第16話 潜伏と、帝国の影
日没寸前。
「あああああお嬢様ああああああ!」
山を下りて町の宿屋に戻ると、メイドのメグが半泣きで飛び出してきた。
「心配かけてごめんね、メグ」
「おかえりなさいませ〜! ほんとにご無事で、よかったですうう……!」
ニクラスは夕食を共にどうかと誘ってくれたが、エルヴィナは疲労を理由に遠慮し、宿屋の玄関先で別れを告げた。
「……ああ、疲れた……」
前世では、営業活動で一日中歩きっぱなしが普通だった。
今世では、毎日竜神神殿のある小島に通っていて、体力には自信があった。
それでも山道は別物だった。違う筋肉が悲鳴を上げている。
部屋のソファに腰を下ろし、湯浴みの用意を頼んでいる間にお茶を一口。ほっと息をついたエルヴィナは、護衛のバドを見上げて微笑む。
「バドって、やっぱり化け物ね。装備も剣も背負ったまま登るんだもの」
「ん? まあ、仕事だしな。それより、宰相閣下があんなに動けるとは思わなかったよなあ」
「書類仕事ばかりなのに、意外だわ」
リオネルは今、自室でジャルダン王国からの書簡を確認しているはずだ。
いつもと違ってバドが硬い表情なのが気になったエルヴィナが、何かあったのか尋ねようとすると、先にバドが口を開いた。
「……なあ。あの時何話してたんだ?」
「え?」
「宰相閣下と。じゃれあってただけ、じゃないよな」
返事に困ったエルヴィナは、テーブルにソーサーをかちゃりと置いた。
「それがね……まだ……言えないの」
バドの真剣な眼差しに、言いかけて口をつぐむ。『癒しの泉』の復活。そしてアクアという水の精霊と、癒しの石の存在。
軽々しく語れる内容ではない。まずはリオネルの判断を仰ぎたい。扉を開けて入ってきてくれないかなと、無意識にそちらを見てしまう。
ふと視線を戻すと、バドと目が合った。
「バド?」
「あー……いや。無理に聞こうとは、思ってない」
「そうよね、ごめんね?」
「いや、気にするな。それにしても、行方不明はさすがにビビった。お前がやらかすのは、いつものことだけどさ」
幼馴染が、空気を変えようとしてくれていることは分かる。エルヴィナは、それに乗っかるだけだ。
「ちょっとー?」
「宰相夫人なんだからさ。少しはお淑やかにしたらどうだ」
「それは無理」
エルヴィナの即答に、バドがようやく「フハッ」と笑った。
「バド、これだけは言っておく。あなたがどうこうじゃないの。ただ、わたくしの判断では決められないだけ」
「……そうか。いや、その……その板がさ。なんつうか、気になっただけだから」
「あっ」
エルヴィナがいつも肌身離さず持っているタブレット。この中にアクアがいるのだ。もしリオネルの推測通りなら、バドもその存在に気づき始めているのかもしれない。
「俺からも、あとで閣下に聞いてみるさ」
「ええ。書類仕事を終えたら、こちらに来てくださるそうだから。バドも少し休んで?」
「おう」
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日がすっかり落ちた頃――。
コンコン、とノック音が鳴る。バドが応じると、疲労の色を隠しきれないリオネルが姿を現した。
「遅くなりました」
ソファへと促されたリオネルは、よほど疲れているのだろう、深いため息を吐く。メグがすばやくお茶の準備をし、バドは外の様子を確認して、静かに首を振った。誰もいないという合図だ。
ようやく、リオネルが口を開く。
「どうやら……シュタイン公は、この町の近くにいるようです」
予想外の言葉に、エルヴィナは真っ先に反論した。
「え⁉︎ でも、ニクラス様はそんなこと、一言も」
「ええ。私もおかしいと思って、いろいろ確認していたら遅くなってしまいました」
窓の外は真っ黒に塗りつぶされているかのような、夜の深い時間帯だ。エルヴィナはすでに湯浴みも軽食も済ませていたが、リオネルは登山時の服装のままである。
「ふう。さすがに疲れましたね」
眼鏡を外し眉間を指で揉むその仕草は、まるで厳しい商談帰りの営業マンのようで、エルヴィナは心から労いたくなった。
「お疲れ様でございます。ひと息お入れになって」
エルヴィナの気遣いの言葉で、リオネルはようやく湯気の立つ紅茶に口をつけた。
――しばしの沈黙の後。
エルヴィナは姿勢を正し、声を潜めて訊ねる。
「……それで、シュタイン公は、今どちらに?」
リオネルは目を伏せ、唇を噛み、少しだけ考えるような仕草をしてから答える。
「郊外の山あいにある療養小屋です。ごく一部の人間しか知りません」
「えっ、それって……?」
「療養と言えば聞こえはいいですが、実際は潜伏に近いですね」
息を呑むエルヴィナに、リオネルは補足する。
「ああ、怪我自体は大したことはないようです。ただ、帝国の使者が一度接触したという情報が」
「帝国……!」
ランジュレ帝国――。ジャルダン王国の西に広がる大国。ジャルダンのような国など、飲み込むのも容易い。しかし両国の間には幸い、巨大な山脈が横たわっている。
「……まさか。何か脅迫でもされたんですかね?」と、バドが目を細める。
「そう考えるのが妥当でしょう。だから息子にも居場所を明かさず、人里離れた場所に退いたに違いありません」
エルヴィナの口をついて出てきたのは、核心に近い単語だった。
「もしかして……『あの泉』のこと?」
リオネルがぴくりと片眉を動かすと、エルヴィナは力強く頷き返す。
「閣下。この二人は、わたくしが心から信頼している者たちです」
リオネルは、眼鏡の奥の緑色の目を細めた後で、ゆっくりと口を開いた。
「では……今から話すことは、絶対にここにいる人間以外に口外しない。良いですね?」
バドもメグも迷いなく頷いたのを見て、リオネルはさらに続ける。
「おそらくですが。帝国が狙っているのは、あの泉――癒しの泉か、水の精霊アクアの加護でしょう。ただし、確証はありません。シュタイン公から直接話を聞けるまでは……」
そこで、リオネルの声が低く落ちる。
「我がジャルダンの諜報部でも、ここまでが限界でした」
諜報部がある、という事実すら衝撃だったが、それよりも、エルヴィナの脳裏をある可能性がかすめる。
「まさか、泉が枯れたのって帝国が何か……」
「それは、まだ分かりません」
リオネルは、エルヴィナの発言を遮った。エルヴィナの焦りからだが、そうと決めつけるにはまだ時期尚早なのだろう。リオネルが渋々という態度で提案した。
「明日、訪ねてみますか。でも、ニクラス殿をどうするか」
「あら、閣下。わたくし、この魔導具を使って温泉を探すために山登りしたの、お忘れですの?」
「ああ、そうでしたね」
「新婚旅行なのですから、夫婦水入らずで温泉探しですわ〜! で」
「……ふむ、それならば多少強引でもなんとかなります」
すると、バドが盛大に溜息を吐く。
「バド、どうしたの?」
「まずは、信頼いただけたことに感謝を。それを踏まえて意見申し上げると……エルヴィナ。夫婦なのに『閣下』ってものすごく不自然だぞ? まあ、閣下の『エルヴィナ嬢』もですけどね。他人行儀です」
「「あ」」
「なんか呼び名考えた方がいいですよ。じゃ、山まで行く馬車の手配してきますんで」
言い捨てて部屋を出ていくバドの背中を見送りながら、エルヴィナは悩む。
(リオネル様、て呼ぶべき? 噛みそうなんだけど。リオネル。りおにぇりゅ。うぅ……無理ぽい)
眉根を寄せるエルヴィナに、メグもまた意を決した様子で発言した。
「あのあの。それより、私! 明日も! ひとり寂しくお留守番ですかぁああぁ!?」
一瞬、室内の空気が止まった。
「……メグ、ごめん。荷物番、お願いね」
「ひどいです〜〜〜〜!!」




