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ローザニアの聖王子  作者: 小夜
第五章
36/78

王都炎上 … 7

 夜の闇は、誰のもとにも公平に訪れる。


 自分の部屋の窓から暗くなった街をながめおろしているヴィダリア侯爵令嬢モナシェイラ姫のまわりも、すっかり夜の帳におおわれている。


 ローザニア王国の首都プレブナンの中心地である王宮を囲む城壁の内側には、さまざまな行政機関や神殿などのほかに、古い家系の名門貴族の館もたちならんでいる。


 古い家系のなかでもとりわけ名門とされるヴィダリア侯爵家の屋敷は、貴族の屋敷がならぶ街並みのなかでも目立つ一角にある。そこは王都にそびえる丘の上で、王宮につぐ高い場所にある一等地だ。ローザニア王国建国当時から王家に仕えていたヴィダリア侯爵家が、いかに名門とされる家系なのかは、王家から与えられている屋敷の用地の素晴らしさからもうかがえる。


 高台にある屋敷だから、モナの部屋の窓からのながめも素晴らしいものだ。花の季節、雪の季節と、季節ごとに移り替わる美しい景色を、モナは子供のころからながめて育った。


 けれど、大人になったいま、モナが一番気にするながめは、レヴァ川のむこう側にある暗い街の影である。王都の東岸の街は、とても貧しい街だ。


 遊学にでかけた国境の街アミテージで、貧しいとはどういうことかを学んできたモナは、ひたすら陰気な気分で暗い街の影をながめた。


 あの暗い街の影の中で、今夜はいったいどれだけの人が、お腹を空かせたまま眠りにつくのだろうかと思う。少しでも多くの人に仕事を与えようと、ローレリアン王子を筆頭に、この国の政治を動かす立場にある人たちが努力していることは知っているけれど。


 でも、今現在苦しんでいる人には、今すぐに助けが必要なのだ。


 自分がやっていることは、ほんのわずかな力にしかならないことかもしれない。でも、何もやらないよりは絶対にいいはず。そう信じなければ、なにもできない。


 部屋の扉にノックの音があり、どうぞと答えると、入ってきたのは盆を手にした乳母のシャフレ夫人だった。


「お嬢様、夕食をおもちしましたよ。本当に、食堂へ降りて、皆様とごいっしょに召し上がらなくてよろしいのですか? 今夜は父君様もおいでですよ?」


 モナは苦笑して答えた。


「いいのよ。もうお兄様方とアンナお義姉さまから、たっぷりと叱られたもの。このうえ、お父様からも叱られるなんて、まっぴらごめんだわ。

 ファシエル兄様なんて、これがヴィダリア侯爵家の跡取りである長兄の役目だからとかいって、わたしに当分の謹慎を命令したりするし。そのうえ、アンナお義姉さまにむかって、『侯爵家の女主人として妹に淑女の心得を教育してくれ』なんて言うんだから。

 おかげでわたしは、得意絶頂の雌鶏めんどりみたいになった兄嫁といっしょに、今日の午後は貴婦人らしく優雅に針仕事よ。外へ出られないならせめて、レース工場の設計図を見るとか、診療所の備品の発注書を書くとか、家でできる仕事をしたかったのに」


 テーブルに盆を置きながら、シャフレ夫人は口をとがらせた。


「若奥様は貴族の奥方様の鏡のようなお方でございますよ。つつましやかで、つねに旦那様をお立てになり、気品あふれるお姿で社交界へお出ましになってファシエル様の人付き合いのお手伝い。

 毎日のように外出なさって、ドレスの裾を泥だらけにしてきたり、男性とケンカをして帰ってきたりは、なさいませんからね」


 モナは、むっとして答える。


「なにが貴族の奥方様の鏡よ! アンナお義姉さまったら着飾るのが大好きで次々に新しいドレスを作るものだから、このあいだもファシエル兄様は、お父様に叱られておいでだったわ。ヴィダリア侯爵家は質実剛健を家訓とし、古くから文武両道に秀でた功臣を多く輩出してきた家系なのだ。その名誉にふさわしい節度ある生活をするように、自分の妻をしつけろって。

 だいたい、アンナお義姉さまがお買い物ばかりなさるのは、ファシエル兄様も悪いのよ。お仕事、お仕事、お仕事で、いつもお義姉さまを一人になさるから。

 政略がらみで愛のない結婚だったからって、それが奥様を放置していい理由になるわけ? 結婚するからには、相手に対する責任を果たすくらいの覚悟は必要だと思わない?」


「はいはい、御説(おせつ)、ごもっともでございますよ」


 ぷりぷり怒りながら食事を始めたモナにお茶を入れてやりながら、シャフレ夫人はさまざまな思いを巡らせた。


 ヴィダリア侯爵家の長男ファシエル様が、やっきになって仕事ばかりしておいでになるのは、若いころには『ローザニアの鷹』とまで称され、いまでは内務省の長官職にある名臣の父親が乗り越えがたい存在だからだろう。ファシエル様は線の細い学究肌の方で、父親の侯爵のように大胆な発想や決断で周囲を引っぱっていく胆力はおもちでない。そんなご自分をよくわかっていらっしゃるからこそ、緻密な仕事ぶりで父親とは違う才能を証明したがっておいでなのだ。


 目の前にすわって、健康的な食欲で食べ物をおいしそうに口へ運ぶモナを見ていると、若い時代って誰でもけっこう残酷なものよねと、思ってしまう。自分と違う価値観をもって生きている人を認めるには、それなりの人生経験が必要なのだ。


 モナが食事をしているあいだ、シャフレ夫人はそばの安楽椅子に腰かけて縫い物に精を出した。


 夫人が侯爵家に仕えるようになってから、すでに15年の歳月が経過している。自分の子供を6人育て上げてからのことだから、彼女も、もういい年である。王都へ帰ってきてからは、モナの身辺の世話も若い侍女たちに任せて、半分引退したような生活ぶりだ。


 それでもシャフレ夫人が田舎で家督を継いでいる息子のところへ帰らないのは、大切に育てた侯爵令嬢の嫁入りを見届けたいからに他ならない。いま彼女がせっせと縫っているのも、モナの嫁入り道具にする下着や夜着だ。結婚後、当面必要となる身の回りの品は、たっぷり用意しておくに越したことはない。


 針をピンクッションに刺して、今まで縫った部分を指でしごいて落ち着かせる。


 作業に満足すると、シャフレ夫人は膝の上に手にした白い布を広げてみた。これは秋の夜の寝室で女性がくつろぐとき、肩が寒くないように羽織る薄手のナイトガウンだ。裾や襟元に縫い付けたレースの美しさには、ほれぼれとしてしまう。モナが「いくらでも使っていいわよ」と、自分の仕事の関係で手に入る試供品のレースを山のようにくれたので、シャフレ夫人は思う存分、大切なお嬢様の嫁入り道具に贅を凝らすことができるのだ。


 ナイトガウンの打ち合わせは、絹のリボンをはらりとほどけば外せるように作った。


 新婚の女性のための着物なのだ。この程度の心づかいは、当然だろうと思う。このリボンをほとく男性が、お嬢様の想い人であるようにと、あとはひたすら祈るだけだ。


「ごちそうさまでした」


 モナが綺麗なしぐさで、ナイフとフォークを置く。


 その様子を、シャフレ夫人は満足して見守った。お嬢様はハチャメチャな方だけれど、侯爵家のお姫さまとして、どこへ出しても恥ずかしくないだけの礼儀作法は、きっちり教えたつもりなのだ。その成果は、ちゃんと現れている。


「もう一杯、お茶をいかがですか」


「そうね、いただくわ。ばあやも、いっしょにどう? フィールミンティアのカフェから、秋の焼き菓子の試作品が届いているのよ」


「あら、メニューを変えるのですか」


「商売って、いろいろ考えないとね。この店なら『これ』をっていう定番商品と、目新しい季節商品を、両方そろえようと思うのよ。とにかくお客様に『もう一度来たい』と思わせる仕掛けを作らないと」


「はあ、大変なんでございますね」


「こういう成果を得たいと計画して、そこへ至る方法を考えるのは楽しいわよ?」


 食後のお茶の用意を頼むために呼び鈴を鳴らしながら、シャフレ夫人は肩をすくめた。


 きっと、モナと兄嫁のアンナが仲良くなることは永遠にないだろう。ひたすら受け身で夫を待つだけのアンナと、目標を決めてさっさと行動するモナは、水と油といっていいほど相性が悪いはずだ。だからこそ、ご立派なお嬢様にふさわしい、御嫁入り先が早く決まればよいのにと、夫人は思う。


 食事の後片付けが終わったテーブルで、もう一度、熱いお茶を入れた。


 モナがシャフレ夫人に披露してくれた秋の焼き菓子は、どれも女性客を意識した美しいものばかりだった。


 とくに、枯葉の形に薄く焼いたパイに、粉砂糖をまぶした菓子がよかった。粉砂糖が、まるで枯葉の上に降った霜のように見えるし、パイも高温でカリッとした食感に焼きあげてあって、枯葉を食べているようなイメージを豊かに感じさせる。ほっとする甘さは、少し肌寒くなった秋の気候にぴったりだ。


 女二人で菓子を分けあって、ああでもない、こうでもないと話すのは楽しかった。お屋敷の外の世界をよく知っているモナは、話題も豊富だし、冗談もうまい。


 ―― あなたは、わたしの自慢のお嬢様ですよ。


 シャフレ夫人が切ない気分で、そう思った時だった。


 窓の外の暗がりに、神殿の鐘の音が鳴り響いた。


 夜のモナの部屋は、テーブルに置いた燭台しょくだい蝋燭ろうそくと、暖炉の上の棚に据え付けられたランプの明かりで、ほの暗く照明されている。


 静かで薄暗い部屋の中にいると、鐘の音は不気味に聞こえた。


 そもそも、夕刻の祈りの時間がとっくに終わった今頃、鐘が鳴ること自体がおかしいのだ。いったい、どうしたことだろうかと思って、モナとシャフレ夫人が顔を見あわせると、鐘の音はどんどん数を増していった。


 最初は、遠い音だったのだ。


 それが、驚いているうちに数をまし、大きな音となる。しかも、音が鳴りやむ気配はなく、無数の鐘が乱打をくり返すさまは恐ろしくさえあった。


 何があったのかを確かめようと、モナは窓辺へかけよった。


 窓の外を一目見て、驚愕する。


「火事だわ! 東岸の街が、燃えている!」


 普段は暗闇の中に沈んで見えなくなるレヴァ川の東岸は、いま、燃え盛る炎に明るく照らしだされていた。燃えているのは街の奥側の一部分だったが、そこから立ち上る火の粉のせいで、東岸の夜空は花火が上がったような赤い斑点で覆われている。


 モナは部屋着の上に薄手の上着を羽織って、部屋から飛び出した。王都プレブナンは四季が美しい街とされているが、夏は短く、夜は肌寒い気候だ。


 階段を駆け下りていくと、玄関ホールには、それぞれの職場へむかおうとする侯爵家の男たちが集まっていた。侯爵は王宮へ。長兄は内務省。次兄のエドウィンは判事なので司法省へ行く。三男のロワールは王都を守る第一師団の将校だから、普段は軍の官舎に住んでいて、今夜もここにはいない。ひょっとしたら、もう配下の部隊をひきつれて、火事の現場へむかっているかもしれない。


「お父さま!」


 階段の途中でモナが大声をあげると、侯爵は垂れ下がった白い眉をひそめた。


 ヴィダリア侯爵も、この3年でさらに歳を取った。ローレリアン王子の最大の協力者として王子の地位を押し上げるべく貴族勢力の取り込みに奔走した侯爵の老体には、かなりの疲れがたまっている。いつの間にやら髪も、みごとな総白髪となっていた。


 老侯爵は、重い口を開く。


「よもや、モナシェイラ。これから下町へ、出かけるつもりではなかろうな?」


「ええ、行くわ。診療所は、もうすぐ完成するのよ? 燃やしてしまうわけにはいかないわ」


「モナ!」


 無鉄砲な妹を叱りつけようとして大声をあげた長兄は、父親に押しとどめられた。


「モナシェイラ。診療所は、もうあきらめなさい。

 これからレヴァ川の東岸は大火事になる。あの街には、防災の機能などひとつもない。それどころか、建物は違法建築だらけで、道は狭く、そのうえ迷路になっている。火はとどまることなく、燃え広がるだろう。

 いつかはこういうことになるのではないかと、政治を預かる人間は、みな心配していたのだ。

 恐れていたことが、現実になってしまった。いまは、そのことを悔やんでいる暇はないがな。

 とにかく、我々は登庁して、できるだけのことはするように努力する。

 おまえは火がおさまるまでは、屋敷にいなさい。王子殿下から、お叱りを受けたのであろう? おのれの立場を考えてから行動せよと。

 いま火事場に出ていって、おまえに何ができる?

 おまえに求められている役割は、おまえの知識を生かして、火事のあとの始末をすることだと思うがな」


 モナと侯爵は、まっすぐに見つめあった。


「火がおさまったら、東岸へ行っていいんですね?」


「もちろんだ、モナシェイラ。わしがそなたをどう思っているか、いままで語ったことはないがな」


「はい」


「誇りに思っておる。自慢の娘だ。だから、よく考えて行動するように」


 侯爵はそう言い残して、玄関から出ていった。


 開かれた扉のむこうから、激しい調子で鳴りつづける鐘の音が聞こえる。


 侯爵家の玄関ホールに集まった人々は、恐れおののいて不安を口にしていた。


 そのざわめきにむかって、モナはよく通る声で命じた。


「みんな、落ち着きなさい!

 家じゅうのシーツを集めてちょうだい。それで包帯を作るの。

 男の人たちは、荷馬車を準備するのよ。載せる物のリストは、すぐに作るわ。

 コックは酒蔵から、ありったけのシャデラ酒を出して。お医者様が刃物を使うときに必要だから、いくらあっても足りないくらいなのよ。

 近所のお屋敷にも、協力を頼んでちょうだい。親戚の家にも、使いを走らせて」


 どうしたらいいのかわからずに、ただ不安がっていた人々へ、目的が与えられたのだ。侯爵家の使用人たちは、一斉に了解の声をあげ、それぞれの持ち場へと散っていく。


 不気味な鐘が鳴り響く玄関ホールの真ん中に立ち、次は何をするべきなのか、モナは懸命に考えた。


 ―― 人手を集めて、物ももっと集めて、輸送の手段を考えて……。清潔な水を確保するためには、どうするのが一番効率的かしら? 食料も必要だわ。まずは救援に行く人が飢えないようにしないと。そのうえで、焼け出された人たちにも……。


 緊張のあまり、動悸が高まる。冷や汗が出る。


 時間が惜しい。早く考えなければ。


「モナシェイラ」


 ふいに話しかけてくる女の声が、モナを現実へひきもどした。興奮ではちきれそうな頭をなだめて目を凝らしたら、モナの前には兄嫁のアンナがいた。


「モナシェイラ。この家の中のことは、すべて、わたくしに任せてくださっていいわ。なにをすればいいのかだけ、教えてちょうだい。

 これでも、わたくしはヴィダリア侯爵家の女主人ですからね。家の切り回しのことは、誰よりもわかっているつもりよ。あなたは外との連絡に集中してくださって、大丈夫よ」


 モナは驚いてアンナの顔を見た。彼女の表情には、真剣な覚悟の色がある。


 『侯爵家の女主人は、わたくしよ!』というアンナの口癖は、家の中でなにかというと衝突する小姑のモナに対する牽制なのだろうと思っていた。けれども、それは、モナの勝手な思い込みであったようだ。モナは、いつかは侯爵家から出ていく身なのだ。兄嫁のアンナはアンナなりに、この家を守るのは自分だと思ってくれていたのだろう。


 モナは心の中でつぶやいた。


 ―― さびしいと買い物に走ったりする、ちょっとばかり頼りない人ではあるけれど。でも、この人は、お兄様の奥様なのよね。将来の、……ヴィダリア侯爵夫人。


 おかげでひとつ、決心がついた。


 モナは、はきはきと宣言する。


「ありがとう、アンナお義姉さま。じゃあ、必要なもののリストを作ったら、すぐにお届けするわ。よろしくお願いします」


 兄嫁に後を頼んで、モナは再び自分の部屋へむかう。


「ばあや、身支度を手伝ってちょうだい! 王宮へ参内するわ! 誰か、御寵妃のエレーナ様へ、これからお伺いしますって、先触れを出して!」


 次から次へと方策を考えるモナ頭は、ふたたび沸騰状態へ入る。


 興奮しきった頭で考えるのは、もっとも自分らしいことだった。


 利用できるものは何でも利用して、できることはやりつくしてやる!


 反省するのは後でいいのよ!


 いろいろな人から説教を食らって、すこし迷いはしたけれど。


 結局、モナの主義は変わらないのだった。


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