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砂糖菓子とラピスラズリ  作者: メモ帳
中等部3年
69/93

67.ミシェル・ディランは最終兵器 前編

 水の月の末日は夜遅くまで雨が降り続けていた。竜王国では、この時期に降る雨は冬の呼び水と呼ばれているらしく濡れれば身体を冷やしてしまう。

 そんなことは1年この国にいればわかるはずなのだが、翌朝のアニエスは高熱を出して寝込んでいる。


 そしてアニエスの部屋で幼馴染みの有様を見たリリは呆れた顔で嘆息を漏らした。


「アニー、あなたまた髪をきちんと拭かずに寝たのね」

「ううう…」

「ご実家にいた頃は、髪が短いからミシェが乾かしてくれたからと放置していたけど、こちらに来てからはそんなことなかったじゃない」

「まことにもうしわけない」

「昨日なにがあったのか知らないけど、本当におバカさんね。教諭には説明しておくから今日はゆっくり休みなさい」

「ふぁい」


 いつも学園内では凛然としているアニエスだが、素の彼女は甘やかされた子供である。ただ彼女の特殊な部分は親ではなく双子の弟に甘やかされてきたことだ。しかも本人は大雑把でガサツで令嬢とはかけ離れた性格をしている。

 そのため騎士としての緊張感を捨ててしまうと、とたんに己の世話すら投げ捨ててしまうのだ。


 真っ赤な顔で、さらに鼻声なアニエスを部屋に残したリリは中等部校舎へ向かうべく寮内を歩く。そうしてアニエスの本当の性格についてマティアスに説明するべきかと緩く考えていた。



 ◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇



 リリが部屋から出て行った後もアニエスはベッドから出ることもできなかった。高熱のため全身を倦怠感が包み込み、たまに意識がうつろいだように眠りに落ちる。

 そうして眠りながら母国にいた幼い頃を夢に見ては双子の弟のことを思い出す。今朝のリリが言ったようにかつての自分は弟に頼りすぎていた。

 だから近衛騎士になったというのに、ここでまた失態をしてしまうなんて悔しい。

 自分は姉で、公爵家の長子で、あの父の娘なのに。風邪などに負けてしまうのが悔しい。昨日のあの輩に関して感情を抑えきれなかった自分が腹立たしい。

 そして何よりその感情を、己より年上で敬意を抱く相手にぶつけてしまう未熟さが許せない。


 夢の中で幼い自分はたくさんの悔恨を吐き出す。そして目の前の弟はいつものようにアニエスの愚痴を黙って聞いてくれる。

 そんなことをうつらうつら続けていると、不意にアニエスの額に冷えた手が触れられた。

 その心地よさに目を開かせたアニエスはぼんやりと目の前で己を覗き込んでいる顔を眺める。


「なんでアニーはこんなになるまで呼ばないの。アニーのそれは瘴気疲労だよ。わかる?」

「う?」

「うん。今の君に言っても無理なのはわかった。でも大丈夫だよ」


 アニエス自身とよく似た顔の持ち主は「今回は任せて」と頭を撫でてくれる。そのためアニエスは懐かしい思いと大きな安堵感に包まれ眠りについた。




 ◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇




 3限目の授業を終えて担当教諭が教室を出て行くと、入れ違う形でアニエスが姿を現した。朝は真っ赤な顔で寝込んでいたアニエスが平然とした顔でリリの元にやってくる。

 その変化に驚くリリのそばでマティアスが立ち上がった。


「もう大丈夫? 風邪を引いて熱を出したって聞いて心配してたんだ」

「心配させて申し訳ない。今朝は少し熱っぽかったけど、すぐに下がったみたいだよ」

「そっか、良かった。あ、次は移動教室だよ。ダンスレッスンだからアニエスはまた令嬢たちに絡まれちゃうね」

「そうか。だがラピスラズリ? ダンスレッスンなら君とやれば良いのでは?」

「え…」

「ミシェ!!!!」


 いつものアニエスとあきらかに違う発言にマティアスが戸惑うそばでリリが声をあげた。

 とたんにアニエスとそっくりなその生徒は黒い瞳を細めて泰然と微笑む。


「今ここにいるのはアニエス・ディランだよ。もしそれを嫌がるなら、あなたの本名を呼んで差し上げるが」

「アニーはそんな意地悪しないのよ!」

「対等な要求だろうが……まあいい。それより私の愛しいラピスラズリ君? ダンスレッスンの場所まで案内してもらっても?」

「え? なんで? というか誰ですか? アニエスは?」

「今は私がアニエスだよ。でもあの子は瘴気疲労で高熱を出してしまってる。昨年からここにいても起きなかったのに、突然のこれはおかしいだろう?」

「えっと…瘴気疲労って、たぶん魔力を受けて身体が衰弱するってことだよね? 魔力を持たない人が衰弱して死んでしまうのと同じ…なのかわからないけど」

「おおよそ同じだよ。アニエスは神聖力しか持たないから強すぎる瘴気にその身を侵されれば衰弱して死ぬ。ただ彼女は人間で、さらにその神聖力が強いから日常生活に支障を来さない。じゃあ逆に、それほど強いアニエスが寝込むほどの瘴気とはなんだろう」

「なんだろ……魔女の妙薬はそんなに瘴気が強いわけがないだろうし。それにそんなものがこの学園内にあったら死人が出てしまうよ。僕の知り合いのシオンさんなんて、そのせいで本気で死にかけたんだ」

「なるほど。ではそっちを優先させよう」


 マティアスの言葉を受けてアニエスによく似た生徒は荷物を机において踵を返そうとする。そこでオレリアに腕をつかまれ足止めをされてしまった。


「アニエスに似てるだけの別人なあなたは、シオン兄様を助けてくれるのよね? あなたを信用する部分が今のところ見つけられてないんだけど」

「いま君の目の前にいるのはアニエス・ディランだよ。目の前に困ってる人間がいれば、どんな状況でも救いに行く。そんな人物を名乗る私が君の兄を救わないわけがないと思うが」

「それは……そうね。アニエスは初対面の異国の人間のために決闘までする優しい人だから」

「わかってるじゃないか。君の言うとおり、ぼくの姉は超絶格好良い人なんだ」

「カッコイイとは言ってないわよ!」


 優しいとは言ったが格好良いなどと言っていない。真っ赤な顔で強めに否定するオレリアにアニエスを名乗る生徒は嬉しそうに笑った。


「つまり君はまだアニエスの魅力を理解できていないということだね」

「人を理解がないみたいに言わないでよ! それより兄様は高等部にいるから、いまから行くならダンスレッスンは休むことになるわ。でもあなたがアニエスになりすましたいなら、休まないほうが良いわよ。アニエスは優等生だから」


 高等部はこことは別の敷地にあるから、行くにも時間がかかる。だがアニエスは授業をサボらない優等生として認識されている。なのできちんとアニエスでいるつもりなら、授業に出たほうが良い。

 そう教えてくれたオレリアに彼は、アニエスとよく似た顔で礼を告げた。


「親切な忠告感謝する」




 獅子の月にリリを含めた女子生徒はダンスレッスンのために採寸をしている。そこから1ヶ月を経て生徒たちの手元に白いワンピースが届けられた。

 そして今回はそのワンピースを着て2度目のダンスレッスンとなる。

 前回のレッスンではダンスの基礎を教えられ、それぞれ好きな相手と振付を覚えるように踊った。だが今回は覚えただろう振付を確認しつつ曲に合わせて踊ることになる。


 そうなるとやはりダンスのパートナーはダンスが上手な人がいい。下手な男子と踊って無様な姿を晒したくはないし、何より彼らに足を踏まれるなんてありえない。経験者だと偽り基礎クラスを逃れた男子が平気で足を踏むことが前回何箇所かで発生していたのだ。

 それなら当然のようにダンスも履修している近衛騎士で、さらに美形でいつもこちらを褒めてくれるアニエスが一番いい。

 そう考えた女子生徒たちはその日のダンスレッスンでも、広間へやってきたアニエスの元へ向かった。


 女子生徒は白いワンピースを着るが、男子生徒は制服のままレッスンを行う。しかしもう見慣れたはずのアニエスが、その日は少しだけ違って見えた。

 いつもと同じスラリとした長身と長い手足。漆黒の髪や深い闇色の瞳も、それを際立たせる白磁の肌も変わらない。

 だがその手は騎士と言うには美しく、けれど本物の男であるように少し骨ばっている。


「アニエス君…、今日は雰囲気が違う気がする」


 ダンスレッスンの合間に何人かの女子生徒がアニエスに見惚れながら問いかける。そしてアニエスはそんな女子生徒に優しく微笑みながら返していた。


「もしそう見えたなら申し訳ない。でもこれは仕方ないよ。今の君たちはまるで白い花弁で世を清めるシャラの樹の精霊のようだから」


 それは隣国サイトラ王国で数百年に一度咲くと言われている伝説の樹だ。アニエスの口から出たその言葉を理解した途端に女子生徒は赤面し戸惑いステップを間違えたあげく体勢を崩してしまった。

 だがアニエスはそんな女子生徒の脇腹を支える手に力を込めると、遠心力を使って彼女をフワリと浮かせて体勢を戻してくれる。

 その見事なダンスに周囲から驚きの声があがり、見ていた女子たちから拍手が沸き起こった。


 かくしてダンスレッスンの中で普段のアニエス以上の爪痕を残した彼を、マティアスは複雑な顔で見つめる。


「ディーもアニエスもとんでもなく凄いのに、さらに凄い人がいるなんておかしい。帝国はどうなってるの」

「それは心外だな」


 授業を終えて女子生徒たちが更衣室へ向かおうと動く中で、制服姿のアニエスは汗ばんだ前髪をかきあげた。ただそれだけで女子の何人かが色気で人は死ぬのだわとささやきながらも更衣室に向かう。

 そんな中でリリは呆れた顔でアニエスにタオルを差し出した。


「あなた、本気を出しすぎてるわ。わたくしの可愛い子犬を落とそうとしないでちょうだい」

「でも彼は元から私の愛しいラピスラズリだろう?」

「マティアスはノワール・ブレストンのことが好きなのよ! そして今のマティアスはわたくしの可愛い子犬なのだから手を出さないでちょうだい!」

「うん。なぜぼくが彼に手を出すという思考に行き着いたのかわからない。そしてマティアス、君も誤解してはいけないよ。ぼくたちの中で一番凄いのは私……じゃなくアニエスなんだ。生まれ持った魔力だの何だのに頼らず、純粋に努力だけで近衛騎士になった。それは凄いことだから」

「あ……そうか。確かに…そうだ」


 アニエスの真面目な指摘にマティアスは腑に落ちたようにうなずいた。


「ディーは宮廷魔術師様譲りの魔力があったから魔力量測定器を壊したりできた。そんなディーでもまだ中等教育機関というところの1年生だったよね。それにディーも、アニエスの真似はできないって言ってた。それを聞いた時は謙遜だと思ってたけど……確かにアニエスは凄いんだよ。ひとつしか年齢が違わないのに近衛騎士で、本当に強くて賢くて、今は生徒会の手伝いもしてて、なにより兄上に認められてる」

「見る目があると言う意味では、君も兄君と同等だと思うが。君のような子に認められてアニエスも嬉しいことだろう。そしてリリ、ぼくは彼をどうにかする気はないから早く着替えてきてくれないか」

「でもあなたが素性を明かしたら」

「明かす必要があるようには見えない。そしてオレリア君の兄を救う時間が欲しい」

「……それはそうね」


 アニエスと違って回り道をしない彼の言い分は率直で理解しやすい。もちろんアニエスの言葉が回り道をするのは近衛騎士だからだが、彼は別の意味で率直だ。

 そうして素直に理解したリリは待っていてくれたオレリアと共に更衣室へ向かった。


 その小柄な背中を横目に見送ったアニエスは、手にしているタオルで額の汗をふく。そしてきっとアニエスならこの程度で汗をかいたりはしないだろうとも思うのだ。



 昼休憩に入ると学生たちはみな食堂へ向かう。もちろん携帯できる食事を購入して中庭で食べる者もいるが、それでも全員が食堂に行くことになる。

 そうして中等部の生徒たちが作る流れから離れたリリたちは開いたままの裏門を抜けて高等部の敷地に入り込んだ。


「そういえばこの国は安い魔法武具が流通していると宰相が言っていたよ」


 庭園に面した渡り通路を歩きながらアニエスがつぶやく。そのため前を歩いていたリリは肩越しに振り向いた。もちろんそんなリリの右手はマティアスと繋がれエスコートされている。


「それが何かあるのかしら。おじさまはなんて?」

「それだけだ。宰相は魔力を持つ側だから気づいていない。だが安い魔法武具は無駄に魔力を垂れ流すから、君の身には良くない。もちろん君がその魔法武具をはずさない限り問題ない話だが」

「でも魔力を持たない者には毒なのね? わたくしの力で学園内のすべての魔法武具を止めたら良いかしら」

「君は簡単に他人の財産を壊そうとしないでくれ。それに安い魔法武具の乱用はこの学園内に限った話じゃないだろう」

「ではどうしたら良いの?」

「これはオレリア君の家の経済状況にもよるが…」


 そう言いつつアニエスは隣にいるオレリアを見やる。そして名指しされたオレリアはその視線をまっすぐに受け止め自分の胸に手を当てた。


「わたしの家はトリベール侯爵家だから、この国の中では財力があるほうよ。シオン兄様を守るのにお金がかかるてしても父なら出してくれるわ」

「それなら問題なさそうだ。基本的に人が瘴気から見を守るために使用されるのは精霊石という石だ。しかしこれは世界でも貴重なもので、高額な上に入手困難な代物なんだ」

「つまり入手するだけで多くの人の手を使わなければならないのね。その人件費だけでも相当なものになるから経済状況をとなる」

「ああ、しかも入手した精霊石の大きさによって蓄積できる瘴気の量も違う。そして限界まで蓄積した精霊石は神殿で浄化してもらわなければならない。入手して終わる話ではないんだ」


 アニエスの話を聞きながら渡り通路を抜けたオレリアはその目をマティアスへ向ける。同時にマティアスも制服の袖口を引っ張って、手首に着けている魔法武具を見せた。


「宰相様が改造してくれた魔法武具にも精霊石がついてます。これは使えませんか!」

「無理だな。それは精霊石で君の魔力を蓄積することで効果を発揮するよう設計されている」

「ええっ…じゃあ、宰相様にまだ精霊石を持ってないか聞いてみたりとか」

「そうしてオレリア君の兄は、帝国の宰相に一生かけても返せないほどの借りを作るのか? 兄君が精霊石を所持する必要がある期間はここを卒業するまでだ。その期間のために一生負債を抱え続けさせるのは不憫じゃないか?」


 本人が望んでそうなったわけではないのに。アニエスの言葉にマティアスは確かにとうなずく。そして深刻な顔をしたかと思えば照れたように笑う。


「今のアニエスが格好良すぎて照れちゃうのどうしよう」

「ミシェ! あなた本当に手加減なさい!」

「そんな理不尽があってたまるか」


 照れるマティアスの隣で怒るリリにもアニエスは怒るでも困るでもなく泰然と返す。そんなアニエスはオレリアに兄のいる場所について問いかけた。


「この時間だと食堂になるだろうか?」

「そうね。シオン兄様は2年Aクラスだから、アドリエンヌさんたちに食事を誘われているかもしれないわ。シオン兄様は博識で学力も高いから、お元気なら来年は生徒会役員になれる人なの」


 だからきっと勧誘はされてるだろう。そう語るオレリアは食堂の方向を指差しつつ歩き出した。

 ホールの奥へ進むと階段下の出口から中庭に面した渡り通路に出て第二校舎へ向かう。

 高等部の食堂は第二校舎の東側に位置していて、1800人近い学生を収容できる広さを持つ。食堂内は2階建てになっているが、料理を受け取る場所は吹き抜けになっている。

 その広大な食堂は昼ということもあり多くの学生でにぎわっていた。


「これはシオン兄様を探すのに骨が折れそうだわ」

「わかるよ。微弱な神聖力を持った人物はこの中にふたりいる。いや……ひとりは微弱ではなく痕跡に近いのか…」

「あなたは魔法武具を使った時のマティアスのように力が見える人なの?」

「目に見えるわけではないけど認識できる。おいで、こっちだ」


 オレリアへ手招きして歩き出したアニエスの後ろ姿を、リリは嘆息を漏らしながら眺める。しかし文句を言うこともなくマティアスと手を繋いだまま後をついていった。


 広大な食堂はテラス席もあり、中庭を眺めながら食事を楽しむこともできる。だがアドリエンヌ・オーブリーは基本的に外で食事をすることは避ける傾向にあった。陽射しで肌が焼けることもそうだが、外でくつろぎながら楽しむなら昼食ではなくお茶が良いと考えているからだ。

 そうしていつものように友人たちと、そして今年からクラスメイトとなったシオン・トリベールと共に2階の奥まったテーブルで食事を楽しむ。

 会話の中身は最近なら今月末に開かれる音楽祭に関することが多い。だが週末には街へ出かけようかと語ることもあるし、ブリジットの作品に関する話を楽しむこともある。

 そんなアドリエンヌは愛しい砂糖菓子がやってきたのに気づいて笑みをこぼした。


「ごきげんよう。今日のリリはわたしたちと昼食を取りたい気分なのかしら」

「いいえ、お姉様。こちらの……アニエスが、シオン・トリベールに用があるのです」


 アドリエンヌに嘘を付きたくないリリは、本音の部分では彼をアニエスと呼びたくない。だが今は呼ぶしかないと苦い顔で告げつつ目を向けた先で、アニエスがシオンの手を取り立ち上がらせていた。

 あげく唖然と立ち尽くすシオンの顎をつかみあげては、鼻が触れるような距離で見つめている。


「あなたは何をしているの!」

「顔色を見ている」

「そんな見方があるものですか! 不躾だわ! 不謹慎よ!」

「こんな場で声を上げる君のほうが不躾だろうに。オレリア君」


 アニエスに酷似したその学生は、リリを怒られても平然としていた。その時点で誰が見てもアニエスとは別人だとわかる。

 だと言うのに彼は気にした様子もなくオレリア・トリベールを呼ぶ。そしてオレリアもどんな状態なのかと彼に問いかけた。


「君の父君がこれから精霊石を探すのでは間に合わない。私が持つ物をあげようと思うのだが、それでも構わないだろうか」

「ええ、兄が救われるならなんでもいいわ。父がいくらでも払ってくれるから」

「これは金額がつかない代物なんだ」


 そう言いながらシオンから手を離したアニエスは制服のポケットに入れていたものをゆっくりと取り出す。

 それは黒く長い紐に吊るされた装飾品で小さな銀の剣にも似た飾りがついている。


「これは私の母が妊娠中に魔界帝国の大公から譲られたもので、装飾部分は精霊石を溶かし込んだ銀が使われ、黒い紐は竜のヒゲでできている。この世でひとつしかない物に値段はつかないが、卒業した時に返してくれたら良いよ」


 説明しながらアニエスはその飾りをシオンの首にかけた。首飾りにするには長いそれは二重にしてつけるものなのだろう。そう考えるオレリアだが、その目は見開かれたままだった。


「値段がつかない、って??」

「人類の叡智を結集しても生み出せない古代異物に値段がつかないのは、魔力剣の存在で知られているだろう? これはそれと同じだ。だが誤解しないでもらいたい。私はオレリア君の兄君を口説くつもりも惚れさせるつもりもない」

「それはそうね!! その誤解をするのはリリだけだから安心してちょうだい。そしてあなたは兄が危険な状態だからそれを貸してくれることにしたのよね? それならこちらも何も疑わないわ」


 危険な状態だったのならとオレリアは納得するが、シオン本人は驚いた様子で首を横に振る。


「たしかに最近少し体調は悪い時もあるけど、以前と比べたら悪くないよ。危険な状態だと言われるほどでは」

「君の自覚としてはそうだろう」


 たいしたことはないというシオンの顎をつかんで黙らせたアニエスは顔を近づけると、周囲の喧騒にすぐ紛れるような声量で告げる。


「安価な魔法武具は魔力を垂れ流す。その時点で君の身体は蝕まれるが、さらに不運なことに、君と同世代に魔女がいるようだ。こんな状態では君は2か月ほどで動けなくなる」


 その恐ろしい告白にシオンはあごをつかむ手を離されてもすぐには言葉を出せなかった。


「ま…えっと、魔女って……魔女の妙薬の?」

「人類を超える魔力を持つ者をこの国では魔女と呼ぶ。それはこの国の人間なら当然知ることではないのか?」

「あ、はい。それは童話を含めた様々な本に出てきますから。でも魔女の妙薬を作る悪人を指す言葉だと思っていました。そういう事案が昨年あったので」

「善悪問わず魔力が強い人間は魔女と呼ばれる。だが確かにそうだな」


 シオンの言葉を聞いたアニエスは真面目な顔を崩さないままテーブルに並ぶ料理を見た。


「魔力を持たない者が食べてもたいした効果はないだろうが、魔力の強い者が食べ続ければ害悪にもなるか」


 彼のその一言に令嬢たちがナイフとフォークを皿に置いた。

 その上でアドリエンヌが怪訝な顔で料理とアニエスとを交互に見て問いかける。


「毒が含まれているというの?」

「薬草と治癒魔法と魔女の魔力が混入しているだけだ。魔力を持たない者なら薬草の効果で体質改善もなるだろう。だが魔力の強い者は魔女の魔法に引っかかる。魔法にかかってしまえば解除するのに労を有するし、毒素を抜くのに大量の精霊石も必要になる。この中で言うなら君が最も危険な位置にいる」


 アドリエンヌに手を向け告げたアニエスはそのまま手をリリへ向ける。


「リリは彼女たちと食事を楽しみながら説明してあげると良い」

「あなたは何をするつもりなの? そう言うということは、別のところへ行くのではないの? そしてこの食事はわたくしが食べてはいけないのでは?」

「オレリア君の兄君に案内を頼んでこの敷地の中心で魔法陣を敷く。間近で私の力を浴びれば彼も浄化されて都合が良いだろう」

「それはそうね。わたくしよりあなたのほうが、シオン・トリベールにとっては救いになるもの」

「誤解しないでくれ。彼の命を真の意味で救ったのは君だ。そして今の私はアニエスなのだから、君は大切な姫君だよ」

「あなたらしくない行動だけど、そこまでアニエスになりきりたいのね」

「それが代理というものだからね。それにアニエスを瘴気疲労に追い込んだ魔女を許す私でもない」

「そうだったわ。わたくしが括り殺しても許されるほどのことよ」

「そんなことをしたらアニエスが悲しむよ。さて長話をしてすまなかった。兄君には道案内を頼みたい」


 会話の相手を変えたアニエスはシオンを誘導するように階段のある方向へ手を向けた。そうして立ち去るふたりを見送ったリリは、まずはアドリエンヌに彼のことを説明することにした。


 彼の名はミシェル・ディラン。アニエスの双子の弟だが彼自身に王位継承権はない。その理由は彼の特殊過ぎる生まれにあるが、今回の問題にその話は関係ない。

 今回の彼は酷似した外見を利用してアニエスの代わりをしている。そして同時にアニエスが寝込む理由となった瘴気疲労の原因を排除しようとしていた。




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