第25話 滅亡に瀕す 前
神殿の外壁から数歩離れた場所で、エルヴィナはリオネルと共に空を見上げている。
「あの辺り……まるで穴が空いているみたいですわ……」
エルヴィナの人差し指が指す先を、リオネルは眉根を寄せて凝視した後で、首を横に振った。
「残念ながら、私には雲しか見えないですね」
いつもなら、神殿を優しく覆っているような見事な模様が、歪んでいる。まるで何かに無理やり引き裂かれたように。
もしかして、この一箇所だけでなかったら――エルヴィナの心に、みるみる不安が湧き上がる。
「そうなのですね……他にもそのような箇所がないか、見て回っても良いでしょうか?」
するとリオネルは、すぐさま首を縦に振った。
「一緒に行きます。散歩をするのは自由ですからね。ただ、やはり天気が崩れそうです。なるべく急ぎましょう」
「はい!」
ゴロゴロ、と雷鳴が近づいている気配がする。
下手をすれば、雨が降ってくるかもしれない。そうなれば、皇女の目論見通りになってしまう。
エルヴィナは、歩き慣れた道を躊躇いなく進む。
巡回の神殿騎士たちは、空模様が怪しくなってきたのを見て、雨に備えはじめた。窓を閉めたり、外に出ている道具をしまったりと、忙しなく動いている。
慌ただしい雰囲気の中、散歩をする宰相夫妻を気にする者は、いない。だからかリオネルは、爆弾発言を落とした。
「エリー。これは私の個人的な推測に過ぎませんが。大神官殿は、ご家族を人質にされているのではと」
湿り気を帯びた風が頬を撫でる中、ひゅっとエルヴィナの息は止まり、必然、足も止まる。
「そんな……」
「帝国内にも、竜神様の像を祀った礼拝堂が何箇所かあるのですが。確かそのうちの一箇所に、大神官殿のご息女が滞在している、と耳にしたことがあります」
「それがもしも本当だとしたら、なんてことをっ」
エルヴィナの拳が、怒りに震えてくる。
「信じたくはありませんが。ご息女は、少しでもお役に立ちたい思いで、遠い土地に赴いたはずですからね」
リオネルの声音は、静かだが凄みがあった。
「ジャルダンと帝国が、もし山脈に隔たれていなかったら。あっという間に帝国に飲み込まれていたことでしょう。そうすれば必然的にこの小島も」
「山脈で、隔たれ……!」
エルヴィナの背に、電流が走るような感覚がある。ビリビリと駆け抜けたのは、リオネルの言葉で導き出された、閃きだ。
拳だけでなく、全身がガタガタと震え出したエルヴィナを見て、リオネルの手が宙を泳いだ。それから躊躇いがちに、そっとエルヴィナの両肩の上に置かれる。
「そんなに震えて……どうしたのですか」
「リオ……」
――山脈が、なかったら。
ノインベルクは、台風により山崩れが起きていた。木々が薙ぎ倒され、地形が変わり――
エルヴィナは、間近で心配そうに瞬く緑色の目を、絶望と共に見上げた。
「……わたくし、最悪な想定が頭に浮かびましたわ」
「最悪な、想定?」
リオネルがエルヴィナを見返す表情は、真剣そのものだ。そこには確かに、今まで築いてきた信頼があり、エルヴィナは自身の直感を躊躇いなく口に出す決意ができた。
「はい。あくまでわたくしの、勝手な推測です。けれども……帝国が欲しているのが、水なんかじゃないとしたら」
「水じゃない? ですが帝国民が水不足に苦しんでいるからこそ、皇女は水の巫女などと嘯いて」
「水不足なのは確かでしょう。でも強欲な帝国が、はたして巫女の雨乞いなんかで満足するでしょうか。神殿で祈って、雨が降ったとて」
「それは……」
肩から手を離し、悩ましげに顎へ拳を当てる宰相に向かって、エルヴィナはキッパリと告げる。
「山崩し、ですわ。嵐を、地形を――すべてを壊す力を、帝国は利用しようとしているのです」
「山崩し……!」
目を見開くリオネルに、エルヴィナは大きな確信でもって、一度だけ強く頷く。
「ノインベルクの様子、覚えてらっしゃるでしょう。地形が変わるほどの土砂崩れは、間違いなく台風の影響です。御神体を持ち出せば『世界は風の盾を失い、大嵐に飲まれます』とタブレットは警告しました。すなわち、その場所で暴風雨が吹き荒れる」
「エリー。大変に恐ろしい推測です。帝国は、そうしてまでこちらへ支配の手を伸ばそうと……こうしてはいられない、御神体を探して元に戻さねば!」
ざっと砂を蹴って神殿に戻り始めたリオネルの背中を、エルヴィナは焦って追いかける。
「でも! 神恩ポイントが足りませんっ」
「足りなくとも。探すのです。全力で。我々に、できることを」
「はいっ」
息を切らせて、主殿に戻ってきた二人に、遠くからバドが大きく手を振っている。
「バド!」
「どうしたっ」
駆け寄ると、長身の神殿騎士がギリギリと奥歯を噛み締めながら、悔しそうに語った。
「宝物庫から、神鏡が消えた。水の巫女もだ」
「宝物庫……竜神像の奥の小部屋ですね?」
「しんきょう、て?」
同時に尋ねた二人に向かって、バドは何度も細かく頷く。その仕草に、焦りが出ている。
「ああ。竜神様の魂が込められてるって言われてる、このぐらいの鏡だ」
バドは空中で手を動かし、形を示す。大体、エルヴィナの顎から鳩尾くらいまでの大きさで、丸いことが分かる。
「今、神殿騎士団は捜索に駆り出されてる。俺も身動き取れねえ」
神殿騎士団の対応からも、その神境こそ御神体に違いない――エルヴィナとリオネルは目を合わせ、頷きあった。
「まずいわね。結界が破れた今、きっと外へ持ち出したんだわ! モーリア橋は⁉︎」
「タイミングが悪すぎる。さっき海に沈んだところだ」
「っ次に渡れるのは、八の鐘! そんなんじゃ、追いつけないわ!」
現代でいう、約四時間後である。しかもその時は夕方。ということは、かろうじて渡れるかどうかの時刻だ。渡れたとしても、日が暮れ身動きが取れなくなる。相手は危険を省みず走り続けるだろうし、夜の闇に紛れられたら、見つけることすら困難になる。
「ちくしょう! やっぱ水の巫女って話は嘘かよ!」
「二人とも、落ち着きましょう。まずはモーリア卿へ、ゲートクリスタルから連絡を……⁉︎」
焦燥感に駆られる三人の頭上で、ゴオゴオと風が大きな音を立て始めた。
真っ黒な雲が、まるで世界の全てを巻き込むかのように、ぐるぐると渦巻いている。
渦巻きの中心では、ひっきりなしに横へ縦へ走る、稲光が見える。
「……大変だわ……嵐が来てしまった……」
地上では、ビョオビョオと唸る風が土埃を巻き上げ、バチバチと頬に当たって痛い。
鼻先に湿り気を感じたと同時に、ポツリと水が一滴、空から落ちてきた。
「まずい、建物の中へ!」
バドが焦った声で誘導したと同時に、空からは――大雨粒が怒涛の勢いで、降ってきた。
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「やった。やったわ」
帝国第一皇女エメ・ランジュレは、布で包んだ神鏡を両腕で抱き締めるようにして、馬車の中にいた。
「さあ急げ! 山の麓へ! 走れ!」
御者を煽るエメの声は、喜びに踊っている。
「捕らえてある魔法使いに! もうすぐ出番だと! 早馬で伝えろ!」
車体のすぐ横を走っていた護衛に向かって、エメが窓からそう叫ぶと、「は!」という覇気と共に彼は馬の尻に鞭を入れ、ものすごい速度で前へと走っていった。
「はは……これで陛下は、わたくしの存在を無視できない……!」
ランジュレ帝国第一皇女、エメ・ランジュレは、血の繋がった兄である愚鈍な皇子二人が、ただ男であるというだけで厚遇されるのに我慢がならなかった。
帝国民が水不足にあえいで命を失ったとて、皇族にとっては『虫が死んだ』ぐらいのものでしかない。
怠惰な皇帝は、贅沢な夜会を開くことができさえすれば満足である。
『民の声に遠慮して、帝城に来られない貴族がいるとな? 気に食わぬ。そのような者たちなど、殺してやろうか』
簡単に言ってのける皇帝は、真に恐ろしいのは弱き民だということを知らない。一人一人は弱くとも、暴動の鎮圧には時間を要するだろう。
皇帝の息の根を止めるには、何も騎士団を殲滅する必要はない。ただ城に潜り込んで寝首をかくだけならば、いくらでもやりようがある。
何よりも、税を納める民なくして、富はない。ただでさえ水不足で、作物が取れていないのだ。皇帝として行うべきは、夜会ではなく執政のはずだ。
『陛下。わたくしは、水の巫女です。必ずや竜神を連れ帰り、あの山ごと崩し、さらなる大地を陛下に捧げます』
エメは、甘い言葉で皇帝に何度も囁いた。竜神神話と、神殿にあるという御神体が起こした、奇跡の記録と共に。
帝国には、世界各地から取り寄せた竜神に関する様々な書物があり、その中にいくつもの“奇跡”が書かれていた。
中でもエメは『竜神神殿の成り立ち』を、利用してやろうと思いついたのである。
――神鏡は太陽光を反射することで不思議な力を放ち、岩山すらも丸ごと破壊した。
――このままでは、世界が壊れてしまうと慌てたある国の王が、神鏡に姿を写した途端、無尽蔵の魔力が宿った。王は強大な魔法使いとなり、さらに不死身となった。
――王の力を恐れ、また奪おうとした輩が神鏡を持ち去ると、暴風と嵐とが世界を覆い、大洪水で巨大な山々すら崩され地形が変わった。
ジャルダン王国の沿岸が弓形なのは、最後の一つが原因と言われている。
不死身となった魔法使いが、小島を利用して神鏡を封じる部屋を作り、さらに結界を敷くことで、世界は元の姿を取り戻した。
『その小島こそ、世界を平和に保つための楔である』という一文で、その書物は締め括られている。
やがて小島には、頑丈な建物が造られることになる。
暴風によって空へ巻き上げられる、周囲の波の様子が竜に似ていることから、その建物は『竜神神殿』と呼ばれ、崇められることとなった。
「はは。その魔法使いが、本当に居たのだからなあ。心底驚くとは、このようなことを言うのだろうな。ククク、あははは」
エメはこの伝承が事実である、と確信する。なぜなら――結界を司る魔法使いを、捕らえることができたからだ。つまりは、『神鏡さえあれば世界を壊せる』ということである。
「さあ。暴風と嵐よ。世界を覆い、巨大な山々を崩せ」
エメは、満足げな笑みを浮かべ、ひとりごちた。
「そして世界が滅ぶ前に、神鏡を封印せよ、ヤーム!」




