王都炎上 …16
夜明けとともに、みずからもレヴァ川の東岸へ渡河して王都大火対策本部を現場のそばへと移したローレリアン王子は、その後も精力的に活動した。
今度は活動の大まかな方向性がきまっているので、馬に乗って現場をまわり、市民や兵士を励ますことに精をだす。
とにかく彼は、忙しかった。現場に出れば出たで、こまごまとした問題に対処したり、新たな懸案とすべき事態を拾いあげたりと、やることはいくらでもある。
昼すぎになるころには、燃え広がる炎は防火帯の一部に達した。しかし、人々は慌てることなく、その場所への放水を増やすことで事態に対処した。
消火作業のために集まった人の数は、西岸から川を越えて現場に入った市民や軍隊だけにとどまらず、火事で自分の家を焼かれてしまった東岸の住人達まで加わって、すでに数万人にふくれあがっていたのだ。東岸の街の住人は動ける者ならそれこそ、女、子供、老人にいたるまでが活動に加わっていた。
女や年かさの子供達は、井戸や水路から水をくみだし、バケツリレーの列を作って男達を助けた。
小さな子供や老人は、水に濡らした布をもち、防火帯を超えて落ちてくる火の粉を人海戦術でたたき消していく。
その光景をじかにながめ、防火帯のむこうにあがる火柱をにらんだ後、ローレリアンは黒煙渦巻く空へと視線をあげていく。馬は火を見るとおびえるため、少し離れた場所へ置いてきた。
王子のすぐそばに立って熱心に話しかけているのは、放水作業の指揮をとっている西岸商業地区自警消防隊の隊長アントン・グロリューズである。
「ごらんのとおり、防火帯は立派に、その役目を果たしております。市民の協力のおかげで、この先の延焼も防げそうですし」
「それはよかった」
「問題は、防火帯のむこうの火が、あとどのくらい燃えつづけるかです。今は市民がみな興奮状態で疲労を感じておりませんので、なんとかなっているのかもしれません。これが、長期化いたしますと……」
グロリューズの言葉を、王子は心ここにあらずといった様子で聞いている。彼の視線は、火災から立ち上る煙のさらにむこうにある空の雲に注がれていたのだ。
「火災の長期化は心配しなくていいようだ」
「は?」
消防隊長は、虚をつかれて言葉をなくす。
あっけにとられたグロリューズの顔を見て、王子は苦笑し、空を指さした。
「季節が夏でよかった。あの雲を見てみるがいい。立派な入道雲だ。おそらく、夜通し燃えつづけた街の火災の熱気も吸い込んで、そうとう重くなった雲だろう。あと数時間以内に、間違いなくこの辺りには雨が降る」
「雲を見て、天気の予測ができるのですか?」
「何を驚いている。雲の形から天気を予測するなど、昔から農夫や木こりたちがやって来たことだ。学者は、それを学問として確立しようとしているのだがね。なんでも、気象学とかいうらしい。わたしは、その学問のほんのさわり程度しか、知らないが」
「いや、驚きました。王子殿下の博識ぶりには、このグロリューズ、驚かされるばかりでございます。この防火帯も、殿下の的確なご指示がなければ、こんなに早くは築けなったはずなのです」
王子の苦笑は、ますます深くなった。
「防火帯の整備が夜明けに間に合ったのは、そなたと市民の手柄だ。グロリューズ」
王子を守る護衛の人垣のむこうから、伝令が怒鳴ってくる。
「王子殿下! 本部からの連絡です! 近隣の街の神殿から食料を運んできた荷車が次々に到着しております! 荷物につきしたがってきた神官たちは、どこで食料を配ればよいのか王子殿下からの指示をお待ちするようにと、上役から命じられているようですが」
王子は後方へ踵をかえす。
「わかった、すぐに行く。グロリューズ、ここは頼んだぞ」
「ははっ。かしこまりました!」
どうやら王子殿下は昨夜のうちから早々と、東岸の街で消火活動に取り組む数万の人々へ、食事をふるまう手はずを整えておかれたようだ。
護衛に囲まれ馬が待つ広い道をめざして足早に立ち去る王子殿下の後ろ姿にむかって、グロリューズは深く首をたれ、お祈りの手を合わせた。きっとあの方は、正義と公平の神ロトや知恵の女神サガスをはじめとする、多くの神々の祝福を受けておいでになる聖者にちがいないと思ったのだ。
消防隊長のしぐさを見て、周辺の人々も作業の手をとめ、王子を見送る。彼らの顔にも、「よくぞ神々よ、わたしたちのもとへ、あの王子を使わされて下された!」という気持ちがあふれていた。
彼らは口々にいう。
「俺たちの王子殿下は、なんて若くて、綺麗で、賢い方なんだ!」
「そのうえ、俺たちみたいな貧乏人の災難にまで心を砕いてくださる、お優しい方だし!」
「それにさあ。優しさと弱さは隣りあわせだっていうけれど、俺たちの王子殿下には、弱っちいところなんか、ぜんぜんないしな!」
「そうとも。王子殿下は強い意志でもって人を統率したり、難しい決断を迷いなく下す力もお持ちだ。しかも、その結果を自分の手柄として誇らずに、おまえたちの手柄だよと言い切る、謙虚さまでお持ちなんだからなあ! ああいうお方をさして、男のなかの男というのさ!」
「俺は、びっくりしたんだけどよぉ。ローレリアン王子殿下は、ローザニアの初代国王、聖王パルシバル陛下に、生き写しなんだぜ!!」
得意げに、そう言い切った男のことを、みんなが笑う。
「おまえ、どこで聖王様に会ったんだ?」
「おまえさんの歳が三百才を超えてたとは、知らなかったよ」
「ずいぶんと爺さんだったんだなぁ!」
むきになった男は大声をあげた。
「くだらねーチャチャをいれんな! 俺は、大真面目だ! 俺はなあ、建国節のときにプレブナン大神殿で公開される、初代聖王様の肖像画を見に行ったんだよ!」
「へえ、おまえ、金持ちだなぁ」
「あれ、けっこうな見物料を、とられるじゃないか」
「母ちゃんといっしょになってから20年たった記念に、一生の思い出になるようなことをしたかったんだよ。それはともかくとして、ローレリアン王子殿下は、初代聖王様と、よく似ておいでになる! 淡い水色の瞳はローザニアの王家に生まれた者の証といわれるけれど、色の加減なんかほんとに、そっくりなんだぜ!」
「初代聖王様の水色の瞳は、千里先を見通したという話だが」
「俺たちの王子殿下の眼にも、未来が見えているのかもしれんなあ……」
男たちは、しばらく黙りこみ、自分たちが築きあげた防火帯や、そのむこうに迫っている炎を、じっと見た。
彼らのまわりには、身体にまとわりつくような熱気と煙の臭いが充満している。たがいに見合わせる顔はみな、煤と埃で真っ黒だ。夜通し懸命に動かした手足の筋肉は固くこわばっているし、防火帯をつくるための道具を握っていた手には血豆ができている。
体の痛みは、彼らに告げる。
いま目の前にある光景は夢かと疑いたくなるほど非現実的だが、街が丸焼けになったことも、万の人が集まって炎と戦っていることも、明らかな現実なのだ。
そして、この国にはただ一人だけ、誰もがまさかと思う今現在のこの光景を、予測していた人物がいたのだ。
いまこの時、この地に大量の食料が届くということは、かの王子が火災発生第一報を聞いた時からすでに、万の人が集まるこの消火作業の実現を構想していたという証なのだから。
これを千里眼といわずして、何という?
噂はまたたくまに、万の人々の口から口へと伝わった。
―― 我らの王子は、未来をも見通す賢い王子! 神々の祝福を惜しみなく受けた、聖なるお方! 初代聖王様の生まれ変わり!
ローレリアン王子が大神官長に協力を求めて整えた食料が暖かい炊き出しの粥として市民へふるまわれると、噂にはなお、華やかな尾ひれがついた。
噂は、市民にとって、たったひとつの光明だったのだ。
火災によって財産や仕事を失った人々の心には、深い悲しみが満ちていた。
けれども、あの王子とともに再起を誓えば、自分達にも必ずまた新たな未来が開けるだろうと、市民達は望みを持てたのである。