩いていった。
古来から聖蹟は、他人の力を借りて残すものではないとされているからだ。焼けつくような真夏の日差しを浴びながら、ローレリアン王子は黙々と歩いた。
黒い聖衣は太陽の熱気を吸い取り、王子に滝のような汗を流させた。その汗で濡れた衣はなお、王子の苦行を重く苦しいものにする。
王子が歩く予定の道のりは、とても長かった。すべての儀式が終わるまで声をかけてはならないと命じられていた王子の側近たちは、すこし離れて後にしたがっていたが、王子が瓦礫に足を取られてよろめいたりするたびに、悲しげにうめいた。
聖なる衣は重くて分厚い。威厳を失わないように長いすそを華麗にさばくためには、すこし足を蹴りあげるようにして歩かなければならず、普通に歩くときの何倍もの疲労を聖衣をまとう者に与えるのだ。王子の側近たちは、いつ王子が倒れてしまうかと、はらはらしながら見守っていたのである。
焼野原には、灼熱の日差しを遮るものなど何もなく、地面からは陽炎がゆらゆらと立ちのぼっている。
そのうえ、あたりには腐臭が満ちている。
瓦礫の下に放置されている、市民の遺体が腐りはじめているのだ。
そんな光景の中を、王子はひとりで、歩いていく。
やがて、焼け野原の中で立ち止まった王子は、そこから見えていた王宮や西岸の街の主だった建物との位置関係を見定め、手に持っていた杖を一本、地面につきたてた。
その杖には細かな装飾の彫り物が施してあった。神官が婚礼や葬儀といった、ひとの営みにかかわる儀式を行うときに用いる、聖杖と呼ばれる細長い杖である。
杖を立てると王子はそのまま地面にひざまずき、祈りの文言を唱えたあと、大地に祝福の口づけをした。
そして、王子の側近よりもっと遠くに離れて、王子がなにをするのかと様子をうかがっていた市民にむかって、よく通る声で言った。
「わがローザニアの国の民よ、わたしの願いを聞いてほしい」
呼びかけられた市民は、恐れおののいて、両手をお祈りの形に組んだ。
聖杖を大地に突き立て、その隣りに立つ黒衣の王子は、神々しい雰囲気をまとっていたのだ。王子の汗にまみれた苦しい無言の行脚は、我々市民のためになされているのだと、誰もが確信できるほどに。
「この杖によって、この地の穢れは払われた。
大火のために命を失った者を悼む気持ちを持つ者は、この場所に穴を掘り、近辺に倒れ伏す死者の遺骸をここで骨となるまで焼いて、彼らの魂を弔ってやってほしい」
王子を遠巻きに取り巻いていた人々は、驚きの声をあげた。
そのなかから、みすぼらしいなりの若い女が一人、転げでてくる。
「王子殿下!」
地面に倒れ伏した女は、すでに泣いていた。
「あたしは、この大火で、夫と子供を失いました! 逃げ惑う人の波の中で、あたしは子供の手を離してしまい、その子を探しにもどった夫も、あたしのもとには帰ってきません! あたしの夫と子供は、きっと炎に焼かれて死んだんです! 王子殿下は、あたしの夫と子供を、もう一度火で焼けと、おっしゃるのですか!」
髪をふり乱し、女は何度も何度も、焼け焦げた大地を拳でたたいた。
泣き叫ぶ女の声は、市民全員の慟哭の声だった。
その場に居合わせた者たちは、みな自分の心の叫びである涙でほほを濡らした。
強く地面をたたきつづけた女の拳からは、血が流れ出た。
その手を、王子はつかんで止めた。
「許してくれ……」
驚いた女が自分の手をつかんでいる王子を見あげると、王子の眼からも、涙がいく筋となく、こぼれ落ちていた。
「わたしには、なんの力もない。愛するものを失ったあなたに、かけてあげる言葉も思いつかない。
ただ、わたしは、この国の王子だから。
どんなに悲しくても、いま生きている人のために、わたしは、なすべきことをなすしかないんだ。
わたしは、あなたに誓うことしかできない。
おなじ過ちは、二度とくりかえさない。
この聖杖を立て、遺体を弔った場所には、大きな墓石を立てよう。
人々の記憶から、今日という日が、消えてしまわないように。
失われた命の重さを、我が国の人々が永遠に覚えていられるように」
そう言ったあと、王子は女を抱きしめた。
王子に強く抱擁されながら、女は放心した。
王子の懐からは、強い汗の匂いがしたのだ。ごく普通の、人間の汗の匂いが。
おそれ多いという感情は、女の心から抜け落ちた。
王子も、ただの人間だった。肉体を酷使すれば汗をかき、哀しければ涙が出る、ただの人間だったのだ。
新しい涙が、女の眼からあふれ出た。いま自分を抱きしめている若い男は、自分の悲しみに、心から共感してくれているとわかったからだ。
女はよろめきながら、立ちあがった。
ふらふらとおぼつかない足取りで、彼女は聖杖に歩み寄る。
そして、その杖が立つ地面にうずくまり、血がにじむ手で土を掻いて穴を掘りはじめた。
人々は、言葉を失って女のやることを見ていた。
土にまみれた女は、泣きながら叫んだ。
「なんだい! あたしゃあ、見世物じゃないんだ! ぼーっと見てないで、手伝っておくれ! あたしは、ここに、亭主と子供の墓を掘ってるんだよ!」
その叫びを聞いた市民は、どっと聖杖にかけよった。
それを見届けたローレリアン王子は、手の甲で自分の涙をぬぐって、ふたたび杖を手にして歩きだす。
王子は夕刻までに、7本の聖杖を大地に立てた。
その場所には市民の手によって大きな墓穴が掘られ、焼け跡に転がる遺体はその場に集められて、荼毘に付された。
遺体を焼く煙は、七日七晩、王都の空に立ちのぼったと記録されている。
夏の空に立ちのぼる七つの煙は、死者の魂を神々のもとへ返す聖なる煙だった。のちの世の人々は、道具としての杖ではなく、この煙をさして『ローザニアの首都プレブナンに立てられた聖王子の七本の杖』と称する。
そして、のちの世の人々は、悲しみの中からも、しっかりと未来を見つめて『ローザニアの聖王子』が成したことに驚くのだ。
七本の聖杖は、王子の緻密な計算のもとに立てられていた。
焼け跡に聖蹟となる杖を立てるあいだ、何人もわたしに話しかけてはならないと言った王子の真意は、自分の足を使って距離を測るのを、誰にも邪魔されたくないというところにあったのだ。
聖杖を立てた場所に、王子は立派な記念碑を建て、そのまわりに広場を作った。
聖なる場所となった広場は、それぞれ道でつながれて、焼け跡には街づくりの中核となる環状道路ができあがる。
大火を生き延びた人々は、みな遺体が埋められている広場を神聖視していたから、王子がなしていく新しい街つくりに異論を唱えようとする者は、いっさい現れなかった。国がはからずも接収したことになる土地の所有権を主張できる者のほとんどが、大火の犠牲となって死んでしまっていたこともあるが。
大火を生き延びた人々は聖なる広場を大切に守り、競って街路樹を植えたり、火に巻かれて死んだ人の魂を慰めるために、常時水をたたえる噴水を作ったりした。
おかげで、大火から10年後には、王都の東岸の街は7つの聖なる広場を飾りの宝石として持つ、美しい街に生まれ変わった。その聖なる広場をつなぐ環状道路は、聖王子が心から愛する街プレブナンに与えた美しい首飾りであるとして、人々からいつまでも讃えられることになる。