第26話 滅亡に瀕す 後
神殿の屋根の下に避難した瞬間、目の前を覆うほどの大雨が滝のように降ってきた。
雨粒自体も大きいのに、その量たるや、あっという間に地面が波打つほど。
「これは、止むまで身動き取れそうにないぞ!」
バドの声すらも打ち消す雨音の激しさに、リオネルが顔を顰めていると、突然エルヴィナの膝が崩れた。
「っエリー⁉︎」
脇から抱くようにして咄嗟にリオネルが肩を抱き、エルヴィナの体は倒れるのを免れたものの、手からはタブレットが滑り落ち――ガシャンと派手な音を立てた。
バドが気づき慌てて拾い上げると、板状のボディはかろうじて無事だが、表面が見事にひび割れている。
「ド派手に割れちまった……」
タブレットを手に困惑するバドと、動揺して名前を呼び続けるリオネル。
「エリー! エリー!」
「あ……う……」
うっすらと意識があるエルヴィナは、大丈夫だと言おうとして口を開くが、言葉にならない。
視界がぼんやりと霞がかって、全身に力が入らない。もしや、タブレットを起動していた時に感じていた違和感は――
「おい、エルヴィナっ! リオ、こいつ一体、どうしちまったんだ!」
「分かりません! とにかく中へ!」
リオネルはエルヴィナを横抱きにすると、神殿内へ続く扉を開けるようバドを促す。
「どこか、寝かせられる場所は⁉︎」
「あーっと神官の仮眠室がある!」
リオネルを先導して早歩きをするバドの背中を目標に、なんとかエルヴィナは目をこじ開けている。だが、どれだけ必死に瞼へ力を入れても、容赦なく降りてくるのに抗えない。
(なんで、急に力が抜けちゃったのかしら。倒れている暇なんか、ないのに)
歯痒さばかりが、胸に募る。
耳には、ザーザーという音が聞こえている。人々の喧騒なのか、雨の降る音なのか。判断がつかない。
(力が……)
『いいの、エルヴィナ。目を閉じて。身を任せて』
(その声は……アクア?)
『うん。わたしがいるから。大丈夫だよ』
(ごめんね、タブレット、割れちゃった)
『大丈夫。わたしを信じて。目を閉じて』
(目を、閉じる……)
エルヴィナの意識は、やがて深い水の底へ沈んでいくように、真っ暗な中へゆっくりと落ちていった。
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気がつくと、エルヴィナは建物の中に立っていた。
太く長く白い柱がいくつも立ち並ぶ空間は、とても静かだ。
ここはどこだろうとキョロキョロ首を巡らせると、見覚えのある場所だと気づく。
ところどころ、柱に刻まれた竜の浮き彫りが淡く光り、床に映る水面のような波紋が揺れる。
誰の足音も、何の物音もしない。美しく整いすぎた静寂が、不気味に背筋を撫でたその時――
「ふぉふぉふぉ、まいったのぉ」
エルヴィナは、その声の主の名前を反射的に叫んでいた。
「ヤーム!」
(やっぱり、ヤームが竜神様だった!)
エルヴィナは、自分をこの世界に呼んだのがヤームであると確信した。
ところが、声だけで姿は見えない。
「どこにいるの⁉︎」
「おぬしの予想通りの場所、だと思うがのぅ」
その時、エルヴィナの脳裏にまざまざと蘇ったのは、ノインベルクで見たタブレットのポップアップウインドウだ。
「あの時の国境監視アラートは……ランダン山脈の麓の森! もしかして、『魔力の大きな乱れを検知』って出たのは、帝国がヤームに何かした時だったってこと⁉︎」
エルヴィナの問いかけに、ヤームは笑い声を上げた。
「ふぉふぉふぉ! 小島を歩いていたら、捕らえられてしまってのぉ。さすがのわしも、不意打ちをくらっては抗いきれんかった。年かのぉ?」
「笑ってる場合じゃないでしょ! 世界の危機だよ⁉︎ 神鏡が奪われて、すごい嵐が来て。どうしたらいいの⁉︎」
焦るエルヴィナは、その場でぐるぐると歩き始めた。両腕を組んで、首を左右に捻りながら歩く。脳の中の記憶や知識を、こねるように。
「神鏡を元に戻せばいいのかしら……それなら、皇女を追いかけないと……でも、日が落ちちゃったら……」
懸命に、何か良い手段はないものかと、ぐるぐる考え続ける。そんなエルヴィナの思考を、ヤームの穏やかな声が遮った。
「だがのぅ。おぬし、しばらく起きれんぞい」
「はい⁉︎ なぜ⁉︎」
そういえば、意識を失ったんだった、と我に返る。アクアがそのまま目を閉じろと言っていたが、この場所に導いただけだと思っていた。
「魔力が、尽きたのじゃ」
「ええ⁉︎ 魔力なんて使った覚え、ない……魔法とか、できないしっ」
「何を言っておるのやら。タブレットを使い続けていたじゃろうに」
「うっ」
そういえば、タブレットを操作する時間は、以前より格段に長引いていた自覚がある。
起動したまま山登りをしたり、泉を探したり、シュタイン公の居場所を探したり。
結構、いやかなり酷使していたかもしれない。
「呆れたのぉ。しかもタブレットの中には、アクアが住んでおった。力を失っていた精霊を、おぬしの魔力で養ってたのと同じじゃよ」
「養って……え、まさか」
最近、体がだるくなることが多かった。疲労が溜まっているとばかり思っていたが――
「タブレットの画面がすぐ暗くなってたのって、わたくしの魔力不足?」
「そうじゃ」
「うっ、なるほど……魔力って、戻るものなのかしら?」
エルヴィナの問いに、ヤームは答えない。
シン、としばらくの間、静寂が訪れた。
「ヤーム?」
突然返事をしなくなったのは、彼の身に何かが起きたからではないか。
不安に駆られて、エルヴィナは何度も叫ぶ。
「ヤーム! ヤームってば!」
大声を出してみるが、ぐわわんと耳鳴りがしただけだった。
「ヤーム……何かあったの……?」
すると突然、ミシリ、と鈍い音がする。
それから、ゴゴゴゴと床が波打ち始めた。
「え……」
左右に並んで立っている太くて白い柱に、ビシビシとひびが入っていく。
あれほど美しかった竜の浮き彫りが、ガタガタになっている。
水面のような波紋が光る床も同様に、あちこちひび割れていく。
ガラララ……。
何かが崩れた音がした。
「ヤームッ!」
悲鳴にも似たエルヴィナの声と正反対に、のんびりした魔法使いの声が、再び聞こえてくる。
「ふうむ。試しに、少しだけわしの魔力を分け与えてみたんじゃが。起き上がれるようになった代わりに、どうやらわしがこの場所を維持する力が、なくなってしまったようだのぅ」
薄暗かった天井に走る割れ目が、少しずつ広がっている。
そこから入ってきた明るい光が、脈状に走る線を、床にいくつも描いていく。
「この場所が、なくなる……起きたら、自分で何とかしなくちゃ」
生まれ変わる時、力を貸すと約束したのに――エルヴィナは、無力感に苛まれた。
「でもどうすれば! 神恩ポイントだって、ぜんっぜん足りなかった! 毎日参拝して、コツコツ貯めたのに……絶対設計ミスだよ! やっぱ押し付け商材じゃん!」
エルヴィナはすっかり『森恵理』に戻っていた。
「焦るでない、エルヴィナよ。おぬしはたった一人でこの世界に来たが、今は違うじゃろう」
ヤームに諭され、エルヴィナは必死に深呼吸を繰り返し、気持ちを落ち着ける努力をする。
「そうですね、仲間がいますねっ。ありがたいことに、契約上の夫もね!」
「ふぉふぉふぉ。そうじゃ。特別なことは何もいらぬ。ただおぬしらしくあれば良い。さすれば世界は救われるであろう」
いよいよ目の前が、真っ白くなる。
「わたくし、らしく……?」
そういえば、確かにそんなことを言われたなと思い出す。
――リー! エリー!
――エルヴィナ!
「ふぉふぉふぉ。仲間が呼んでおる。おぬしらが迎えにくるのを、楽しみに待っておるぞ」
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瞼を持ち上げたエルヴィナの目に映ったのは、リオネルの緑色の目だった。
「リ、オ……?」
「ああ! エリー! 良かった……」
右手が熱い。しかも少し圧迫感がある、と思ったエルヴィナが首を少し動かすと、リオネルが両手で握りしめているのが見えた。
ベッドの上に両肘を突いていたリオネルは、エルヴィナから手を離し上体を起こした。それから、いつもきっちり結ばれている黒髪の乱れを、直す。
「あの、ここは」
「神官の仮眠室です。先ほど七の鐘が鳴ったところですよ」
ということは、次の鐘の頃には橋を渡れるはずだが、雨はどうなっただろうか。
起きようと身じろぎをしたエルヴィナを、リオネルは止めた。
「気絶からいきなり起き上がるのは、危ないですよ。もう少し休みましょう。メグが、軽食と着替えを取りに行っています」
「っですが!」
ヤームと夢の中で会話をした、などとは言いづらい。
「……実は夢の中で、お告げ? があったのです!」
リオネルが真剣な眼差しを向ける。幾度となくタブレットの『占い』が当たってきたエルヴィナであるから、信じてくれている様子だ。
「ノインベルクに滞在中、ランダン山脈の麓に、魔力の乱れあり、とタブレットの占いが出たことがあったのですが」
「まさか、エメ皇女はそこに向かった?」
さすが、話が早い――エルヴィナは、思わず眉尻を下げる。
「おそらく」
「分かりました。王宮へはもちろん、シュタイン公にも連絡をしましょう。ですがこの嵐です。追いかけようもない」
「嵐は、収まっていないのですか」
「ええ。収まるどころかひどくなっています」
リオネルの言葉に呼応するかのように、一層激しい雷と風の音が、鳴り響いた。
すると、軽いノック音の後で、バドとメグが入ってくる。バドは大きめな籐の籠を持っていて、メグは両腕で抱くように衣服を抱えていた。
「お、目が覚めたか!」
「ああああ良かったですうぅぅ。パンとお着替え、持ってきましたぁあ!」
エルヴィナは、三人の顔をそれぞれ見つめてから、微笑んだ。
耳の奥で、再びヤームの声がしたからだ。
『エルヴィナよ。おぬしはたった一人でこの世界に来たが、今は違うじゃろう』
「仲間がいる……ほんとね」
「エリー?」
「確かめたいことがあるのです。神鏡の伝説について、誰か知っている?」
「神鏡? はい! 竜神神殿の成り立ちですね! もちろんですっ」
メグはさすが竜神オタクだ。勢いよく手を挙げ、何度もうんうん頷いている。
「良かった。どういうお話か、教えて? パンを食べながら、聞くわ」
途端にバドが慌て出す。
「おいメグ、それ、門外不出の……その話どっから聞いた?」
「それはもう、神殿騎士さんたちに、上目遣いで!」
「ああ⁉︎ マジかよ……」
バドが額に手を当てるのと同時に、リオネルが苦笑する。
「とりあえず、情報漏洩の件は脇に置いておきましょう、バド。エリーが夢の中でお告げを聞いたそうです。神鏡のことを聞いてから、これからのことを決めましょう」
建物の外には、今にも世界が滅びそうなぐらいに、大きな雷と風の音が響き渡っているが――この冷静な宰相がいれば、なんとかなるかもしれない。
エルヴィナは安心感とともに、強く頷いた。




