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ローザニアの聖王子  作者: 小夜
第三章
19/78

夏風に吹かれて … 7


 国王の執務室から退出したあと、しばらくのあいだローレリアン王子は無言だった。


 国務関係の執行部署が集まっている王宮の西翼は、歴代の王が増改築をくりかえした壮麗な建物だ。


 柱は前世紀に流行したコワルド様式。天井のレリーフは年月にすすけて重々しい輝きを放つようになった薔薇紋の透かし彫り。階段の手すりは滑らかな白大理石で、足音をしっとり吸い取るのはバクスタ産の絨毯だ。


 その絢爛豪華な構造物の内部を、王子は無言で歩いていく。


 あとにつづく筆頭秘書官のカール・メルケンも黙りこんでいるので、ローレリアン王子つき近衛護衛隊第三小隊長の副官であるシムスは、非常に気まずい思いをしていた。


 心の中で、自分の上司をののしってしまう。


 ――たいちょーっ! いつも王子殿下のお側にはべる隊長のお役目に、代役を立てなくちゃならない野暮用って、いったいなんなんですか!

 俺に『氷鉄のアレン』の代役は、無理ですってば!

 黙りこんだ王子殿下が、こんなに怖いなんて、知らなかったです!

 ついでに、メルケン首席秘書官も、おっかないですよ!

 なんですかぁ、この二人は!


 階段を降りきり、長い廊下を通りぬけ、一行はやがて奥の宮へつづく通路へさしかかった。


 その通路からは、王宮の花壇がながめられる。美しい幾何学模様を描くように配された夏の花は、夕方の光のなかでも鮮やかな色を放っていた。


 風に乗って漂ってくるのは、かすかなラベンダーの香りだ。


 その香りのおかげで勘気をゆるめたのか、王子が立ち止まる。


 シムスは王子殿下の三歩後ろに立ち、周囲を見回した。


 お守りする王子殿下に公共の場所で立ち止まられると、護衛官たちはみな、とても緊張する。

 銃や大砲は戦の方法を大幅に変えてしまった武器だが、要人の身の危険を倍増させた武器でもあるのだ。離れた場所から飛んでくる小さな弾丸を、止めるすべはない。


 ローレリアン王子には敵が多い。

 王宮のなかでさえ、完全に安全とは言い切れないから恐ろしい。


 訓練された目で危険が潜みそうな場所のチェックを終えて、シムスはほんの少しだけ警戒を解き、王子殿下のほうを見た。


 殿下の御尊顔は、いつ拝見しても美しい。

 男性を相手に美しいという形容を使うのも失礼なような気がするのだが、武骨な武人のシムスには、あまり美をたたえる言葉の持ち合わせがないのだ。


 しかし、今日の王子殿下のお顔には、美しさだけではない何かがあった。


 広大な庭の花壇をながめる王子の横顔には、苦い後悔の気配が漂っていたのだ。


 夏の風を建物の中に取りこむように、広く開けられた窓に、王子は手をかけた。


 その手が、強く窓枠を握りしめる。


「殿下」


 メルケン首席秘書官が、気づかうような口調で王子に話しかけた。


 答える王子の声はかすれていた。


「しくじった!

 まさか、あの時間まで宰相が国王のもとへいるとは。

 わたしの失態だ。

 事態の収拾を急ぎすぎて、いつもならこの時間帯には、もう国王はひとりになっているはずと、つい確認を怠って推測で行動にでてしまった」


「しかたがございません。

 時には、そのようなこともあるでしょう」


「しかたがないでは済まされない。

 いいか、カール。

 反政府運動の活動家にも、人権はあるんだ。

 彼らは犯した罪について裁かれなければならないが、法による公正な裁きは、犯した罪と同等でなければならない。

 だが、宰相は、そうは思っていない。

 彼は苦労して長年国を守ってきたがゆえに、国家権力に反発する者を憎悪している。

 とくに、革命派の活動家などには、宿怨の敵と言わんばかりの反応だ。


 宰相の、あの激高ぶりを見たか?

 彼はリンフェンダウルに、活動家たちを皆殺しにしろと命じるだろう。

 今回の摘発は、相手が撃ちかえしてきたとして、まちがいなく銃撃戦になる。

 現実は、一方的な殺戮だろうがな。

 下手をしたら、無関係な市民も巻き込まれるだろう。


 リンフェンダウルは、宰相の敵を排除することで、今の地位までのぼりつめた男だ。しかも、証拠がない疑いの段階で被疑者を痛めつけて、自白を強要するような卑劣なやつ。花街の住人など、虫けらのように思っている。


 いったい、どれだけの犠牲が出るか、考えただけで恐ろしくなる。

 しかも、そんな事態におちいる道筋をつけたのは、愚かな、このわたしなのだ!」


 王子の拳が、勢いよく窓枠をたたいた。


 開かれた窓のガラスが、音を立てて振動する。


 メルケン首席秘書官は、また振りあげられそうな王子の手をおさえた。


「拳を痛めます、殿下」


「はなせ、カール」


「はなしませんよ。明日、この手にペンを握れなくなっては、こまりますから」


「王子の責務を果たせと?

 では聞くが、王子の責務とは、いったいなんだ?

 わたしは、自分が恐ろしい!

 わたしが、ほんの少ししくじっただけで、死ななくてもよい人間が死んだりするんだぞ。

 わたしは、ただの愚かな男なのに。

 人の運命を変えるような、大それた存在ではないのに」


 涙こそ出ていないが、王子は泣いているのだとシムスは思った。その証拠に、王子の背中は激しく震えている。


 メルケン首席秘書官は、その震える背中に自分の手をそえた。


「では、同じ失敗をくりかえさないために、反省と検討をいたしましょうか。

 ものごとを分析して、新たに方策を考える。

 そういうのが、殿下はお好きでしょう?」


 弟に忠告する兄のような態度で、彼は言う。


「今度また、国王陛下の御前で宰相と対立なさったときには、『父上』、わたしの意見を聞いてくださいと、申し上げればよろしい」


 『父上』という呼びかけの言葉には、わざと強い響きがこめられていた。


 王子の孤独は、他人では癒せない。

 彼の苦悩を同じ痛みとして理解できるのは、唯一、同じ立場で生きてきた肉親だけだろう。


 メルケン首席秘書官は、そう確信しているのだ。


「ほんの少しで、よいのですよ。

 お父上に、甘えなさい。

 そうすれば陛下は喜んで、殿下の意見を最後まで聞いて下さるでしょう。

 聞いてさえいただければ、理にかなうは殿下の言であると、陛下にもご納得いただけるはずなのです。

 ちがいますか?」


 王子の返答は、いまにも消え入りそうだった。


「……あなたは、正しい」


 王子の背中から手をはなし、秘書官は、そっとうなずいた。


「情を軽んじてはなりません。

 なにもかも、お一人で背負われることはないのです。

 殿下と心を打ち解けあい、お支え申し上げたいと願っている者は、いくらでもおります。

 遠慮なく、たよればよいのです」


「わたしは……、人にたよるのが苦手なんだ。

 自分は天涯孤独だと思って、育ったから。

 自分が与える側にならなければ、誰からも愛されないと思っていた。

 だから、必死に、なんでも学ぼうとした。

 学んでいなければ不安だった。

 神官として、さんざん隣人を愛せ、世界は愛に満ちていると説いてきたくせに、私自身は、愛を信じきれないでいる」


 顔をあげた王子は、窓の外の花園に目を向けた。


 優雅な香気をふくんだ夏の風が、渡り廊下を吹きぬけていく。


 王子の金色の髪は風になぶられてそよぎ、王家に生まれた者の証である水色の瞳には、透明で寂しげな光がたたえられていた。


 メルケンとシムスは、王子の側に控えながら、たがいの様子を盗み見た。


 見たら、わかった。


 自分たちはいま、同じことを考えていると。


 傷ついている王子に、どうすれば自分たちの愛を伝えられるだろうか。


 おのれを殺し、ローザニア王国のすべての民を愛する人間になろうと、必死に努力しておいでになるあなたを、わたしたちは心から敬愛していると、どうすれば伝えられる……?


 メルケンは王子の背中に話しかけた。


「殿下、今夜は眠れない夜になるのかもしれませんが」


「ああ」


「眠れなくとも、横にはおなり下さい。それだけでも、身体は休まります」


「そうだな」


「口約束ではなりませんよ。真夜中に、ラッティ坊やを確認にやりますからね。

 一晩中、犠牲となる人が一人でも少なくて済むようにと、お祈りをなさったりはしないでください」


「それは、こまったな」


 ふりむいた王子は苦笑していた。


 かわいがっている小姓の少年に泣かれるのは、かなり苦手な王子なのである。


「さあ、まいりましょう」と先をうながしながら、首席秘書官は通路の奥を見た。


 見て、眉をひそめる。


 奥の宮の方向から、一人の男が足早にやってくるのだ。


 シムスがつぶやく。


「うちの隊長ですね。何を急いでいるのでしょうか」


 変装用のフロックコートを着ていても、任務に意識を集中している時のローレリアン王子の護衛隊長アレン・デュカレット卿は、目立つ男であった。軍人らしい鍛えた体は、きびきびと動いているし、癖のある茶色の髪の下には、鋭い眼光を放つ瞳がある。


「王子殿下」


 素早く彼らのもとへたどりついたアレンは、軽い一礼だけで挨拶を終え、用件を切り出した。


「モナさまが、やらかしてくれましたよ!

 殿下にモナさまを守れと命じられていましたから、俺は念のためと思って、気配を消すのがうまい部下を王宮から下がられるモナさまの後ろに、くっつけておいたんです。

 案の定、モナ様は侯爵家の護衛を街の中でまいちまって、花街へ直行です。殿下の本気は怖いって知っておいでになるから、屋敷へ閉じ込められる前に、花街へおいでになったんだろうと思います。

 いまは、例の『ポワンの宵の花亭』という高級娼館へいらっしゃいます。

 俺は、その報告を聞いて、あわてて街からもどってきたんです」


「なんだって!?」


 みるまに王子の顔色が青ざめる。


「その店は、今夜、憲兵隊に襲撃されるぞ!

 しかも、その部隊を指揮するのは、リンフェンダウルだ!」


「あの、嗜虐趣味があるんじゃないかと噂されてる、宰相の番犬野郎か!」


 アレンの驚愕の言葉を聞きながら、王子は険しい視線を窓の外へむけた。


 夏の夕暮れは、訪れると足が速い。

 窓の外の花壇に降り注いでいた陽光はすでに弱くなっており、空には茜色に染まる雲があった。

 あたりに吹く風は、涼しい夕風である。

 日が暮れるまでの時間は、あと30分といったところだ。


 ぎりっと、噛みしめた歯の鳴る音が、王子の口元から漏れた。


 王子が強い葛藤に苦しんでいる様子が、そばに控えている者達には、手に取るように理解できる。


 これから王国の未来を担っていこうという王子が、危険に身をさらしてはならないということくらい、国王に忠告などされなくても、よくわかっている。


 けれど、理性と感情は別のものだ。


 最愛の女性が命の危険さえある状況に置かれているとわかって、冷静でいられる男などいるわけがない。


 おもてを伏せ、王子はしばらく、黙りこんでいた。


 そして、ふたたび顔をあげたとき、その表情には固い決意があった。


「アレン、街へ行くぞ」


「はい、お供します」


 途中ですれちがうであろう王宮の人間に不信感を抱かせないよう走ることはせず、優雅な歩みで、王子は先へ進みだす。あとにつづくのは『王子殿下の影』。行き先は『黒の宮』。目立たずに街へ出るために、王子はまず、服装を改めるのだろう。


 その後ろ姿を呆然と見送りながら、シムスはメルケン首席秘書官へたずねた。


「王子殿下を、おとめしなくてよろしいんですか、メルケン殿」


 メルケン首席秘書官は、苦笑しながら首をふった。


「殿下に、情を軽んじてはならないと申し上げたのは、このわたしだ。

 それに、こういう状況で、ヴィダリア侯爵令嬢をお見捨てにならないお方だから、わたしはローレリアンさまに、お仕えしているわけでね」


「しかし、殿下の身に、万が一のことがあれば……」


「王国の未来は、また暗雲に包まれるし、殿下の行動をお諫めしなかったわたしの首は、確実に吹っ飛ぶだろうな。下手をしたら、銃殺刑かもしれない」


「すごいことを、さらりとおっしゃるんですね、秘書官は」


 メルケンは静かな顔で、シムスを見た。


「ローレリアン王子にお仕えすると決心した時に、わたしの命運は殿下と一蓮托生だと、覚悟は決めたのでね。

 あの方は、我が身命をかけてお仕えする価値のある方だ。

 あの方にお仕えして、わたしも国のために働く。

 そう決めたのは自分自身で、ほかの誰でもない」


 カール・メルケンはあくまでも実務家で、人を威圧するような迫力や、華やかなカリスマ性を持った男ではない。


 けれどもシムスは、このとき、この男は凄いと思った。男としての格で負けたような、そんな気もする。


「失礼ですが、メルケン殿は、おいくつですか?」


「32だが?」


「ええっ!? もっと、うんと歳がいってるのかと思いましたよ!」


 むっとしたメルケンが、たずねかえす。


「どういう意味だ」


「王子殿下をお諫めになったときも、それに今も、めっちゃかっこいいですよ!

 これからは、敬意をこめて親父殿とお呼びします!」


「なんだと!」


「では、自分も王子殿下のお供をいたしますんで!」


「シムス!」


 呼び止められて、走り出していた若き護衛官はふりむいた。


「わかってますよ、親父殿。

 我が命運は、王子殿下と共にありです!

 自分も、覚悟は決めていますから!」


 敬礼をしながら気持ちいいくらいの鮮やかな笑顔を見せると、シムスは踵を返し、遠ざかっていくローレリアン王子と護衛隊長の後を追っていった。


 渡り廊下に一人残ったメルケンはぼやく。


「あいつ、確か自分は殿下と同じ年だと、このあいだ言ってなかったか? その年齢と屈託のない性格のおかげで、若いアレン・デュカレット卿と組ませても、それほど齟齬は生じないだろうと判断されて、副官に任命されたのだと。

 ならば、わたしとは10歳違いだ。なにが親父殿だ。失礼な!」


 あたりには、夕闇が迫っていた。


 王宮の中央の方向から、照明のランプに火をともす下働きの一団がやって来る。


 彼らは風で火が消えてしまわないよう、ランプの明かりをひとつ灯すたびに、大きく開かれた窓をひとつ閉めていく。


 夏の夕風は、心地よい。


 しかし、もう夏風を楽しむみやびな午後は終わった。


 今宵、闇のとばりがプレブナンの街をおおうとき、悪霊があたりを跋扈ばっこする。


 老境へ入り、あとは後進へ道を譲るばかりとなった宰相が、50年もの長きにわたって育て続けた、『積年の恨み』という名をもつ醜悪な姿の悪霊が。


 メルケン首席秘書官は、胸元へ手をやった。


 彼はそれほど信心深い男ではなかったが、最近、お仕えする王子に影響されて、服の下に護符を身につけて持ち歩いている。


「天と地にあらせられる神々よ。どうか我らの王子に、最大のご加護を」


 いつもの祈りの文言を口の中で唱え終えた瞬間、すぐそばの柱に取り付けられたランプに火がともされ、目の前の窓が閉められた。


 下働きの者たちは秘書官に一礼し、次のランプに火をともすべく場所を移動する。


 夕風はとだえ、あたりには暗闇が近づきつつあった。



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