聖王子の7本の杖 … 3
そのころ、レヴァ川の東岸、花の女神フローラの神殿の前庭広場で、男たちの話題にのぼったヴィダリア侯爵令嬢モナシェイラ姫は一生懸命働いていた。
ローレリアン王子が予想した通り、病人怪我人の世話において、男たちは役立たずだったのだ。モナと、モナに従って来てくれた女たちは、夜通し病院と定めた神殿の広場のなかを忙しく走り回った。
そもそも男たちには想像力が欠けているのだと、モナは思う。苦しそうに呻いている人が、傷が痛くて呻いているのか、呼吸が苦しくて呻いているのか、吐き気に苦しんでいるから呻いているのかすら、見分けられないのだ。相手の身になって想像してみるという、女にとってはあたりまえの感覚が、男には乏しいのだろう。だから男たちは戦をしたがったり、大きな建造物を作りたがったりする。男はそういうことにしか、達成感を感じない生き物なのだ。
その点、女は子供を産む性だから、獣とそう変わらない未熟な姿で生れ落ちる赤ん坊を愛しんで、まともな人間にまで育て上げるための力として、神々から忍耐力や想像力を恵んでもらっている。モナも国境の街で子供たちの世話をした経験のおかげで、ずいぶん我慢することを覚えたし、想像力も鍛えられた。
それに、女性は順応力に優れている。モナは、子育てそのものは使用人にやらせる貴族の女性が野営の病院で行われる乱暴な治療を正視できるかどうか心配していたけれど、自分がやらなければ他の誰もこの仕事をしないのだと悟って腹をくくった女たちは、みんなたくましく看護人の仕事をしてくれた。
ローザニアの神教は教義の奥義として「世界は愛に満ちている」と教えとく。三千有余も存在するとされる神々も、すべてが人間を愛する存在なのだ。人々に天罰の鉄槌を落とす雷神スミティルでさえ、人間を愛しむ神である。スミティルは愚かな人の行いに胸を痛め、本当は罰など与えなくないと願っている。だからいつも天罰を下すときには懊悩しており、青ざめた顔をしているのだ。
モナにしたがって城下に下ろうというような貴婦人達は、ローザニア神教を信じる心にあつく、今回の大火に対しても、なにか自分にできることはないだろうかと思うような女性ばかりだった。そんな想いを持つ女性にとって、率先して現場へ入っていこうとするモナは、頼もしい指導者であり尊敬の対象だ。もともと教養高く理解力もある女性ばかりだから、モナがほんの少しやり方を教えただけで、おたがいに情報を交換しあい、独自の判断も交えて行動してくれるようになった。
おかげでいまのモナは、看護人の仕事から離れて、軍人たちを使って広場に天幕を張り、野外病院の環境を少しでもましな状態にする作業に没頭できている。
天幕の数は40以上にもなり、神殿の前庭広場は、さながら天幕村といった様子に変貌した。中央には広い道が確保されていて、その最奥には王都大火対策本部となる小さな神殿があるという配置だ。
この天幕の配置は、モナと軍隊の間で仲立ち役をしてくれたアストゥール・ハウエル将軍が決めた。中央の道にある程度の広さを求めたのは、アストゥールのこだわりだ。かつて『王子殿下の影』という恐ろしげな二つ名を持っていた隻眼の騎士は、ローレリアン王子が群衆の中で身動きできなくなることを極端に警戒していた。花の女神フローラの神殿の周囲は、焼失を免れた下町だ。この下町の人ごみは、王子に害をなそうとする者にとって格好の隠れ場所になるに違いないと、アストゥール卿は考えていた。
「立派な天幕村ができましたねえ」
満足げに完成した天幕の列をながめていたモナのかたわらには、若い医師のモンタンがいる。彼はモナとともに下町へ診療所を開設しようとしていた生真面目な青年だ。医師としての腕前は決して悪くないのだが、もともとの性質があまりに馬鹿正直すぎて気が利かず、師匠であるやり手の医師のもとから追い出されそうになっていたところをモナが拾った。
モナは、のんびりとしたモンタンの横顔を見ながら、やれやれと思う。
昨夜、この青年と再会した時のことを思うと、頭が痛くなるのだ。彼は人ごみの中に埋もれて、第一師団や近衛連隊の軍医たちと一緒に、黙々と怪我人の手当てをしていた。医療器材の配布や人の配置の手配を終えて、夜も更けてからモナが看護人としての実務を手伝い始めたら、彼に出会ったのである。
東岸の街に入っても、彼からはいっさいの連絡がなかったから、モナはてっきりモンタンも大火の犠牲者の一人になってしまったのだろうと思いこみ、悲しんでいた。診療所の建物は焼けてしまってもどうとでもなるが、失われた人の命は取りもどせない。
―― わたしが下町に診療所を開設するから手伝ってちょうだいなんて言わなければ、モンタン先生は死なずに済んだのかもしれないわ。
そう思うとモナの胸は、じくじく痛んでいたのだ。
ところがどうだろう。
その当人は野営病院の片隅で、医師の仕事に励んでいた。モナが彼を発見して大声をあげると、彼は「ああ、どうも、モナ様。よく来てくださいました。ここには患者が、いっぱいいるんですよ」と、笑って言った。雇い主である侯爵令嬢へ、診療所が焼けてしまった報告をする必要性になど、まったく気がついていない様子で。
彼は、ひとつのことに夢中になると、他のことには目がいかなくなるのだ。この浮世離れした感覚のせいで、まえの仕事を失いかけていたのである。
―― モンタン先生に、いま一番必要なのは、しっかりとしたお嫁さんだと思うわ。この『ふんわり男』の手綱を握って、ちゃんと、まともな仕事をさせる奥さん!
かたわらのモンタンを見ながら、失礼なことを考えるモナである。
そもそも、この男に結婚の決意をさせること自体が、至難の業かもしれない。おまけに、お嫁さんが見つかるかどうかも心配だ。まだ若いくせに薄くなりはじめた頭髪といい、風が吹けば飛びそうな痩せた身体つきといい、モンタン医師の外見は、およそ魅力的とは言い難いものである。
しかも、医学知識以外では、極端な世間知らず。
彼は神殿の前庭広場を取り囲む街の建物を仰ぎ見ながら言う。
「ふえー、すごいですねえ。屋根の上に、何人も兵隊さんがいますよ。あの人たち、高いところが怖くないのかなあ……」
モナは額をおさえながら答えた。
「モンタン先生。あれは、ローレリアン王子殿下の護衛隊の人たちよ。高い場所から王子殿下が狙撃されたりしないように、ああしてあたりを警戒しているの」
「はあ、偉い人ってのは、大変なんですねえ」
「ローレリアン王子殿下は、この国にとって、かけがえのない方ですからね。まわりの者たちは、いくら心配しても心配したりないくらいの心境でしょうよ」
「そうなんですか」
王国の行く末になどまったく関心がない青年医師は、「では、ぼくは仕事へもどります」と、モナから離れていく。
「モナさま」
入れ替わりでモナのそばへやってきたのは、乳母のシャフレ夫人だった。夫人の年齢を考えたモナは、「どこまでもお供いたします」と申し出た彼女を、屋敷へ置いてきたのだ。ところが、シャフレ夫人は「差し入れくらいはしてもよろしいでしょう?」と言いながら、今朝方、川を渡ってきてしまった。
「お仕事に御熱心なのはわかりますけれど、少しはモナさまも、お休みになりませんと」
モナは、笑って答えた。
「大丈夫よ。わたしは剣術使いで元気が取り柄だという、変わり者お姫さまですからね。体力には、自信があるの」
「そうはおっしゃいますけれどね。疲労や寝不足は美容の大敵でございますよ。街の人々は、モナ様のことを『すみれの瞳の姫君』と呼んで、お慕いしているということじゃございませんか。王子殿下の御妃さま筆頭候補とも、噂されているのでございますよ。あまりみっともない格好で、そこらをうろつきまわらないでくださいませ」
「そんなの、勝手な憶測だわ。王子殿下とわたしは、よいお友達なだけよ。殿下は生涯独身の誓いを立てておいでのようだし」
「それが、そうもいかなくなるかもしれない気配なのですよ」
モナと乳母の会話に割り込んだのは、聞き覚えのある男の声だった。モナが背後へふりむくと、そこにはアストゥール・ハウエル卿が立っていた。
アストゥールの真新しかった黒い軍服は、ここ数日の行動のおかげで白茶けていた。一時は水浸しになってぬかるんでいた焼野原は、真夏の日光にしばらくさらされただけで、すっかり乾き切ってしまったのだ。乾いた焼け跡には灰を含む砂塵が舞っており、崩れて積み重なる廃材の下からは、異様な臭気が立ちのぼっている。その臭気のもとが何なのかは、考えたくもない。人々はみな目を伏せて、焼け跡のあとかたづけのことについては、しゃべろうとしなかった。
「おやおや、裏切者があらわれた!」
シャフレ夫人は、不穏当な発言をしながらアストゥールをにらみつける。
隻眼の将軍は、にが笑いした。
「おだやかじゃありませんな、乳母殿」
「だって、そうじゃありませんか! あなたは、モナシェイラ様の母君様につきしたがって、ヴィダリア侯爵家に仕える身分になられたと、うかがっております。
それなのに、ローレリアン王子殿下が王都へご帰還なされたとたんに、王子殿下、王子殿下と、おつかえする主を替えてしまわれて」
「そのことに関しては、侯爵閣下からのご命令もあったのです。それに、王子殿下は、わたしの命の恩人でもあらせられます」
「ええ、そうですか! よかったですね! 王子殿下に誠心誠意おつかえしたおかげで、あなたはいまや将軍閣下でいらっしゃいますからね!」
放っておけばいくらでも将軍にかみつきそうな乳母を、モナがとめた。
「もう、やめなさいよ、ばあや。
アストゥールがローレリアン王子殿下にお仕えするようになった理由には、時代の流れもあるのよ。ヴィダリア侯爵家は早いうちからローレリアン王子殿下への忠誠の意志を明らかにしていたから、王国軍再編のおりには、率先して私兵を国軍へ編入させなければならなかったの。アストゥールは王子殿下におつかえすることにしなかったら、第4師団の将校になって、地方へ下らなければならなかったんだから。
もう貴族が私兵を養う時代は終わったのよ。だから、ロワール兄様も、第一師団の幕僚になられたんじゃない。軍隊は国家の兵として、国のために存在することになったのよ。これはものすごい、大改革なんですからね」
あいかわらず我が姫さまは聡明でいらっしゃると、アストゥールは目を細めた。それに、大人になられたせいなのか、鋭い洞察力まで発揮なさる。いまも姫君のすみれ色の瞳は、深い思慮の色をたたえてアストゥールへむけられていた。
「それよりも、アストゥール。さっき言いかけたのは、なに? 王子殿下のご身辺の状況に、何か変化があったの?」
隻眼の将軍は深刻な調子でうなずく。
「今朝方のことですが、ローレリアン王子殿下には『これからは正式な成年王族として、国務へ積極的にかかわるように』との御命令が、国王陛下から下りました。その御命令の流れとして、王子殿下は枢密院に王族議員としての議席を賜り、国王陛下は本日付で重大な決定をいくつか、枢密院の諮詢による勅命として発せられました」
モナの笑顔はこわばった。いよいよローレリアンが政治の表舞台へ出ていく時が来たのだ。そのきっかけが、王都大火という厄災になるとは、誰も夢にも思っていなかっただろうに。きっと、その事実に一番傷ついているのは、ローレリアン自身だろう。そう思うと、モナは心中おだやかではいられなかった。
アストゥールはしゃべりつづけた。
「後日正式な発表があるまでは、モナ様の御心の中にだけ、とどめておいていただきたいのですが。国王陛下は秋のご自身の生誕50年記念式典のおり、ローレリアン王子殿下の母君エレーナ姫さまを、正式に王妃としてお迎えになるおつもりだそうです。
そうなりますと、ローレリアン王子殿下に王位がまわってくる可能性が出てまいります。国王陛下も含めて周囲の者たちは、王子殿下へご結婚をと迫ることでしょう。
すでに、宰相のカルミゲン公爵などは、ローザニアと国交がある国の大使公館へ、内々の使いを送ったそうです。我が国の第二王子のもとへ王女を嫁に出す気はあるか、国元へたずねてもらいたいと」
モナは、かすかに震える声で答えた。
「そうなの。宰相閣下のご判断も、ごもっともね。これからの国の行方を思えば、ローレリアン王子殿下の御妃様は、国内の貴族の姫より、他国の王族の方であるほうがいいかもしれないわ」
「姫さま!」
シャフレ夫人の呼びかけの声は悲鳴に近かった。
モナは冷静に言う。
「ばあや。あの方は、この国の王子殿下なのよ。わたしはこれからも、王子殿下の忠臣の娘として、心をこめて、あの方におつかえするだけだわ」
言葉を失ったシャフレ夫人は、モナの腕に自分の手をからめ、肩に額を置いてうつむいた。そうしてモナを、慰めてくれるつもりなのだろう。
昨日の午後、ローレリアンは疲れた顔でモナを馬上から見下ろし、抑揚のない声で「よろしい。病院の開設を許可する」とだけ言った。あれは、極限の疲労のせいかと思っていたけれど、本当は、けじめのひとつだったのだと、モナは思った。
急に自分の身体の疲れもひどくなったような気がして、モナは呆然と、その場に立ち尽くした。
しばらくすると、船着き場の方向が、急に騒がしくなった。
無言で二人の女性を見守っていたアストゥール・ハウエル卿は、「王子殿下が、お帰りのようです」とつぶやいた。
騒ぎのもとは、やはりローレリアン王子だった。
王子の姿を見つけた市民たちは、沿道に集まり、口々に王子の名を叫んだのだ。『我が王子!』『聖王子ローレリアン殿下!』と。
騎馬の隊列は、速歩をゆるめることなく駆けていく。
広場の入り口付近に立っていたモナたちは、その場で駆け去る王子殿下へ臣下の礼を取った。
十分に間合いを計ってから、シャフレ夫人は顔をあげ、大憤慨の様子で言った。
「なんてことでしょう! ローレリアン王子殿下は、足をお止めになるどころか、モナ様にお声のひとつもおかけにならなかった! ただっぴろいだけだった広場を、半日で立派な野営病院に変えたのは、モナ様なのに!」
アストゥールが苦しい言い訳をする。
「いや、単に、ここにおいでの女性がモナ様だとは、お気づきにならなかっただけなのではないかと」
「そうよ、ばあや。王子殿下は、いま、お忙しいの。そのお忙しさを、少しでもお手伝いするために、わたしはここにいるんですからね。つまらないことで、わあわあ騒ぐなら、家へ帰っていてちょうだい」
「おお、神殿に、王子旗があがりましたな」
シャフレ夫人の怒りを別の話題へそらすべく、アストゥールは神殿の鐘楼を指さした。そこには黒地の王家の旗が高々と掲げられ、風にはためいていた。
「王位継承権を持つ成年王族が御座する場所には、必ず王家の旗が立てられます。国王陛下の御旗は世界を照らす太陽をあらわす赤。王太子殿下は王家をお守りする近衛にあやかる深緑です。
ローレリアン王子殿下の御旗は、黒と決まったそうです。殿下は聖職者であらせられますし、黒の宮の主ですから、いかにもふさわしい決定ですな。偶然、わたしが王子殿下から賜った親衛部隊の隊旗も黒ですから、わたしは誇らしくてなりませんよ。
国王陛下の御命を受けて、今日からは新たに任命された典礼官が、あの黒い御旗を預かります。王宮の王旗掲揚台から黒い御旗が降ろされたとの報告を受けたので、わたしはこうしてこの場で、殿下をお出迎えできたわけです。
これからは、一目で殿下の居所がわかるようになりますから便利になります。市民も黒い御旗を見れば、なにかと励まされることでしょう」
夏空にはためく王子旗は、黒地に金糸銀糸で縫い取りを施した立派なものだった。
でも、あんなもので居所をつねに明かされてしまうことが、本人にとって幸せなのかどうかは、よくわからないわとモナは思った。
ローレリアンは市井で育った、自由を知る人間だ。その彼が羽ばたくための羽根を、一本、また一本と折り取られていくのを見るようで、モナには黒い旗が正視できなかった。