元婚約者があまりにもしつこいので、つい顎を打ち抜いてしまいました
「婚約は破棄する」
王立学園の卒業記念夜会で、アルバート・メルディン伯爵令息はそう言った。
声はよく通った。
楽団がちょうど一曲を終えたところだったので、広間にいたほとんどの者が聞いたと思う。
私――エレノア・ハーグレイ侯爵令嬢は、手にしていた果実酒のグラスを給仕へ渡した。
「承知いたしました」
「……何?」
「婚約破棄を承知したと申し上げました」
アルバートは、予想していなかったような顔をした。
彼の隣には、桃色のドレスを着た令嬢が立っている。
リリアン・モース男爵令嬢。
この一年ほど、アルバートが熱心に世話を焼いていた相手だった。
リリアンは両手を胸元で組み、困ったように眉を下げている。
「エレノア様、どうかアルバート様を責めないでください。私たちは、その……気持ちを抑えられなかっただけなのです」
「責めておりません」
「ですが、きっとお怒りでしょう?」
「いいえ」
「無理をなさらなくても……」
「無理もしておりません」
私はもう一度、給仕の持つ盆へ目を向けた。
果実酒を返したばかりだが、今度は水が欲しかった。
喉が乾いていた。
けれど、アルバートが私の前へ一歩出た。
「待て。話はまだ終わっていない」
「婚約は破棄されるのでしょう?」
「そうだ」
「私も承知しました。両家への説明は、後日父を通して行わせます」
それで終わりだと思った。
少なくとも、私の中では終わっていた。
アルバートがリリアンと親しくなったことは知っていたし、二人で庭園を歩いているところも何度か見た。
問いただしたこともある。
そのたびに彼は、リリアンは学園に不慣れだから助けているだけだと言った。
私は信じようとした。
婚約は家同士のものだから、多少気が合わないことがあっても、話し合って折り合いをつけるものだと思っていた。
だから礼儀を守った。
彼の好みに合わせて、夜会では派手すぎる色を避けた。
彼の母君が甘いものを好まないと聞けば、贈り物には茶葉を選んだ。
彼が剣術大会に出る日は、早朝から応援席へ向かった。
アルバートは一度も優勝しなかったが、私は最後まで見ていた。
それも、今夜で終わる。
悲しくないわけではない。
だが、泣き叫んで縋るほどでもなかった。
「エレノア」
「何でしょう」
「君は、自分がなぜ婚約を破棄されたのか分かっているのか?」
その質問に、少し迷った。
「アルバート様が、リリアン様を選ばれたからでは?」
「それだけではない」
アルバートは眉間に皺を寄せた。
「君には可愛げがない」
近くにいた誰かが、小さく息を呑んだ。
私は自分の手袋を見た。
淡い灰色の絹手袋。
今朝、侍女のマルタが新しいものを出してくれた。
左手の中指、その縫い目が少しだけ曲がっている。
「そうですか」
「そうですか、ではない」
「ほかに何と申し上げればよいのでしょう」
「そういうところだ!」
アルバートの声が大きくなった。
広間の端にいた者まで、こちらを振り返った。
「君はいつも冷静で、何を考えているか分からない。婚約者の私にさえ弱みを見せない。リリアンは違う。彼女は素直で、よく笑い、悲しいときには涙を見せる」
隣でリリアンが、実演するように目を潤ませた。
「アルバート様……」
「君は少し、彼女を見習うべきだった」
「今後は婚約者ではありませんので、その必要もないかと存じます」
「またそれだ!」
私は給仕を探した。
先ほどの者は、騒ぎを避けるためか遠くへ行ってしまっていた。
喉が乾く。
「エレノア様」
リリアンが一歩前へ出た。
「私、あなたからアルバート様を奪うつもりではなかったんです」
「そうですか」
「ただ、アルバート様がおつらそうで……。婚約者なのに、あなたがあまりにも冷たいから」
「そうですか」
「ですから、私はお話を聞いていただけで」
「そうですか」
リリアンの眉尻がわずかに動いた。
「それしか、おっしゃらないのですか?」
「何をお望みですか?」
「私に、怒ったりしないのですか?」
「怒ってほしいのですか?」
「そういうわけでは……」
「では、これで失礼いたします」
私は二人に頭を下げた。
背を向ける。
母は広間の反対側にいるはずだった。
早く合流して、帰りたかった。
「待てと言っているだろう!」
腕を掴まれた。
アルバートの指が、手袋越しに食い込んだ。
私は足を止めた。
「離してください」
「まだ私の話は終わっていない」
「婚約は破棄されたのでしょう。もう私の腕を掴む理由はありません」
「最後まで人を見下すのか」
「見下しておりません」
「なら、こちらを見ろ!」
腕を引かれ、無理やり振り向かされた。
踵が床を擦った。
磨き上げられた大理石に、靴底の短い音が響く。
アルバートの顔が近かった。
酒を飲んでいるのだろう。頬が少し赤い。
昔は、その顔を美しいと思っていた。
金色の髪も、青い瞳も、整った鼻筋も。
今はただ、近いと思った。
「アルバート様。手を離してください」
「まず謝罪しろ」
「何についてでしょう」
「私を苦しめたことだ」
私は聞き間違えたのかと思った。
「私が、あなたを?」
「そうだ。君がもっと婚約者らしく振る舞っていれば、私はリリアンに心を奪われることなどなかった」
周囲が静かになった。
遠くで楽団員が譜面をめくる音まで聞こえた。
「あなたがリリアン様を選ばれたのは、私の責任だと?」
「すべてとは言わない。だが、君にも非はある」
「そうですか」
「だから、その言い方をやめろ!」
アルバートの指に、さらに力が入った。
痛い。
だが、ここで声を荒らげれば、彼はきっと満足するのだろう。
ようやく感情を見せた。
ようやく自分を愛していたと証明した。
そう思うのだろう。
だから私は息を吸った。
「アルバート様」
「何だ」
「私は、あなたがリリアン様を選んだことについて、謝罪いたしません」
「まだ分からないのか」
「分かりたくもありません」
初めて、アルバートが黙った。
私も少し驚いた。
思ったより強い言葉が出た。
「エレノア様、そんな言い方……」
リリアンが口を挟む。
「アルバート様は、あなたにも変わる機会をくださっているんです。これから先、同じ失敗をしないように」
「婚約破棄をしたあとに?」
「だからこそです」
「なるほど。ずいぶん親切な方々なのですね」
誰かが咳払いをした。
笑いを誤魔化したようにも聞こえた。
アルバートの顔がさらに赤くなる。
「人が真剣に話しているのに、皮肉を言うな」
「では、真剣に申し上げます。腕を離してください」
「謝罪が先だ。自分の非を認めろ」
「いたしません」
「可愛げがないと言っているのが、まだ分からないのか!」
「分かっております」
「なら直せ!」
「あなたのために?」
「そうだ!」
「もう婚約者ではないのに?」
アルバートが詰まった。
だが、すぐに言い返した。
「将来、別の相手を得るためだ。今のままでは誰からも愛されない」
その言葉は、思っていたより深く入った。
痛い、と感じた。
腕ではなく、胸の奥が。
私はこの人と十年近く婚約していた。
幼い頃、彼が池へ落とした木彫りの馬を、一緒に探した。
十二歳のとき、彼が熱を出せば見舞いへ行った。
十五歳の誕生日には、青い刺繍の入った剣帯を贈った。
似合わないと言われたので、それ以来、手作りの物は贈っていない。
それでも私は、いつか夫婦になるのだと思っていた。
愛されているとまでは思わなかった。
だが、長い時間を過ごした相手として、少しは大事にされていると思っていた。
「誰からも愛されない」
アルバートは繰り返した。
「君は、そういう女だ」
私の中で、何かがぷつりと切れた。
腕を振りほどこうとした。
しかし、アルバートは離さなかった。
「逃げるのか」
「離してください」
「まだ話は終わっていない」
「私の話は終わっています」
「君は昔からそうだ。都合が悪くなると黙る。侯爵家の娘だから、皆が自分に従うと思っている。君の父親も――」
父のことまで言い始めた。
私の父は、アルバートが剣術大会で負けるたびに、若いのだから次があると励ましていた。
彼の家が洪水で領地経営に困ったとき、支援を取りまとめたのも父だった。
「父は関係ありません」
「関係ある。君をそんな傲慢な女に育てたのは――」
次の瞬間。
視界の中で、アルバートの顎が跳ね上がった。
ごつ、と鈍い音がした。
私の右拳には、硬いものを殴った感触が残っていた。
アルバートの足が床から離れたように見えた。
実際には、少し浮いただけだと思う。
けれど、彼は見事なほど真っすぐ後ろへ倒れた。
リリアンが悲鳴を上げる。
広間中が静まり返った。
私は右手を胸元へ引き寄せた。
痛い。
信じられないくらい痛い。
「……殴ってしまいました」
誰に言うでもなく呟いた。
床に倒れたアルバートは、口を半分開けたまま動かない。
死んではいない。
たぶん。
「エレノア!」
母が人垣をかき分けて駆け寄ってきた。
「あなた、今、何をしたの?」
「顎を」
「それは見れば分かります!」
「つい……」
「ついで人の顎を打ち抜く令嬢がどこにいますか!」
ここにおります、と答えかけてやめた。
母は倒れたアルバートを確認し、それから私の手を取った。
「まあ、腫れているではありませんか」
「お母様、そちらなのですか?」
「当たり前でしょう。あなたの手は一つしかないのですよ」
周囲の誰かが、堪えきれず吹き出した。
それをきっかけに、ざわめきが戻ってくる。
警備の騎士が駆け寄り、アルバートの様子を確かめた。
「気を失っているだけです」
「そうですか」
私はほっとした。
母が眉を吊り上げる。
「安心している場合ではありません。あなたは侯爵令嬢として、伯爵令息を殴ったのですよ」
「はい」
「卒業記念夜会の真ん中で」
「はい」
「大勢の前で」
「はい」
「しかも、婚約破棄を宣言された直後に」
「それについては誤解です。婚約破棄そのものは受け入れました」
「そこを律儀に訂正しなくてよろしい」
リリアンが床に膝をつき、アルバートの肩を揺さぶっている。
「アルバート様! しっかりしてください! なんてひどいことを……」
彼女は私を睨みつけた。
「暴力を振るうなんて、最低です!」
「その点については、その通りです」
「え?」
「殴ったことについては、謝罪いたします」
私は倒れているアルバートへ頭を下げた。
「アルバート様。目を覚まされたら、治療費と慰謝料について話し合いましょう」
「それだけですか?」
「ほかに何か?」
「あなた、アルバート様にあれほどひどいことをして……」
ひどいこと。
確かに、殴ったのはひどい。
それは認める。
私はもう一度、アルバートを見た。
顎が少し赤くなっている。
目を覚ましたら、かなり痛むだろう。
「ですから、殴ったことは謝罪します」
私はリリアンへ向き直った。
「ですが、彼が私に言ったことまで正しかったことにはなりません」
「何ですって?」
「あなたもです。婚約者のいる男性と親しくなり、その婚約が破棄された場で、捨てられた側へ反省を求める。その振る舞いを、私は正しいとは思いません」
リリアンの顔が強張った。
「私たちは愛し合っているのよ」
「それは結構なことです」
「また、そうやって……!」
「お二人が愛し合っていることと、私に非があることは別です」
言葉にしてみると、ひどく単純な話だった。
アルバートが私を選ばなかったことは悲しい。
けれど、それで私の価値がなくなるわけではない。彼の不実の責任まで負う必要もない。
「エレノア嬢」
声を掛けてきたのは、生徒会副会長のクラウス・レーデン子爵令息だった。
騒ぎを聞きつけた教師を連れている。
「事情はおおよそ聞いていた。アルバートが君の腕を掴み、離さなかったことも、複数の者が見ている」
「それでも、殴ったのは私です」
「そこは後で正式に確認する。ただ、今はその手を冷やした方がいい」
クラウスは近くの給仕から、布に包まれた氷を受け取った。
「どうぞ」
「ありがとうございます」
右手に当てる。
冷たさが染みた。
「痛みますか?」
「かなり」
「そうでしょうね。殴り慣れている拳には見えない」
「初めて殴りました」
母が横から言う。
「最後であってほしいものです」
「努力いたします」
「努力では困ります」
アルバートが小さく呻いた。
リリアンが再び名を呼ぶ。
騎士に支えられながら、彼はゆっくり目を開けた。
「……エレノア」
「はい」
「君は……私を、殴ったのか」
「はい。申し訳ございません」
「信じられない……」
「私もです」
アルバートはまだ何か言おうとした。
口を開きかける。
私は無意識に、氷を持っていない左手を握った。
その瞬間、アルバートの肩を支えていた騎士が一歩身を引いた。
クラウスも私とアルバートの間へ入る。
母は私の左手を両手で包んだ。
「エレノア。次はありませんよ」
「分かっております」
アルバートは口を閉じた。
ようやく静かになった。
それからのことは、思ったほど大事にはならなかった。
アルバートが私の腕を掴んで離さず、私が何度も立ち去ろうとしていたことは、周囲の証言で確認された。
婚約破棄についてはアルバート側の有責。暴力については、私が謝罪し、治療費を負担することで話はまとまった。
父は話を聞き終えると、長く黙ったあとで言った。
「なぜ左ではなく右で殴った」
「そこですか?」
「右手は文字を書く手だろう」
母と同じようなことを言う。
「次からは左にしなさい」
「次はないようにと言われました」
「そうか。それが一番だな」
父は笑いを堪えるように口元を押さえた。
婚約が正式に解消されてから一月ほど経った頃、クラウスが屋敷を訪ねてきた。
アルバートの治療費に関する書類を届けに来たのだという。
「顎はもう治ったそうです」
「それはよかったです」
「ただ、以前より口数が減ったとか」
「それもよかったのでは?」
言ったあとで、少し意地が悪かったと思った。
クラウスは声を上げて笑った。
「失礼。エレノア嬢は、もっと冗談を言わない方だと思っていました」
「私もそう思っていました」
使用人が茶を運んでくる。
焼き菓子の皿も置かれた。
私は一つ取ろうとして、まだわずかに痛む右手を止めた。
クラウスが皿をこちらへ寄せる。
「どうぞ」
「ありがとうございます」
「無理におとなしくする必要はないと思いますよ」
「ですが、殴るのはよくありません」
「それはそうです」
即答された。
「次は言葉でお願いします」
「善処いたします」
「また努力に近い言葉ですね」
私たちは顔を見合わせた。
今度は、私も笑った。
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