王都炎上 … 2
そのころ『黒の宮』の最奥に位置する寝所のベッドの上では、側近から聖王の再来とたとえられ敬意を払われていたはずの王子殿下が、幼子のような態度ですねていた。
ただの青年としては、3年越しの恋をあきらめようとする苦しさと、尊敬すらしていた文筆家を敵としなければならなくなった悔しさ。王子としては、その敵を取り逃がしたことに対する怒り。そして、聖職者としては、娼館などという破廉恥な場所でリンフェンダウルのような男とやりあわなければならなくなった恥ずかしさと、無用な死者を出した哀しみ。
昨夜のローレリアンは、あまりにも多くの感情を抱えて、爆発寸前だったのだ。このままでは悪感情の渦に巻き込まれて、気が変になりそうだとさえ思った。酒でも飲まなければ、やっていられなかったのである。
護衛隊の連中との酒盛りは楽しかった。大勢での飲食を心から楽しんだのは、王子の地位に返り咲いてからは初めてだ。王子にとって他人との会食とは、すなわち義務に他ならなかったから。
ところが、朝になってみれば、周囲の状況は何も変わっていない。
仕事は山積み。国王からは昨夜の件で呼び出しの伝言。おまけに自分はひとりだという孤独感は、もっとひどくなっている。昨夜、護衛官たちが王子の酒につきあってくれたのは、それが彼らの仕事だからである。王宮の奥の寝所でひとり目覚めると、その実感がひしひしと迫ってくる。
親友のアレンでさえ、昨夜は仕事中の態度だった。
部下と王子が杯を酌み交わしながらにぎやかにしゃべっているそばで、アレンは酔わない程度に酒を舐めながら、静かにすわっていた。そして、ときどき目が合うと、ふっと笑うのだ。
その笑い方が、気に入らなかった。
あとのことは俺にまかせて、おもいきり羽目を外せよ。
そうアレンの目は語っていた。
甘えていいよと言われると、ローレリアンは戸惑うのだ。
素直に感謝すればいいだけなのに、罪悪感にかられる。そして、罪悪感を感じる自分が嫌になり、さらに卑屈な気分におちいってしまう。
その卑屈な気分をひきずって、今朝の目覚めは最悪だった。
頭が痛いし、鳩尾もむかつく。
だから頭から布団をかぶって、わめきまくる。
「わたしは頭が痛いんだ! 今日は気がすむまで寝る! わたしにだって、仕事をさぼりたい日くらいはあるんだ! 何度呼びにきたって、絶対にベッドからはでないからな!」
最悪の機嫌の王子殿下を朝からあつかいあぐねている小姓のラッティは、ため息をつきながら答えた。
「はいはい、好きなだけお休みになってください。ですが、リアンさま。二日酔いのお薬は飲んだほうがいいですよ。ふて寝しているだけでは、一日中、お辛いままでしょう」
心優しい少年は、王子のために侍医から処方された薬を持ってきてくれたのだ。
もともと生真面目なローレリアンは、忠実なラッティ少年の世話焼きに弱い。ここで薬なんかいらないと突っぱねれば、「殿下、そんなにお辛いのですか? お辛いのは、お体だけではないのでしょう? ぼくに何かできることはないですか? いったい昨夜は、なにがあったのですか? 急なおでかけだったし、やっとお戻りになられたと思えば、お酒をすごされたご様子ですし、御衣裳に血がついていたりするし!」とやられたあげくに、うわーんと、泣かれてしまう。
ラッティの涙には、いつも半分くらいは嘘泣きが入っているのだが、のこりの半分は本気である。やはり、泣かれるのは嫌だ。
しぶしぶ布団からでて半身を起こし、ローレリアンはラッティがさしだす銀の盆から、優雅な金彩をほどこしたティーカップを受け取った。なかには、異様な臭気の湯気を放つ、どろりとした液体が入っている。
「ラッティ、これはなんだ?」
「ええとですね。ホソバオケラ、オモダカ、カワラヨモギ、ケイヒ、あとは……、ええと、なんかのキノコ、それに、……忘れました。変なものは入っていないと思いますよ。宮廷医が処方したお薬ですし、御毒見も済んでいますから」
「なるほど」
ローレリアンはかつて医者の助手も務めたことがある青年だ。せんじ薬の内容を聞いて、顔をしかめてしまう。
しかし、ベッドから身体を半分起こしてしまえば、これ以上寝ているわけにもいかないなという気持ちになる。昨夜の行動の後始末として、国王のもとへ出向かなければならないことは承知しているのだ。
覚悟を決めてティーカップを口に運んだら、予想したとおりの味だった。ひどく苦いくせに後味には微妙な甘さとえぐみが残り、鼻には青臭さと清涼な匂いが混じって届く。そのうえ、我慢して飲み下せば、微妙な喉越しのせいでむせてしまう。
「ひどい味だ」
けほけほとむせると、目に涙がにじんだ。しかし、二日酔いに効きそうではある。
しばらく抱えた膝に額を押しつけてじっとしていたら、胃のあたりが、じんわりと温まった。
なんとか動けそうだ。
「ラッティ、黒の聖衣を準備してくれ。丈が長いものを」
「はい、わかりました」
ラッテイは、すこし緊張したおももちで寝室に隣接している衣装室へむかった。
ローレリアン王子は聖職者としても高い地位にあるので、普段から黒い法衣を愛用している。この法衣の上着は詰襟で、丈は足の付け根がすっかりかくれる程度。細身のズボンと対になっており、とても動きやすくて実用的な聖職者の普段着にあたる衣装である。
ラッティが準備を命じられた黒の聖衣は、典礼服と呼ばれる司式用の衣装につぐ格式の衣装にあたる。上着の丈は足首まであり、腕は肘のあたりまで肩掛けにおおわれている。全体が重い布で作られているので、この衣装をまとった人の歩みは自然にゆるやかとなって、神々しい雰囲気が醸し出されるしくみだ。
この衣装には、やはり特別感があるので、ローレリアンも王宮内の聖堂へ出向くときにだけ着用している。安息日の礼拝には、王子も三位の神官として祈りの唱和に参加しているのだ。その姿には独特の華があり、いまでは王子を目当てに、安息日の宮廷礼拝に人が集まるほどだった。
** **
しばらくのち、ラッティに手伝ってもらって身なりを整えおわったローレリアンは、すっかり高潔な雰囲気をもつ王子殿下へともどっていた。
彼が長い黒衣のすそをさばきながら、ゆったりとした足どりで私室からでていくと、廊下にはすでに本日の護衛役である第一小隊長のイグナーツ・ボルン卿と第三小隊長のアレン・デュカレット卿が控えていた。
イグナーツはローレリアン王子付き近衛護衛隊に3人いる小隊長のなかで、もっとも先任にあたる士官である。現在はアストゥール・ハウエル卿が他部署へ転任してから空席になっている第二王子付き護衛隊隊長の代理も兼任している。外見は謹厳実直な中年士官で、実際の性格も真面目そのもの。その働きぶりに人目を引く華やかさはないが、大過なく集団をまとめていく管理能力には定評がある。
当初、周囲はイグナーツをアストゥールの後任にすえようとしたが、管理職経験が長い彼は、その名誉ある役目を引き受けようとはしなかった。
自分には『王子殿下の影』という異名を得ているアストゥールが持つようなカリスマ性がないことを、イグナーツはよく知っていたのである。そして、これから王国の舵取り役として政界へ漕ぎ出していくローレリアン王子に必要なのは、王子の特別さをより華々しく引き立てるだけの、輝く個性をもつ側近であることも十分心得ていた。
「その役目にふさわしい者が現れるまでの代理ならば、つつしんで勤めさせていただきます」と、アストゥールが去ったあとの部隊管理業務を引き受け、イグナーツは誠実に任務を果たしている。彼もまたローレリアンを『我が王子』と呼び、王国を共に立て直していく誓いを立てた男なのだ。みずからの出世より、なにが王子にとってもっとも大切かを、一番の判断の基準としている。
そのイグナーツは苦笑しながら、ローレリアン王子とアレン・デュカレット卿の顔を見くらべた。
どちらも昨夜の騒ぎのことなど素知らぬ顔で澄ましているのだ。
「アレンは今日から王宮勤務明けの休暇だろう。宿舎へ帰らなかったのか?」
王子からたずねられて、アレンは飄々と答えた。
「俺はしがない宮仕えの身ですよ? 昨夜の騒ぎのあと、そう簡単に帰れるわけがないでしょう。殿下が国王陛下のもとへ出向いてお叱りを受けるところを、しっかと見届けさせていただきますよ。そのあと、昨夜の報告書を近衛護衛隊総隊長のところへ持って行って、俺も説教されてきます。クビになったり、左遷されたりしないように、祈っていてください」
隊長代理のイグナーツは、失笑をかくそうともしなかった。肩を震わせながら、彼は言う。
「報告書は読ませてもらいました。昨夜は殿下もデュカレット卿も、たいそうご活躍でしたな。いや、わたしもリンフェンダウルがやりこめられるところを、ぜひ見たかった。
総隊長殿には、わたしからも一報を入れておきました。リンフェンダウルの横暴ぶりを好ましいと思っている者はおりませんから、総隊長殿も鷹揚なものでしたよ。デュカレット卿の処遇については、4日ほどの営倉入りでいかがかと上申しておきましたので」
「営倉ですか」と、アレンは顔をしかめた。
「飯がまずそうですねえ。しかも、期間が4日というところが、山盛りうさんくさい。きさまは休みなく、せっせと働けというわけですね。ボルン卿も、お人が悪い」
イグナーツは笑ってうなずいた。王族の警護につく近衛護衛隊は、小隊ごとに二泊の休暇、二泊の訓練、二泊の王宮勤務をくりかえす体制となっている。つまり、今日から四晩を営倉ですごせば、アレンは出てきてただちに王宮勤務へ復帰しなければならないことになる。
「どうせデュカレット卿は、休暇のときも殿下のお側にいるではないか。いっそ黒の宮のなかに部屋をたまわってはどうか? 練兵場での訓練のとき以外は、いつも黒の宮にいるのだから、住んでいるも同然だろう」
国一番の剣士の証である桂冠騎士の称号を持つ若者は笑った。
「俺だけ特別というわけにはいきません。仕事は俺の趣味も同然ですから、当直室住まいも、べつに苦になりませんしね」
「では、早く管理者の仕事を覚えて『特別』になることだ。士官学校生活をつねに首席で押し通してきた貴兄は、管理業務に関しても優秀だ。そう時間は、かかるまい」
アレンは肩をすくめて苦笑した。わたしが隊長代理を預かっているのは、おまえが一人前になるのを待っているからだぞと、イグナーツは言いたいのである。
認めてもらうのは嬉しいが、十八の歳でそれだけの責任を背負えと言われても、正直、こまってしまう。それに、自分が周囲から、いずれは第二王子付き護衛隊の隊長になる男だと思ってもらえるのは、個人的にローレリアンと友人関係にあるからだろう。
ほんの一度、御前試合に勝って国一番の剣士の称号を得た程度では、とうてい手柄とは言えない。これから自分は、名ではなく、実を積み上げていかなければならない。そう思うとアレンは、ゆっくり休む気になれないのだ。
腹心の者たちの会話を聞いて口元に笑みを浮かべた王子は、重い衣のすそを華麗にさばき、ふたたび歩きだす。
「さて、わたしはこれから国王陛下の説教を聞きに行く」
「はい、お供いたします」
うやうやしく一礼し、イグナーツとアレンも王子のあとへしたがう。
次の廊下の曲がり角からは、イグナーツの部下も数名合流した。ローレリアン王子は、行列を作っての移動を嫌う。護衛隊士達は、そのあたりも心得ており、いつもさりげない距離をとって彼らの王子を守るのだ。
こうして守られているのは、歯がゆくもあり、ありがたくもある。
自分がこれからなそうとしていることは、とてもひとりの力ではなしとげられない大仕事なのだ。自分は王子として生まれたから、その大仕事の旗頭となったけれど、本当は大勢の人の意志を代表する存在であるだけなのだろうとローレリアンは思っている。
そうでなければならないとも、思うのだ。
自分は、この国の独裁者になりたいわけではない。
ただ、少しでも多くの人を、できるだけ良い方向に導ければと願う。
神々に仕える人の証である聖衣をまとうと、ローレリアンの胸には切ない望みがあふれかえる。それを静かな表情の下に押し隠すと、あふれる望みには熱がこもり、炎となって彼の胸を焦がすのだった。