王子殿下とお茶を … 5
5分後、ローレリアンとアレンは、ふたたびフィールミンティア街の路上にいた。
アレンはローレリアンがパンフレットの件で怒りだすのではないかと思っていたのだが、王子はあくまでも冷静だった。
「まあ、あのイラストが下手で助かったな。ちっともわたしに、似ていなかった」
アレンは笑った。
「似ていないどころか。あのイラストに『ローレリアン王子は絶世の美男子である』なんて文章がついているんだから、笑っちまうよ。どう見ても、あのイラストの王子殿下は、ソラマメに目鼻を描いたような不細工顔だ」
「地下出版物の発行元に銅版画を作っておろす印刷屋なんて、腕が悪くてつぶれかかったような印刷屋ばかりだ。当然といえば、当然だな」
「地下出版物だぁ?」
「そうだ。じつは、あのジャン・リュミネという男は、反政府系の宣伝パンフレットを世間にばらまいている組織の幹部ではないかとにらんでいる。
このところ、また反政府的な内容のパンフレットの発行数が増えているので、直接様子を見てやろうと思って、来てみたんだが。なかなか尻尾は、つかませてくれないな」
「今回のことは、証拠にならないのか? サンエット紙みたいな格調高い新聞の論説委員が、『踊る神官』なんて低俗読み物を、懐にもってたんだぜ?」
「証拠にはならないが、疑いの灰色が、かなり黒へ近づいたことはまちがいない。彼が書くのは過激な論調の改革論だけかと思っていたが、個人攻撃の中傷物も書くとは意外だった」
「庶民のあいだでも、おまえの人気が上がっているから、焦ってんじゃねえのか?
過激な改革論って、民衆をあおって革命を起こそうとか、そういうやつのことだろう?
だけど、ローレリアン王子は、そんな乱暴な方法を使わずに、世界を変えることを目指している」
「わたしは将来のこの国に、王も貴族も必要ないというのなら、それでいいと思っている。
だが、暴力的な方法による急激な変化は、膨大な犠牲を生むだけだ。
こっちが必死になって犠牲が最小限ですむ落としどころを探っているというのに、革命など起こされたのではたまらない。
不穏分子には、早々に消えてもらう」
「うひー、怖いねえ」
「こっちだって、殺されそうになったのは、一度や二度じゃないんだ。わたしにむけて刺客を送りこんできたのは、既得権を守ろうとする貴族だけではない。王朝の継続を望んでいない過激な革命主義者とか、いろいろさ。
覇権を望むなら、おたがいに犠牲は覚悟のうえだろう。リュミネのような男に、遠慮する気など毛頭ない」
「おまえ、性格がすさんだなあ」
「受け入れざるを得ない変化というやつだ」
やれやれ、可愛そうにと、アレンは隣りを歩くローレリアンの肩を抱いた。
ローレリアンは、驚いて目を見開いた。
アレンに肩を抱かれた瞬間、憂鬱な気分が晴れたのだ。
だれかに、こんな打ち明け話ができたのは初めてだった。
心から信頼しているアレンが相手だから、ローレリアンは愚痴を言える。
けらけらと笑っているアレンは、自分の存在によって、どれだけローレリアンが救われたかになど、まったく気がついていないが。
アレンは、色とりどりの看板がならぶ、フィールミンティア街の華やかな街並みを見あげて言った。
「せっかくここまで出てきたから、気分転換に、もう一軒よっていこうぜ。『ふくろう亭』のお茶はうまいという評判なのに、俺はちっとも味がわからなかった」
「そうだな。どこか、うまいお茶を飲ませる店を知っているか?」
「うまいかどうかは知らないが、知り合いの店がすぐ近くだ」
そう言ってアレンがローレリアンをつれていったのは、まだ新しそうに見えるのに、たいそう繁盛している店だった。
気候がよい6月らしく、カフェの椅子は石畳の路上にまであふれだし、満席のお客のなかを店員が忙しそうに動き回っている。
「こんにちは」
アレンは挨拶をしながら、店の奥へ入っていく。知り合いの店だというから、それも当然かと思いながら、ローレリアンも後につづいた。
すると、店の奥で忙しそうに立ち働いていた若い女が、声に気づいてやってくる。
「あら、アレン。忙しいとか言ってたくせに、きてくれたのね」
「ええ、きましたよ。開店のお祝いには、ちょっと遅いけれど、贈り物つきでね」
「そんな気を使う必要は、ないのに……!」
明るくにぎやかにしゃべっていた女は、こちらを見て絶句した。
「ロー」
「うわ、ちょっと、たんま!」
「むが、ふがぁ!」
思わず王子の名を大声で呼びそうになった女は、アレンに口をふさがれる。
ローレリアンは、笑顔をかすかにひきつらせた。
この二人が主従だったのはむかしのことで、いまでは手紙のやり取りをするほど、親しい友人なのだ。それくらいはローレリアンにだって、わかっている。
しかし、侯爵家の姫君を後ろから羽交い絞めにして、口をふさぐとは、なんたる無礼。
そもそも、騎士にとって、姫君の唇とは神聖なものであるはずだ。古いバラードに出てくる騎士たちは、姫君から頂戴する口づけひとつのために、命を懸けた戦いへおもむくではないか。
それなのに、この能天気な男は、気安く姫君の唇にふれて……。
そこまで考えて、ローレリアンは、はたと我にかえる。
何を怒っているのだ、わたしは?
そう思った瞬間である。
ローレリアンの懐へ、女性の華奢な体が、体当たりの勢いで飛びこんできた。
はしゃいだ声が言う。
「リアン! おひさしぶり! 会えて嬉しいわ! アレンたら、なんて素敵なプレゼントを、考えてくれたのかしら!」
ぎゅっと、胸のあたりを抱きしめられた。彼女の背は、ローレリアンの肩を少し超えるくらいしかないもので。
名門侯爵家の姫君だというのに、この令嬢には、つつしみとか、恥じらいとか、そういったたぐいの感情の持ち合わせは、あまりないのだ。
でも、そのおかげでローレリアンは、ためらうことなく彼女を抱きしめかえせる。
それが、こんなに嬉しいのだから、我ながらあきれてしまう。
「こんにちは、モナ」
「お忙しいのに、わざわざきてくださったの?」
「近くに用事があったので」
「あら、わたしのところは、ついでなのね。
でもいいわ。会えて嬉しいから、なんでも許しちゃう!」
そういった侯爵令嬢モナシェイラは、めいっぱい背伸びをすると、ローレリアンの頬にかすめるようなキスをした。
それは単なる挨拶がわりの口づけだった。
なのに、ローレリアンの胸は躍る。
王子と名乗らなければならなくなってから、ローレリアンに挨拶のキスを贈るのは、母親のエレーナ姫くらいしかいなくなってしまっていたのだ。
しかも王族などというものは、肉親の情には恵まれないものだ。国務の輔弼をするようになって父の国王とは毎日のように顔をあわせているが、母とは月に一、二度、他人も同席している堅苦しい晩餐会の席で会うだけである。
親しい人と気軽に肌をあわせる感覚が、こんなにも幸せな感覚だったとは。
しかも、物怖じしないモナは、ローレリアンを見あげていってくる。
「やだ、リアン。
その伊達眼鏡、すごく似合ってるわよ。
頭がちょっと弱そうな美青年って感じに見えるわ。とても、すてき」
自分の腕のなかで、モナにけらけらと笑われて、ローレリアンはいいかえす。
「そういうきみだって、とても侯爵令嬢には見えないが。
きみは、ここでいったい、何をしているんだい?」
モナは型押し染色で花模様を染め付けた明るい色のドレスを着たうえに、大きな白いエプロンをつけていた。髪も娘らしい形に結って、小さなレースのキャップで後れ毛がでないように髷をおおっている。外見は、可愛らしい町娘といったところか。
軽い身のこなしで、モナはローレリンの腕のなかから、すり抜けていく。
うふふと笑う様子は、とても得意そうだ。
「このお店は、わたしのお店なの!」
驚いて、ローレリアンは、あたりを見まわした。
先ほどまでローレリアンとアレンがいた『ふくろう亭』ほど大きな店ではないが、この店もそこそこの広さだし、それになにより繁盛している。路上に出したテーブルも店内のテーブルも、ほぼ満席状態だ。
「さあさあ、どうぞ。おすわりになって!」
そう言いながら、モナは、空席を探す。
アレンがわきから、口をはさむ。
「路上の席は、やめてくださいよ。どこかの建物の窓から、狙撃される危険がある」
「まあ、護衛隊長さんて、大変なのねえ」
「リアンが、えらくなりすぎたんですよ。おかげで俺は、苦労がたえません」
アレンと王子殿下を、遠目に見守っていた部下たちは驚いていた。
怒るとき以外は、めったに感情を見せない無愛想な隊長殿が、笑っていたので。
国一番の剣士にふさわしい立派な武人の体つきをしているくせに、彼らの鬼の隊長殿は笑うと、どことなく可愛いかった。
そんな笑顔を見せられて、部下たちは、ほっとしてしまったのである。
「ふう! なんか、いいねえ」
「隊長殿は俺たちより、年下なんだよなあ」
「普段は俺たち、忘れてるけど」
「たいちょー、こえーもん」
「それにさあ、王子殿下も、ちょいと幸せそうに見えないか?」
「うん。俺、王子殿下の目が本気で笑っているところを見たのは、初めてかもしれん」
護衛隊士の前では、ローレリアンはいつでも、完璧な王子だった。
聖職者でもある王子は、決して他人に不機嫌な顔を見せない。いつも口元には、気品と優しさに満ちた微笑を浮かべている。
側近たちの前では気をゆるめて普通の顔も見せるが、その顔はいつも、憂鬱そうな顔だったり、疲れた顔だったりするのだ。
アレンの部下たちは、ローレリアン王子の護衛任務につけたことを、心から誇りに思っている。自分たちが守るのは、ローザニア王国の未来であると。
だから、彼らは上機嫌で、王子殿下と隊長と姫君の姿を見守った。尊敬してやまない王子殿下がお幸せそうなので、彼らはとにかく、嬉しかったのである。