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ローザニアの聖王子  作者: 小夜
第四章
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因縁のはじまり … 9


 あらためて部屋の中を見まわせば、陰鬱な光景が、そこにはあった。


 床のうえには、おびただしい血と娼婦の遺体。


 娼婦は赤い衣装をまとっていたし、この部屋の装飾には赤が多用されていたから、眼の奥に赤い色が焼きついてしまいそうだ。


 娼婦の遺体のそばではフィオーラがうずくまるようにして泣いており、『ポワンの宵の花亭』の主が、「おまえのせいではないよ」と、彼女を慰めている。


「殿下、お顔の汚れを」


「すまない」


 アレンがさしだした水に濡らした手布を受け取り、頬の血をぬぐう。


 布にこびりついた赤錆色の血を見ても、ローレリアンの感情はあまり動かなかった。


 王子と呼ばれるようになってから三年の間に、ローレリアンは何度も、目の前で人が血を流す光景を見てきた。その多くは、ローレリアンを殺そうとする刺客の血である。師弟二代にわたる『王子殿下の影』は、ローレリアンに害をなそうとする者を、一度たりとも手の届く場所まで近づけたことはなかった。


 しかし、慣れとは恐ろしいものだと思う。目の前で人が死んでも、涙ひとつ湧いてこないのだから。


 なるべく早く、この場からは離れたほうがいいだろう。


 そう判断して足をふみだすと、靴の先に割れて飛び散ったガラスが当たった。


 苦い思いで、ローレリアンは無残に破られた窓を見た。


 ジャン・リュミネが体を張って飛びこんだせいで、優雅な形の窓の格子は壊れ、床には無数のガラスのかけらが散らばっている。その欠片はどれも、月の光を反射して美しく輝いていた。


 破れた窓からは、夏の夜風が吹き込んでくる。


 その風は、遠い呼子の笛の音や、男たちの叫び声までも、ここへ運んでくるのだ。


 まだ、あの男は捕まっていない。


 下手をすると、取り逃がしてしまうことになるだろう。


 ローレリアンの胸中は、ざわつく。


 激しい勢いで後ろへさがれと壁際まで押しやられたとき、たくましい親友の護衛隊長の肩越しに、ローレリアンは確かに見たのだ。


 バルコニーから飛び降りるすんぜん、ジャン・リュミネはふりかえり、ローレリアンをにらみつけた。


 ―― 必ず、もう一度、おまえの前に立ってやる!


 月の光に照らしだされた彼の顔は、鋭く研ぎ澄まされた覚悟で、うちからはじけそうに見えた。


 ローレリアンは、ジャン・リュミネが書く新聞の論説の愛読者だった。それどころか、地下出版される反政府思想の宣伝文ですら、どれも素晴らしいと思っていた。


 彼が書くの文章には、いつも国の未来を憂える深淵な思想と、貧しい人々への愛がある。革命によって現王朝を倒し、一刻も早く共和政治を実現しようという過激な思想の持ち主でさえなければ、自分の側近の一人として迎え入れたいくらいだった。


 だから、ローレリアンはときおり、リュミネの様子をうかがいにフィールミンティア街の『ふくろう亭』まで出かけたりもしていたのだ。


 おそらく、ジャン・リュミネが目指す理想とローレリアンが目指す理想は同じで、そこにいたるまでの道筋が、ちがうだけなのだろうと思う。


 けれども今夜、おたがいの道は、決して一つにまとまることはないのだとわかった。


 革命をなそうとするジャン・リュミネは敵だ。敵として、憎まなければならない。


 わたし、ローレリアン王子は、誰の血であろうと血が流れることは望まない。


 神々との約束を破るのは、本当に必要な時だけ。そして、その罪は、すべておのれが背負っていく覚悟だ。


 なんびとたりも、わたしと罪を分かつことはできない。


 この恐るべき罪は、いまの時代に王子として生まれた者だけが、背負う定めのものなのだから。


 壊れた窓から視線を外し、ローレリアンは豪華な部屋の一角を占める立派な天蓋つきのベッドへ近づいていった。


 閉じられたカーテンに手をかけながら、内部に話しかける。


「よく最後まで我慢してくれたね」


 あの騒ぎの最中にモナが物陰にかくれたまま自制してくれたのは、かなりありがたかった。これ以上の混乱など、考えたくもなかったから。


 やはり彼女は賢い女性だ。ほんのひとこと助言しただけで、すべての状況を飲み込んで、最良の判断ができる。


 そう思いながら、ローレリアンはカーテンを開き、息をのんだ。


 重いビロードのカーテンにおおわれた空間は暗かった。


 その暗がりの中にへたりこんで、モナは宙を見つめ、放心していた。


 いつも生き生きとした光に満ちているすみれ色の瞳からは輝きが失せ、ほほにはいく筋もの涙が流れている。


「モナ、どうして、きみが泣く?」


 戸惑いもあらわにローレリアンがたずねると、モナはやっと我にかえり、ひいと、大きくしゃくりあげた。


 また彼女のほほに、新しい涙が伝い落ちていく。


「みんな、わたしのせいだわ。リンフェンダウル男爵がここへ来たのも、リジィが死んじゃったのも、みんな、思いつきで行動する、わたしのせい!

 わたしは、なんて馬鹿で、浅はかなのかしら。

 もっといっぱい、考えなくちゃいけなかったのに!

 わたしの行動の結果で、なにが起こるかを、考えなくちゃいけなかったのに!」


 ローレリアンはモナの側にすわり、自分の肩へモナの頭を抱きよせた。


「きみのせいではないよ。リンフェンダウルが今夜の指揮官になったのは、わたしのしくじりが原因だ。そこからすべての出来事は、連綿とつながってきているのだから」


 まだ涙がおさまらないフィオーラも、モナの側に腰かけて、ローレリアンに同意する。後悔に打ちひしがれているモナの、背中をなでながら。


「泣かないで、モナ。

 きっと、リジィは満足していると思うの。

 彼女は愛する人を守りたかったのよ。たとえ、だまされていたとしても、リジィは、あの男を愛したかったの。真実の恋に、わたくしたち娼婦は心の底から憧れているのよ。

 借金のかたに、ひどい環境の売春宿へ売られてしまうくらいなら、愛にじゅんじて死ぬほうが幸せ。

 そう思ったからリジィは、命をかけて、あの男を逃がしたの」


「でも、こんなのって……、ひどい。男の人を好きになった結末が、こんなふうになるなんて……」


 黙ってローレリアンは、泣きじゃくるモナを抱きしめた。


 男と女が愛し合って、また何か新しい幸せを見いだせたら、その男女には素晴らしい未来が開けるのだろう。けれども現実は、美しいばかりではない。世界は誰にでも、優しいわけではないのだ。運命に翻弄ほんろうされて幸せをつかみそこねる人間も、世間には大勢いる。


 げんに自分だって、普通の幸せとは縁遠い場所にいるではないかと、ローレリアンは思う。


 愛しくてならない女性は、彼に抱きしめられながら泣いている。


 彼女がこんなに苦しい思いをするのは、わたしとかかわりをもっているせいだ。わたしは近しい者を、おのれの宿命に巻きこんでいく。それが、王子として生きるということなのだ。


 ローレリアンの胸に顔をうずめたまま、モナがつぶやいた。


「リアン、わたし、一生懸命……、考える。もっと、ちゃんと、いろんなことを考えるから……」


「いいんだ、モナ。きみは、そのままで」


 モナにはいつまでも、明るく元気で笑顔の似合う人でいてほしかった。


 ―― やはり、彼女からはしばらく、離れていよう。


 すっかり女らしくなった柔らかいモナの身体を抱きしめると、ローレリアンの決意は、いよいよ固くなった。


 彼女の身体は、娘らしく、華奢な身体だった。剣をふりまわすお転婆姫てんばひめであるために、要所にはしなやかな筋肉もついているが、骨は細いし、肌はどこまでもなめらかだ。こんなに美しくて心優しい彼女が、涙するところなど、もう二度と見たくない。


 これで最後と思うと、彼女を抱きしめる腕にも力がこもる。


 彼女がいとしくてならない。


 どうしてこんなに、愛しいのか。


 そう思えば思うほど、ローレリアンの引きちぎられるような心の痛みはひどくなった。



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