47.ブリジット・ローランの新作
祝祭月の最初の週末を街で遊んだリリは学園に戻ってもあの広場で手にしたパンが忘れられなかった。
もちろんあのパンを再び食べたいとは思わない。
だが竜すら狂わせる魅了を秘めた薬物とは何なのかと、疑念が脳にこびりついて離れないのだ。
もし本当にそんなものが存在するなら、竜王陛下の手へ届く前にすべて燃やし尽くして製造者も消さなければならない。
だがそう思っても相談したい相手は隣の敷地にある高等部の人間で、さらに本人は今なお寝込んでいて復学できていない。
そしてベルナール・ローランをそうしてしまったのは未熟な竜であるリリ自身だ。己の行動に間違いはないし反省すべき点など欠片もないと思っているリリだが、その一点だけは悔やんでいる。
そして次に同じような事が発生した時は、アニエスに頼んでベルナールを窓の外へ放り投げておこう。そのように思うまま提案という形で今日も隣にいてくれるマティアスに話してみる。
すると穏やかな彼は苦笑をこぼして気持ちはわかるよと寄り添うような言葉をくれた。
「でも普通の人は、窓から放り投げられたらケガをするか死んでしまうよ」
「でもディーはきちんと着地するのよ。ねぇ? アニエスもそれが最善だと思うわよね?」
マティアスから遠回しに止められたリリは琥珀の瞳でそばに立つ幼馴染みを見上げた。とたんに優しい近衛騎士であるアニエスは困ったように微笑む。
「可愛いリリのためなら少しのケガもなく着地するものではあるけど、そもそもベルナール卿はそのように扱って良い相手ではないよ。だって彼は私の可愛いリリを何度も救ってくれた恩人だ。朝露を忍ばせて咲く可憐な花びらのように扱うことは許されても、放り投げてはいけない」
「あら、ではどうやって彼を危険から遠ざけたら良いの?」
「その時は私が彼を優しく抱いて離れるよ。大丈夫。前回は失敗してしまったけど、次はきちんと彼を守ってみせるよ」
アニエスは優しい笑顔のまま騎士として答えている。だがマティアスは男としてそれはどうかなと苦笑をこぼしてしまっていた。
ただ周囲で話を聞いているSクラスの令嬢たちは小声で近衛騎士アニエスとベルナールのことをささやきあっている。
そうして日々が過ぎていき、ベルナールが高等部に復帰したらしいとリリの耳に入ったのは祝祭月も半ばに入った頃のことだった。
祝祭月は秋の終わりに開かれ、豊穣を祝う意図も含まれる。だから王国民はこぞって竜神殿や王城へ1年の実りを献上する。
だが祝祭月の半ばを過ぎた頃に、竜神殿の主からの言葉として祝祭の献上は控えるよう指示が出た。
そして竜王国が建国してから一度もなかったその拒絶に民は戸惑う。そんな民たちへ竜神殿から庶民でもわかりやすい説明が長い文章を貼りだす形で出された。
豊穣を祝い竜王への感謝を示す竜の月の祝祭。その催しと民の思いを竜神殿は否定しない。これまでも献上された品々は一部ではあるが竜王のもとに届いている。そして消費しきれないものは孤児院などの子らへ与えることもしてきた。
だが今回の献上品には、竜王を害する意図を持った薬物を含んだものが多く紛れている。そしてそれが放つ強い瘴気は竜神殿を穢し、竜神殿に救いを求めやってきた者たちをも危険に晒している。
そのため件の薬物に関する追求が終わるまでは献上を控えてもらえると助かる。
竜神殿は民の思いを拒否しないが穢れを持ち込む輩を排除したいと考えている。そう読み取った民たちはたちまちに理解を示し、竜神殿への献上は激減した。
それら王都での話を、世間から隔離された学園内で聞いたリリは自分が食べたものが竜王にも向けられていた事に驚いた。
もたろんリリがそれを食べたのは偶然のことだ。だが献上品にそれを忍ばせたのは、竜神殿が言うとおり竜王を害する意図があってのことだろう。
秋が進んだ学園内の庭園は今も落ち葉が地面に舞い落ちている。そんな色鮮やかな庭園にあって琥珀の瞳を細め考え込むリリの姿は可憐な砂糖菓子そのものだ。
だが同じく美少女として既に有名なエミリー・オリヴェタンは酷い話よねと肩をすくめる。
「わたしたちが祝祭で出かけた時も広場で騒ぎがあったじゃない? あれもその薬物か何かを食べた人が店に殺到して買い漁ろうとしたからなんだって」
「わたくしがベルナール・ローランに保護された時のことね」
「そうそう。砂糖菓子様の可愛さを利用して店の看板として使おうって試食させたあれ。で、可愛い砂糖菓子様が美味しそうに食べてるからって買い物した人々がそれを食べて騒ぎを起こしたって流れ」
「わたくし、人を招く餌にされたのね」
「まあ学園の人間と違って、街の人らは砂糖菓子様の可愛さに慣れてないからね。そこは仕方ないよ。でも砂糖菓子様は大丈夫? そのパンを食べた人たちはみんな今も薬物中毒みたいな感じで入院してるらしいんだけど」
「ええ、きっとわたくしは少ししか食べていないから、大丈夫なのかもしれないわ」
リリはただ奪われたクレープを取り戻すためにパンを食べたに過ぎない。ただパンを一口食べただけで、香り豊かなそのパンの中に入ったクリームの虜となっていたことは否定しない。そしてそこからの記憶がないので、リリ自身がどれほど食べたのかもわからない。
「じゃあ全部食べてないからまともでいられたのかもね。たくさん食べた人は本当にすごいらしいよ。パン屋のこと女神だと思ってるらしくて、手足を拘束されないと施設を脱走してその女神を探そうとするんだって」
「そこまでになると人と言うより獣ね」
「でしょ? その話を祖父から聞いた時はゾッとしたからね。ホント、砂糖菓子様がそうならなくて良かったと思ってるよ。だって砂糖菓子様はわたしにとって世界で2番目に大切な人だからね」
そう言いながらエミリーはリリの手をつかみあげると己の両手で包み込む。輝く金髪の美少女は、そうして自分と身丈の変わらないリリへ顔を近づけて
そしてささやくように告げた。
「最近、ブリジットさんの新作が出たんだけど知ってる?」
「知らないわ。お姉様の新作ってどういうこと? ブリジットお姉様の作品が本の形で売っているの?」
「何十冊と売ってるよ。大半は兄弟愛を書いたものだけど、今回は異国の騎士との共闘と親愛」
「親愛」
ブリジット・ローランが書いた兄弟ものであればモデルは実の兄弟となるだろう。基本的にこの手の素材は作家の身近な人間が該当することが多い。
となると異国の騎士との共闘と親愛が書かれたその新作に出てくるのは確実にアニエスだ。
「それはわたくしが絶対に読まなければならないものだわ!!!」
興奮のあまり思わず叫んだリリの目の前で半歩下がったエミリーが片耳を押さえながらわかるよと同意してくれる。
「わたしも読んだ時は悲鳴出たからね。ホント共闘シーンがすごい熱いの。ブリジットさんの今までの作品は穏やかな家族愛と成長ものが多かったけど、今回は違うんだよ。事件に遭遇した主人公と、それを調べに来た異国の騎士が悪党やら魔物やらを倒しながら謎の解明に奔走するの。ただ終盤までその異国の騎士は甲冑姿で顔とか出てこないんだけどね。だから主人公も、異国の人間である自分が信用されていないからだろうとか悩んだりして」
「それはどこに行けば手に入るのかしら」
「購買に行けば買えるけど売り切れてると思うから貸してあげる。寮に帰ったら砂糖菓子様の部屋に持ってくよ。でもイケメン騎士お姉様には内緒だからね」
「あら、アニエスに言ってはいけないの?」
「だってこの本、最後は信頼が親愛になるんだよ。それを知られてイケメン騎士お姉様が主人公モデルのベルナールさんを意識しちゃったら困るよね。何が困るってベルナールさんは高等部にも中等部にもファンが多いから、そこの関係がガチになったらファンの心が死ぬと思う」
「なるほど? 嫉妬に心を燃やして死ぬのね」
「砂糖菓子様、世の中には目の前に広がる耽美過ぎる世界が尊すぎて死ぬこともあるんだよ。尊死って言うんだけど、ブリジットさんの作品ってたまにそういうのあるから危険なの。姉はそういうのめちゃくちゃ好きだし飛び跳ねて喜ぶから、わたしとしてはどんどん書いてって感じだけど」
可愛い姉が見られるから最高。どこまでも己の欲に忠実なエミリーはそう笑いながら、校舎からやってくる姉を見た。
中等部3年のクレール・オリヴェタンと隣り合って歩くのは先月には彼女の恋心を救った近衛騎士として高等部でも有名になったアニエスだ。
スラリと背の高いアニエスは、そこらの男子よりも男子の制服がよく似合う。むしろアニエスが着ると平凡な男子の制服が特別な何かに見えるのだと、リリもクラスの女子たちから語られている。
それについてアニエス本人に確認したところ、着こなしを気にするかどうかで変わると明確な答えをもらえた。
中等部に在籍しているのは12歳から14歳までの子供たちである。しかも令嬢ならまだしも、その年頃の子息たちはまだ見た目などに無頓着なところがある。
だが既に近衛騎士という肩書を持つアニエスは、外見の良さが生み出す利をよく理解していた。むしろ近衛騎士は、国を出ればその国の顔として立たなければならない。そのため身だしなみを気にするのは基礎の基礎であるらしい。
「こんにちは、リリさん」
「ごきげんよう、クレールお姉様。それと後ろをついてくることしかできない弱腰なアラン様はお元気かしら?」
今日もにこやかなクレールへ挨拶を返しながら、そのついでのように告げてやる。
すると彼らのそばを抜けてマティアスがリリの元へやってきた。
「リリ、そんなことを言ってはダメだよ。アランさんが後ろにいるのは仕方ないことなんだ。というかほぼ姉上のせいらしいんだけど…」
「あらあら?」
この流れだとアニエスは既に新作のことを知っているのでは。そう考えたリリはエミリーと顔を見合わせた。
そうしてまずエミリーがクレールへ問いかける。
「姉って、ブリジットさんの新作まだ持ってなかったよね? この流れだともう読んでる?」
「ええ、今朝アナベル様の元へお借りしてた本を返しに行った時に。ブリジット様から直接いただいて感想をと優しいお言葉をくださったの。ほら、皆様昨年度は中等部におられたからブリジット様の作品が出るたびに直接感想をお伝えしていたから…その流れでで今回もと」
本当にお優しいお姉様がたねと、頬を赤らめたクレールの姿は第二のミリュエル・バルニエと言われててもおかしくないほど愛らしい。
けれどその話を聞いたエミリーはそこに言及することなくアニエスへ目を向けた。
「新作のこと聞いちゃったんだ?」
「クレール嬢の愛らしい感想を交えたあらすじ説明なら先程。だけど申し訳ないことに、作品の内容よりもクレール嬢の愛らしさが勝ってしまって私の心はそちらに支配されてしまってるんだ」
「そうね。それは正しい反応だわ。姉が最高に可愛いことなんて既にこの世の常識でわたしは今更そんなことで思考を支配されたりしないけど! でも姉初心者であるイケメン騎士様がその魅力に支配されるのは仕方ないわよ。でも姉の柔肌に触れて良いのはわたしだけだから!」
「触れることはないよ。あとエミリー嬢はここに異性が2人おられることを忘れないであげて」
「たしかに。泣き虫マティアスは良いけど、アランは羞恥心で死ぬかもしれないわね」
エミリーは平然と言い放つが、アランは死ぬわけがないと悪態つく。そしてマティアスは真っ赤な顔でリリの後ろに逃げ込んでいた。
そしてそんなふたりの反応を確認した後に、アニエスは笑顔でエミリーに告げる。
「この年頃の子息たちは知識の足りなさと芽生え始める欲望で心のバランスを崩しがちなんだよ。そのためエミリー嬢のその言葉を耳にして、クレール嬢をあらぬ妄想の種にする可能性がある。もちろん現実で子息たちがクレール嬢をそのように扱う場合は私が物理的に排除するけど、脳内妄想まで防げないからね。エミリー嬢も口に出す時は私しかいない個室でしましょう」
「なるほど。少しのきっかけで変なことを考える変態になりやすい年頃なのね。じゃあ姉の話題は今夜やるとして、イケメン騎士様としては作品のネタにされるのに抵抗とかない? もちろんその作品って事件解決とか冒険とかそういうものだけど」
「それについても愛しいクレール嬢もお気遣いくださったけど、そもそも帝国でも実在する人物をモデルにした作品は昔からあるからね」
「あー、たしかに。ラピスラズリとかね」
『月夜の物語』に出てくるラピスラズリのモデルとされているのは、グレイロード帝国のブレストン公カインだと言われている。むしろラピスラズリのきらめきと表現される藍色の瞳を持つ人物は帝国には彼しかいない。
それに件の物語にはラピスラズリ以外にも実在する肩書が多く出てくる上に建国王も平気で扱われている。
ならばアニエスがこの手の文学作品への抵抗がないのは自然なことなのだろう。
そう考えたエミリーはひとまず安心した。そんなエミリーの目の前でアニエスは緩やかに微笑む。
「それに光栄だと思ってるよ。私から見てもベルナール卿は優秀な方だから、物語の中でもそんな方と肩を並べられる栄誉にあずかれるのは」
「さすが本物の騎士っぽい」
「私はこれでも現役の近衛騎士だからね。でも共闘できるのは光栄だけど、やはり一度は剣を交えてその実力を目の当たりにしたいと思うよ」
「アランのことは決闘でボコボコにしたよね。でもアランは中等部3年で、昨年末の試験で剣術1位だから実質中等部で1番。それをあそこまでやれる現役騎士なんだから、高等部の誰も勝てないと思うけど。もちろんベルナールさんでも」
「そんなことはないですよ」
中等部1位であるアランですら足元にも及ばなかった。それなら学生の身でアニエスと闘える者などいないとはエミリーだけでなく誰もが思っていることだ。だから高等部の誰もアニエスに模擬戦を求めない。
だがアニエスはそんなエミリーの考えを否定した。その上でボコボコにされたと言われたアランに手を向ける。
「彼に勝てたのは私と同い年で、さらに彼がまだ基礎しか知らないためです。今後鍛錬を積めば私を超えることができるでしょう。それに彼との決闘の後、ベルナール卿は風の魔法を使って2階の観客席から降りてきましたがあれは素晴らしかった。風の浮遊魔法は分類としては上位魔法のはずなのに、彼は平然とそれを使用していましたからね。あれを見た時は本当に感動しました。エミリー嬢が彼を第一に信頼する気持ちが始めてわかった瞬間でしたね」
アニエスは心の底から嬉しそうにベルナール・ローランの凄さを語る。そしてアランはそれを当然のように聞いているが、マティアスは違った。
マティアスは顔を真っ赤にさせてアニエスの手を両手で握るようにつかむ。
「わかるよ! 兄上は本当にすごいんだよ。夏季休暇入ってすぐディーから魔力操作のことを少し学んだだけなんだよ。なのに夏季休暇が終わる頃にはなんとなく理解できたって言い出していろいろな魔法を使い始めちゃったんだよ」
「そこまで成長著しいなんて、さすがはベルナール卿ですね」
素直に兄を褒められたことを喜ぶマティアスへアニエスも笑顔で返している。
ただその話を聞いたリリは、竜の浄化を食らったベルナールが復学に半月も有した理由にたどり着いた。
つまり彼は夏以降さらに魔力が強くなっていたのだ。そして彼はあの瞬間に己の魔力を最大限に強く固く体内で固めることをした。
そうすることで、あの時のベルナールは背後にいたマティアスの盾となろうとしたのだ。そして実際にマティアスは少し体調を崩した程度で済んでいる。
そう考えるとリリもベルナール・ローランの実力を認めざるを得なくなる。もちろん今までも彼は年相応という言葉を捨てるほどに優秀だったのだが。
となるとやはり今後は竜の力を使う時にはベルナールの守りを重点的に考えなければならなくなる。もちろんそれはベルナールが大切な才能であることもあるが、何より彼が寝込むと事件の真相へたどり着ける人材がいなくなってしまう。
もしリリが竜の力をうまく制御できるなどしてベルナール・ローランが寝込むことにならなかったなら、祝祭の時にリリが食わされたパンの調査も進んだはずだ。
そしてそこに含まれていただろう薬物が含まれた何かが竜神殿や王城への献上物に紛れて竜王に届くこともなかった。
なのでこれは自分の失態以外の何物でもないと、リリは憤怒の衝動を抑えながら努めて冷静に考えていた。




