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砂糖菓子とラピスラズリ  作者: メモ帳
高等部1年
156/163

147. 小さな紳士の物語

 棒状の物で殴られたとしても、適切な処置と治癒魔法があればすぐに回復できる。だと言うのに第二部隊長の権限なのか10日も休みを与えられてしまったシルヴァン・モルレは困っていた。

 これまでのシルヴァンの人生で、時間を持て余したことなどまったくなかったからだ。


 するとそんなシルヴァンへ、屋敷の主であるローラン侯シメオンが書斎の出入りを勧めてくれた。むしろ侯爵は屋敷内の書物は何を読んでも構わないと言ってくれる。そのためシルヴァンは遠慮なく医学関係の書物を中心に開かせていた。

 だがローラン侯爵家にある書物の大半は国際社会に関するものや魔法学、法律や地政学、経済などで医学書は少ない。


 かくして医学書の部類を3日で読み終えてしまったシルヴァンは、4日目の夕方、帰宅したらしい夫人に招かれて夕食前のお茶会なるものに参加した。

 とはいえ夕食前の団らんのようなものなので気負うことはないと執事も言ってくれている。


 それでも緊張しながらサロンに入ると、幼い子供たちが走り回る脇で女性3人が和やかに座っていた。その光景を見た瞬間に安堵感を手にしたシルヴァンは3人の元へ近づく。


 ローラン侯爵夫人であるセレナは聡明な女性で、さらに慈悲深い。なにせ彼女は自宅修繕中だというバルニエ伯爵家の子女たち6人を屋敷に住まわせ世話しているのだ。


「いらっしゃい。さぁ、こちらに座って」


 菓子やカップが並べられたテーブルに近づいたシルヴァンは、セレナに勧められるまま席につく。そのそばでアリーヌがさりげなくシルヴァンの襟元を整えてくれた。

 ただ他人を世話すると言っても、バルニエ伯爵家のアリーヌもまた聡明な女性だった。セレナより年上だと聞いているが外見で判断はできない。けれど成人した子がふたりいるらしい彼女はこの場の誰よりも気遣いがうまい。


「ここで3日ほど過ごしてみてどうかしら」

「どう、とは」


 侍女が紅茶を入れてくれるその見慣れない光景を尻目に一瞥しつつ、シルヴァンはセレナの問いかけに返す。


「夜に第二部隊長さんをお迎えして、夜ごと語り合っているのでしょう? 価値観の差は埋められそう?」

「いいえまったく」


 ローラン侯爵家の屋敷に来て4日目になる。そして一昨日と昨日の夜には第二部隊長テオバルト・ヴェルと話し合い認識の齟齬を埋めるはずだった。

 むしろ初日にローラン侯爵もそうすることを望んでいたのだ。どれだけ多忙な第二部隊長も夜なら時間が取れるだろうからと。


「隊長様は入浴されるとさらにポンコツになられるようでして。会話もあまり成立しないと申しますか」


 シルヴァンのその言葉にご婦人ふたりが顔を見合わせた。その脇でクッキーを食べていたサラも笑う。


「先々月こちらに来た時も、緊張感が落ちるから苦手だっておっしゃってましたよ」

「緊張感が落ちるとはなんだという話ですよね。隊長様はどれだけ不健康な生活を送っておられるのか、逆に心配になります」


 3人の女性の中では、このサラが最も年の近い相手となる。さらに元平民らしいサラとは様々な意味で価値観の合う相手でもあった。そのためシルヴァンも他よりは気楽に会話ができる。


「そんなわけで、未だに隊長様が何をお考えなのか欠片もわからないのです」

「シルヴァン君の心配をしてるんじゃないですかね?」

「それこそなぜかと聞きたくなりませんか? わたしは隊長様から心配されるような立場ではございませんよ」

「んー、でも普通に心配になりません? だって今回の……横領でしたっけ? あれをやったのは伯爵家の方々のようですし、我々平民にはとても抗えない雲の上のお方ですから」


 サラは元平民だからこそ抱いた意見を口にする。


「貴族様を前にした時に、平民のあたしたちのできることなんで何もないわけですよ。愛人になれと言われたらなるしかないし、子を産めと言われたら産むしかないです。同じようにシルヴァン君も、その横領した方々から向けられる何かを避けることも防ぐこともできないですよね」

「それはそうです。平民とはそういうものです」

「でも隊長様はその理不尽が許せないタイプの方なんですよ。愛だの友情だのじゃなくて、それが騎士の在り方だと思ってる感じですよね」


 そういう性格なのだと語るサラに、シルヴァンは腑に落ちた気がした。

 思い返せばテオバルト・ヴェルという男は、最初から第二部隊長として動いている。先々月のマティアス・ローラン殺人未遂事件の当日からずっと、彼は何も変わっていない。

 誰が相手でも怯まない勇気も、子供相手でも侮らない礼節も、平民相手でも守ろうとする奉仕の心も。シルヴァンを思いやってくれる慈愛の精神も、地位を問わず悪を倒す公平さも。

 何かもが騎士としてあるべき姿だ。


「もしかしたらわたしは、過剰に隊長様を意識しすぎていたやもしれません。隊長様はそのお役目のためにわたしを保護しておられるのに、ご多忙な隊長様を相手に話し合いなどと言うのはおこがましいことなのやもと」


 共に王立学園で殺人未遂事件の被害者を救う立場として、少しは好意を抱かれていたと思っていた。その上で今回は心を配ってもらっていたと思う己の自意識過剰だった。

 そう考えたシルヴァンにサラは首を傾げる。


「そこはおこがましくない気がしますけども……アリーヌ様もセレナ様もどう思われますか?」


 なぜ唐突にそちらへ振り切れるのか。話し合いをしない方向に振り切れたシルヴァンの意見に、サラは救いを求めるように問いかける。

 そこで侍女がシルヴァンの前にミルクティーの入れられたカップを置いてくれたため、少しだけ会話が途切れた。


 そこでお茶を一口飲んだセレナが、吐息と共にまったく違う話題を切り出す。


「とりあえず今日のお茶会はわたしの昔話を聞く会にしましょう。シルヴァン君は知らないでしょうけど、わたしは異国の出身なのよ」


 セレナから不意に出た告白に驚いたシルヴァンは、持ちかけたカップを置いた。そこで飲みながらゆっくり聞いても大丈夫よと3人から言われてしまう。

 そのためシルヴァンは改めて温かなカップを持ち上げた。そこには3日前の夜に初めて出会った甘いミルクティーが入れられている。


「異国出身と言っても随分前にビタン王国に滅ぼされてなくなってるのだけどね。だから子供の頃のわたしの身分は難民」

「なんみん、って初めて聞きます」


 難民という単語に硬直したシルヴァンの隣でサラが質問を向けた。難民とは戦火や魔物により故郷を失った者や、貧困などにより故郷を捨てた者のことを言う。

 シルヴァンも難民を見たことはないが、少し前にマティアスから『カマラ王国の難民虐殺』について問いかけられていた。王立学園内の図書室には資料が見つけられないが知らないだろうかと。

 そのため竜神殿に隣接する図書館で調べたところ、10年前にそのような出来事があったことはわかった。

 それは100人を超える難民がたった1日で皆殺しにされるという他に類を見ない残虐な出来事だ。しかも皆殺しにした理由が兵器の使用実験のためだと言うから理解できない。

 だがどこの国にも庇護されない難民とはそういう扱いをされる存在なのだと理解はできた。



「難民ってどこの国にも属していないから、地位としては平民以下なのよ。それはそうよね。難民は税を払っていないのだもの」


 どんな平民もその国に住み定められた税を払っている。そうすることで国は治安を維持し、民の生活を守るのだ。

 だが難民は違う。税を払っていない以前に母国がなければ身分を保証するものがない。そのため基本的にどんな国も難民の入国を認めない。


「難民だったわたしはアルマート公国で旦那様を紹介されて結婚の流れになったのだけど、竜王国に来てからは勉強漬けの日々だったわ。そんなわたしのところに、結婚祝いを持ってご近所さんが来てくださったの。水竜退治を趣味に持つ豪快な方だけど、御子息に侯爵位を譲って引退したから時間はあると毎日来てくださって、竜王国で覚えるべきことをていねいに教えてくださってね。その時に一緒に来た小さな紳士さんがとても優秀で、勉強の助けになったのよ」


 セレナはどんな過酷な話も楽しげに、昔話として語る。そのため話を聞く側もそれを何でもないことのように錯覚していた。


「その小さな紳士さんは、ご近所さんの4人のお孫さんの中で末っ子の5歳だったわ。いつもお祖父様に抱えられて可愛らしい子だったけど、口を開くとよくわかるのよ。竜王国貴族の中で『天才』や『神童』と呼ばれるのはこういう子なのだって」


 竜王国貴族が語る天才や神童とは、頭脳と魔力が人並外れて高い子供のことらしい。そして長く魔力至上主義を貫いていたらしい貴族たちの目標は、そういう子を得ることだとか。

 つまり5歳にして天才と認識されるほど優秀なその貴族の子は、この国の宝として何より大切に育てられたことだろう。むしろだから水竜退治を趣味とするらしい祖父に大事に抱えられ連れ回されたに違いない。


「小さな紳士さんのお兄様がたも優しい子たちで、末っ子が可愛いと言っていたわ。だけど上のお兄様が2年後に乗馬訓練の合間に亡くなられてしまったの。ちょうどその頃はわたしが妊娠中で、葬儀などには参列できなかったのだけど、それ以前にご遺体の損傷が激しいからと小さな紳士さんをしばらく預かることになったのよ」


 当時は、幼い子には見せられなかったのだと思っていたのよ。そう語るセレナはチラリと子供たちが遊ぶ場を一瞥する。


「でもあの頃はまだわたしも竜王国のことを正しく理解していなかったのよ。どんな貴族も長男と次男がいれば、その下はいらない扱いをされがちだって。だから小さな紳士さんのご両親も預かっている間一度もこちらに顔を見せなかったし、7歳になった小さな紳士さんも両親を求めることはなかったのよ。お祖父様と下の弟さんが来ると嬉しそうにしていたけれど」


 幼い子が親を求めない。それは子供が育つ環境として異常であることを示している。孤児院の子ですら寂しい時には親代わりである管理人に甘えに行くと言うのに、その子は実の親がいながらそれがないのだ。一体どんな育てられ方をすればそうなるのかわからない。

 そんなシルヴァンの疑念に気づいたようにセレナは笑顔のままうなずいた。


「小さな紳士さんは親御さんを必要としないだけで、根は優しい良い子なのよ。わたしのお腹にいた子が生まれた時も実の兄のように喜んでくれて。8歳になったその子は自分がこの子をお世話するからって、わたしに休むよう言ってくれたりして」

「両親の愛情を受けなくても、優しい子になるものなんですね」


 そこでサラから素直過ぎる質問が飛んだ。とたんにセレナは笑う。


「あなたのロズリーヌたちは、年下のマリスを思いやれる優しい良い子じゃないの。つまりそういうことなのでしょうね。その小さな紳士さんも、親がどうあれ、お祖父様と下のお兄様から大切に扱われて思いやりの心を育んだのよ。それに孤児院の子は親を知らなくても立派に育っているわ。神聖魔法の根源は慈愛の心だと言うけど、この国一番の治癒師であるシルヴァン君は孤児院の出身よ」


 他者を思いやるのに出自や親の有無は関係ない。それを体現している例として出されたシルヴァンは反射的に首を横に振った。


「わたしは治癒師としてお仕事をしているだけですよ」


 誰のことも思いやってなどいないし、慈愛の心だの何だのを持った記憶もない。そう返したシルヴァンは、セレナの昔話に話を戻しませんかと提案した。

 そうでなければご夫人がたの優しい視線に耐えられなくなりそうだったからだ。

 そしてそんなシルヴァンの気持ちを汲んだように、セレナは紅茶を一口飲んで話を再開させる。


「小さな紳士さんが9歳になる頃、わたしは娘を生んだのだけど同じ年に紳士さんも甥っ子が生まれたと報告してくれたの。小さな紳士さんは、同い年のこのふたりが成長したら仲良くなれるといいね、なんて嬉しそうに語っていたんだけど、現実は甘くなかったわね」


 そう苦笑したセレナは、このふたりはきっとシルヴァンも知っていると教えてくれる。


「娘は王立学園の高等部3年にいて、その甥っ子であるオリヴィエ・アンベール君と犬猿の仲なの。とは言え弟のマティアスに危害を加え続ける相手と親しくなれるわけもないんだけど」

「殺人未遂事件の加害者ですね」


 つまり小さな紳士も祖父とやらもアンベール侯爵家の人間だったということになる。だがあの事件においてアンベール侯爵家の関係者として言われたのは侯爵自身と息子で加害者のオリヴィエだけだ。叔父などは一切出てきていない。


「もしや小さな紳士さんはもう亡くなられているのですか?」

「彼は生きているわ。その後、彼が11歳の時にお祖父様が嵐の海で亡くなられたの。ご遺体は見つからなかったけど、最後までこの国の海を守るために尽くされた傑物として葬儀には多くの人が参列したわ。でも彼は偉大なお祖父様のご遺志を受け継ぐように優しく聡明な子であり続けたの。毎日この家に通っては、ベルナールにお勉強を教えてくれたりして。翌年に王立学園中等部へ入ってからも、毎日抜け出してうちに来てくれていたのよ。王立学園を抜け出すなんてなかなかヤンチャな子だと思うわ」


 一気にそこまで語ったセレナは微苦笑と共に嘆息を漏らした。


「息子のベルナールにとって、その小さな紳士さんは何より大切なお兄さんだったのよ。だって彼は、幼いベルナールに空が青い理由や海に波がある理由のような知識の入口をくれるのだもの。でもその小さな紳士さんは13歳になる夏にこの国から消えてしまったの。理由は『下の兄が冤罪で王国追放となったから』。だから自分も逃げるよう下のお兄様に勧められたと、別れの時に教えてくれたわ」


 竜王国を出奔したのなら現在のアンベール侯爵家にいないのも理解できる。内心で納得するシルヴァンはなぜかセレナの視線を受けて眉を浮かせた。

 だがセレナはシルヴァンに何を言うでもなく話を続ける。


「当時5歳だったベルナールも、毎日来てくれた優しい人が来なくなったことを徐々に理解していくの。この子も天才だからって小さな紳士さんが教えてくれた古代語や知的好奇心を手にしたまま、花が萎れるように笑顔をなくしていく。それを見かねたデュフール侯爵家のユルリーシュ君が、彼の代わりにはなれないけどとベルナールをお茶会に招いて新しい知識を与えてくれるようになったのだけどね。そのお茶会でベルナールを見たオリヴィエ君が一目惚れしてからの、最近のマティアスへの加害行為でしょう? なかなか皮肉な話だとは思うわ」


 アンベール侯爵の弟らしい小さな紳士が出奔したことで、ローラン侯爵家の長男は気落ちしてしまった。きっと幼いその子にとって知識を得ることは生きがいだったのだろう。そしてその穴埋めとしてお茶会に招いて、その場で今の政務局副局長が新たな知識を与える。

 それは本来なら正しい選択だったのだろう。

 ただアンベール侯爵家の嫡男であるオリヴィエが、ローラン侯爵家の長男に一目惚れをしなければ。むしろその先で弟のマティアスを殺そうとするほどの執着を見せるのだから、他人にはどうしようもなかったのかもしれない。


「そのままいつの間にかベルナールも、その小さな紳士さんのことは忘れてしまっているわ。だけどそれだけの影響を他人に与えた優しい子が、この国を出た後も優しくないわけがないわよね」


 不意にその後の小さな紳士とやらについて語り始めるセレナに、シルヴァンは目を見開く。


「ご聡明で強い魔力もお持ちのその方は、どこかの国で出世などされているのですか?」

「ここを離れた後、深淵の学舎という魔術研究機関に3年くらいいたんですって。それ以降は傭兵として北の大陸にいたみたい。その事を教えてくれたのは王国追放になってたアンベール侯爵家のガスパール君なの。小さな紳士さんの下のお兄様ね。彼はアンベールの名を捨てて平民として何年か異国にいたんだけど、20歳の時に帰国して平民の女性と結婚したのよ」

「それはおめでたい話ですね」


 侯爵家から王国追放にされても、平民に紛れれば生きていける。それが知れたことに安堵したシルヴァンに、セレナも笑顔で同意してくれる。


「竜王国騎士として地道に働いていたガスパール君は、2回お嫁さんを連れてきてくれたのよ。結婚のお知らせと妊娠のお知らせね。妊娠のお知らせの時には成長した紳士さんも一緒だったの。ふわふわ笑いながら、甥っ子でも姪っ子でも使える物は何かなってわたしにも聞いてくれて。その頃にはベルナールが王立学園に入っていたから、会えないことを残念がるくらいだったわね。夏には生まれるから、その時には夏季休暇のベルナールもいるわよって話をしたの」


 にこやかな顔で、祖母になった気分よねと語るセレナはまた紅茶を飲む。その優雅な仕草には元難民という過去を感じさせない。

 シルヴァンは優しい甘さのミルクティーを飲みながら人の成長を見た気がした。


「その紳士さんは子供がお好きなようなので、お兄様のお子さんのお世話も楽しいでしょうね」

「ええ、生まれていたら楽しかったかもしれないわ。でも5年前、第二部隊長だったガスパール君は子供を拉致して売ることを生業としていた犯罪組織に殺されてしまったの。その犯罪組織はさらに見せしめとして、出産間際だったお嫁さんも殺してしまった。王都下層の治安が最悪の状態で停止したのはこれのせいね」


 5年前というとシルヴァンは既に治癒師として働いている頃だ。王都上層にある竜神殿で、毎日かかさず民たちを治癒してきた。だがそもそもそれは竜神殿に訪れるほどの体力のある者だけだ。

 そして少なくともシルヴァンは動けない者を救ってほしいと要請されたことがない。なので民間の医療施設が対処しているものだと思っていた。


「港地区に医療施設がございますよね? それでも救えなかったのですか?」

「だって民間の医療施設って、騎士の利用はできないのでしょう?」

「え……ええ、いえ、非常時でしたら利用できますよ。そのご夫妻は殺傷沙汰なのですから利用できました」

「でもお断りされたのよ。騎士の利用はできないから竜神殿へと。だから紳士さんは竜神殿に駆け込んだのだけど、竜神殿は治癒師を王都下層に派遣しないのですって」

「それもおかしいです。我々治癒師は人を救うためにいるのですから、必要とあらばどこにでも行きますよ」

「あなたがそうでも竜神殿の偉い方はそう思わないのでしょうね。紳士さんは下のお兄様もそのお嫁さんも亡くしてしまったのだもの」


 現実として前の第二部隊長とその妻は死んでいる。いまここでシルヴァンが何を語ろうとその事実は変わらないのだ。

 そうして罪悪感に支配されたシルヴァンの目に涙が溜まる。


「わたしが知っていたら王都下層まで行きました」

「だから竜神殿も知らせないのだと思うわよ。治癒師は竜神殿の財産だから、あえて治安の悪い場所に行かせないでしょう」

「ですが……」

「治癒師って現在この国に10人くらいしかいないでしょ。魔力至上主義を貫いたこの国では、それだけ神聖力を持った人間が生き残る可能性は低いのよ。だから竜神殿は君たち治癒師を囲い込むし、けっして危険な場所には行かせない。その紳士さんは幼い頃から天才だったから、そんなこの国の構造も熟知しているわ。だから諦めもつくのよ」

「ご自分の兄が亡くなって、それでも受け入れられるのですか? この国や環境や世界を恨んだりいたしませんか」

「うーん、正確にはわからないわね。ただ彼は憎むことをしていないのよ。だからこの世のすべてを諦めたのじゃないかと思っていたの」


 それを人は絶望と言うのではないだろうか。そう思ったが口に出すことなく、シルヴァンは紳士とやらの不遇に涙をこぼした。




 ◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇




 シルヴァンがローラン侯爵家に滞在する間、第二部隊長もそちらにいてくれている。それでも仕事の都合で帰宅が遅くなることがあった。

 だが滞在4日目のその夜はいつになく帰宅が遅い。

 夕方に聞いた話が頭から離れないシルヴァンは、マリスに本を読み聞かせ寝かしつけた後で執事の許可を得て屋敷の外に出た。


 王都上層にあるこの邸宅から王城までは距離もさほど離れていない。ならば歩いて様子を見に行くこともできるかもしれない。

 なんなら共に帰路に就きながら、前の第二部隊長について話を聞けないだろうか。いまだ罪悪感に支配されたシルヴァンは屋敷を出る際に借りたケープで身を包みゆっくり歩いていく。


「今宵の所有者様は夜半過ぎまで帰れないかと」


 そんなシルヴァンの背後から穏やかそうな声がかかる。そのため足を止めたシルヴァンが振り向くと、街灯の光からはずれた暗がりにスラリとした長身の男が立っていた。


「どういうことです?」

「ですので、所有者様を迎えに行かれたところで仕事は終わらないと教えて差し上げているんです」

「あなたはどこのどちら様ですか? そして所有者……と、いうのは、つまり? 奴隷と持ち主のような?」

「自分は魔法武具ですので、道具であっても奴隷とはなり得ません」

「魔法武具? あなた、魔法武具なんですか? まるで人のように会話が成り立ってますけども?」

「ええまぁ、おかげさまで高い評価を得ております。そんなことより、あなたはこのまま踵を返してお帰りいただく事をお勧めしますよ」


 魔法武具らしい男性はローラン侯爵家の門を指さして言い放った。

 王都上層は通りも街灯に照らされて夜でも明るい。だがそれでも安全性が担保されているわけではないのだろう。だから戻れと言われたことはシルヴァンにも理解できる。


「しかし部屋でひとりになるといろいろ考えてしまうのです。それこそ罪悪感にさいなまれると言いますか」

「それはまあ致し方ないことでしょう。たかが神聖魔法を扱えると言うだけの凡人にも関わらず、お優しい所有者様から過分な扱いをされていましたからね。自分なら救えたかもなどと、愚かで傲慢な考えを持つから罪悪感など抱くのです」

「傲慢……」

「5年前なら治癒師として新人だったでしょうに、そんな自分でも瀕死の人を癒せたなど傲慢以外の何がありましょうか」

「たしかに…そうです」


 言葉は厳しいが、彼の指摘は最も重要な部分だった。

 今のシルヴァンは、瀕死のマティアスを救えたように、だいたいの患者は癒すことができる。だがそれは治癒師として重ねた経験と医学知識の結果だ。

 だが5年前の自分はまだそこまでの経験も知識もなかった。


「人は経験の中で変化するものです。所有者様がその心を闇に沈めた結果、黒の魔力剣たる自分を手にする権利を得たのもそのひとつ。そして深い闇に沈み死んだその心が、凡人どもを守り救うことで癒されつつあるのもまたひとつ。わかります?」


 わかるかと問われたシルヴァンは、理解できないまま曖昧にうなずく。


「隊長様がちょっとおかしいのは、あなたがおっしゃる心を闇に沈めた云々のせいなのですね。そしてマティアス君たちと関わることで癒されていると」

「まあそんな感じの認識で良いでしょう。愚か者がなんでもかんでも知ってしまうのも厄介ですからね。というわけで、お戻りいただけますか?」

「つまり……調子に乗ったわたしが好き勝手動くことで、隊長様に気苦労をかけたくないから、何も知ろうとせずおとなしくしていろと」

「正解です。ええ、ご理解いただけて何よりです」

「では、帰宅を待って隊長様に質問するのは許されますか?」

「まだ何か聞きたいことでも?」

「前の第二部隊長の弟君は、つまりのところアンベール侯爵様の弟君でもあられます。そのような尊い方がいまは何をなさっているのか気になります。ええと……ここで心配をするのは傲慢だと、あなたはおっしゃるでしょうけども」

「ええ、モルレ孤児院のシルヴァン様。あなたごときが侯爵家に連なる尊い方を心配しようなどと、傲慢もいいところだと思いますよ」


 とうとう出自を出されてしまったシルヴァンは口を閉ざした。同意するようにうなずいて返すときびすを返してローラン侯爵家の屋敷へ戻る。


 するとまたシルヴァンの背中に男の声が当たった。


「心に作られた壁を破壊するなら、その武器はあなたのような愚か者が持つ傲慢だけなんですよ」

「あなたはわたしにどうしろと言うのですか!」


 己が愚かで傲慢なことは十分に理解した。だと言うのにまだ何かを言おうとする男にシルヴァンは感情のまま声を向けた。

 すると男は漆黒の瞳を細めて微笑む。街灯の光を避けるように立つ彼の顔は、作り物のように端整で美しい。


「愚か者は愚か者らしく、遅く帰ったあの方に人として大事なものを押し付けたら良いのです。公金横領という管轄外のゴミ掃除をされた所有者様はお疲れでしょうから。食事と湯浴みと休息をと、治癒師たるあなたの立場で説教なさってください」


 それはここ3日ほどシルヴァンがテオバルトに向けていたことだった。終業時間を守らず遅い時間に帰る彼へ消化の良い食べ物を与えて、入浴させ、早々にベッドへ押し込む。そうして翌朝に疲れを残さない過ごし方を語っているうちに彼が寝ているのだ。

 そのため価値観の溝は埋められていないが、彼の顔色はかなり改善している。


 それをしろとこの男は言っているのだ。仕事で疲れているテオバルトに余計なことを聞くことなく休ませろと。

 そしてそれはシルヴァンもすんなり受け止められるほどの正論だった。





ローラン侯爵夫人のセレナは異国の難民出身ですが、亡国の王族として最低限の教養がありました。王立学園卒業後、侯爵となったシメオンは19歳の時に精霊石を買うべく訪れたアルマート公国で16歳のセレナを紹介されます。

しかし最低限の教養はあっても海の向こうにある竜王国のことはまったく知らない。そんな無知で若すぎる侯爵夫人のために動いたのが当時侯爵位を息子に譲り引退していたギルグラン・アンベール。

ギルグランは幼い孫を荷物のように抱えてローラン侯爵家に通い、表向きはセレナが5歳児と共に学べる環境を作りました。

ただ実際にはセレナが5歳の小さな紳士から学ぶ形となっています。その上さらに侯爵夫人として必要な作法はバルニエ伯爵夫人アリーヌが特別講師となって教えました。

ミリュエルが伯爵令嬢ながら侯爵令嬢たちと幼児期から一緒に過ごしているのはこの繋がりによるものです。



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