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恋愛小説のはずでした

元婚約者があまりにもしつこいので、つい顎を打ち抜いてしまいました

作者: 堀吉 蔵人
掲載日:2026/07/19

「婚約は破棄する」


 王立学園の卒業記念夜会で、アルバート・メルディン伯爵令息はそう言った。


 声はよく通った。


 楽団がちょうど一曲を終えたところだったので、広間にいたほとんどの者が聞いたと思う。


 私――エレノア・ハーグレイ侯爵令嬢は、手にしていた果実酒のグラスを給仕へ渡した。


「承知いたしました」


「……何?」


「婚約破棄を承知したと申し上げました」


 アルバートは、予想していなかったような顔をした。


 彼の隣には、桃色のドレスを着た令嬢が立っている。


 リリアン・モース男爵令嬢。


 この一年ほど、アルバートが熱心に世話を焼いていた相手だった。


 リリアンは両手を胸元で組み、困ったように眉を下げている。


「エレノア様、どうかアルバート様を責めないでください。私たちは、その……気持ちを抑えられなかっただけなのです」


「責めておりません」


「ですが、きっとお怒りでしょう?」


「いいえ」


「無理をなさらなくても……」


「無理もしておりません」


 私はもう一度、給仕の持つ盆へ目を向けた。


 果実酒を返したばかりだが、今度は水が欲しかった。


 喉が乾いていた。


 けれど、アルバートが私の前へ一歩出た。


「待て。話はまだ終わっていない」


「婚約は破棄されるのでしょう?」


「そうだ」


「私も承知しました。両家への説明は、後日父を通して行わせます」


 それで終わりだと思った。


 少なくとも、私の中では終わっていた。


 アルバートがリリアンと親しくなったことは知っていたし、二人で庭園を歩いているところも何度か見た。


 問いただしたこともある。


 そのたびに彼は、リリアンは学園に不慣れだから助けているだけだと言った。


 私は信じようとした。


 婚約は家同士のものだから、多少気が合わないことがあっても、話し合って折り合いをつけるものだと思っていた。


 だから礼儀を守った。


 彼の好みに合わせて、夜会では派手すぎる色を避けた。


 彼の母君が甘いものを好まないと聞けば、贈り物には茶葉を選んだ。


 彼が剣術大会に出る日は、早朝から応援席へ向かった。


 アルバートは一度も優勝しなかったが、私は最後まで見ていた。


 それも、今夜で終わる。


 悲しくないわけではない。


 だが、泣き叫んで縋るほどでもなかった。


「エレノア」


「何でしょう」


「君は、自分がなぜ婚約を破棄されたのか分かっているのか?」


 その質問に、少し迷った。


「アルバート様が、リリアン様を選ばれたからでは?」


「それだけではない」


 アルバートは眉間に皺を寄せた。


「君には可愛げがない」


 近くにいた誰かが、小さく息を呑んだ。


 私は自分の手袋を見た。


 淡い灰色の絹手袋。


 今朝、侍女のマルタが新しいものを出してくれた。


 左手の中指、その縫い目が少しだけ曲がっている。


「そうですか」


「そうですか、ではない」


「ほかに何と申し上げればよいのでしょう」


「そういうところだ!」


 アルバートの声が大きくなった。


 広間の端にいた者まで、こちらを振り返った。


「君はいつも冷静で、何を考えているか分からない。婚約者の私にさえ弱みを見せない。リリアンは違う。彼女は素直で、よく笑い、悲しいときには涙を見せる」


 隣でリリアンが、実演するように目を潤ませた。


「アルバート様……」


「君は少し、彼女を見習うべきだった」


「今後は婚約者ではありませんので、その必要もないかと存じます」


「またそれだ!」


 私は給仕を探した。


 先ほどの者は、騒ぎを避けるためか遠くへ行ってしまっていた。


 喉が乾く。


「エレノア様」


 リリアンが一歩前へ出た。


「私、あなたからアルバート様を奪うつもりではなかったんです」


「そうですか」


「ただ、アルバート様がおつらそうで……。婚約者なのに、あなたがあまりにも冷たいから」


「そうですか」


「ですから、私はお話を聞いていただけで」


「そうですか」


 リリアンの眉尻がわずかに動いた。


「それしか、おっしゃらないのですか?」


「何をお望みですか?」


「私に、怒ったりしないのですか?」


「怒ってほしいのですか?」


「そういうわけでは……」


「では、これで失礼いたします」


 私は二人に頭を下げた。


 背を向ける。


 母は広間の反対側にいるはずだった。


 早く合流して、帰りたかった。


「待てと言っているだろう!」


 腕を掴まれた。


 アルバートの指が、手袋越しに食い込んだ。


 私は足を止めた。


「離してください」


「まだ私の話は終わっていない」


「婚約は破棄されたのでしょう。もう私の腕を掴む理由はありません」


「最後まで人を見下すのか」


「見下しておりません」


「なら、こちらを見ろ!」


 腕を引かれ、無理やり振り向かされた。


 踵が床を擦った。


 磨き上げられた大理石に、靴底の短い音が響く。


 アルバートの顔が近かった。


 酒を飲んでいるのだろう。頬が少し赤い。


 昔は、その顔を美しいと思っていた。


 金色の髪も、青い瞳も、整った鼻筋も。


 今はただ、近いと思った。


「アルバート様。手を離してください」


「まず謝罪しろ」


「何についてでしょう」


「私を苦しめたことだ」


 私は聞き間違えたのかと思った。


「私が、あなたを?」


「そうだ。君がもっと婚約者らしく振る舞っていれば、私はリリアンに心を奪われることなどなかった」


 周囲が静かになった。


 遠くで楽団員が譜面をめくる音まで聞こえた。


「あなたがリリアン様を選ばれたのは、私の責任だと?」


「すべてとは言わない。だが、君にも非はある」


「そうですか」


「だから、その言い方をやめろ!」


 アルバートの指に、さらに力が入った。


 痛い。


 だが、ここで声を荒らげれば、彼はきっと満足するのだろう。


 ようやく感情を見せた。


 ようやく自分を愛していたと証明した。


 そう思うのだろう。


 だから私は息を吸った。


「アルバート様」


「何だ」


「私は、あなたがリリアン様を選んだことについて、謝罪いたしません」


「まだ分からないのか」


「分かりたくもありません」


 初めて、アルバートが黙った。


 私も少し驚いた。


 思ったより強い言葉が出た。


「エレノア様、そんな言い方……」


 リリアンが口を挟む。


「アルバート様は、あなたにも変わる機会をくださっているんです。これから先、同じ失敗をしないように」


「婚約破棄をしたあとに?」


「だからこそです」


「なるほど。ずいぶん親切な方々なのですね」


 誰かが咳払いをした。


 笑いを誤魔化したようにも聞こえた。


 アルバートの顔がさらに赤くなる。


「人が真剣に話しているのに、皮肉を言うな」


「では、真剣に申し上げます。腕を離してください」


「謝罪が先だ。自分の非を認めろ」


「いたしません」


「可愛げがないと言っているのが、まだ分からないのか!」


「分かっております」


「なら直せ!」


「あなたのために?」


「そうだ!」


「もう婚約者ではないのに?」


 アルバートが詰まった。


 だが、すぐに言い返した。


「将来、別の相手を得るためだ。今のままでは誰からも愛されない」


 その言葉は、思っていたより深く入った。


 痛い、と感じた。


 腕ではなく、胸の奥が。


 私はこの人と十年近く婚約していた。


 幼い頃、彼が池へ落とした木彫りの馬を、一緒に探した。


 十二歳のとき、彼が熱を出せば見舞いへ行った。


 十五歳の誕生日には、青い刺繍の入った剣帯を贈った。


 似合わないと言われたので、それ以来、手作りの物は贈っていない。


 それでも私は、いつか夫婦になるのだと思っていた。


 愛されているとまでは思わなかった。


 だが、長い時間を過ごした相手として、少しは大事にされていると思っていた。


「誰からも愛されない」


 アルバートは繰り返した。


「君は、そういう女だ」


 私の中で、何かがぷつりと切れた。


 腕を振りほどこうとした。


 しかし、アルバートは離さなかった。


「逃げるのか」


「離してください」


「まだ話は終わっていない」


「私の話は終わっています」


「君は昔からそうだ。都合が悪くなると黙る。侯爵家の娘だから、皆が自分に従うと思っている。君の父親も――」


 父のことまで言い始めた。


 私の父は、アルバートが剣術大会で負けるたびに、若いのだから次があると励ましていた。


 彼の家が洪水で領地経営に困ったとき、支援を取りまとめたのも父だった。


「父は関係ありません」


「関係ある。君をそんな傲慢な女に育てたのは――」


 次の瞬間。


 視界の中で、アルバートの顎が跳ね上がった。


 ごつ、と鈍い音がした。


 私の右拳には、硬いものを殴った感触が残っていた。


 アルバートの足が床から離れたように見えた。


 実際には、少し浮いただけだと思う。


 けれど、彼は見事なほど真っすぐ後ろへ倒れた。


 リリアンが悲鳴を上げる。


 広間中が静まり返った。


 私は右手を胸元へ引き寄せた。


 痛い。


 信じられないくらい痛い。


「……殴ってしまいました」


 誰に言うでもなく呟いた。


 床に倒れたアルバートは、口を半分開けたまま動かない。


 死んではいない。


 たぶん。


「エレノア!」


 母が人垣をかき分けて駆け寄ってきた。


「あなた、今、何をしたの?」


「顎を」


「それは見れば分かります!」


「つい……」


「ついで人の顎を打ち抜く令嬢がどこにいますか!」


 ここにおります、と答えかけてやめた。


 母は倒れたアルバートを確認し、それから私の手を取った。


「まあ、腫れているではありませんか」


「お母様、そちらなのですか?」


「当たり前でしょう。あなたの手は一つしかないのですよ」


 周囲の誰かが、堪えきれず吹き出した。


 それをきっかけに、ざわめきが戻ってくる。


 警備の騎士が駆け寄り、アルバートの様子を確かめた。


「気を失っているだけです」


「そうですか」


 私はほっとした。


 母が眉を吊り上げる。


「安心している場合ではありません。あなたは侯爵令嬢として、伯爵令息を殴ったのですよ」


「はい」


「卒業記念夜会の真ん中で」


「はい」


「大勢の前で」


「はい」


「しかも、婚約破棄を宣言された直後に」


「それについては誤解です。婚約破棄そのものは受け入れました」


「そこを律儀に訂正しなくてよろしい」


 リリアンが床に膝をつき、アルバートの肩を揺さぶっている。


「アルバート様! しっかりしてください! なんてひどいことを……」


 彼女は私を睨みつけた。


「暴力を振るうなんて、最低です!」


「その点については、その通りです」


「え?」


「殴ったことについては、謝罪いたします」


 私は倒れているアルバートへ頭を下げた。


「アルバート様。目を覚まされたら、治療費と慰謝料について話し合いましょう」


「それだけですか?」


「ほかに何か?」


「あなた、アルバート様にあれほどひどいことをして……」


 ひどいこと。


 確かに、殴ったのはひどい。


 それは認める。


 私はもう一度、アルバートを見た。


 顎が少し赤くなっている。


 目を覚ましたら、かなり痛むだろう。


「ですから、殴ったことは謝罪します」


 私はリリアンへ向き直った。


「ですが、彼が私に言ったことまで正しかったことにはなりません」


「何ですって?」


「あなたもです。婚約者のいる男性と親しくなり、その婚約が破棄された場で、捨てられた側へ反省を求める。その振る舞いを、私は正しいとは思いません」


 リリアンの顔が強張った。


「私たちは愛し合っているのよ」


「それは結構なことです」


「また、そうやって……!」


「お二人が愛し合っていることと、私に非があることは別です」


 言葉にしてみると、ひどく単純な話だった。


 アルバートが私を選ばなかったことは悲しい。


 けれど、それで私の価値がなくなるわけではない。彼の不実の責任まで負う必要もない。


「エレノア嬢」


 声を掛けてきたのは、生徒会副会長のクラウス・レーデン子爵令息だった。


 騒ぎを聞きつけた教師を連れている。


「事情はおおよそ聞いていた。アルバートが君の腕を掴み、離さなかったことも、複数の者が見ている」


「それでも、殴ったのは私です」


「そこは後で正式に確認する。ただ、今はその手を冷やした方がいい」


 クラウスは近くの給仕から、布に包まれた氷を受け取った。


「どうぞ」


「ありがとうございます」


 右手に当てる。


 冷たさが染みた。


「痛みますか?」


「かなり」


「そうでしょうね。殴り慣れている拳には見えない」


「初めて殴りました」


 母が横から言う。


「最後であってほしいものです」


「努力いたします」


「努力では困ります」


 アルバートが小さく呻いた。


 リリアンが再び名を呼ぶ。


 騎士に支えられながら、彼はゆっくり目を開けた。


「……エレノア」


「はい」


「君は……私を、殴ったのか」


「はい。申し訳ございません」


「信じられない……」


「私もです」


 アルバートはまだ何か言おうとした。


 口を開きかける。


 私は無意識に、氷を持っていない左手を握った。


 その瞬間、アルバートの肩を支えていた騎士が一歩身を引いた。


 クラウスも私とアルバートの間へ入る。


 母は私の左手を両手で包んだ。


「エレノア。次はありませんよ」


「分かっております」


 アルバートは口を閉じた。


 ようやく静かになった。


 それからのことは、思ったほど大事にはならなかった。


 アルバートが私の腕を掴んで離さず、私が何度も立ち去ろうとしていたことは、周囲の証言で確認された。


 婚約破棄についてはアルバート側の有責。暴力については、私が謝罪し、治療費を負担することで話はまとまった。


 父は話を聞き終えると、長く黙ったあとで言った。


「なぜ左ではなく右で殴った」


「そこですか?」


「右手は文字を書く手だろう」


 母と同じようなことを言う。


「次からは左にしなさい」


「次はないようにと言われました」


「そうか。それが一番だな」


 父は笑いを堪えるように口元を押さえた。


 婚約が正式に解消されてから一月ほど経った頃、クラウスが屋敷を訪ねてきた。


 アルバートの治療費に関する書類を届けに来たのだという。


「顎はもう治ったそうです」


「それはよかったです」


「ただ、以前より口数が減ったとか」


「それもよかったのでは?」


 言ったあとで、少し意地が悪かったと思った。


 クラウスは声を上げて笑った。


「失礼。エレノア嬢は、もっと冗談を言わない方だと思っていました」


「私もそう思っていました」


 使用人が茶を運んでくる。


 焼き菓子の皿も置かれた。


 私は一つ取ろうとして、まだわずかに痛む右手を止めた。


 クラウスが皿をこちらへ寄せる。


「どうぞ」


「ありがとうございます」


「無理におとなしくする必要はないと思いますよ」


「ですが、殴るのはよくありません」


「それはそうです」


 即答された。


「次は言葉でお願いします」


「善処いたします」


「また努力に近い言葉ですね」


 私たちは顔を見合わせた。


 今度は、私も笑った。

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横からなのか下からなのか、とワクワクして読んでました。 しかし先に暴力を振るったのはアルバートだからエレノアは謝罪する必要も治療費を支払う必要もなかったんじゃない? それも家の身分が下のくせに浮気して…
なんと言っても両親が最高w
伯爵令息かい!あらすじ読んで公爵令息かと思った。 伯爵令息が侯爵を侮辱したのだから治療費よりも逆に打首もんでしょ。 完全に伯爵家は潰されたな・・・
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