建国節の祝賀 … 4
舞踏会の夜はふけてゆく。
王太子ヴィクトリオは、ほろ酔い気分で、舞踏と音楽が最高潮に達した大広間をながめていた。
彼は、つい先ほど、会場へ入ったばかりだ。
最近は、いつもわざと遅れて、会場入りするのだ。とくに、座が乱れる舞踏会などでは。
遅れて会場入りすれば、目立たなくて済む。
人々はもうとっくに、会場へ入場してくる王族への興味など失っている。
若者はダンスへ、年寄は社交という名の密談へ、夢中だからだ。
本当なら、舞踏会になど出たくなかった。
うまい酒を飲みながら、女と寝所ですごすほうが何倍も楽しい。
しかし、王宮の行事をすっぽかすと、祖父のカルミゲン公爵から苦言を呈されてしまう。
殿下は次代の国王なのです。国王になるお方らしく振舞ってください、などと。
酔った勢いで、ヴィクトリオは笑った。
最近は、しらふでは笑えない。
しかし、酔った勢いで笑うと、もっと惨めだ。この、こみあげてくるおかしさは、自分自身を滑稽だと思っている、自嘲のおかしさなのだから。
あなたは、次代の国王です。
もうそう思っているのは、ローザニア王国の宰相であり国王の舅でもある立場を利用して、長年にわたり中央政界で権勢をふるってきたカルミゲン公爵だけだろう。
3年前、異母弟が王都へもどってきたときに、すべての人々はヴィクトリオを見捨てたのだ。
面と向かっては言わないが、臣下の者はみな、ヴィクトリオを愚鈍だと思っている。
さえない容姿。
焦ると出る頬の痙攣。
考えることが苦手な頭。
趣味といえば、酒と女と狩猟。
王子に生まれなければ、早々にどこかでのたれ死んだのではないかと、自分でも思う。
なにしろヴィクトリオには、やる気というものが欠片もない。
兄とは対照的に、弟王子のローレリアンは、やる気の塊だ。建国節に入る前の一か月間は、内海の港町ラカンヘ出かけていた。
その地は、王国に仕える5人の公爵のうちの一人、ラカン公が領有する街だ。
弟はそこで何やら、難しい交渉事をまとめてきたらしい。
王都への帰還は、ラカン公といっしょだった。
弟と馬の轡をならべて仲良く王都入りしたラカン公は、現国王バリオス3世にむかって、我が娘をローレリアン王子の妃にどうかと、進言したらしい。
国王と側近は返答にこまった。
ラカン公爵の娘は、まだ8歳なのだ。
14歳の歳の差を無視してまでして、ラカン公爵はローレリアン王子との血縁関係を望んでいる。
その事実は、貴族たちを震撼させた。
ローレリアン王子は、すでに玉座へ片手が届いているのではないかと。
ローレリアン自身は、その可能性を否定している。
事あるごとに、あの異母弟は、「兄上のお立場をないがしろにして、わたしが差し出がましいことをしようとは思いません」と言う。
「わたしは正嫡の王子ではありませんので、玉座に野心はないのです。
父国王陛下のおんため、いくばくかのお役にたてればと、それだけを望んでおります。
結婚も、する必要はないと考えております。
わたしは、一度は神々の御意志に、お仕えしようと誓った身。
いまも、神官位を返上しようとは思っておりません」
そういって異母弟は、父国王や兄王太子に対して、臣下の礼を取る。
真実、嫌味なやつだと、ヴィクトリオは思う。
あいつが深く礼をするたびに、ヴィクトリオは人々から、嘲笑を浴びるのだ。
馬鹿な兄上をお持ちだから、ローレリアン王子は御苦労なさると。
宰相カルミゲン公爵は、聖職者として生きることに未練を残すローレリアンの気持ちに、最後の望みを託している。
だから、ヴィクトリオには、大きな問題を起こすなというのだ。
おとなしくさえしていれば、異母弟は、ヴィクトリオから王位継承権を奪いまではするまいと。
異母弟が、結婚もせず、神官位も返上しないというならば、ヴィクトリオを王位にすえて、陰ながら国を守る立場に徹してくれるにちがいないと。
「わたくしとて、孫である王太子殿下の行く末が心配なのです。
それに、我が孫にこそ王位へ着いてもらいたいと願うのは、あとは枯れ木のごとく朽ちていくしかない、この老いぼれめの最後の夢ですぞ」
そういいながらカルミゲン公爵は、ローレリアン王子が誕生日を迎えるたびに、聖職者の位を贈ってきた。意地でもローレリアン王子には、国家の要職や肩書を与えるつもりはないようだと、人々は噂している。
遠い目で、ヴィクトリオは大広間のむこう側にいる異母弟の姿を追った。
弟は今日も、黒い法衣を身にまとっている。
右肩から斜めにかけているのは、王子の身分をあらわす銀の星章に付随する茜色の大綬だ。
銀の星章を身に着けなければならない正式な場所へ出るときには、神官位をあらわす記章が略章では格が釣り合わないので、腰に神官の典礼服と同じサッシュベルトを結んでいる。
毎年、異母弟の神官位は上がっているから、いまのサッシュの色は3位の浅黄色である。
茜色も浅黄色も、黒衣によく映える色だ。ローレリアンの秀麗な容姿を、さらに美しく引き立てて見せる。
そして、あの異母弟が持つ、金色の髪と、水色の瞳……。
ヴィクトリオは奥歯を噛みしめ、拳をにぎった。
せめて、わたしにも金色の髪と水色の瞳があれば、ここまで惨めな思いをせずとも済んだであろうに!
泣きたい気分で、ヴィクトリオは、そばの椅子へ倒れこんだ。
最近ではいつも舞踏会のさいちゅう、彼はこうして座っている。
酒に酔って座っていれば、誰も彼に話しかけようとはしない。さわらぬ神にたたりなしとばかりに、放置しておいてくれるのだ。
ヴィクトリオは、ぼんやりと、宙をながめつづけた。
このまま、空気の中に溶けて、消えてしまいたかった。
しかし、その彼の前に、目が覚めるような光景が現れる。
女である。
美しい女。
若い女。
その女は、しなやかな細腰と滑らかな肌と、豊かな黒髪の持ち主だった。
白い優美なデザインのドレスを着ている。
そのドレスには、着飾った他の貴族の娘たちのように、ごてごてとした飾りがついていなかった。
ただ、幾重にも重ねた薄絹の上に、同じ白糸で施した刺繍が素晴らしい。
胸元や肩口に飾られた、レースもだ。
レースのふちどりには、淡い紫の糸が使われているのだ。
そのせいで、たっぷりとギャザーを取ったレースの美しさが陰影を得て、際立って見えている。
身につけているアクセサリーは、透明な石のシンプルなネックレスとイヤリングのみ。
黒髪には白い薔薇。
だから、レースのふちどりの薄紫と紫の瞳だけが、この女の姿に色を添えるのだ。
しかも、その瞳が……!
なんと印象的な色をした瞳だろうか。
生き生きとした、生命感にあふれる色。
これは、すみれの花の色だ。
春がくると陽だまりに群れて咲き、可憐な花弁を風にゆらす、すみれの花。
ごくりと、ヴィクトリオの喉が鳴る。
久しぶりに感じる、女への欲情。
ローレリアンが王都へ帰ってくる前までは、暗愚だ、愚鈍だと馬鹿にしながらも、貴族たちは王太子ヴィクトリオへ、娘をさしだすことを嫌がりはしなかった。
一夜だけの相手に、不自由などしたことはなかったのだ。
しかし、いまではヴィクトリオの相手をしてくれる女は、商売女か、借金で困っている既婚の夫人たちだけである。
父親たちは、娘の純潔をささげるほどの価値を、ヴィクトリオに見い出していない。
欲しい。
あの女が欲しい。
あの美しい衣を脱がせて、しなやかな肢体をあらわにしたい。
黒髪に指をからめたい。
滑らかな肌に手を這わせ、嬌声をあげさせたい。
何度も何度も責めさいなみ、もう許してくれと、泣かせたい。
女は、椅子に座って、じっと自分を観察しているヴィクトリオの存在に、まだ気づいていなかった。
連れの男にむかって、快活に言う。
「お願い、お兄様。
もう一度、もう一度だけでいいですから、踊ってくださいな。
そうね、あのあたりを、ななめに突っ切りたいわ。
あそこのあたりには、衣装にお金をいっぱいかけた、成金令嬢や夫人が大勢いるもの」
腕を揺すられた男は、うんざりした様子だった。
「モナ。さっきから、もう一度、もう一度、これが最後だからを、何度くりかえしていると思う?
わたしは、もう疲れたよ。
おまえはよく動くから、ダンスの相手も大変なんだ」
「しかたがないでしょ!
このドレスが、どれだけ素敵かを見せつけるためには、ターンをくりかえして、裾をひるがえして見せないと」
ぷいっと、そっぽをむいた女は、悪戯っぽく笑う。
「いいわ。お兄様がお疲れだというのなら、そのへんの男性を捕まえて、お相手をお願いするから」
女の兄は、慌てふためいた。いくらか年が離れたように見える兄からすれば、妙齢の妹は可愛くてならないのだろう。
「よせ、やめろ!
わかった、いくらでも相手をしてやる。
だから、適当な男と踊るのはやめなさい。
おまえを、どこの馬の骨とも知れない男と踊らせたりなどしたら、わたしは父上から殺されてしまう」
「ありがとう、お兄様!
ごめんなさいね。
本当は、アレンに相手をさせようと思っていたのよ。
だけど、あの子、もう早々とローレリアン王子殿下の御付きみたいに、なっちゃってるんですもの。声なんか、かけられないわ」
女は兄から、たしなめられる。
「モナ。アレン・デュカレットは、桂冠騎士の称号を得たのだ。もう気安く、あの子などと、呼んではいけない。
王子殿下のお仕事の、邪魔をしてもいけないよ」
「はーい。わかってます」
「まあ、わたしも、あの坊やが、あんなに偉くなるとは思っていなかったがね」
「失礼ね、お兄様。アレンは、とても努力家よ。きっと今に、王子殿下の片腕と呼ばれるようになるわ」
ヴィクトリオは不快になった。
また、ローレリアンが話題になるかと。
そばに控えていた式部官を手招きする。
「あの令嬢は、どこの家の者だ」
式部官は、うやうやしく答えた。
「兄上様と呼ばれておいでになるのは、ヴィダリア侯爵家の三男、王国軍第一師団の士官ロワール様です。おそらく、お嬢様は末の姫君、モナシェイラ様かと」
「ほう、南三国の王家出身の母親を持つ、なかなかに高貴な血筋の姫だな。だから、珍しい瞳の色をしているのか。髪も黒髪で」
いまにも舌なめずりを始めそうなヴィクトリオの顔を見て、式部官が鼻白んでいる。
しかし、ヴィクトリオの衝動はおさえがたかった。
もともと意志薄弱なうえに、酒に酔っているのだ。彼には、まともな判断力など、ほとんど残っていない。
「あの者を呼んでまいれ」
命じられて、式部官は恐れおののく。
「王太子殿下、あの方は……」
「呼んでまいれと申しておる!」
「しかし、あの方は内務省長官、ヴィダリア侯爵の……」
「ええいっ、もうよいわ!」
しびれを切らしたヴィクトリオは勢いよく立ちあがり、仲良く腕を組んでおしゃべりをしながら、次の舞曲がはじまるのを待つ兄妹へと、近づいていった。