70.シメオン・ローラン侯爵と精霊石
竜王国の王都を縦につなぐ大通りにいた人間たちは1年前の祝祭の中で竜神殿の主をその目にしている。そして同時に竜神殿の主が大切そうに抱える若者の姿も。
若者は凡庸な色彩だったがその扱いは凡庸ではなかった。竜神殿の主が秋の風から守るように空より濃い青のマントで包み連れ帰る存在などこの世にひとりしかいない。
けれどその尊い存在はその祝祭での目撃を最後に体調不良で伏せってしまった。
祝祭の最中に、竜神殿による献上品を拒絶する文章が出たことは1年経ったいまも民の記憶に残っている。献上品の中に竜を害する薬物が混入していて、竜神殿も穢れてしまったためだというのが理由だった。
そしてその後で竜王陛下が伏せってしまわれたと知れば薬物による穢れのためと思う者は多い。
リリも竜王陛下のことはずっと心配していて、夏季休暇には王城へ見舞いにと告げたこともある。だが竜神殿の主でもある守護竜のカイザーから遠回しに断られてしまった。
そのため納得ができないと3日ほどつきまとったところ、カイザーは渋々と理由を教えてくれる。
100年しか生きていない若い竜王カインセルスは昨年から長い冬眠をしている。この年単位の冬眠は竜種の中では当たり前にあることで、金竜の里などでは竜の姿のまま丸くなって冬眠する様子も見られる。
ただカインセルスの場合は強固な鱗に守られた竜の姿ではなく人の姿で眠ってしまった。そのため無防備な竜王を誰に会わせることもできない。
その理由を聞いたリリは驚き問いかけてしまった。
「それは、わたくしでも駄目なのですか?」
「君は竜の力を制御できないだろう。かといって魔法武具を着けたままカインセルスのそばには立たせられない。君が現在のカインセルスに会えるとするなら、あと10年は生きなければならない」
「そんなにも長く眠る可能性があるのですか? それでは留学中はお会いできないと言うことになります!」
「セレンティーヌ……」
そんな寂しい話はないと涙をこぼすリリの目の前で、大柄なカイザーが床に膝をついた。
「カインセルスが冬眠した理由は、その身に穢れを受けたからだ。君も祝祭の中で似たようなものを食べてローラン侯爵家の者に救われているだろう」
「魔女の妙薬を…陛下も食べたのですか」
思わぬことに見開かれたリリの瞳から涙がこぼれる。すると遠くに控えていた神殿の人間が音もなく近づきカイザーにハンカチを手渡し離れていった。
ハンカチを受け取ったカイザーはそれでリリの涙をぬぐってくれる。
「どのようなものかは知らないが、その薬物は献上品に紛れるだけでなく井戸にも投げられていた。そして井戸の水に薄められたそれは人間には害のない程度だが、カインセルスには良くない。ゆえにグレイロード帝国へ話を持ちかけ、大地の月には宰相殿に来てもらった」
「戦闘実習の時におじさまがいらしたのは、竜王国に請われてのことだったのですね。それで井戸の浄化はされたのですか?」
「帝国は精霊石を多く保有しているからな。その一部を買うことで、王城内の浄化は終えた。同時に王都内の井戸の浄化もしているが、精霊石が足りないため時間がかかってしまう」
「確かに精霊石は貴重な石ですもの。お金もかかるでしょうし、なにより見つけるのが困難だわ」
魔女のせいで竜王国の財政が傾くのは納得いかない。けれどそう思いつつも、いまはあの過保護な保護者に会えないことが寂しいと思えてならなかった。
「わたくし……前に陛下とお会いした時は寝込んでいてあまりお話ができなかったの。それにわたくしが侯爵家どもを呼びつけた時は陛下がご多忙でお会いできなかったでしょう? だからまだこの国の素敵なところをお話できていないの」
「セレンティーヌの気持ちはよくわかる。だが」
「わたくしがダメなら他の誰ならよろしいの? 神聖力しか持たないアニーやミシェなら良いの?」
「近衛騎士団長の双子を巻き込んではいけない」
「でも!」
「セレンティーヌの気持ちはわかっている。だがこれは時間を必要とする問題なのだ。セレンティーヌにはひとまず学園での生活に専念して欲しい。カインセルスが望んでいるのは君が学生としてきちんと学ぶことなのだからな」
竜神殿の主は正しいことしか言わない。それがたとえリリの望まないことでも答えを変えることはしない。
もちろん彼はこの国の守護竜で竜信仰の中心なのだから、その立場の重さから言葉ひとつも気をつける。
その上この守護竜は数百年生きる青い鱗の成竜なのだ。前の代の竜王も守ってきたという彼は竜の見本のように常に理性的で、何者も害さず、何者も平等に扱う。だからリリの我がままなど通じるはずもないのだが、そんな彼が理解しようとしてくれる優しさもつらい。
そうして夏季休暇を終えて3ヶ月が経ち竜の月も末に近づいた週末にリリはマティアスと共に王都へ来ていた。だが目的地は祝祭が行われている広場周辺ではなく、貴族の邸宅が立ち並ぶ住宅街をさらに進み街の上層にあるローラン侯爵家。
前を歩くベルナールの背を眺めながら、リリは震えるマティアスの手をしっかりと握り歩き進んだ。
そんなリリの後ろにはアニエスがいて周囲に目をやりながらついてきてくれている。
やがて白い石造りの邸宅が見えてくるとベルナールは鉄門を開けて敷地に入り玄関へと進む。山の斜面に沿うように海へ向かって広がる王都は、他国と比べて広くない。
そのため侯爵家であっても広大な敷地面積をとなることはないらしい。ただ広くないと感じるのはリリ自信が帝国の公爵家に慣れているためかもしれない。
「竜王国の邸宅は敷地がさほど広くないですが、防犯上これで大丈夫なのでしょうか」
そんなリリの背後からアニエスの率直過ぎる問いかけが飛ぶ。そして玄関扉を叩いたベルナールは振り向きつつも周囲を見た。
「敷地面積と防犯にどんな関係があるのかわからないが、上位貴族の邸宅では基本的に防犯用の魔法武具が使用されている。夜間に敷地へ侵入する輩はもれなく焼かれる」
「なるほど。便利な魔法武具があるんですね」
「帝国にはないのか?」
「聞いたことがないです。こちらでは屋敷を高い塀で囲い、入り込みにくくすることで防犯に努めています。でもリリの実家は例外で、近隣の人が簡単にやってきて農作物を置いていくような状況ですが」
「それは……大丈夫なのか?」
リリの正体を知るベルナールは心配そうにリリへ問いかける。そこで扉が開かれ執事らしい男性が姿を現し、ベルナールを見るや驚いた顔を見せた。
「おかえりなさいませ、ベルナール坊ちゃま。マティアス坊ちゃまもご一緒なのですね。どうぞお入りください」
嬉しそうに微笑んだ執事に促されて4人は玄関ホールへ入る。
そうして奥に2階へ向かう階段のある吹き抜けの玄関ホールに立ったリリは上品な調度品や壁の装飾に目を見開いた。
「この家なら、確かに精霊石を集めることもできそうね」
「なぜそう思う?」
応接間へ案内するという執事に続くべく歩き出そうとしたベルナールが足を止めて怪訝な顔で問いかける。そのためリリはうなずきながらも玄関ホールへ手を向けた。
「このホールはガイアイリス大陸東の大国テイリュンスの様式だわ。階段だってそのまま運んで来たのでしょう?」
「いや…そこはわからないが…」
「素晴らしい」
屋敷の内装など興味のないベルナールが答えられないそのそばで執事が感動した様子で拍手した。
「坊ちゃまがお連れした方は素晴らしく博識なご令嬢でございますね。これまでこの屋敷に来られた方でそこまで言い当てられた方はございませんでした」
「そうでしょう。ところで応接間にはベルナール・ローランに案内させるから、あなたは家主を呼んできてちょうだい。おまえの相談相手の孫が来たと言えば飛んで来るわ」
一瞬で執事を認めさせたリリは家主を呼べと言い出した。それに戸惑う執事がベルナールを見れば、侯爵家の長男である彼も急いだほうが良いと言う。
かくして執事を走らせたベルナールは、廊下の隅で様子をうかがう侍女へお茶の用意を指示して応接間に向かった。陽射しの入る明るい応接間は優しい色合いの玄関ホールと一転して重厚感を見せる。
おそらくこの応接間は家主の趣味ではなく先祖代々の伝統なのだろう。古くから伝わる竜王国の建築様式と、細かく彫り込まれた木製の家具が置かれている。
その日のリリたちは震えるマティアスを連れてまでローラン侯爵家を訪れた。その理由はひとつで、ローラン侯爵が精霊石を大量に集めていると聞いたからだ。
情報源がミシェル・ディランである時点でリリもアニエスもそれを信用に足る情報ものだと考えている。ただアニエスは、たった1日でも寝込んだ自分の代わりを弟がしたことは納得していない。
むしろ嫌悪する相手のせいで瘴気疲労となり寝込んだことを知った瞬間に激怒したほどだ。そしてそんなアニエスが落ち着くまで数日を有してしまった。
学園ではいつものアニエスとして女子生徒たちと接していたが、不意に刃の切っ先のような空気が漏れ出る。その危険な雰囲気が、かえって女子生徒たちをときめかせたことをアニエスは知らない。
サイトラ王国産だろう香り高い紅茶を飲んでいると、応接間へローラン侯爵がやってきた。
濃い茶色の髪と瞳の凡庸な男。その色だけならジルベールともマティアスとも似ていなかった。ただ顔立ちは少し似ている。けれどその顔は内向的な性格が滲み出ているように陰気で、好感を持たれにくいものだった。
だというのに地味で凡庸なその男を前にしてマティアスは全身を震わせて縮こまる。そんなマティアスのひざに手を乗せたリリは視線を受けると柔らかく微笑んだ。
その合間に窓側の一人掛けソファへ座ったローラン侯爵はリリと、その後ろに立つアニエスとを見やる。
「王城での大立ち回りはお見事でした。どうやらあなた様はお父上に似ていないようだ」
「わかるわ。わたくしの父は慈愛に満ちていて可愛らしい人だもの。そしておまえは父のことも知っているのね」
「あなた様のおっしゃる相談相手様には、私の悩みばかり向けていたわけではございません。あなた様のお父上はこの国の希望であり宝でございました。気にかけるのは当然のことでしょう」
「それは正論ね。ところでおまえ、祖父に相談した流れで精霊石を集めたのでしょう? それをわたくしに売ってちょうだい」
「なぜです」
陰気で内向的な見た目のローラン侯爵の、リリの中での印象は最悪なものだった。なにせこの男はリリにとって大切な可愛い子犬であるマティアスを虐待と言えるほど厳しく扱い自己評価の低い人にした張本人なのだ。
そのため少し前までは括り殺しても構わないと思っていた。
しかし実際に会って会話をしてみると印象が変わってくる。もちろんそれはアニエスの弟から情報を得てしまったためもあるかもしれない。
だがその情報を抜きにしても相手は落ち着いた物腰で、厳格な様子も見えない。
「昨年の祝祭前後に、魔女が様々な井戸へ薬物を投げたの。そのひとつは竜王陛下を穢してしまい陛下は伏せってしまわれたけれど、王城や竜神殿の井戸はもう浄化済みよ。それに王都も順次浄化しているけれど、精霊石が足りないの」
「昨年の祝祭と言えば献上品に薬物が混じっていたそうですね」
「魔女の妙薬か、あるいは類似品よ」
「それはそれは」
大変なことだと言うローラン侯爵の表情は読めない。凡庸で陰気な男は、同時に表情が乏しく感情が読めない人物でもあった。
おそらくマティアスが怖いと思うのはこういうところなのだろう。厳格な性格ですぐに激昂するのだと長く思い込んでいたが、目の前の男は真逆なのだ。そして相手の感情が見えなければ誰でも不安になってしまう。
だがリリはその『誰でも』に該当しない性格だった。
「わたくしはね、この国にはさしたる思い入れもなかったの。竜の雛と言っても、帝国で生まれ、帝国で育ち、留学が終わればわたくしの可愛い子犬を連れて帰る身だもの。でもわたくしは知ってしまったの。この国の問題も、この国の貴族たちの努力も……おまえの長い苦しみも」
「だからこの国を救おうとしておられるのですね。そしてそのために精霊石が必要だと」
「わたくしの行動が竜王国を救うことになるかどうかはわからないわ。ただ街の水が穢れたままでは、シオン・トリベールのような人は水を飲み続けただけで死ぬことになる。それは防ぎたいわね。だって赤子ですら井戸の水を使うのだもの」
赤子は何も訴えらず、突然死したとしても原因すら探られないことが多い。赤子が死ぬことは珍しいことではないためだ。
だがその死因を減らせるのなら減らしたいとリリは考えていた。
「実を言いますとな。精霊石は既に魔力を持たぬ庶民の元には届いておるのです。魔力を持たぬ者は、産んだ子もまた魔力を持たぬ。それはこの国では呪われた血のように扱われますが事実は違う」
「おまえは己の金で購入した精霊石を、タダで配り続けていたの?」
「当然でしょう? 貴族は自分で買えばよい。しかし庶民に精霊石など一生働いても買えませぬ」
「おまえは凄いのね」
ローラン侯爵から出る言葉は正論だが、実行するとなるとかなり困難なものだ。なにせ精霊石は宝石類などとは比べものにならないほど高い。それに高濃度の瘴気を頼りに探せば見つかる魔鉱石の鉱山と違って精霊石は探しようがない。だからこそ数が少なく、その希少性から価値も跳ね上がるのが精霊石の特徴だった。
そんなものを私財を投げ労力をかけてまで買い集め、無料で庶民にくれてやるなど人によっては愚かと笑う所業だ。
「セレンティーヌ様はご存じないでしょうが、わたしの兄はこの国の奇跡そのものでした」
ローラン侯爵の行動に感動すら覚えるリリを前にしても、この侯爵の態度は欠片も変わらない。『優秀な息子が褒められても喜ばない父親』との評価と同じように、彼は自身が褒められても喜ばないらしい。
そんなローラン侯爵が語り始めたのは出奔した兄の事だった。
「12歳になる前の春のことです。両親は兄が中等部でその才能を周囲に見せつけ、絶大な称賛を受けることを確信していた。そんな中で兄は言いました。『ブリジットが死んでしまった』。このブリジットとは近所に住む赤子で3歳の可愛らしい女の子でした。我々は男兄弟で、普段付き合う同世代も侯爵家の嫡男ばかり。なのでとても珍しい存在だったのです。ゆえにとても愛らしかった。兄もブリジットに髪が伸びたらと、様々な色のリボンを贈っていました。ブリジットにも好みがあるだろうからと」
「そのブリジットは……まさか魔力がなかったの?」
「ええ。3歳の時に検査をしたところ魔力がないと。とはいえそんなものは貴族の家でもたまに生まれますし、裕福な家なら守り育てることもできるのです。世間から隔離してしまえば良いのですから」
「でもブリジットは3歳で死んだ。乳幼児が世間に出ることはないし、貴族の娘ならなおのことよね。だとすればその死因も…いまのわたくしたちならわかるけど、おまえの兄はなぜ知ったの」
「セレンティーヌ様、兄は神童なのです。竜神殿に赴きあらゆる書物を読み漁り己の知識にするくらいのことはできます。そして兄は己こそがブリジットの死因だと気づきました。そして中等部入学前の夏、兄はわたしにすべてを語り出奔しました。セレンティーヌ様は先程、トリベール侯爵の息子の名を出しました。ですが兄がこの国にいてローラン侯爵となっていたなら、彼はもう死んでおりますよ」
「おまえの兄はそれほどの魔力を持っているのね。だというのにわたくしはその存在を知らない。魔術師などにはならなかったということかしら」
「魔術師では稼げませぬからな。そしてこれは他家の知らぬことですが、この国で最も裕福なのは我がローラン侯爵家です。おおよそリュースター商会を抱えるブレストン家に次ぐほどの財がありますが、この金を稼いだのは兄です。そしてその金はすべて精霊石の購入に使うと兄弟の内で決めております」
「でもその『解決策』をおまえに教えたのはわたくしの祖父だわ」
「確かにそうですな」
「ならばブレストン公爵家も手を出すべき問題よ。おまえたち兄弟が抱える贖罪などわたくしは知らない。3歳の小娘の生き死になどわたくしには関係ないもの。でもわたくしはノワール・ブレストンの孫。この国の憂えごとき簡単に消してやらねばならないわ」
「我が家にある精霊石を井戸に投げるだけならば、セレンティーヌ様の手を借りる必要もなさそうですが」
「おまえは、その精霊石に竜の力が入ったらどうなるか知らないのね?」
「そのような機会に恵まれませんので」
「竜神殿の主の手で井戸に投げられた精霊石は井戸の水を浄化して聖水に近いものにしたの。穢れを消すだけでなく、その水を飲めば身体の中が浄化される。つまり微弱でも竜の力を水に変えて分け与えられるのよ」
「ではなおのことあなた様に売ることはできませんな」
「どうして!」
ここまで話しても拒絶されるのかとリリは憤然と声をあげた。するとローラン侯爵は終始変わらない無表情を貫いたまま立ち上がる。
「あなた様から金は取れぬ、ということです。精霊石がしまわれた部屋へ案内しましょう。お連れの騎士殿もどうぞ。しかしベルナールとマティアスは来てはならぬ。おまえたちは魔力を垂れ流し過ぎているからな」
息子ふたりに来るなと命じたローラン侯爵は早々に歩き出してしまう。そのためリリはマティアスに大丈夫よと告げて立ち上がった。そうして歩き出し、応接間を出たところでローラン侯爵が立ち止まり待っていてくれた。
「その速度では日が暮れてしまいそうですな」
「これでも急いでいるほうよ」
歩く速度をこんなにも率直に指摘する無礼者はこの国にいなかった。しかも相手はリリの本名を知りながら言うのだから無礼も無礼だろう。
そえして口を引き結び頬を膨らませるリリにローラン侯爵は肩をすくめ歩き出す。
「マティアスの性質とよく合いそうだ」
「当然よ。彼はわたくしの可愛い子犬だもの。飼い主と似ているのよ」
「アレもそろそろ成長期に入りますから、いつまでも可愛いではいないでしょう」
「なんとなくわかるわ。いまはもうないけれど、以前は魔法武具を使って大人になっていたから。そういえば、おまえはなぜわたくしの子犬にあのような魔法武具を与えたの? 身体強化だのなんだの詰め込めば、もうそれは子供のオモチャではなくなるわ。しかも扱うには大量の魔力を必要とする。そんなものでもマティアスが強くなりたいと頼んだ結果だけれど、おまえはそれを黙認したのでしょう」
「あの魔法武具は、膨大すぎるアレの魔力を無駄に浪費させるためのものです。中等部に入れば3年生にトリベールの息子がいるのですから、対策しないわけがない」
「そこまで考えていたの。なのに、魔力量測定では1位ではなければとマティアスに圧力をかけたのはなぜ?」
「無理なことを押し付ければ、ますますこの家を疎うでしょう。マティアスは甘い性格ゆえそこまでではなかろうが、ベルナールは強い男です。弟を守るためにこの家を捨てるくらい簡単にできる」
「ではベルナールが帝国に行くことを反対しないのね」
「まぁ、そうですな。グレイロード帝国であれば兄がおりますから他国よりは安堵します」
外観に反して広い邸宅を進みひとつ角をまがりさらに行くと廊下の窓がなくなる。さらに奥へ進むと地下へ進む階段にたどり着いた。
「ここは山を掘リ作った場所で、外界の影響を受けません。精霊石はその性質から放置しておくだけで周囲の瘴気を吸ってしまいますから、瘴気の届かないこちらに」
「精霊石のためだけにここまで造ったのね」
「我が一族は魔力量の多い者が多いですからな。ただ屋敷に置いておいたのでは駄目にしてしまう」
せっかく手に入れた精霊石なのに、家人の魔力を吸って使えなくなっては意味がない。その説明はリリにも納得できるものだった。
そんな侯爵に案内され地下へ進むと弱い照明が照らす広い地下室が広がる。そして室内に積まれた木箱には精霊石が入っているのだろう。
そう考えながらリリは耳飾りをはずしてアニエスにそれを渡す。
「侯爵は先程の応接間まで下がりなさい。わたくしは未熟だから手加減できないわ」
「かしこまりました」
今回の指示には従う姿を見せたローラン侯爵はその足で地下室を去っていく。その後ろ姿を見送ったリリは首飾りをはずしてアニエスの手に乗せた。
そこでアニエスがなぜか小さく笑う。
「なぁに?」
「セレンをあこそまで言い負かす人物なんてなかなかいないなって」
「確かにそうね。わたくしのことを正面から遅いと言ったのはローラン侯爵とおじさまくらいだわ。おじさまなんてあんな杖をついてゆっくり歩かれるのに、わたくしには遅いと言うのだもの。それにローラン侯爵なんて初対面なのに!」
「ゆったり可愛い砂糖菓子の愛らしさを評価に入れないほど実務的な人かもしれないね。その辺りはベルナール卿と似ているかもしれない」
「融通が利かない石頭ね。わかるわ」
そう語りながら指輪をはずしたリリの髪が音もなく色を変えていく。そうしてまばたきとともに開かれた深い海のような藍色の瞳は大きく開かれ、唇は弧を描いた。




