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ローザニアの聖王子  作者: 小夜
第六章
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聖王子の7本の杖 … 2

 朝議が終わったあと、ローレリアンは王子としての自分を支援してくれている貴族や、その代理人たちに取り囲まれた。


 彼らが所持する領地の大きさや爵位の格、宮廷官僚としての地位などは、じつにさまざまだったが、共通しているのは、先ほどの会議でうろたえた者達とは、まったくちがう面構えだ。全員が落ち着き払った態度であり、なかには、ふてぶてしいと言いたくなるような笑顔の者までいた。


 貴族階級に属しているローレリアンの支持者には、農村が荒廃する世の中の流れを早くから読み取り、それぞれ独自のやり方で自分の領地の経営を地代収入だけに頼らずにすむ骨太なものに育てあげた、やり手の経営者が多いのだ。彼らには「時代が変わったから、これからは貴族にも税金を払ってもらうぞ」と要求されても、「はい、わかりました」と受け流せるだけの余裕がある。レヴァ川の河口の街ラカンを領有するローザニア王国五公家のひとつラカン公爵などは、その代表格だ。


 川と海を利用した水運の発展に尽力するのは、ラカン公爵家が何代も前から続けてきた伝統の政策である。市民へ近代的な港湾倉庫や埠頭設備への投資を奨励したり、補助金を出して快速艇の開発競争をあおったりと、歴代の公爵がラカンの街のためにやってきたことは、数限りなくある。その結果としてラカンの街はローザニア最大の物流集積基地となった。いまのラカンは、そうして整えた社会資源と地の利を生かし、鉄鋼製造などの重工業で街をさらに大きく育てつつある。


 現在のラカン公爵パトリック・アンブランテは、まだ28歳の若い男だが、10代のころから父親とともに領地運営にいそしんできた強者の経営者だ。


 彼はすでに3人の子供の父親だったが、その顔には自信に裏打ちされた笑みがつねにある。あまりにも若く溌剌とした様子でいると年寄から軽くみられるとして、両端がぴんと跳ねる立派な髭を鼻の下に蓄えているのはご愛嬌である。周囲の者たちは公爵の髭を見ては、「あと10年もたてば、あの髭もラカン公爵の顔になじむだろう」などと、ひどいことを言っている。金と茶色が混合している公爵の髪色とサファイアブルーの陽気な瞳に、髭はあまり似合っていないのだ。


 そのラカン公爵は、機嫌よくしゃべっている。


「まるで、よどみなく水が流れるがごとき弁舌でしたな、王子殿下。反対派の者たちも、あれでは反論のしようがない。いやぁ、お見事でございました。

 国王陛下の生誕50年記念式典で『ラカンの鉄の荷車』を御披露すべく、早々とこのわたくし、王都へ乗り込んできておりましたが。

 おかげで我が国建国以来の厄災ともいうべき王都の大火を目の当たりにしてしまい、なんの因果かと、深い哀しみに襲われてしまいました。

 しかし、いまになって思えば、これも我が国が大きく前進するための礎となる出来事なのであろうかと」


 ローレリアンは不機嫌に答えた。


「あれだけ沢山の犠牲を出した事件を、そのように軽く言わないでもらいたい。そもそも、大火の後始末は始まったばかりで、まだ問題は何ひとつ解決していないのだ。家を失った貧しい市民が、どれだけの数にのぼるのかの調査すらすんでいない」


「いや、これは申し訳ございません。次から次へと王子殿下の鮮やかなる手腕を見せつけられ、少々浮かれすぎました。しかし、国家のために公平なる尺度をもって、貴族からも税を徴収する前例が作れたのは、大きな進歩なのですから」


 ローレリアンを取り囲んでいる者たちは、おのおのゆったりとうなづいた。企業家として成功している彼らは、革命による国家の転覆など望んでいない。いまの豊かな大国ローザニアがなくなってしまえば、彼らの地位も財産も幻のごとく消え去ってしまうからだ。


 彼らがこうしてローレリアンを「王子殿下、王子殿下」と立ててくれるのも、表面的には豊かだが、じつはの危ういこの国の屋台骨を立て直して、まともな国家の形態を保ったまま次世代に渡せる人間はローレリアンしかいないであろうと見込んでいるからである。利害の一致と、友情を取り間違えてはならないと、ローレリアンはいつも自分に言い聞かせている。


 ローレリアンにとっても、彼らは頼りになる同盟相手だ。将来、貴族ももれなく税を納めなければならない制度が確立できれば、ラカン公爵などは高額納税者リストの常連として、国庫を助けてくれる大きな存在となるだろう。中央政界で独裁的な権勢をふるう野心を抱かれたりしないように、細心の注意を払ってつきあっていかなければならない相手でもあるが。


 今日はとにかく忙しいので、同盟関係を確かめる顔合わせは早々に打ち切られる。ローレリアンは、一同へ別れを告げた。


「では、わたしは対策本部へもどる。此度のわたしの発言は、反対派の貴族たちにとっては、爆弾どころの騒ぎではないだろうからな。王宮の各所や貴族たちの屋敷の動きに不審な点があれば知らせてくれ」


「おまかせください。殿下の後方支援は、我らの役目と心得ます」


 うやうやしく、同盟者たちは王子を見送る。ラカン公爵だけがローレリアンを王宮の玄関まで送ると、同行を申し出た。


 ローザニア王国五公家の当主ともなれば、王族に気おくれすることもない。中肉中背の公爵はローレリアンより少し背が低かったが、じつに堂々と、となりを歩いた。祈りの印字を切る聖なる右手のほうに立たなかったことだけが、公爵なりの王子への敬意の示し方なのだろう。


 この男は商売人としては抜け目がなくて食えない男だ。けれども、一人の人間としては面白い男だと、ローレリアンは思っていた。


 ラカンの住民には絶対の不文律があって、男は遠洋への長い航海に出かけて初めて一人前として認められる。それは大家のあととりでも例外はなく、現公爵パトリックも14歳のときに船出したのだという。


 異国を旅して冒険や商売を体験し、少年は大人になったのだ。だからなのかラカン公爵の物事に対する価値判断の基準は、宮廷の中で見かける大貴族達とは、いつも一味違っていた。


「わたくしの身体に連綿と流れているのは、陸上(オカ)で社交に興じる青白い貴族の血ではございません。挑戦を愛する船乗りの血と、成功を望む商人の血なのですよ」


 そう断言する公爵は王都の雰囲気があまり好きではないらしく、建国節のとき以外は、つねに領地のラカンで生活している。大貴族としては珍しく恋愛関係で結ばれた奥方が内海に浮かぶ小さな島国の出身なもので、王都の貴族達との付き合いにひっぱりだすのは可哀想だと思っているふしもある。


 彼は愛妻家なのだ。今年の春、建国節のまえにラカンヘ行幸したおり、ローレリアンは公爵夫妻の仲睦まじさを、いやというほど見せつけられた。ラカン公爵は、盛りあがっている他人の色恋沙汰ほど、はたで見ていて馬鹿らしいものはないということを、堅物のローレリアンにでも理解できるほど、わかりやすく教えてくれたのである。


 そのラカン公爵は、ローレリアンのとなりで笑っている。


「王都大火は国家の厄事でしたが、貴族たちの我欲と悪意が渦巻く宮廷から離れて、城下へおりていくのは気分が良いものでしょう?」


 ローレリアンはつい、本音で笑い返してしまった。


「確かにな。あなたが宮廷生活を嫌う理由が、最近やっと、わたしにもわかってきた」


「田舎暮らしはよいものですよ」


「ラカンは田舎ではないだろう」


「田舎です。ラカンは中央から遠く離れて独特の気候風土の中にあり、人の気質も、かなり王都のそれとは違いますからな。かの地よりひと月以上離れておりますと、塩をふくんだ海風が、懐かしくてたまらなくなります」


 暗に、「自分には政治に対する野心はない」とほのめかされているのだろうかと思いながら、ローレリアンは答えた。


「そうはいっても、これからはたびたび、王都にもおいでいただきたい。あなたが持っている物流や貿易、さまざまな分野の産業を興隆する方策に関する知識は、じつに独創的で面白いからな。その知識を、わたしにも伝授してもらいたい」


「そうですなあ。わたくしも殿下とさまざまなことを考えるのは楽しいので、領地のことは親族にまかせて王都へ居を移そうかと、考えなくもないのですが」


「考えなくもない……、か。その躊躇の気持ちを解いてもらうために、わたしはなにをすればよいのだろうか。あなたを潮風から引き離すためには、かなりの代償を支払わなければならないのか」


 ならんで歩きながら、おたがいの腹を探る会話は、ローレリアンとラカン公爵のあいだに快い緊張を生み出していた。


 目指す目的が同じである限り、この男は頼もしい盟友でいてくれるだろう。ラカン公爵は明朗快活で、腹黒さとは無縁の男だ。そう思うと、ローレリアンは嬉しくてたまらなかった。


 陽気にラカン公爵は言う。


「いくつか、わたくしを魅了する条件を申し上げましょうか」


「ぜひ、聴きたい」


「わたくしの娘を殿下の伴侶に」


 ローレリアンは声を立てて笑う。


「また、その話か! 公の令嬢のフェリシア殿は可愛らしい方だが、わたしには8歳の幼女を愛でる特殊な趣味はない」


「娘が16になるまでお待ちいただければ、それほど無茶な話ではないと思いますが。自慢するわけではございませんが、わたくしの娘のフェリシアは母親に似ておりますので、将来美人になることは保証いたします」


「公よ、あなたは娘御が可愛くないのか。令嬢が16になるとき、わたしは30だぞ。なにもそんなに、歳が離れた男のもとになどやらずとも」


「殿下を男として見込んでいるからこその、申し出なのですがなあ……。貴方様なら、どのような縁であろうとも、妻とした姫には真心をつくされるでしょう。殿下の御妃となられた姫は、必ず女性としても幸せになれるはずです」


「ずいぶんと、買いかぶってくれたものだ」


「そうですか? わたくしの相場の読みは、外れたことがないのですが。

 しかし、殿下に『そんなに待てるか』と言われてしまえば、この話はそこまでです。

 いやあ、返す返すも口惜しい!

 わたくしに、年頃の妹がいればよかったのですが。殿下に我が妹をさしあげれば、殿下とわたくしは義兄弟ですぞ。わたくしはぜひとも、殿下と義兄弟になりたかった」


「そのお気持ちだけ、ありがたく受け取ろう」


「親族の娘をわたくしの養女にして、殿下にさしあげるという手もございますぞ」


 ローレリアンは肩をすくめた。


「結婚の話はとにかく、勘弁願いたい。わたしにはその気がまったくないのに、周囲の者たちがうるさすぎる」


 にやりと、ラカン公爵は冷やかしの笑みを浮かべる。


「結婚はやはり、相思相愛の者とするのが幸せですよ」


「それは常識だが、公に言われると、やけに説得力があるな。あなたとレオナ夫人の仲睦まじさは感動的だった」


「そうですとも。レオナは内海の真珠ミロノス島の生まれでしてな。海の女神ポティニアの祝福を受けた女なのです。かの女神は懐深く、馬鹿な男の見栄や意地までも鷹揚に受けてとめてくれる。本質的にひとところに落ち着くのが苦手な男の本能までも理解して、まるで港のように、あるべきところにあって男を待っていてくれます。その腕にかえる瞬間の、男の幸福がわかりますか」


「確か、ポティニアは不実を嫌う女神で、浮気男がひとりで海に出ると大波を起こして舟を襲うのではなかったか」


「さよう。やましい過去を持つ男は、ひとりで小舟に乗ってはなりません。わたくしは潔白そのものですから、殿下にご心配いただく必要はございませんが。

 それに、おのれを理解し受け入れてくれる女性と共にある幸せについては、すでに殿下も御存じなのではございませんか」


「さあ、どうかな……」と、ローレリアンは言葉につまった。


 その様子を、ラカン公爵は面白そうにうかがっている。


「ヴィダリア侯爵令嬢と王子殿下の噂は、近頃、遠いラカンにまで伝わってきておりますぞ。いまも令嬢は川のむこうの街で、殿下の帰りをお待ちなのでございましょう? 恋したう王子殿下の苦慮に満ちた戦いを、婦女として背後から支援申し上げるなど、並の女性ではできないことでございますよ。さすがは、王子殿下が御妃の候補と、お考えになられる姫君ですな。

 いやいや、賢く美しい侯爵令嬢の存在をはじめから存じあげておりますれば、わたくしも8歳の娘を殿下に娶せたいなどという、ずうずうしい申し出はいたしませんでしたものを」


「ラカン公、わたしをからかって楽しんでおられるのか。

 だとしたら、いまはそれどころではないので、遠慮いただきたいものだな」


「ご不快にさせましたか。おわびいたします」


「それより、あなたが中央に出てくる、他の条件とやらを聴かせてもらおうか。公はさきほど、『いくつか』と言ったであろう」


 くつくつと口の中で笑っていたラカン公爵は、彼と王子の行き先である王宮西翼の玄関ホールへ視線をやるなり、真顔にもどった。


 ローレリアンにしか聞こえない小さな声で、公爵は言う。


「殿下、あそこに条件のひとつが、立っておりますよ」


 ラカン公爵が視線で示した先には、ローレリアンの異母兄、ヴィクトリオ王太子が立っていた。自分の代わりに王都大火対策の責任を負ってくれた弟王子に、なにか言うつもりで、見送りにきたものらしい。もっともそれは、自主的な行動ではないようだ。元からさえない王太子の顔色はひどく青ざめ、両手は落ち着きなく衣装のボタンやポケットをいじっている。


 ラカン公爵の囁き声は、あきれた調子を帯びた。


「王太子殿下の側近どもは、自分のいまの地位を失わないために、必死ですな。ヴィクトリオ王太子殿下が逃げられないように、周囲を人垣で固めたりして。なにがなんでも、ローレリアン王子殿下へ詫びを入れさせるつもりなのでしょう。

 王太子付き侍従長のソワイエ卿は、じつにお気の毒でした。大火の翌朝、王太子殿下をおいさめして、御前でみずからの命を絶たれたとか」


 公爵の囁き声を聞きながら、ローレリアンは両手で自分の耳をふさぎたい衝動と闘った。ラカン公爵が言うことは、ローレリアンにとっては身内の恥である。大人になってから初めて存在を知った相手だが、ヴィクトリオ王太子は確かにローレリアンと血を分け合う兄弟なのだ。


 それに、宮廷の要所に間諜を潜ませているローレリアンは知っていた。


 ヴィクトリオ王太子の頭に巻かれた包帯の下には傷ついた耳があり、その傷はソワイエ卿がつけたものであると。密室で何があったのかと問われた宿直役の侍従ジョシュア・サンズなる者は、侍従長が早朝寝室へやってきたとき、王太子は自慰に耽っていたのだと証言した。前夜の出来事に腹を立てていた侍従長は、その行為を見て激高し、王太子にけがを負わせるほどのやり方で叱責をしたのち、自死に至ったのだと。侍従長の最後の言葉は、「王都は、まだ燃えているのです!」だったという。気の毒なことだ。


 現場に駆けつけた近衛兵の証言によると、王太子の寝台は確かに男の精で汚れていたし、死んだ侍従長の顔は涙にまみれていた。しかし、ローレリアンの間諜は、ジョシュア・サンズが王太子をかばっている可能性も否定できないと、報告書に意見を添えてきている。侍従長の手に握られていた短銃は、王太子が護身用として寝台のサイドテーブルに潜ませているものだった。


 まさか、兄は、自分に忠告する者を殺してしまったのだろうか。


 その疑惑は、ローレリアンの心を暗闇へ突き落とす。


 ―― あわよくば兄を、この国の最後の王に!


 自分は、胸に秘めたこの危険な望みにむかって、突き進んでいってもよいのだろうか。


 その望みをかなえようとすることは、じつは破滅への行進なのではないだろうか。


 疑いにさいなまれると、ローレリアンの心臓は急に大きく脈打ちだした。


 ―― わたしが選択を誤ると、大勢の人間が死ぬ。王子として生きる者は、他者の命に対する責任までも背負わなければならない。それはよく、わかっている。わかっているのだ。腹をくくって、覚悟も決めた。けれども、とっくに覚悟を決めたはずなのに、選択の場面につきあたると、いつも逃げ出したくなるのはどうしてだ。


 動揺したローレリアンへ、ラカン公爵が、さらに追い打ちともいうべき声をかける。


「殿下は、あの方をこれから、どうなさるおつもりなのか? この際ですから、わたくしの意見を、はっきりと申し上げておきましょう。次の王位は、ローレリアン王子殿下がお継ぎになるべきです。貴方様が王になると約束してくださるのでしたら、わたくしは今すぐにでも王都へ家族を呼び寄せ、貴方様へ臣従の誓いを立てましょう」


 強張る口で、ローレリアンは懸命に答えた。


「馬鹿を言うな。わたしに、簒奪者(さんだつしゃ)になれというのか」


 さらに小さくなったラカン公爵の声は、彼らの足音にかき消されそうなほど、かすかな声である。


「確かに聖職者であらせられるローレリアン王子殿下は、誰よりも高潔であるべきです。しかし、ひとことお命じ下されば、喜んで殿下のご意向を現実のものとするべく務める者は、いくらでもおりましょう」


 ラカン公爵の青い瞳は、もう陽気に輝いてはいない。深海の色を思わせる静かな目は、「なんなら、その御命令は、わたくしがうけたまわりますぞ」と、語っていた。そして、その命令を受理する条件は、ローレリアンがこの国の最高権力者になるという約束であると。


 答えに窮したローレリアンは足を止めた。それと同時にヴィクトリオが、大きな声で話しかけてくる。


「ローレリアン、すまなかったな! 体調が悪いわたしに代わって大役をこなしてもらい、礼を言う!」


 うわずったヴィクトリオの声には、玄関ホールの高い天井に反射しておこる残響がかぶっていた。おかげで言葉のはしばしに漂っている芝居くささが、さらに増して聞こえる。


 大きな経済力を背景に国政を動かせるほどの影響力をもつラカン公爵から、実の兄を弑して王位を奪えとそそのかされていた弟は、殺してしまえといわれた兄が目の前にいるもので、表情を凍りつかせた。


 そのせいでローレリアンの水色の瞳には寒々とした光が宿り、事情を知らないヴィクトリオ王太子の側近たちは震えあがった。王太子のほうから詫びを入れさせたのは、かえって逆効果だったかと。


 しかし、次の瞬間、ローレリアンの口元には聖者の笑みが浮かぶ。


「兄上、よろしいのですよ。ただひとつだけ、お約束いただけますか。次の機会には、御自分の義務からお逃げにならないと」


 王太子の側近が、必死になって「殿下、お応えを! 殿下! 王太子殿下!」と、ささやいている。


 うつむいて自分の足元をにらんでいた王太子は、顔も上げないまま「あいわかった」と答えた。


 ローレリアンは腹の上部で両手を組み、聖職者の作法で軽く一礼して、ふたたび歩きはじめた。兄弟の短い邂逅(かいこう)は、これで終わりである。


 建物から外に出ると、今日も夏の陽光はまぶしかった。


 ラカン公爵は見送りの者たちの列に残り、馬に乗ろうとするローレリアンに最後までつきしたがって来たのは首席秘書官のカール・メルケンだけだった。


 メルケンは苦笑している。


「最後のほうはよく聞こえませんでしたが、ラカン公爵が不穏なことをおっしゃっている様子なので、わたくしは肝が冷えました。

 ローレリアン殿下が王太子殿下へ笑いかけてくださったので、ほっといたしましたが。

 よくぞ、あの場面で笑顔が出ましたな」


「わたしの似非(えせ)聖人ぶりにも、ずいぶんと磨きがかかったということさ。これなら、わたしが計画している一連の大芝居も、うまく成功するかもしれないな」


「殿下、そう自虐的になられますな」


 護衛官に馬の(くつわ)をおさえてもらいながら、ローレリアンは(あぶみ)に足をかけ、自分の身体を馬上へもちあげた。高みから、秘書官は見下ろされる。


「カール、わたしがこれからやろうとしていることは、国家を巻き込んだ詐欺(さぎ)だぞ」


「わたくしは、そうは思いません! 殿下がこれからなされることは、殿下にしかおできにならない偉業だと思っております!」


 ローレリアンを見あげる首席秘書官の顔には、心配そうな色が濃く出ていた。王子は若く、潔癖(けっぺき)すぎる。正しくあろうとすることは立派な心がけだが、人の世で生きていくためには、いつわりを受け入れるずるさも必要だ。


 せめて、王子の心の支えとなる者を身近に置いておきたいと、秘書官は思った。自分はどうしても、王宮から離れられない。ローレリアン王子の側近として政府の高官達や貴族の動向を探ることこそが、いまのメルケンに課せられた、もっとも重要な役目なのだから。


「王子殿下。ひとつ進言してもよろしいでしょうか」


「なんだ」


「デュカレット卿を営倉から出してやってください。国王陛下から下された殿下への謹慎命令が解かれたからには、彼にも特赦(とくしゃ)があってしかるべきかと思います。義捐金の件が正式な決定となったいま、またローレリアン殿下へ害意を抱く者も増えましょう。そんな時に、『王子殿下の影』が、お側にいないとなると」


「おまえは不安になるか」


「なります」


 優しく馬の首をなでながら、ローレリアンは考えた。


 アレンの拘禁期間は、あと二日だ。そのあいだ、自分がなそうとしている詐欺めいた行為を彼に見らずにすむというのなら、そのほうがありがたい。彼に軽蔑されたりしたら、自分は当分、立ち直れないだろうと思うローレリアンである。


「大丈夫だ、カール。わたしのそばには、つねにイグナーツかスルヴェニールがいるし、護衛隊全体の指揮には、アストゥールもかかわっている。

 いまは、とても大切な時期なのだ。聖者としてのわたしの身辺は、一点の曇りもなく、清廉潔白でなければならない。

 アレンには悪いが、軍の命令系統に介入するつもりはない。あと二晩は営倉で我慢してもらおう」


「殿下、しかし……」


 メルケンの進言を最後まで聞こうとはせずに、ローレリアンは馬に前進の合図をおくった。ぐずぐずしているうちに、時間は過ぎ去っていく。ローレリアンは、先を急がなければならなかった。


 走り去る馬群を見送りながら、メルケンはため息をついた。


 王子のそばに親友のデュカレット卿を置いておきたかったが、それがだめだとなると、ヴィダリア侯爵令嬢に期待をかけるしかないのか。しかし、あの様子では、殿下が令嬢をそばに召されることなど、ありえないように思える。


 衣服の下に忍ばせた護符に手を当て、メルケン秘書官は祈った。


 天と地にあらせられる我らが神々よ、どうか為政者(いせいしゃ)の孤独に飲み込まれそうになっておいでになる、我が王子を救い守りたまえと。

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