王子殿下とお茶を … 6
結局、混雑した店の中に適当な空き席は見つけられず、アレンとローレリアンは従業員の休憩用の椅子にすわって、カウンターのそばで忙しそうに働くモナと会話をしながらお茶を飲んだ。
モナは、くるくると、よく動く。
彼女は侯爵令嬢らしからぬ才能をいろいろともった女性だったが、どうやら飲食店の切り盛りの才能も持ち合わせていたらしい。焼き菓子やお茶のよい匂いがただよう店の内部は小奇麗に整えられ、掃除もゆきとどいていて、居心地はとてもよかった。
そのうえ、彼女は調理係や接客係の動きまでをしっかりと見守り、お客が気持ちよくすごせるように、細やかな指示をだしながら働いている。
わかれてすごした三年の月日の間、彼女は彼女なりに一生懸命、いろいろなことを身に着けてきたのだなと、ローレリアンは思った。そのひたむきさに、ひきつけられる。
「はい、どうぞ。これがうちのお店の看板商品なの。これのおかげで、連日満員御礼なのよ。召し上がってみてね」
モナが頃合いをみてカウンターの上に出してきたのは、チョコレートケーキだった。そえられたクリームが、こんもりとした固まりになっており、白と黒のコントラストが、とても綺麗な一品だ。
「このクリームは、どうやって固めたんだい?」
スプーンでクリームの塊をつつきながら、ローレリアンはたずねた。
モナは悪戯っぽく笑う。
「食べてみれば、わかるわよ」
そう言われてクリームの塊にスプーンをさしてみるが、ムースやゼリーとはちがう硬さだ。このところローレリアンは、否応なく美食にもくわしくなったが、こんな感触の食べ物には初めて遭遇した。
なんだか怪しいなと思いながら、クリームを口に入れてみる。
「冷たい!?」
驚いて声をあげると、モナはしてやったりといった顔をした。
「砂糖と泡立てた卵白をクリームにまぜて凍らせたの。香りづけには、シャデラ酒をすこし」
「凍らせたって、どうやって?」
「レオニシュ先生の機械を使ってよ」
「先生の!?」
懐かしい人の名前を聞いて、ローレリアンは目を細めて笑った。
レオニシュは、かつてローレリアンに医術の手ほどきをした学者である。研究費を稼ぐためにアミテージの下町で開業医をしながら、薬の研究や、その薬を作るための技術開発などにいそしんでいる。
教師としてだけでなく、まるで父親のような態度でローレリアンに接し、いろいろなことを教えてくれた人でもある。親の存在を知らずに神殿で育ったローレリアンが、肉親の情とはこんなものだろうかと想像できる人間に育ったのは、この師匠のおかげだった。
「先生は、お元気だろうか?」
「とてもお元気よ。時々、診療所のお手伝いもしていたの。先生からは、よくあなたの思い出話を聞かされたわ」
「そうか」
モナは手を止めて、カウンターのほうへ身を乗り出した。
「ねえ、どうしてレオニシュ先生へ、手紙のひとつも書いてあげないの?
先生は、いまだにあなたのことを、心配していらっしゃるのに」
ローレリアンは目を伏せた。
「先生には、嘘をつきたくない。だから、いまの状況を、どう説明したらいいのか、わからないんだ」
一瞬、言葉を失ったあと、モナも目を伏せた。
「そう。そうよね……」
レオニシュは現実主義者で、彼の頭の中は、目の前の問題だけでいっぱいなのだ。
国境の街では、市長夫人の社交サロンか、王都で発行されたあと10日遅れでアミテージへ届く新聞を共同購入して読む知識人のクラブにでも出入りしていなければ、中央政界の最新の話題を知ることはできない。かつての愛弟子が『ローザニアの聖王子』とあだ名される国民期待の王子になっているなどとは、レオニシュは夢にも思っていないはずだ。
その現実は自分にだって、いまだに受け入れられない出来事だと、モナは思う。
目の前にいるローレリアンは、昔とちっとも変らない、おだやかな青年なのに。
――わたしだって、あなたを好きだと思う気持ちを押し殺すのに、こんなに切ない思いをしているんだもの。
きっと、先生にも、お知らせしないほうがいいのよね。先生は、とてもローレリアンのことを大切に思っていらっしゃるから。事実を知らせたら、きっとローレリアンのことを心配なさって、夜も眠れなくなってしまうにちがいないわ。
東の果ての草原のなかにある街に思いをはせながら、モナは言った。
「先生の珍発明って、あまり現実には役に立たないものが多かったけれど」
「そうだね」
遠い目をして、ローレリアンが、ふたたび笑う。
その笑顔を見ると、モナの胸は、きゅっとしめつけられた。
きっと彼の心は、楽しかった少年時代へ飛んでいるのだ。どこにでも自由に行けた、夢のような時代へと。
カウンターの奥に置いてあるビール樽ほどの大きさの機械を、モナは「ほら、これよ」と、たたいて見せる。
「このクリームを凍らせる機械だけは、大発明だと思うのよ。本当は、物質の融点のちがいを利用して、混合物を分離するための機械らしいんだけれど」
「へえ、なるほど。薬の研究に使うつもりだったんだね」
「なんでも、氷に硝石をまぜると、マイナス20度まで温度が下がるらしいの。硝石はまた氷が溶けた水から回収できるから、便利な薬品だわ」
「ちょっと、まった!」
ローレリアンの秀麗な顔が曇った。
眉間には、難しい考え事をするときに見られる縦じわがよる。
――あら、この顔は、久しぶりに見るわ。
モナは喜んで、唇をほころばせた。
恋の病に侵されたモナの心臓は、ローレリアンのどんな顔を見ても、どきどきと脈打ってしまうのだ。
難しい顔で、ローレリアンは言う。
「モナ、硝石は火薬の原料だ。国家が流通を規制している禁制品じゃないか」
ふたたびカウンターから身を乗り出したモナは、ぱちんと、ローレリアンの額を指先ではじいた。
「固いこと、言わないでちょうだい!
研究目的の申請を出せば、少量なら買えるのよ!
だいたい、あなたが黙っていてくれれば、お役所にだってばれやしないわ!」
「痛いなあ。きみはあいかわらず、手が早いんだ」
「ふふんだ! この機を見て俊敏に動く頭脳のおかげで、わたしはいろいろと、やりたいことを実現してきたのよ!」
「半分は、感情で動いているくせに……」
「よく聞こえなかったわ。もう一度、大きな声で言って」
「どうして、この店を持つことにしたのかなと、言ったんだ」
「うそつきね。まあいいわ」
手にしたポットから茶碗にお茶を注ぎ、まっていた店員に「これ、7番のテーブルね」と渡してから、モナはカウンターの中から出ていった。
そして、ローレリアンの隣りへすわり、真剣な顔で話しはじめる。
「このお店の売り上げで、プレブナンの下町にも、診療所を開こうと思うの。
プレブナンの下町も、アミテージの下町に負けず劣らずの貧しさだわ。きっと、患者さんの半分は、薬代を払えないと思う。だから、診療所の運転資金を、どこかで稼がないと。
お金がなくちゃ、せっかく診療所を作っても、ひと月で潰れてしまうでしょ?」
ローレリアンの表情も、たちまち真剣になった。
「本来、それは、国がするべきことなんだが……」
「いまのローザニアに、そこまでする余裕がないことくらい、知ってるわ。
いっけん、この国は豊かに見えるけれど、富はほんの一握りの人間に独占されているものね。
国の財政だって、積もり積もった過去の債務で、大変な状態なんでしょ?」
「恥ずかしながら、そのとおりだ。
三代前のステラス王が、王宮の増改築をくりかえすような浪費家だったもので、困窮しきった国庫の状態に、とどめを刺した。
国民はみな、宰相のカルミゲン公爵を悪く言うがね。わたしは、彼を高く評価している。
彼が前国王と現国王のもとで優秀な国家官僚として辣腕をふるってきたからこそ、ローザニアは、まだなんとか、国王を頂点としてあおぐ中央集権国家としての形態を保ってこられたのだ。
彼が国家権力を維持するためにおこなってきた改革は、すばらしいものだよ。
地方ごとの慣例で進められていた行政を中央主導で一つの法律をもとに動くように統一したり、神殿を動かして国民に文字を教える寺子屋を全国で開かせたり、高度な学問を教える学問所の創設を援助したりね。
技術がいくら進歩しても、それを使いこなす人材がいなければ、経済発展にはつながらない。それに最も早く気づいていたのが、カルミゲン公爵だと思う。
軍の再編と近代化だって、御老体に鞭うって、頑張ってやっている。
国庫がいよいよ厳しくなれば、国家を破たんさせないために戦争をしなければならなくなるかもしれないとまで、彼は未来を予測していたんだ。
すごい男だと思うよ。
ただね。彼の欠点は、既存の価値観から抜け出せなかったところにある。国家を動かすのは選ばれた人間の仕事だと考えて、人材登用はすべて貴族階級からおこなった。
急進的な改革を推し進めるためには、信頼できる優秀な人材が、たくさん必要だ。だが、慎重に人材を吟味している時間がなかったから、彼はその仕事をつぎつぎに、ある程度人柄を知っていて、自分に逆らう心配がない親族へ任せていった。
その閉鎖的な人事のせいで、彼はいま、社会からの批判にさらされているわけだ。
わたしは、そのどさくさに紛れて彼の手柄を横からかすめとり、救国の英雄を気どろうとしている、ずるい男なのさ」
モナはうっとりと、ローレリアンを見つめた。
「でも、それは、だれかがやらなければならないことなのよ」
「そうだね。やらなければ。
王朝が倒れたら、この国は、未曽有の混乱の中で崩壊してしまう」
「あなたは、あなたにしかできないことをやって。
わたしは、わたしにできることを精一杯やるわ。
そうそう。このあいだ、レース工場の話を聞かせてくれって人が、わたしをたずねてきてくれたわ。
工場の建設に、資金を出してもらえそうなの。
どなたのご紹介ですかとうかがったら、クレール商会の若旦那さんだと、おっしゃっていらしたけれど」
こぶしで口元をかくしながら、くっと、ローレリアンが笑う。
「それは、わたしの偽名だ。この眼鏡をかけて街をうろついているときには、わたしはクレール商会の社長のバカ息子ということになっている」
「やっぱり?」
ふたりはひとしきり、楽しげに笑った。
その楽しい笑い声に自分も参加しながら、アレンは思った。
この二人は、出会うべくして出会った、運命の恋人同士ではないだろうかと。
気難しいローレリアンがくりだす政治論を、きちんと理解したうえで、うっとりと聞ける貴族の令嬢なんて、モナさまをおいて他にはいない。
ちょっとした気晴らしにでもなればと思って、王子をお茶に誘ってみたが。
こんなに楽しそうなら、また連れてきてやらなければなるまい。
護衛の手配は大変だが、ローレリアンの笑顔が見られるなら、その苦労も報われるというもの。
アレンは、いつも憂鬱そうな親友のことが、心配でならなかったのである。