43.《欄外》5人のお姉様と
1000年の平和を甘受する竜王国セリオルネーテでも自然災害は避けられない。
星の胎動と呼ばれる大地の揺れ。竜の雄叫びと呼ばれる強い嵐と、それに伴う高波。特に港町でもある竜王国王都では高波のことを水竜が荒れ狂ったのだと諦めたようにぼやきつつ長い年月をかけて対策してきた。
戦で破壊されることのない王都は長い時をかけて山の斜面に沿うように切った岩や土を盛って地盤を作り固めて高台を作る。そうしてゆっくりと高低差のある都市を築いていった。
そんな竜王国セリオルネーテの中心地に近いカフェでは、秋の終わりでもある祝祭用のメニューが評判となっていた。
港付近よりは高い位置にある繁華街の一角では行き交う人々の中に貴族らしい身なりの良い者も混ざる。
そしてその中には今年度、王立学園の高等部1年となったアドリエンヌ・オーブリーの姿もあった。
「秋の実りが多いのは今年の気候が安定していたという証左よね」
カフェのテラス席に親しい5人で座り、メニューを見ながらアドリエンヌは嬉しげに言う。甘味が売りのカフェに来てメニューを見た第一声が気候の話題というアドリエンヌを、隣にいるアナベルも平然と返す。
「そして秋の実りが多いと言うことは野生動物の数も増える。狩猟に従事する者も多くの実りを得られそうね」
「ええ、喜ばしいことだわ」
メニューに並ぶのはスイーツだけであるのに、ふたりは人々の営みについて語ってしまう。それは長年王妃候補として生きてきた弊害にも近い。
だが他3名は、そんなふたりの言動を慣れた様子で受け止めていた。
「実りが多いと言うことは美味しい蜜もたくさん採れるということよね。リゼットが蜜の化粧品を生み出してくれたおかげで、わたしこの季節が大好きになったのよ。また新作の化粧品が生まれる時期が来たのねって!」
本当に楽しみと緩やかに微笑むのは王国一の美貌で知られるミリュエル・バルニエだ。そしてその輝く笑顔を向けられたリゼットは顔を赤らめ否定する。ハチミツで化粧品を作ると提案したのはリゼットだが、それを成したのは大人たちだ。絵画を愛するリゼットは画材にハチミツが使われていることを知っていた。そしてそのなめらかさや保湿性は、肌の保湿にも使えるのではと考えた。
元々ハチミツは食べ物なのだから肌に使っても害にならないはずだから。そんなリゼットの提案を、父であるデュムーリエ伯爵は商機と考えた。
ただそれだけのことでリゼットは何もしていない。だから自分のおかげなどではないし、そもそもハチミツ化粧品がなくともミリュエルは美しい。
真っ赤な顔で早口に語るリゼットにミリュエルはことさら嬉しそうに微笑んだ。
「リゼットのその謙遜が強めなところ、本当に愛おしいわ。絵を描く時はあんなにも強引で荒々しいのに」
「えっ、そうなの?」
ミリュエルがなぜか恍惚とした顔で語るため、驚いたのはブリジットだった。もちろんアドリエンヌやアナベルも素直に驚く。
リゼットはいつも誰よりもおとなしく、5人の中では守られるだけのか弱い令嬢でしかない。そんな友人の強引で荒々しい部分など3人は知らない。
そこでミリュエルが語った。
「先月、わたしの絵を見せたじゃない? 美の暴力だのなんだのとリゼットが語ってくれたアレよ。あの後でまた絵のモデルになったの。そうしたらリゼットったら、わたしが足りないからって着ていた服にハサミを入れたのよ! 襟元にハサミを差し込んで、胸と胸の間へゆっくりとそれを入り込ませるように切っていくの。それだけでゾクゾクするのに、ドレスの裾まで切るなんて言うのよ? そうして切れ目を入れたらドレスの中に手を入れてわたしの足に手を滑らせながら、ドレスをわざとしわ寄せて膨らませるの! もうそれは事後の姿なのではないの? わたしはまだ知らないけれど、そんなにもドレスを乱されるなんてそういうことじゃない? しかもその初めてをリゼットに奪われてしまうなんて…! って、本当に興奮したのよ」
あれは本当に斬新な経験だったとミリュエルは楽しげに語る。だがそうして4人が目を向けた先で、当の本人であるリゼットは真っ赤な顔でうつむいてしまっていた。
そうして女子5人で盛り上がりながらメニューを決めて注文をすると、再びリゼットの絵画について話が進む。
誰よりも内向的なリゼットだが、彼女が描く絵は革新的で色使いも斬新なものが多い。そのため王国内貴族の中で評価が分かれがちだが、若い世代ほど良い評価が増える。
そしてアドリエンヌもリゼットの絵は芸術作品として高い評価を持っていた。リゼットの作品は革新的と言われ、同時に伝統的な技法を無視したものとも言われる。だが文化とは進化するものなのだから、基本が守られているなら評価されるべきだと考えている。
だが己の価値観を大切にするミリュエルは他人の評価など気にしない。ただリゼットの革新的な描きかたに巻き込まれ与えられた興奮が忘れられないだけなのだ。
そしてミリュエルはそれをまたされたいと思っているし、その経験を友人と共有したいと考えている。
そんなミリュエルがブリジットにモデルをと誘っているのを眺めていたアドリエンヌは、ふとその視線を移した。
街の高低差を利用して大通りから見れば中2階の高さに作られたテラス席は、道行く人々を見下ろすことができる。そしてアドリエンヌは、その中を歩いていた男性と視線がぶつかった。
ただ相手は年こそ近いようだが、アドリエンヌの知らない男性だ。だから異国の人間か何かだと簡単に考え視線をそらして友人の話に耳を傾ける。
するとややあって先程の男性がアドリエンヌたちのテーブルにやってきた。
アドリエンヌが見る限り、年の頃は20代前半だろう。平凡な黒い髪と瞳の男性だが、その肌は白い。あきらかに労働者ではない佇まいの男性はアドリエンヌに手を向けた。
「アドリエンヌ・オーブリー侯爵令嬢だよね?」
「ええ、あなたは?」
見も知らぬ男性に名前を当てられたアドリエンヌは警戒心の上に笑みを載せて問い返した。
「僕のことはロシュと呼んで」
「竜王国騎士団の前騎士団長であられるロシアルト・イル・リズロット様を騙ろうとしているなら諦めなさいね。私はリズロット様と面識があるの」
「ははは、すごいね。ロシアルトの愛称を知る人なんて城の外にいないと思ってたよ。まあでも今回は……偶然出会えた君たちと話がしたいと思っただけで他意はないよ。だからブリジット・ローランもどうか落ち着いて」
顔色が悪いから深呼吸をと穏やかに告げた男性はそのまま空いている椅子に座ってしまった。
「まずアドリエンヌ・オーブリーとアナベル・デュフールは王妃候補からの脱却おめでとう。これで君たちは自分の幸せを見つける権利を得られたね」
アドリエンヌたちが王妃候補でなくなったという話は世間に公表された話ではない。先月末に発生したオリヴェタン侯爵姉妹の事案の中で、9つの侯爵家がそのように決めただけだ。
そんな内々の事を知るなど普通ではない。
「あなたは何者なの」
「アドリエンヌ」
疑惑も警戒心も隠さなくなったアドリエンヌへ、今も緊張したように青白い顔のブリジットがそっと手を伸ばして制する。
「この方は…リリの保護者様なの」
その瞬間、アドリエンヌはブリジットが青くなるほど緊張する理由を理解した。いつものリリを見ていると、その愛らしさから忘れがちになってしまう。だがリリは、魔法武具をはずした瞬間からこの国の至宝となる。そしてそんな至宝の保護者を名乗る者などこの国では本当に限られる。
「まず確認しますけど、竜神殿の主様でないのですね」
「この時期ってなぜか神殿に人が群がるよね。おかげでカイザーは休みなしで働いてるよ。人が群がるということは穢れるということだから」
その言動や思考の方向が人ではない。ロシュの発言を受けたアドリエンヌは小さく絶望した。友人との楽しいひとときはここで終わってしまったのだ。
そんなアドリエンヌの目の前で、ロシュは立ち去ることなく店員に己の飲み物を注文している。
そうして店員が離れていくと、ロシュはさてと言いながら5人を見た。
「まずは僕の可愛い姫君を慈しんでくれてありがとう。おかげで彼女はこの国の人を愛せるようになってきた。僕としてはこのまま姫君にはこの国に定住してもらいたいんだけど、おおよそそれは無理だろうと考えてるよ」
「関係ないのに口出ししてごめんなさい。それはなぜですの?」
この国を愛しつつあるなら、そのままこの国の至宝としていてくれたら良い。そう素直に考えたミリュエルがあえて礼儀をやんわりと崩しながら問いかけた。おそらくそれは目の前の方が偽名を名乗っているための配慮だろう。
そしてその配慮を誰よりも早くできるのがミリュエルの強みだった。少なくとも頭の硬いアドリエンヌではすぐに切り替えるということができない。
「帝国から留学と称してこっちに来てるでしょ? 今いる近衛騎士君の父親は帝国の近衛騎士団長なんだけど、かつてうちの雛が恋い焦がれるレベルで憧れた人なんだよ。だというのにそんな人が、自分が守るから竜王国は必要ないって竜王に対して言っちゃう。これ、雛が竜王国の王位継承を捨てた理由のひとつだよ。そんな因縁しかない男が娘をこっちに来させてる。もうこれは姫の留学は許したけど手放す気はないって宣言に近いよね」
あの国の人間たちは過激で率直だから仕方ないけど。そう笑うロシュはリリがこの国に残ることを諦めているように見えた。
「ロシュ様はそれで良いのですか? ロシュ様の愛する姫君は、わたしたちにとっても愛すべき砂糖菓子ですの。なので手放すのは難しいですわ」
「僕は、君がこの国を窮屈に思っていてディートハルト君に攫われたいと思っている事は知ってるよ。そしてそれも良いと思っている。だって人間という生き物はより住みやすい土地を探して流れるもので、それができる知性があるからね」
「驚きましたわ。ロシュ様は、わたしたちが貴族としての義務を果たさずこの地を離れることを良しとされるのですか。ええ、これは批判などではないのですが、親たちから向けられるものとあまりにも違いすぎるので」
「人間が群れるために様々なルールを作ることは理解してるよ。貴族の義務とやらも、他国ならそれが正しい形で機能してる。それらの国にとって、貴族は国そのものを守る盾でもあるからね。でも盾を必要としないこの地にそれは必要ないよ」
貴族そのものを必要としていない。残酷な現実を叩きつけられたミリュエルは笑みを保ったままなるほどとうなずいた。
「ただ、この土地で延々と人の営みが保たれ、それにより生み出される歴史と文化を僕は否定しない。ブリジット・ローランが書いた文学作品もリゼット・デュムーリエの描く絵画も僕は好きだよ。ブリジットの作品は兄への敬意と弟への愛に溢れているよね。そしてリゼットの絵はミリュエル・バルニエ」
名乗ってもいない会話相手へ手を向けて、さらには名前を告げたロシュは楽しげな顔を見せた。
「君への執着が強く感じられる。リゼットはおそらく君を美の化身か何かと捉えて、その美を紙の上で表現したいんだ。だけど何枚描いても完成しないし納得いかない。それはそうだよね。ミリュエル・バルニエはまだ成長途中の蕾なんだから、その姿もきらめきも海の色のように日々変わっていくものだ。でもそれならそれで、今この瞬間のミリュエル・バルニエを捉えた絵を完成させたのだと考えられれば良いんだけど、リゼットはそこに至れない。なぜならリゼットもまた未成熟な子供だから。そうして己が抱える執着に悩む天才は、いつかミリュエル・バルニエがまとう何もかもを剥ぎ取ってしまうのかなって思ってるよ」
それもそれで楽しいけどと笑ったロシュは真っ赤な顔のリゼットに目を向けた。
「君、ミリュエル・バルニエの服の中まで描きたいって思ってない?」
「あわわわ」
「すごーい! わたしもうやられちゃってるわ!」
リゼットが心の中に閉じ込めていた欲望をさらけ出され慌てるそばでミリュエルが笑い出した。そうしてミリュエルは再び服にハサミを入れられた話を始めるのだった。
そうして一層盛り上がるテーブルに注文した品々が届けられる。
楽しげな空気の中でアドリエンヌは香り高いハーブティーをゆっくりと口に含んだ。そしてその香りを楽しみながら喉を潤していく。
「僕はこの通り人間なんて興味ないんだけど、それでもアドリエンヌのことはずっと知っていたんだよ」
全員に紅茶が届けられて、スイーツも5人分のものが置かれる。芳しいそのテーブルでロシュが不意に告げた。
そのためアドリエンヌは紅茶の香りの余韻を残したまま驚きの目でこの国の唯一無二を見る。
「お会いしたことはないと存じますが」
「オーブリー侯爵が生まれたばかりの君を抱えて自慢しに来た。いや見せびらかしに来た。一般人は用もなく王城へ入れない決まりだけど、あの侯爵は重要案件だと言うんだよ。もちろんその重要案件とはうちの娘が可愛すぎるってことなんだけど」
「なんということを!」
完全なる私情でルールを破り王城に押しかけるなど不敬極まりないことではないか。あの厳しい父がそんな非常識な人間だと知ったアドリエンヌは絶句する。
だがロシュはそんなものだよと笑った。
「オーブリー侯爵は聡明だけど冷徹なほど公平で、他の土地でなら優秀な為政者にもなれた。そんな男がこの土地で国家を運営する1人として冷徹侯爵の名をほしいままにしていた。だというのに、君が生まれてからは月に一度くらい重要案件が発生するようになった。だけど僕は侯爵がそうなる理由も理解できるよ。かつての僕も確かに同じ気持ちを抱えていたんだ。竜神殿で巫女がカインを生んだ時に。そしてカインが笑った瞬間、カイザーに肩車されてはしゃいでいた時。あの雛は僕が己の名を与えるに相応しい子だった。だから君が愛される理由も理解していた。そして娘に狂っても優秀な為政者たる頭脳を持つオーブリー侯爵が、君を託すに最善の相手は僕だと認識する気持ちもわかる。だって僕は君より先に死なないし、君を傷つけることもしない。でもそれってただの生ぬるい湯水でしかないよね」
緩やかな笑顔と穏やかな口調で語るロシュが人間でないことはわかっている。だからこそ5人はアドリエンヌより先に死なないという意味も理解していた。
竜は長命で数百年は生きる。そして現在の竜王はまだ100年ほどしか生きていない若い竜だ。
「この土地もまた生ぬるい湯水だ。僕よりも前のモノたちがなぜかここに居座り、のらりくらりと人の営みを放置し続けた。その長い平和は人の中で文化を花開かせている。でもアドリエンヌ」
不意に呼ばれたアドリエンヌはわずかにまつ毛を震わせた。
間近で見つめれば目の前の唯一無二は誰もが恋するに値する美男子だ。だが彼が言うとおりその穏やかさがアドリエンヌに与えるのは淡い緊張と謎の安心感だった。そしてその心地よさをアドリエンヌは学園でいつものように味わっている。そしてそれは心地良さはあれど心をかき乱すようなことはない。
彼の言うとおり湯水に浸かるような心地よさだ。
「君は激しい劣情を知ってしまった。心の向くままに走り戦い、そして誰かを守るために頭を巡らせる。そんな相手はオーブリー侯爵家の令嬢ではなく、アドリエンヌという人間を見ていた。君が君だから信用できると言ったんだろう? そして君はその言葉に心を揺さぶられたはずだよ」
「それは……それは、評価を得たからです。わたしがしてきた努力を異国の人間が見てくださったから」
「そうだね。彼にとってこんな辺境の侯爵家なんてどうでもいいからね。だから最初から君だけを見てくれていた。そしてそれに心を揺さぶられるのは悪いことではないんだよ。ただその彼が、帰国前夜に空から王城に不法侵入したあげく自分がアドリエンヌ・オーブリーを手に入れたいから王妃候補なんて辞めろと直談判したのは大問題なんだけど。もちろん翌朝になって王城に務めてる人間が自体を把握した頃には帝国の軍艦船は出港してるから罪にも問えない。僕個人がケンカを売られただけだから、あえて罪に問うことでもないけどね」
「ディー…トハルト…ソフィードが、そんなことを」
「うん。人は感情に支配される愚かな生き物で、いつだってその短い命を燃やすように生きている。だけど彼はちょっとその炎が強すぎるよね。だからね、王妃候補なんてものは僕の中で夏に終わった話だったんだよ」
ロシュの話を素直に受け止めれば、王妃候補は先日の騒ぎ以前から廃止の方向に進んでいたようだ。むしろだから侯爵たちもすんなりと受け入れたのだろうか。オリヴェタン侯爵虐待事案の詳細も知らないアドリエンヌは赤らむ顔と浮かれる頭を落ち着かせるべく考え込む。
「だからアドリエンヌもアナベルも自由に道を選択して、それぞれの世界で幸せになっても良いんだけど……問題は3人目だよね」
そこで不意に王妃候補の3人目に触れられアドリエンヌはアナベルと顔を見合わせる。
その上で問いかけたのは冷静なアナベルだった。
「クレール・オリヴェタン嬢は近々アラン・マイヤールさんとの婚約が結ばれるはずです。オリヴェタン侯爵家は先代様が戻られ、後々は次女のエミリー嬢が家督を継ぐと聞いておりますが」
「君たちは知らないだろうけど、あそこは姉妹ふたりじゃないよ」
突然にあり得ないことを言い出したロシュにアナベルですらすぐに反応できなかった。なぜならその言葉が事実なら非嫡出子がいるということなるのだ。
「恐れながら、それはあり得ないと思います。オリヴェタン侯爵夫妻は真実の愛に結ばれた方々なのです。その恋物語はいくつもの作品に影響を与えるほどのもので」
「ブリジットがそう思うのもわかる。でも真実の愛って、つまり恋という病に狂った人間が非常識を正当化する言い訳だよ。そんな非常識な人間が、妻が妊娠していて触れられないから我慢するなんてならないよね? そんな理性があるなら真実の愛を言い訳に他人の人生の門出を壊したりしない」
「では…その間に愛人を作っていたのですか」
「クレールと同い年の娘がいるからね。竜神殿には人間の生き死にが記録として管理する役目もあるからこちらは知ってる。でも誰にも知られず愛人を孕ませて、その愛人が庶民として産院で普通に出産してたら君たち侯爵家の知る機会はないよね。まあ、そのまま非嫡出子が庶民として生きてくれるなら平穏無事に侯爵位の継承といけるだろうけど」
爵位継承に触れるロシュにブリジットとアドリエンヌは目を見張り確認するようにアナベルを見た。そうして非嫡出子に爵位継承の権利があるかどうかを確認したいのだろう。
そして視線を受けたアナベルは苦悶の表情を見せた。
「非嫡出子でもオリヴェタン侯爵の血を引いていると認められ、魔力が相応にあれば爵位継承権利は得られるわ。そしてその場合、クレール嬢と同い年のその非嫡出子はエミリー嬢より順位が上になってしまう。エミリー嬢は姉のために知識を蓄え、姉のために家を守ろうとしている子だから…非嫡出子がいると知れば黙っていないでしょうね」
エミリー・オリヴェタンは生まれた瞬間から両親に疎まれ虐待され育ってきた。そんな彼女にとって姉はこの世で唯一自分を愛してくれる存在だったのだ。そのためエミリーの姉に対する執着は悲しいほど強い。
そんなエミリーが、愛人の子に姉と生きてきた実家を奪われると知れば何をするかわからない。
推測も含めてアナベルが説明するとミリュエルがため息を吐き出した。
「エミリーちゃん、姉のためなら悪役として死ぬくらいの子だものね。次はその庶子を刺し違えてでも家を守るなんて言いそうだわ」
「王城はこれを放置されるおつもりでしょうか?」
ミリュエルの言葉が冗談に聞こえないアドリエンヌは不躾を承知でロシュに問いかけた。すると砂糖も何も入れずに紅茶を飲んでいたロシュはカップを置いて微笑む。
「だから僕は君と会えたこの幸運を都合が良いと思ってるんだよ。竜神殿は記録を残すことが役目で、王城は国の政を司るのが役目。だけど君たち人間は団結する生き物で、君はその筆頭でしょ。王妃候補じゃなくなったとしても、王城に不法侵入した彼が舞い戻って君を奪うその瞬間まで、君は僕の傍らに相応しい女性として周りから見られ続けるだろうし。君は幸いなことに、君の正義を守ってくれる強い友人たちに恵まれてる。だから強くても幼い未来の侯爵を守るくらいはできると思うんだよ」
「もちろん、エミリー・オリヴェタンを守ることはいたします。ですが最終的にはオリヴェタン侯爵家の問題になってしまいますわ」
「そういうことにはならないよ。非嫡出子が庶民として生きるなら何も起きない。でもそうじゃないなら殺人事件に発展する。だから君たちはこの殺人事件を防がなければならない」
「しかしそうして殺人事件を防いだとしても…」
「そうなったら、前回同様に、君たちの愛すべき砂糖菓子が9つの侯爵家を呼びつけて潰すんだよ。オリヴェタン侯爵を姉妹の心を傷つけたと断罪して、侯爵家たちに王妃候補そのものを辞めさせたようにね。その場にいたカイザーも2度目は困ると言っていたよ。彼女の殺意は強過ぎて息が詰まるらしい。そして君たちは、そんな彼女の最愛なんだよ。東の森で彼女が死にかけた理由だって最愛があそこにいたから、だったからね。だから本当にどうにもならなくなっても大丈夫だよ」
必ず守られるからと微笑むロシュは今までと違い、心の底から慈愛に満ちた優しい笑顔だった。だが微笑んでいたロシュは不意に苦笑をこぼすとみぞおち部分に手を当てる。
「……うーん、空気だけじゃなく水も駄目かも」
「お加減が悪いのですか?」
竜が病気になるなど聞いたこともない。どのような竜でも死因は老衰か外傷しかないとあらゆる文献に載っている。
だからと戸惑い立ち上がったアドリエンヌの背後で重い何かが落ちる音がした。
その激しい物音に周囲の客も通行人も目を向ける。そうして視線が集まった先にいたのは少しと土煙と石畳のヒビを作りながら立つ竜神殿の主だった。
白いローブをまとった誰よりも大柄な竜神殿の主は羽織っていた藍色のマントを脱いで広げる。
「街に出るなと忠告したはずだ」
「それは監禁だって言ったはずだけどね」
「おまえは理解できていないだろうが、今のおまえにとって人の営みは毒でしかない。そこで飲食していないだろうな」
「紅茶は問題なく美味しかったよ」
竜神殿の主が手を差し伸べているのを、中2階のテラスで立ち上がったロシュが見下ろす。
けれどその場で言葉を返すだけで動くことをしなかった。そのためアドリエンヌは戸惑いながらもロシュに帰らなければと声をかける。
「周囲の者たちも見ております。このままでは混乱を招いてしまいますわ」
「……うん。じゃあアドリエンヌは、オーブリー侯爵に伝えておいて。今までは侯爵の強い願いが天に届いていたから良かったんだって」
アドリエンヌの言葉に従うようにうなずいたロシュはテラスの入り口で様子を見ていた店員を手招きした。
その上で店員が手にしている銀のトレイに金貨を2枚載せる。
「美味しいお茶をありがとう。祝祭のケーキも丁寧に作られてるね。もしできるなら、あのケーキを王城に持ってきてくれると嬉しいよ。僕は食べられないけど、僕の守護竜が喜ぶから」
金貨2枚の内のひとつはそのケーキ代だと思って。そう告げたロシュは、呆然と立ち尽くす店員に背を向けテラスの手すりに手をかけた。
挙げ句ロシュはまるで飛び降りることの恐怖もない様子で、手すりの向こう側へ飛んだ。そうして中2階ほどの高さがあるテラス席から舞い降りたロシュは竜神殿の主に抱き止められた。
あげくその身を藍色のマントに包まれては、ロシュも簀巻きにされたとぼやく。
その光景を呆然と眺めるアドリエンヌは竜神殿の主から藍に近い青色の瞳で見上げられる。
「広場の方向に悪い空気がある。君たちも帰宅したほうが良い」
竜神殿の主は短い忠告だけ残し、ロシュを抱えたまま歩き去ってしまう。だがその大柄過ぎる身も白いローブも藍色のマントも、すべてが彼を竜神殿の主であると知らしめていた。そのため通行人たちは自然と頭を下げながら彼らに道を開けていく。
祝祭のため多くの人で賑わう大通りが割れていくのを眺めたアドリエンヌは目を見開いたまま親友たちを見た。
「お茶を飲み終えたら今日は帰りましょう」
「そうだわ。寮に帰ったらリゼットに先程のロシュ様を描いてもらいましょうよ。記憶に残ってるうちにあの耽美なご尊顔を残しておかないと」
「耽美な?」
アドリエンヌの提案にミリュエルが笑顔で乗るのだが、ロシュを表現する言葉にブリジットが引っかかった。
「耽美なのかしら? 穏やかで優美と言うのではない?」
「あらぁ、その穏やかな中に大人の色気があったでしょ? そういう大人の魅力って学園の同級生たちにはないものだわ」
「そうね。大人の落ち着きというか」
「耽美よ。耽美。そこはかとなくこぼれ落ちる色香が男女問わず惑わせるの。むしろアニエス君を見てるせいか、ロシュ様の性別がわからなくなっちゃうわね。大人になった近衛騎士のアニエス君がロシュ様をあのように抱える物語なんて面白そう」
「女騎士に守られる物語ね」
「もーう、男臭くない騎士に守られる耽美な物語がいいのよ! 女騎士って言葉がつくなら同僚騎士と守ったり守られたりする恋物語が欲しいわ」
ロシュが退場するととたんに元の雰囲気を取り戻して談笑を始める。そんな友人たちに安堵しながらアドリエンヌはそばにいる店員にケーキの持ち帰りをしたい旨を告げた。




