42.祝祭のリリとパン屋
魔族と有翼種が世界を焼き尽くす強さで争っていた1000年前。大地は魔族の使う魔法によって高濃度の瘴気に穢れて多くの生き物が魔物へ変化していく。人々もまたその瘴気に耐えられず、病に倒れる者、気性が荒くなる者も現れた。
そんな時代、今は古戦場大陸と呼ばれるルエスト大陸北西部に青い鱗の竜が舞い降りる。
竜の中の竜。竜の王と呼ばれる青い鱗のそのモノがその地に鎮座すると周囲の瘴気が浄化された。たちまちに人々の病は癒えて、気性が落ち着いていく。
そこで人々は竜に願った。これからもこの地にいて、我々の営みを見守り続けて欲しいと。そんな人々の一途な想いが竜に通じて、その地はそれから1000年も平和が続いていた。
そして竜の月はそんな竜王国の建国神話を学び直し、改めて竜の王へ感謝を届ける月だという。
広場で高らかに神話や祭りの主旨を語る男性を遠目に眺めながらリリは首をかしげる。
「竜って長くても数百年しか生きられないと思うのだけど、なぜ竜王はいつも独りなのかしら?」
リリが疑問を口にすると隣でキャラメルの包みを開けていたエミリーが教えてくれる。
「必要になった時にオスかメスが天から降りてくるからじゃない?」
「そうなると、卵を産みたいから地上に降りろと頼むことになるわね? 情緒も何もない獣の番のようなその考えが、竜に対して失礼にならなければ良いのだけど」
「あー……、わかる。竜信仰としておかしいよね。でも不思議なことに聖典でも『その時に降りてくる』ってなってるんだよね」
「何が降りてくるのかは書かれていないのね?」
「あ、うん。そうかも。そうかも? 姉はどう思う? 聖典とか読んだことある?」
リリの質問に答えられなくなったエミリーはクレールに質問を投げる。
オリヴェタン侯爵家のこの姉妹は、姉が金髪と青褐色の瞳を持つが妹の素の色は茶色である。だが一時期のエミリーはそんな姉に茶色を押し付け、己は金髪と青褐色の色に変えた。そうして輝く美少女という存在を姉から奪い『王妃候補』という立場から落とそうとした。
だが姉の幸せを願ったその企ては、リリたちの介入で流れは変わったが成功を得た。
そうして終わったのだが、エミリーは今も魔法武具を使い続け姉と同じ色彩で生きている。ただ以前と違い、姉の立場を奪うのではなく姉と同じ姿が良いという素直な理由からの行動だった。
そして今も妹から溺愛されているクレールはにぎやかな祭りが楽しいのか、嬉しそうな笑みを見せている。
「何が降りてくるのかは、聖典にもどこにも書かれていないわ。そして竜神殿の主様も、その時になって初めて舞い降りるものだとおっしゃるの。だからそれが番となる竜様なのか、天の啓示なのかはわからないのよ」
なにせ竜王は天上にある都から来ている神のような存在なのだ。天の啓示という形で天上にある都から何かが降りてきても不思議ではない。
そんなクレールのわかりやすい説明を受けたリリは広く晴れ渡る空を見上げた。
「わたくしにも何か降りてきてくださらないかしら」
「砂糖菓子様のそれは面白いけど、実際に空から降ってきたら怖くない? わたし、2階の窓から落ちた固めの野菜が通行人の頭に当たって死んだ話とか聞いたことあるよ」
「あらあらまあ、竜王国の民は野菜程度も避けられないの?」
「えっ??? 普通の人間なら避けられなくない? ちょっと騎士お姉様! 帝国の連中は避けられるの? 野菜だよ!?」
驚くリリにさらに驚いたエミリーが声を上げながら背後を振り向く。
すると通りすがりの少女に手を振られて、それに返していたアニエスがナンパの余韻を残した笑顔で告げた。
「その程度の物を避けられない騎士はいないんじゃないかな。私の父ならその野菜を受け止めてそのまま家主に返しそうだけど」
「それはすごい。でも怖い。野菜が降ってくるとか普通はわからないのに」
「うーん、緊張感を持っていれば少しの物音で異変に気づくものだからね。きっとアラン卿もできるよ」
「おい待て、変なハードルを上げるな。クレールもそんな期待に満ちた目を向けないでくれ。可愛すぎて抱きしめたい」
「不躾だわ。無作法の極みね」
男が容易く女性に触れるなどあり得ない。リリからさらりと言われたアランは恨みのこもった目でアニエスを凝視した。
「なんだこの地獄は」
「まあまあ、それよりこの先にクレープの店があるみたいだよ。クレープと言えばアルマート公国のスイーツだけどこの国にもあるんだね」
アランの恨み節を受け止め流したアニエスは話題を変えるべく前方を指差した。
とたんに笑顔を輝かせる女性陣の中でマティアスが首をかしげる。
「クレープって?」
「小麦粉やらミルクやらを混ぜた…とりあえずケーキの生地になるものを薄く焼いて、その生地に好きなものを包んで食べるものだよ。アルマート公国は貿易の国で様々な果物が集まる街でもあったから、スイーツも豊富なんだ」
「なるほど、果物を包んで食べるんだね」
「アルマートでのクレープは家庭の味が出る料理とされているから、どんな味にするか何を包むかはご家庭によって変わるんだよ」
「それは楽しいかも」
クレープという名前ではあるが、味のバリエーションは無限にある。そんなことを知ったマティアスは笑顔のままリリに手を差し伸べた。
そうして自然体でリリのエスコートを始めるマティアスだが、彼がそうする理由を全員が知っている。
リリの歩みが遅すぎて、手を繋ぐことでさりげなく歩を速めなければ目的地にたどり着けないのだ。
マティアスと手を繋ぎクレープの店へやってきたリリたちは十人ほどの列の後ろに並んだ。
帝国にいた頃のリリはどこへ行くにも護衛の騎士がついていた。馬車で移動して店の前で降りれば、並んでいる民を尻目に店へ入る。それはただ公爵令嬢である彼女の安全を考慮した結果であって特権でも贔屓でもなんでもない。
ただ同行者と会話しながら順番を待つことの楽しさは、どう努力しても帝国では得られなかっただろう。
そんなことを思いながらエミリーの遠慮のない言葉を聞き、クレールの持つ知性の欠片を受け止め、マティアスの素直な感想に感化する。連れている人間によっては待ち時間すらも楽しいのだと学んだリリは順番がやってきたことでクレープを手にした。
それはマティアスが選んでくれたシンプルなクリームのもので、様々なスイーツが食べたいリリの気持ちを考慮した結果だ。
マティアスが自分のためを思って選んでくれた。ただそれだけが嬉しいリリは小さな口でクレープを食べながら歩き出した。
白いクリームは王立学園の食堂でもよく使われている。だがそれは貴族が在籍する学園だからこそできるもので、クリームそのものはコストがかかる食材であるらしい。なにより保存がきかないので、その都度作らなければならない。けれどその軽やかで甘い食感がリリは何より好きだった。
クレープを食べながら広場を歩いていたリリは明るくはつらつとした声に目を向ける。
いらっしゃいませと声をあげて客を招こうとする店をリリは知らない。
惹きつけられるように歩を進めたリリは店の前に並ぶ様々な形のパンを見た。動物の形をしたパンや焼き菓子のように格子状に焼かれたパン。見たことのないその品物はリリだけでなく子供たちのウケが良かった。
子供たちが楽しげに親へねだって動物の形のパンを買っていく。その様子を眺めたリリは、自分の前を歩く少女を見た。
「わー、さすが。通行人まで可愛すぎるんだけど。こんなの百合イベントあったら秒で食える自信あるわ」
リリを目にして楽しげな言葉を吐き出す少女がわからない。あの女は人食の趣味でもあるのだろうか。そう思っても口に出さないまま、目の前の少女の整った顔を眺める。水色の髪に青色の瞳は魔法武具で作られた色彩だ。髪の色が奇抜であればあるほど魔法武具の色だとわかるので、逆に人々は安心する。
使用者はただ目立ちたいだけで、何かになりすます意図がないとわかるためだ。
「ねぇねぇ、さっきからそこにいるけどパンとか興味ある? あんたみたいな可愛いお人形さんがうちのパンを食べてたら看板になりそうなんだけど」
人食趣味疑惑のある少女から話しかけられたリリは持っていたクレープを奪われた。マティアスが選んでくれたクレープを奪われたことで殺意を抱いたリリだが、その手にパンを持たされる。
それは可愛らしいウサギの形をしたパンだった。
「それクリームパンだからちょっと食べてみて」
これを食べたらクレープを返してもらえるということか。そう考えたリリは小さな口でウサギの耳部分にかぶりつく。
すると少女が「口ちっさ」とつぶやいたが気にしない。それよりなによりパンの中に詰まった香り高いクリームの味がリリの脳を刺激していた。
そのクリームの美味しさに取り憑かれたようにリリはパンを頬張っていく。そんなリリの姿を見た周囲の人々も類似したパンを求めて店の前に集まる。
その様子に少女は笑うがリリはそんな事を気にしなかった。ただこの芳醇な香りのクリームパンが美味しくてたまらない。
だがリリも誰も気づいていなかった。心を囚われたようにパンをむさぼるリリの瞳の色がゆっくりと琥珀色から変わりつつあることに。




