88.こき使われるローラン侯爵
竜神殿の主と人々から呼ばれるのは守護竜カイザーは人の世界で300年生きている。そんなカイザーにとって竜王国の天啓は初めてのことではない。
ただ彼の頭を悩ませるのは、人の腹から竜たちの存在だった。人の腹から生まれた竜は人と等しく脆弱で、その命も長くない。だというのに彼らは、人とは違い、人ではないモノを家族のように慕い思いやる心を持つ。
だからカイザーは、セレンティーヌから向けられた見舞いたいという願いを偽りの説明で潰した。
守護竜である以上、天啓を阻害することは認められない。だが守護竜という理由で彼女を拒絶することはカイザーにはできなかった。
そうすることで幼い彼女に嫌われてしまうのが恐ろしかったからだ。
だからこそ竜王の名の一部を与えられた彼が現れた時、カイザーは己の罪の深さを認識した。幼いセレンティーヌに向けた虚偽が大きくなり帝国まで届いてしまったのだと。
だがかつてこの竜神殿で生まれた彼は、母親譲りの優しい笑顔を見せる。
「闇竜を片付けに来たついでに、こちらへ立ち寄れと父が言っておりました」
「ノワール・ブレストン殿が?」
「ええ、こちらの近衛騎士団長殿のご子息であるミシェル・ディランは戦神ロールグレンの生まれ変わりなんです。そしてまだ幼いミシェルを助けるために、戦神の意識と言いますか父が出てくることがあります」
そう語るカイン・ブレストンに嘘偽りはなさそうだ。ただだとするなら、カインを寄越した理由もカイザーが向けた虚偽とは別のところにあるのか。そう考えながらもチラリと近衛騎士団長ルクス・ディランを見れば、彼はひとつうなずき背を向けてくれた。
それを聞かぬふりをしてくれるという意思表示ととったカイザーは思わず息を吐き出す。
「これは竜王国においてはさほど重要なことではない。天啓が降りて竜王が次の代を産むことは、1000年の間に何度もあったことだからな」
「しかし陛下はともかく、卵は何よりも弱いのですよね。しかもいまは王立学園に魔女がいて、彼女は竜を殺害し闇竜にしてしまうほどの魔力を持つ」
そう告げながらカインが出したのは表面が黒く焦げた鱗だった。その内側の緑色を見ながらカイザーは痛ましさに絶句し目を見開く。
「灰にならず残った骸は宰相閣下が消滅させてくださいました」
「そうか……」
カインから鱗を受け取り指で触れれば、焦げた表側は細かい傷がついている。燃やされる以外も多くの攻撃を受けたのだろう。
その痛々しい鱗を胸にかき抱いたカイザーは目を細める。
「セレンティーヌには申し訳ないことをした。あの子は素直に竜王を心配し見舞いをと言ってくれたのだ。だがあの子が過ごしている王立学園には穢れた者もいる。だから断るしかなかった」
「カイザー様の判断は間違っていません。セレンティーヌはつらいでしょうが、卵より大切なものはありませんから。それにセレンティーヌは卵から生まれる子を見に来れば良いでしょう」
「そうだな。無事に生まれてくれれば良いが」
「そのために我々のできることはありませんか」
カイザーが今回の天啓で最も不安視しているのは瘴気である。眠る竜王は良いが、生まれたばかりの卵はこの世のなにより脆弱なのだ。ほんの少しの瘴気でも卵の中身は死んでしまうと言われている。
実際に死ぬかどうかわからないのは、カイザー自身が生まれてから一度も死なせたことがないからだ。
ただこれまで完璧に守り通してきたと言っても、カイザーが生きている300年の間に天啓が下ったのは3度しかない。
だが今回、4度目となる天啓の前後で不審なことが起きた。
昨年の祝祭で何者かが竜神殿や王城の井戸にまで異物を投げ入れたのだ。それが魔女の妙薬であるだろうことは、少し前にここを訪れた帝国宰相から聞いている。
そしてかつて竜王国の神童と呼ばれた彼のその言葉をカイザーは疑わない。むしろ帝国で充実した人生を歩んでいた彼が、こうして戻って来なければならないほどに重大な事だと知れて助かったほどだ。
「王位継承権を放棄したカインには申し訳ないことをと思うのだが、しばらく玉座にいてくれないか」
「オレが、ですか?」
「ああ、人々が住む国の舵取りを任せたい。9つの侯爵家も君の意見であれば重々聞いてくれることだろう」
「そうでしょうか? オレは彼らと面識がないですが」
「彼らは既にセレンティーヌにより躾けられているのだ」
為政者の経験がないと自信のなさげだったカインも、娘が侯爵家を支配したと聞けば笑いをこぼした。
「わかりました。竜王国の政に関しては、侯爵家の方々に教えを請いつつこなしてみます」
「申し訳ない。そしてノワール殿には感謝の言葉もないな。もちろんグレイロード帝国にも」
「そこはミシェルが戦神を呼んでくれたおかげですね。近衛騎士団長殿にお礼されますか?」
すぐそばでいまも背を向けてくれている近衛騎士団長は、カインの言葉を受けて首を横に振っている。それを見たカイザーは近衛騎士団長の背中へ手を向けた。
「彼はいつも私の礼を拒むのだ」
「やはりカイザー様に対する敬意が強すぎると、触れられるのも恐れ多いとなるのでしょう」
「そういうものなのか。この神殿を訪れる子らは私が抱きしめると喜ぶが」
「敬意と親愛は違いますから。なのでまた別の形でお礼をなされたら良いと思いますよ」
竜による感謝の表現は相手を抱きしめ背中を叩くことだ。
それは竜の身体で唯一防御力が弱いとされる腹に相手を触れさせることで、心を許したと示すものでもある。そしてそれを人の姿でやれば、相手を抱きしめることにもなった。
だからカイザーは感謝を示す方法として人々を抱擁して背中を優しく叩く。
しかしこれが竜と馴染みの薄い旧ビタン騎士たちにはなかなか理解しにくいものらしい。さらに近衛騎士団長であるルクス・ディランは他者の感謝を受け取らない人物だ。為政者になるべく教育された彼は、人の為に動くことを突然だと思うからこそ感謝を受け取らない。
それが異国の者であればなおのことだ。どんな形でも贈賄になるから受け取らないと言って譲らない。もちろん近衛騎士団長という立場としてはそれが正解だが、だからカインは別の形でと提案する。
「近衛騎士団長殿のご息女のアニエスは食べ盛りですので、何か贈ってもよいでしょう」
「わかった。そうしよう」
交渉成立したカイザーはカインから手を差し出され握手をする。それはグレイロード帝国で挨拶などに使われる習慣だと、カイザーもこの十数年で学んできた。
ただ「共に頑張りましょうね」と嬉しそうに言うカインの笑顔が、幼い頃の彼と変わらず可愛らしくて、カイザーはついついカインを抱きしめてしまった。
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「グランデ伯爵には息子共々帝国軍艦船に招かれたと説明しておきました。わたしが様子を見に行くゆえ動かれる必要はないとも」
鋼鉄でできたこの帝国軍艦船はけっして巨大ではない。通路も狭く、甲板に竜が乗るようなスペースもない。だが魔芒石を動力源にしているというこの船は足が速く、風が吹かない時でも変わらず海を滑ることができるという。
その説明を受けたシメオン・ローランは、心底興味のなさそうな顔で「素晴らしいですな」とおべっかを口にした。
そんなシメオン・ローラン侯爵の態度を前に帝国宰相のローティスは苦笑をこぼす。
「ものすごく怒っているように見えるね」
「当然でしょう。わたしと歩く姿を見られてしまえば口さがない者に何を言われるかわかったものじゃない」
「それはそうなんだけど、まずはこちらに入ってもらっても良いかな」
シメオン・ローラン侯爵が怒るのは当然である。ローティスは本名も身分も捨てて帝国宰相になった。だというのにここで過去の存在と繋がる者と行動を共にするなど愚かも愚かだ。
それを素直に出したローティスはある部屋に通じる扉を開けてシメオンを通した。
そこは応接間になっていて、帝国騎士団にいる女性騎士が用意してくれた衣服をまとった令嬢たちがいる。
しかしその令嬢たちの面々を見たシメオンは渋い顔を見せた。
「宰相殿、これはどういうことでしょうか」
「うん、ごめんねシメオン。僕の本名バレちゃった」
申し訳ないと言いながら笑っている帝国宰相とは対象的にシメオンの顔は苦々しい。
「ではそろそろ潮時なのでしょう。こちらから侯爵家どもに説明をしておきます」
「ありがとうシメオン。僕の愛はいつでも君にのみ捧げられているよ」
「そんなものはいりません。そしてアドリエンヌ・オーブリー、アナベル・デュフール。君たちは後でわたしが馬車で送り届け、それぞれ侯爵に説明する。このような男の多い船に乗り込んだ失態も、相応の理由を作って説明すれば良かろう」
「お父様」
「なんだ」
不意に娘のブリジットに呼ばれシメオンは不機嫌なまま返した。
「今回も兄を取り戻しに来られたのですか? トリベール侯爵家でそうされたように」
「この船にはシオン・トリベールのような体質の者はいない。魔力の強いベルナールを取り戻さずとも害はないだろう」
「なるほど。そのような意図があったのですね。しかしその体質のこと、なぜ他の侯爵家と情報共有されなかったのですか? 情報共有していればシオンの苦しみももっと速く解決したでしょうに」
「ローラン侯爵家は高い魔力の人間を何人も輩出した有能な家柄だぞ。そのように認識されてしまった我々が、魔力至上主義を否定するような事を言って誰が信じる? そしてそこに思い至らないおまえの愚かさは残念だ」
「シメオン、ブリジット嬢はトリベール家のシオン君を思いやるその優しさから言ってしまったんだ。父親に甘えて感情をぶつけてしまう事くらいは仕方ないことだよ」
娘の言い分を切り捨て愚かと断罪したシメオンの肩を叩き、ローティスが優しい笑顔で言い出した。
とたんにシメオンは嘆息を漏らしながらうなずく。
「わたしはその甘えとやらをしないで育ちましたので、見知らぬ世界ですな」
「そうだね。シメオンは家族愛というものを知らずに育ってしまった。すべては我々の愚かな親の毒によるものだ。だがそれでもシメオンはよくやってるよ。君の息子や娘はこの通りとても思いやりある子に育っているからね」
「私に似なくて幸いでしたな」
「ははは、そんな真顔で冗談なんて言わなくて良いよ。さてご令嬢たちはくつろいでいたところ邪魔して申し訳なかったね。僕たちはベルナール君の様子を見てくるからいま少し待っていてね」
シメオンの肩を平気でたたいたローティスは令嬢たちに手を振り部屋を出た。そうしてまた狭い通路を進んで階段をひとつ降りる。
その階はすべて船室となっていて乗組員ではなく、客が滞在するための部屋が並ぶ。そして奥の突き当りにある部屋は王族が使う部屋として作られているらしい。
その説明を聞きながら歩いたシメオンは、再びローティスが扉を叩くことなく開かせるのを眺める。
「グレイロードでは扉を叩かぬものですか」
竜王国では扉を叩かずいきなり開けるのは不躾だ。だが国外に出れば、砂漠の国アルマートなど部屋の扉がない場所もある。そのため文化は国によって違うこともシメオンは知っていた。
そんなシメオンにローティスは笑顔で返しながら室内に入る。
「叩くに決まってるよ」
こんな笑顔で堂々と不躾を振りまく男を宰相に据える帝国がおかしいのかもしれない。シメオンが顔をしかめながら室内に入るとベッドの上に見覚えある騎士がいた。
なぜか息子の前に覆いかぶさっている帝国騎士は、ローティスを見るや笑顔を見せる。
「お疲れ様です」
「アニエス君は何をしているのかな?」
「どうしても血痕を取り除きたくて」
「なるほど、寝込みを襲ってまで他人の血を拭いとってしまいたかったんだね」
「どのようなところから出た血であろうと取り除きたいと思うものですよ」
ローティスと会話をしながら騎士は平然とベッドから降り立つ。それでも息子が目覚めないのは魔力を枯渇したためだろう。眠ることで回復をはかるのは、体力も魔力も同じことだ。
「それは衛生面を気にして?」
「はい。放置すれば感染症の恐れもありますので、騎士であれば当然のことかと」
「そうなんだ? てっきり自分がつけたもの以外は認めないとか、そういうことかと思ったけど」
ローティスの言葉は相手の恋慕の情を露骨なほどからかうものだ。だがそれを悪趣味と眉をひそめるシメオンと違い、中等部の学生らしい身丈のその騎士は不思議そうに首を傾げる。
「私がベルナール卿に何をつけるんですか?」
「血でも何でも。つまりのところ他人の何がつくことも認められない独占欲なのかな? と僕は思ったんだよ」
「なるほど? しかしベルナール卿は特定の誰か独りにとらわれるような方ではないでしょう。今回の戦闘実習では騎士科を中心としてアルノー・グランデ殿が指揮を取りましたが、ベルナール卿も統率力に優れた方です」
「うん、そうじゃないよ。アニエス・ディランちゃん。君は陛下には独占欲なんて向けなかったけど、本来の恋って独占欲が出るものなんだ。だから僕はそこを危惧しているんだよ」
「私がベルナール卿を独占したいと思うことを?」
「その感情だけなら良いよ。でも恋って人から冷静さを奪うからね。しかも君の主戦場である王立学園内には我々のような世界最強の味方もいない。だからどうかいまは騎士として任務に集中してもらいたいな、と。宰相として思うよ」
「それは確かにそうですが」
「ん? 別の誰かから何か言われたかな」
「父からたまには騎士を休めと。そして己の心と向き合えと言われました」
「あー……なるほど。それは父としても指揮官としても正しいね」
帝国騎士であってもアニエス・ディランはまだ15歳である。そんな若者に感情も恋も捨てて任務に当たれとはローティスらしい言葉だとシメオンは思う。
だがその徹底した合理性は国を支えることに向いていても、人を育てるのには向いていない。
「宰相殿、わたしからも良いですかな」
「ん? シメオンも意見があるんだね。どうぞ?」
会話に入り込む許可を得たシメオンは、改めてアニエスを見た。
「君はベルナール・ローランという男に対してどのように思っている?」
「何よりも尊敬を。ベルナール卿は普段から誰よりも冷静であろうとし、さらに目の前の物事を俯瞰で見ようとされます。その上で最善の方法を導き出して実行に移す。ただ博識であるとか頭脳明晰であるだけでなく、己を律することもできる。これは騎士として必要不可欠な資質です。私は騎士でもない普通科にいながらそこに達したベルナール卿を尊敬しています」
にこやかな顔で言い切ったアニエスにシメオンは真顔のままそんなものかとうなずく。その程度の称賛はこれまで腐るほど耳にしてきたのだ。
「それだけかね」
「騎士としては…そうですね。ここからは個人的な見解を申し上げますがよろしいでしょうか? 不躾な内容となりますが」
「構わないよ」
「ありがとうございます。先程述べた通りベルナール卿は聡明で冷静沈着で、とても優秀な方です。ですが、ふとした時に見せる反応や、何事もない日常で見せる姿が可愛らしいのです。昨年卒業された侯爵家から、私は女扱いされ食事に誘われたことがありました。ですが帝国でそれは最大の侮辱となりますので、本国でなら彼らを殴っていました。しかしその出来事からしばらくベルナール卿が甘いものをくれるようになったんです。高等部の食堂に頼んで作ってもらい、それを私の元へ届けて他人に誘われても行くなと。もちろんそれは、竜王国のルールに不慣れな私をベルナール卿なりに気遣ってくださった事だと思います。でも私はそれが本当におかしくて。だって私は帝国ディラン公爵家の人間ですので、竜王国の侯爵家ごときが食事に誘おうともどうなることもないではないですか。でもベルナール卿はそんなことをわかった上で、食べ物を渡すという形で私のいらだちや殺意を消してくださったんです。その他の場でもベルナール卿は私のことをよく見てくださって、いつも少し嬉しそうに話を聞いてくださるんです。それが本当に可愛くて」
「息子をそこまで見てくれる子も今までいなかったよ。だから息子も君のことを見るのだろう」
そう告げながらシメオンは白いハンカチを取り出してアニエスに渡した。その先でアニエスの目からボロボロと涙がこぼれだす。
「ですが私はベルナール卿を守れませんでした。私が未熟だからアルノー殿は瀕死の傷を負い、ベルナール卿も動けなくなってしまったんです。状況に絶望して自失することは誰しも起こることですが、私はベルナール卿にそこまでの心の傷を負わせたくなかったんです。ベルナール卿にはいつもの姿でいてもらいたいから。まっすぐ前を見て障害を乗り越える人でいてほしいから。倒れた仲間のそばで避難すらできない状態にさせてしまうなんて、私の失態です」
「それは不可抗力だろう? 君はただの学生だ」
涙をこぼし自分を責めるアニエスに、シメオンは眉をひそめ言い捨てた。
「わたしは詳細など知らんが、帝国の重鎮が動くほどの魔物が出たのだろう? そんなもの、君ごときがどうにかできるわけがないじゃないか」
「それは……父にも言われました。でも倒せないとしても、ベルナール卿を守る手段はあったのではと考えます。そしていまはベルナール卿の顔を汚す血痕を拭いとってました」
「血痕を消すことで、その事実から目を背けられるならやれば良い。だが何をしようとも過去は変えられん。それよりも君はやるべきことがあるのではないか」
前評判通りローラン侯爵であるシメオンは厳しい物言いしかしない。その事にアニエスはほんの少し眉をひそめてローティスを横目に見た。するとローティスはきちんと聞くべきだよとアニエスに言う。
そのためアニエスは再びシメオンと向き合った。
「やるべきこととはなんでしょうか」
「ベルナールが目覚めたら言ってやりなさい。素人がしゃしゃり出るなと」
「ええ…? しかしベルナール卿はとても優秀で」
「学生として優秀であることと、騎士として優秀であることは違う。王立学園では騎士科3年ですら騎士見習いだ。つまり騎士ではない。そんな素人しかいない世界で与えられる優秀だのという評価に何の意味がある。学内に魔女がいる、魔女が戦闘実習でなにか仕掛けてくる可能性がある。そうわかっているなら、まず学外に相談すべきだった。今回などミリュエル・バルニエの一件で宰相殿がこちらに来られた時にその話を耳にしたから助かった話だが、そうでなければ全員死んでいてもおかしくない事案だ。君もベルナールも、己が優秀だからと過信して物事を捉えるものではない」
「はい」
それはあまりにも的確な、優しさゼロの大人らしい正論でアニエスは驚いた。
「ローラン侯爵は、ベルナール卿そっくりですね。尊敬しても良いですか」
「駄目だな。君はベルナールだけを尊敬していなさい」
「了解しました。照れ隠しですね」
そばで肩を震わせ笑う宰相を尻目にアニエスが言えば、シメオンが咳払いをした。
「ベルナールも今夜はこのまま休ませたほうが良いでしょう。わたしは令嬢がたを送り届けてまいります」
「彼女たちは自宅に送って終わり?」
「今夜はそうなるでしょう。オーブリー侯爵もデュフール侯爵も、詳細を聞きたいでしょうからな」
「だけどミリュエル・バルニエ嬢は……」
「バルニエ伯爵家の屋敷は先月から修繕工事に入っております。妻やら愛人やら幼い子らは我が屋敷に客としておいておりますので、宰相殿が良いとおっしゃるならば連れて帰ります」
「ねぇ、シメオン。君はいまでも親を恨んでる?」
シメオンの事務的な問いかけに、宰相はなぜかまったく無関係の質問で返した。そのためアニエスも宰相とシメオンとを見やる。
だが問われたシメオンはまったく表情を変えない。
「わたしにとって彼らは最初から最後まで部外者です。恨んだこともなければなにか思うこともありませんよ」
「ミリュエル嬢は父親を殺したいらしい。むしろその機会があると知った瞬間に出た本音がそれだったようだ。そのような娘が自分を守らなかった母親に対しても憎しみを抱かないとは言い切れないね」
「確かに。親と言えども地獄に落とせると知ったからこそ抱く憎しみもありますな。となると母親たちと会わせるのは避けるべきかと」
「では今夜はこの船で過ごしてもらおう」
「あの娘は過激な気性ゆえ、宰相様は襲われねば良いですな」
「シメオン、今夜は一緒に寝よう?」
「帝国の人間になった宰相様との同衾はまかり通りませぬ」
話は終わったとばかりに出ていくシメオンを眺めたローティスは深刻な顔でアニエスへと振り向く。
「アニエス君、ミリュエル嬢を止める便利な呪文なんか知らないかな?」
「そうですね。淑女に恥をかかせる男はビタンの紳士にあらず、という言葉でしたら」
「僕は紳士じゃなく宰相だよ」
「帝国の淑女と違い、竜王国の淑女は男性への免疫がありません。そして男性騎士が行き交うこの軍艦船にひとり取り残されるとなれば不安もありましょう。宰相閣下にはなにとぞ思いやりある行動を」
「君のそれ、近衛騎士団長そっくりだね」
「光栄の至りです」




