79.エクレアは竜王国では高級菓子
明るい金髪に白磁の肌。さらに人ではあり得ない銀色の瞳を持つ10歳にも満たない少年は魔法剣リーの精霊である。
だからこそ幼く愛らしい見た目に反して彼はリリたちが生まれるずっと前からその姿でグレイロード帝国で密かに国や王都を守っていた。
正しくは魔法剣リーの持ち主が、長く歓楽街という無法地帯を牛耳ってきた盗賊の頭でありながら国家に手を貸し守ることもしてくれていた。
そんな盗賊の頭が所持する魔法剣の精霊が幼い少年の姿であるのは、それがかつて盗賊の頭の命を救った人物を模したためだという。そうすることで盗賊の頭は、横暴な貴族に虐げられるだけの無慈悲で残酷な世界にも希望はあると忘れないようにしてきた。
アニエスがマティアスへリーに対する説明をする前をリリはリーと手を繋ぎ歩く。そうして高等部の2階にある生徒会室へ向かえば途中でミリュエルと出くわした。
「まぁ、偶然ね!」
絶望し涙しているに違いないと心配していた相手はリリを見つけるなり笑顔で抱きしめてくる。それに抱き返しながらリリはミリュエルを見上げた。
「ミリュエルお姉様は大丈夫なのですか?」
「ええ、可愛いあなたにまで心配をかけてしまってごめんなさいね。でも大丈夫よ。死ぬ覚悟はできたもの」
「それは大丈夫ではないわ!!!」
ゴミのような親のせいで死ぬ覚悟などしてはならない。その一点で声を上げたリリにミリュエルは以前と変わりない輝くような笑顔を見せていた。
だが壮絶な覚悟とその姿のギャップが、リリの内に秘める衝動をざわつかせる。
「やっぱりくびり殺…」
「リリ」
殺さなければと目を見開き吐露しようとしたリリは、名を呼ばれてそのままの目を向ける。するとこの学園で最も理性が強いだろう男が廊下の向こうを指差す。
「君とアニエスに客が来ている」
「それはこのリーの持ち主だと思うのだけど、なぜベルナール・ローランが知っているの?」
「生徒会室で出くわしたからだ。だがその説明も生徒会室でしたほうが良い。5分以内にミリュエル嬢を連れてこなければエクレアを食べ尽くすとブリジットから脅されている」
「大変だわ!! ミリュエルお姉様、急ぎましょう! 高級スイーツがなくなってしまいます!」
エクレアはグレイロード帝国でもこの竜王国でも高級スイーツとして扱われている。これはシュー生地を焼く設備が少ないことと、クリームが日持ちせず、どの店も1日に多くの量を作れないためだとされていた。
もちろんこの王立学園でもスポンジケーキやカップケーキ、タルト類は見るがエクレアのようなものは見ない。
そのため声をあげたリリにミリュエルも嬉しそうに笑った。
「ええ。でもブリジットのことだから食べ尽くすなんてしないわ。親友たちはエクレアがわたしの大好物だって知ってるもの」
「まぁ、ミリュエルお姉様はエクレアがお好きなのね。シュー生地を使った生地がお好きなのかしら?」
「そうね。でもアドリエンヌのお屋敷でいただいたエクレアに感動したのが大きいかもしれないわ。サクサクした生地の中に詰まった甘いクリームと外にかけられたビターなチョコレートが最高に官能的よね!」
「かんのーてき、では、ないですね」
相手は最愛のお姉様であるため不潔と責められないリリは目を瞬かせながらも返した。そしてそんなリリのウブな態度にもミリュエルは笑うのだ。
「可愛いわたしの砂糖菓子にはまだ早いかもしれないわね。甘みと苦味の組み合わせは人生にも似て気持ちいいの」
「わたくし、最愛であるミリュエルお姉様には甘いものだけを食べていてもらいたいの」
「あら、リリ? 恋って甘いだけじゃ成り立たないのよ。ベルナールさんに話したけれど、苦味があるから甘さが引き立つの。もうわたしの恋は死んでしまったけれど、でもそういうものよ」
「お姉様、いっそ今すぐ学園を辞めて帝国へ亡命いたしましょう」
「リリには言ってなかったかしら? わたしの家には妹が3人いて、さらに4人目が愛人の腹にいるの。わたしがこの段階で売られたということは、あの子たちが生きていくお金がないということなのよ」
だから逃げるわけにはいかない。緩やかな笑顔でそう告げるミリュエルにリリは歯を噛み締めた。
それでは婚姻のタイミングで支度金などが払われるまでは誰をくびり殺すことも断罪することもできなくなる。そしてミリュエルが死ぬ以外にないと言う言葉が正しくなってしまう。
そうして言葉を失ったリリはベルナールを先頭に生徒会室へ向かった。ただ現段階でリーの持ち主がなぜここにいるのかわからない。
生徒会室の扉が開かれると、室内はあり得ないほどにぎやかだった。執務机に座るリリには馴染みの大男は相変わらずつまらなさそうな顔をしているが、アルノーが空気を明るくさせている。
「おかえりベルちゃん! アニエス君たちも一緒なんだね! 何色のお茶飲むかな? 緑?黄色?」
「私が入れますので大丈夫ですよ」
珍妙な問いかけを飛ばしたアルノーに笑顔で返したアニエスが部屋の片隅にあるミニキッチンへ向かう。その合間にリーが執務机にいる大男―――イリアンデの元へ駆け込んだ。
「イリア、あの子はエクレア大好物なんだって」
「そうか」
「あと、あのお話したほうがいいよ。あの子、死んじゃうって言ってたよ」
声を潜めるでもなく言い放つリーに、ソファに座りお茶を飲もうとしていたアドリエンヌの手が止まった。そうしてカップをソーサーへ戻してイリアンデを見上げる。
その間にリリがイリアンデのそばまでやってきた。
「どうして竜王国におられるの?」
「仕事」
大きな琥珀の瞳をさらに見開かせて問いかけるリリに、イリアンデも面倒そうに返す。
「なぜ王立学園へ?」
「リシャルから、竜王国に行くなら本が欲しいと頼まれた。その時はおれも仕事でいなかったから、直接言われてねぇけど」
「リシャル副団長が本を頼むことはないから、それはモニカ夫人のものね。きっと竜王国で出版された物語だわ」
「たぶんな。けどおれは本とかわからねぇから、おまえかアニエスに聞きに来た」
「わたくしもアニエスも物語なんて読まないのに? しかもエクレアなんて高価なお菓子を、甘いものなんて興味のない盗賊の頭様が持参して?」
質問を重ね続けるリリにイリアンデがますます面倒そうに顔をしかめる。そこで銀のトレイを持ったアニエスがやってきてテーブルにトレイを置く。その上でリリの手をつかみ、自然な流れでソファへ誘導した。
3人がけソファの真ん中にリリを座らせれば左右にいるブリジットとミリュエルに抱きしめられる。そうして連携プレイでリリを黙らせたアニエスは、改めてカップに紅茶を入れながらイリアンデへ問いかけた。
「物語に関しては私も詳しくないですが、こちらのブリジット・ローラン嬢は学生ながら既に作家として名の知れた方なのだそうです。そのあたりは既に説明を?」
「アルノーから聞いた。で、おまえたちが来るまではブリジットからモニカの好きなものとか確認されてた。そこから好みの本がわかるらしい」
「モニカ夫人は物語であれば何でも楽しまれますよね。月夜の物語はすり減るほど読んでいると聞いたことがあるので、恋物語が好きなのかもですが」
「そうだな。アイツは昔から嬉しそうにそういう話をしてる」
「イリアンデさんとリシャル副団長の話とかお好きですよね。私もよく談義しました」
紅茶を入れたカップをソーサーに乗せてリリの前に置き、さらに別のティーセットを手にしてソファの裏をまわって入り口側に座るミリュエルの前に置く。優雅な手際でお茶を出した近衛騎士だが、イリアンデはそんなアニエスを怪訝な顔で見やる。
「それガキに聞かせていいやつなのか」
「リシャル副団長がなぜイリアンデさんに限定して優しくなれないのか。これはリシャル副団長が、私の父に厳しいのと通じますよね? なので長年の謎解きとしてモニカ夫人は私に問うのです。『やはりリシャル様は、イリアンデ様に特別な想いがあるから冷静でいられないのかしら?』」
「モノマネすげぇな。けどやめろ」
ハスキーボイスなアニエスの声色が、一部だけ可憐な少女のように変化する。それに驚く一同の中でイリアンデは苦い顔でそばにやってくるアニエスへ辞めろと告げた。
だがアニエスの笑顔は崩れない。
「このままモニカ夫人の声真似でおふたりの事情を暴露されるか。それともミリュエル嬢の好物だというエクレアを持参した理由を暴露するか。どちらが良いですか?」
「おまえのそれ、母親そっくりだな」
「お褒めの言葉ありがとうございます。ちなみにイリアンデさんは私が出した速達に目を通されました? もしそうだとしても来るのが早い気がするのですが。こちらにはいつ到着されました?」
「一昨日」
「普通の船ですよね?」
「本国からアルマートまで転移魔法。そこから最新型軍艦船だと片道7日」
「えええと、待ってください。最新型ってあの最新型ですよね? 私が一時帰国した夏の時点で進水式どころかエンジン部分の魔芒石が組み上がって無いと言ってましたよ?」
「悪魔ってのはそういうもんなんだよ。またピクニック行くって言い出したあげく、よくわかんねえけど魔芒石を完成させて船を走らせてここまで連れてこられた」
「ピクニック気分だねーで地図から国を消した事案再びですね。今度はなにを消したんです?」
「あのガキの地獄」
そう告げたイリアンデが指差した先にいたのは、エクレアを食べようとしていたミリュエルだった。
大きな口を開けていたミリュエルは周囲の視線を受けて照れたように笑う。
「なぁに?」
リリの向こう側に座っているからか。それとも本を探しに来たという異国の男に興味がないからか。話を聞いていなかったミリュエルはまっすぐにアニエスを見た。
「わたしの話をしていたの?」
「イリアンデさんは、ミリュエル嬢の地獄を消したそうです」
「あら? わたしの地獄ってそう簡単に消えるものではないわよ? もし今回の見合い話を消せたとしてもまた新たな買い手を探されるだけだもの」
アニエスの説明にも笑顔で返すミリュエルは、その不遇に慣れてしまった様子すら見えた。
とたんに慰めも何も向けられなくなるアニエスのそばでイリアンデがため息を吐き出す。
「おまえはガキで知らねぇだろうがな。理不尽ってのは誰にでもふりかかるものなんだよ」
「確かに、貴族でも平民でも誰にでもふりかかるものよね?」
「ビタン王国じゃあ、平民のガキは歩いてるだけで貴族に拉致られて奴隷にされた。貴族よりも高い確率で理不尽を押し付けられる」
「ええ、ビタン王国時代の横暴と圧政は歴史書で読んだわ。アナベルが貸してくれたの」
「その歴史書に歓楽街のことが載ってるかは知らねぇけど、おれら盗賊ギルドはその横暴を排除するために王国を歓楽街から締め出した」
「そこも本で読んだわ。騎士団も介入できない無法地帯と呼ばれたのよね。でも国家に逆らっても潰されないのは、その国家が外へ目を向けているからだと思っていたわ。実際にビタン王国は戦争を繰り返して領土拡大していたから」
「そうだな。けどそこじゃねぇわ。ビタン貴族どもを相手にしてきた盗賊ギルドが、この国の貴族を排除できないと思うか? って話だ」
ミリュエルによって話の論点がズレたため、イリアンデが修正する。そしてその修正のための問いかけがミリュエルの目を大きく開かせた。
「竜王国の伯爵を排除できるわけがないわ。だってそれは……」
排除できない理由が出てこないミリュエルは向かい側にいるアナベルを見る。
「内政干渉なのかしら? それとも侵略行為? これは何に該当するの?」
「盗賊という国家に属さない者がどこで何をしてもそれらには該当しないわ。ただ現地の法に照らし合わされて該当する罪を与えられるだけよ」
「じゃあ殺せるの!?」
アナベルから答えをもらったミリュエルは笑顔を輝かせると立ち上がりイリアンデを見た。
「あなたなら殺せるの?」
「殺さない」
「なんで!! 中途半端に希望を見せながらその答えは良くないわ!」
「おれは面倒だから海に沈めろって言った。けどそれだと足りねぇんだと」
「何も足りなくないわよ! 沈められるなら沈めてしまっていいし沈めて欲しいのに!」
何がいけなくて何が足りないのか。わからないミリュエルはイリアンデに声をあげる。
それは今までリリにも親友たちにも見せなかった明確な憎しみと殺意だ。だがミリュエルのこれまでを思えば誰もその叫びを止められない。
そんな中で動いたのはベルナールだった。まずミリュエルに座るよううながし、さらに力がこもってつぶしかけたエクレアを皿に置くよう言う。
その上でベルナールはミリュエルの肩を軽く2度たたいた。
「死は一瞬だ。だがそれでは君が抱えた絶望と苦しみには遠く及ばない」
「ねぇ、ベルナール。あなたの顔があの方に似ててつらいから優しくしないで欲しい」
「その理不尽は14回目だ。そろそろ慣れてくれ」
「だってこんな状況なのよ! あの方の理不尽なほどの色気と知性の暴力を浴びたくて仕方ないのに! なぜ神があの方にあんな色気と知性を与えたのかわからないのに!」
「話がそれて困るから戻ってきてくれ」
1年間は会わないと約束していても、恋する相手を求める衝動が消えることはない。それをわかりやすく体現しているミリュエルに、ベルナールは嘆息を漏らしアニエスを見た。
そして救いを求めるような視線を受けたアニエスは笑顔でうなずく。
「イリアンデさんをここへ来させたのは宰相閣下なんですよ」
そんなアニエスの一言でミリュエルがピタリと止まった。嘆きも懇願もやめたミリュエルは驚きの目でアニエスを見る。
「どうして?」
「イリアンデさんが言う悪魔とは宰相閣下のことです。ピクニックに出かけて地図から敵国を消すような方が、今回は進水式どころか完成してなかった最新型の軍艦船を完成させてまで最短で海を渡らせたわけです。それに近衛騎士の私が言うのもなんですが、殺しって救いなんですよね」
「確かに死ぬことは救いよね。逃げられるもの」
自身も死ぬと決めていたミリュエルはアニエスの意見に同意した。そしてアニエスはそんなミリュエルに優しい笑顔でうなずいてくれる。
「そして私なら、愛しいミリュエル嬢を長年苦しめた輩を死という方法で終わらせることはないですね。ミリュエル嬢のようにみずから死を望むまで地獄を味わってもらうか。あるいはミリュエル嬢と同じ目に遇わせるか」
「政略結婚?」
「この場合は娼館に売ります。グレイロードには男性向けの男娼がいる娼館もありますが……この国にその手のものはあるのでしょうか?」
語尾とともに、アニエスが確信めいた顔で問いかけた先はイリアンデだ。
そしてイリアンデは知らないと首を横に振る。
「そこをわかりやすく表に出す店はねぇよ。それにそっちはおれの役目じゃねぇから」
「なるほど? 閣下は盗賊の頭をふたりとも連れてきたんですね。じゃあもう地獄を見るしかないですね。ブレグストさんは本当に容赦しないので」
「殺して終わりじゃ足りねぇらしいからあっちで正解だろ。しかもあの悪魔、昨日の時点で散歩して来るって出かけていつの間にか爵位返上させちまいやがったからな。平民落ちした元伯爵が娼館に売られても誰も助けに来ないだろ」
「散歩気分で王城に行ってそこまでやるとはさすが宰相閣下ですが、爵位返上した先もありますよね? ミリュエル嬢の立場が伯爵令嬢から変わるのは、今回の事案の諸悪の根源を喜ばせるネタになるので良くないかと」
「1回爵位を返して、新しく長男だかに爵位を与える。そうすると元伯爵が権利を向ける先がなくなるだかって聞いた」
「なるほど。確かに系譜が書き変わりますからね。新たなバルニエ伯爵は初代扱いになるので、いくら父親でもその爵位を主張することはできません。さすが敵を追い詰めることに定評のある宰相閣下ですね」
「おまえのそれ褒めてるのかわかんねぇな」
「最高に褒めてますよ。悪魔のような宰相閣下が、私の大切なミリュエル嬢のためにそこまでしてくださったことを」
既に大量の涙をこぼしているミリュエルへ、ソファの後ろに立つベルナールがハンカチを渡している。その様子を眺めながらアニエスは笑みを強めた。
「それに……これでこの国の侯爵たちは、ミリュエル嬢の裏にグレイロード帝国宰相がついていることを知ることになります。今回の騒ぎを招いた愚か者どもを私が半殺しにしても騒ぐことはないでしょう」
「それはおまえの父親が騒ぎそうだからやめてやれ。それよりおまえエクレア好きだよな? 今回は食わないのか」
「だってイリアンデさんは男性じゃないですか」
「は? そりゃそうだろ」
アニエスが唐突に出してきた性別の部分にイリアンデは眉を寄せた。何を言っているのか理解できないためだ。
「この国では異性から食べ物を貰うようなことは避けるアレコレがあるんです」
「なんだそれ。餓えないヤツらの道楽か」
「まぁそうですね。でもそれが竜王国のしきたりなら近衛騎士として従います。なので私に食べ物を与えて良いのはベルナール卿だけなんですよ」
「へー……?」
アニエスがそう告げた瞬間、イリアンデだけでなく令嬢たちの視線がベルナールへと向けられる。ただリリは気にすることもなく小さな口でエクレアに食らいついていた。
室内が静まり返る中で、アニエスはそばで顔を真っ赤にさせるマティアスを見やる。
「現状で私に与えられた任務は、こちらで頬を赤らめている愛らしいラピスラズリを愛でることなのですが」
「その任務からおかしいだろ」
「さらにあちらのベルナール卿も口説き落として、最終的に我が国へ攫うというハニートラップな任務もあるんですよ」
「おまえのその任務。ルクスが聞いたらブチ切れそうだな」
「そうですね。夏に帰省した時は、既に陛下も叱られた後だったそうです。なので厳しいようなら任務終了でも良いと陛下から言われているのですけども…」
「おまえハニートラップとか苦手だろ。厳しくないのか」
「それがこの国の淑女たちが可愛らしくて」
「そっちは帝国でもやってたからわかる。けどハニートラップの相手は男だぞ」
「そちらも問題ないです。帝国の紳士と違ってベルナール卿は可愛いので。可愛いもの好きな私の理性を崩し近衛騎士を装えなくさせるという意味では難易度が高いですが大丈夫です。可愛いので」
「ああ、おまえがここで近衛騎士やめたらやべぇな。可愛いって理由であいつの頭を撫でてやるなよ。ここで一番優秀なヤツなんだ」
「お姫様抱っこしたい願望は問題ないですよね?」
「辞めろ。マジでやめろ。男のプライド砕きにいくな。ディートハルトがそれで泣いただろ」
「私より弱いくせに、男という理由で守ろうとした愚か者にドレスを着せて抱っこした件ですね。ですがここではそのような事はないのでご安心ください。そしてそういう意図ではなく純粋にお姫様抱っこしたいです」
「抱えあげる以外じゃ駄目なのか」
「うーん、それ以外は思いつかないですね。あ、でもベルナール卿の背中に抱きついたことがありまして」
「それは事故か? わざとか?」
「心の安らぎを求めて?」
「おまえ、そういうとこだぞ」
心の安らぎを求めて異性に抱きつく淑女などいない。イリアンデは貴族でも何でもないのに、公女であるアニエスに注意せざるを得なくなった。
アニエスは十将軍の中で最初に生まれた子供として皆に可愛がられて育てられた。しかしそのためか、素の彼女はとても淑女とは言えない粗雑な性格になってしまった。
つまり公爵令嬢でありながら腹芸ができない娘になってしまったのだ。そのためいまは近衛騎士として、近衛に扮する形で本心を隠す訓練をしているところだった。
だが心の安らぎだのなんだのよくわからない理由で異性の背中に抱きつく時点で近衛騎士に扮することができなくなっている。
それを問題視するイリアンデに、アニエスは緩やかに笑う。その笑いかたが彼女の父親に似ていてイリアンデは苦手だった。
彼女の父親は子供の頃のイリアンデにとって兄のように尊敬する相手だったからだ。だからついアニエスへの対応も甘くなってしまう。
「私ひとりなら問題でしょうが、ここにはリリがいます。私も彼女も完璧ではないですが一緒にいればだいたいのことは片付けられますよ」
「まぁ…そうだな。15歳のルクスもおまえみたいな感じだったし、なんとかなるんだろうな」
「来年には砂竜を50匹くらい倒せますかね?」
「アホか。この国でそんなに砂竜が出たら困るだろ」
なぜ父親が体験した災難へ向かおうとするのか。呆れるイリアンデは、購入一覧を書き終えたブリジットが紙を差し出したことで視線を転じた。紙を受け取り一覧を見るとひとつうなずく。
「手間かけたな。今度なんか礼しとく」
「でしたら機会がある時などお話を聞かせていただいても?」
「なんでだよ」
形のない礼を求められたイリアンデはわずかに眉を寄せてブリジットに問い返した。するとブリジットは簡単なことですと言う。
「知らないことを知ることで物語の世界が広がる。そして新たな世界を書くことができるのは、わたしの喜びなので」
「ああ、そうか。月夜の物語を書いたヤツも同じこと言ってた。想像には限界があるとかなんとか」
「知らなければ現実的な描写はできないですものね。月夜の物語はわたしも大好きですから意見が合うのは光栄です」
「帝国に来ればそっちとも話せるし、歓楽街に見に来てもいい。おまえみたいな連中はやるんだろ? 取材とかなんとか」
「それは聖地巡礼では」
詳しくないイリアンデの言葉にアルノーがつぶやく。とたんにブリジットが目を輝かせてアルノーを指差した。
「聖地巡礼! まさにそれよ! 作品の舞台とは読者にとって聖地にふさわしいものね!」
嬉しそうに天才だわと喜ぶブリジットを目にしたイリアンデは横手にいるアルノーを見やる。するとアルノーは照れたように笑っていた。




