135. 甘い物には癒しの効果があります
ユルリーシュ・デュフールはここ3日間、寝る間を惜しんで働き続けた。職場では父から帰宅しない理由を問われ、着替えの為帰宅した際も夕食に来ないのかと問われることもあった。さらに婚約者との約束を断ったことを咎められたが、すべて聞かずに仕事を続けた。
そうして手元の法案の資料として王都内にある孤児院の現状を、信頼できる人間を使って再調査させる。その中には妹の夫であるラングや、トリベール侯爵家の長男アベルも入れた。
彼らは家族より信頼できる人間だからだ。
そんな彼らに現地調査をしてくれている間に、ユルリーシュは個人的に竜王陛下代理との面会を求めた。
だが竜王陛下代理は多忙だからと、父たちから断られてしまう。つまりのところ政務長官や文官長を通さない面会は息子だろうと許さないということなのだろう。
もちろん息子でも特別扱いしないというその点はユルリーシュも評価できる。
だからそこは文句も言えないが、竜王陛下代理を味方に付けられないのは痛手だとは思う。
かくして大量の資料を受け取った5日後、ユルリーシュは朝から書類を抱えて第二部隊長の執務室に駆け込んだ。
「テオ様おはようございます! 喜んでください!法案が完成しま」
「おはよう。ユルリーシュ君」
勢い良く扉を開けて飛び込んだユルリーシュの目の前で、敬愛している幼馴染みが真顔で白パンを食べていた。
バターとジャムらしい物が挟まれたそれを食べ続ける幼馴染みのそばで、琥珀色の男性が紅茶のカップをそっと置く。
「ユルリーシュ君も食べるかな?」
「わたしのテオ様を餌付けするあなたは!」
「オレはフィーリス・レイランドだよ」
「名前は聞いてない……いえ、わたしはユルリーシュ・デュフールです」
終始優しい笑顔の大人にある意味で気圧されたユルリーシュは、完全に勢いを削がれソファに腰を下ろした。そんな彼の向かい側で、第二部隊長である幼馴染みはなぜか黙々とパンを食べている。
「テオ様、そんなに美味しいんですか?」
そこまで夢中になるほど美味しいのか。そう思うまま問いかけた先で不意に幼馴染みの動きが止まった。
ジャムが挟まれた白パンを咥えたまま、初めてユルリーシュに目を向ける。そして驚いたような顔でうなずいた。
「……砂の味じゃない」
「それは何よりだ。お茶も冷めないうちにどうぞ」
ひとり驚く幼馴染みに返しながら、フィーリスはユルリーシュの前にも紅茶のカップを置く。その上でユルリーシュが持参した書類の束を持ち上げた。
「孤児院の予算配分に関する新規法案。なるほど、これは面白いね。最近の陛下は幼児教育に興味を持っておられるから良いんじゃないかな」
書類をペラペラとめくり簡単に目を通しただけで中身を理解する。そんな恐ろしい相手にユルリーシュは素直に震撼した。
「ユルリーシュ君はそのお茶を飲み終えたら、この法案を資料とともに政務長官の元へ提出してくれ。そしてまずは孤児院の現状を、君が添付した資料を元に訴える。孤児院はこんなに財政が逼迫しているとね」
「確かに、法案を通すためにはまず現状を把握してもらわなければなりません。ですが」
それは正しいやり方だが、そこを強調する必要はあまりない。むしろそれが過ぎれば孤児院に肩入れし過ぎていると父たちに指摘されるだろう。
だからと意見しようとしたユルリーシュが見上げる先で、フィーリスと名乗る大人が微笑む。
「オレは、孤児院出身者というだけで寄付を強いる法律もどうかと思う。それはあきらかに出自を元にした差別だからね」
「しかしどのような生まれにせよ、出自に対する責務は負うものです。貴族がそうであるように」
「つまり君は、持たざる者から強制的に奪うことと同等のものを背負っていると?」
「いえ……それは……しかし」
デュフール侯爵家の長男として生まれたユルリーシュは、ずっと重責を背負い続けててきた。
知識の家系と言われるからこそ、知性も理性も優れていなければならないと。だがそれは何も持たない者から何かを奪うほどのものではない。
「人は衣食住がなければ人として生きていけない。そして人が衣食住を得るために必要なのが金銭だ。それを出自を理由に死ぬまで奪い続けるのは、差別から発生した搾取になってしまうね」
「確かに、そうです」
フィーリスはどこまでも優しい口調と雰囲気でいる。だからなのか、その言葉はすんなりとユルリーシュの中に染み込んだ。
するといまも無言でパンを食べている幼馴染みが、卵を挟んだパンをくれる。
自分より聡明な相手に出会うと敗北感に泣ける。そんなユルリーシュの子供時代から持つ性質を理解しているからだろう。そう理解したユルリーシュは、敗北感と共にパンを手にする。
つまりこのフィーリスという琥珀色の男性が、ユルリーシュより聡明であることを幼馴染みもわかっているのだ。
そうしてバター香るパンを食べたユルリーシュに、挟まれた海老の甘みと卵の柔らかさが染み渡る。
「おいしい」
敗北感のせいなのか、美味しさのせいなのか。涙をにじませて吐露したユルリーシュのそばで、フィーリスがしゃがむように視線の高さを落とした。
「たった5日でここまで仕上げた君はとても優秀だ。でも帰宅せず、帰宅しても食事にも現れない君をお父上が案じておられたよ」
「これはテオ様がわたしを頼ってくださった案件です。ですがそれよりも、食事もままならない子がいるというのに悠長に休んでいられません。早急にこの法案を通したいと思いました」
「君は優しい子だね。でも君自身も、周囲の者たちにとっては大切な子なんだ。それにこの国にとって貴重な存在でもある。無理をして倒れるようなことがあってはいけないよ」
敗北感ではなく優しさに涙が溢れたユルリーシュはこくこくと何度もうなずく。己の苦労をここまでわかりやすく認めてくれて労ってくれた人はいなかった。
そうしてパンを食べるユルリーシュの膝を優しく叩いたフィーリスが、書類を抱えたまま立ち上がる。
「うん、じゃあ……書類はオレから政務長官たちに通しておくから、ユルリーシュ君はここで少し休憩しよう。そしてテオバルト君は、騎士団内の片付けを頼むよ。大丈夫、返事はいらないからよく噛んで食べてね」
最後まで笑顔で告げるフィーリスに幼馴染みもうなずいて返す。そうして琥珀色の頭を見送るユルリーシュは、ややあって幼馴染みに視線を戻した。
「あの方は……」
「見ての通り。琥珀色の彼女の父君だ」
「ああ!!」
思えば謁見の間で竜王陛下代理とお会いする時、ユルリーシュはそのご尊顔をまともに見ていなかった。もちろんそんな恐れ多いことをできる者は自分を含めた上級官僚にいないと思っている。
だがだからこそ、フィーリスと名乗る琥珀色のあの男性を見ても竜王陛下代理と繋げられなかった。
そこまで考えたユルリーシュは己の手元にあるパンを驚きの目で見る。
「テオ様……まさか、これは」
「フィーリスさんは料理がうまい。お茶もうまい。砂の味もしない」
「なぜです??」
「竜だから……?」
かつて天才と呼ばれた幼馴染みが、4年前に壊れた状態で帰国したあげく今まで情緒が死んだようだった幼馴染みが不思議そうな顔で首を傾げている。
その事実が嬉しくて再び緩んだ涙腺は、扉を開け放ち現れるもうひとりの幼馴染みの登場に引っ込んだ。
「おはようテオさん! って、なに食べてんの。おれも食って良い?」
「肉は入ってないよ」
「いいよいいよ。朝飯で肉食ったから」
朝から重いものを食べられる元気な胃袋のダニエル・ヴァセランは、嬉しそうにカゴからパンを取り出してかじりついた。
その様子を眺めるユルリーシュの視界の中で、第二部隊長である幼馴染みのテオバルトはゆっくりと紅茶を飲む。
「ところでテオさんって、そもそも今回は何が目標な感じ? テオさんがアンベール侯爵を倒した事はナイショで親父から聞いたけど、次の標的は?」
アンベール侯爵失脚に関してはその場で箝口令が敷かれている。そのためユルリーシュは理由も何も知らされず、ただアンベール侯爵の座が空白だとだけ聞かされている。もちろん知らされないからと、知らないままでいるユルリーシュではないが。
だと言うのに、父親から内緒で聞いたと言うダニエルは、ここでも平気で話を出していた。そしてテオバルトもそんなダニエルを叱ることなく問いかけに答える。
「最終目標は治癒師殿の俸給を横抜きしている黒幕になる。だが長年それが表沙汰になっていないなら、内部に協力者がいる。おそらく上級文官だろうから、またユルリーシュを頼ることになる」
「いくらでもおっしゃってください」
頼ると言われた瞬間に笑顔を輝かせたユルリーシュは、パンを一気に食べるとそれを紅茶で流し込んだ。ただ流し込むために飲むには惜しいほど紅茶が美味しい。
「治癒師シルヴァン・モルレは長期間、俸給を横流しされている疑惑がある。ユルリーシュにはそれを探すことを頼みたい。だが近々、治癒師殿の首飾りが盗まれる事案が発生するだろうから、告発はそれまで待っても良い。横領の証拠がない場合は、窃盗でまず捕らえる」
「かしこまりました」
「そしてダニエル」
指示を受けたユルリーシュは、次なる指示も聞こうとテオバルトとダニエルとを見る。
するとテオバルトは、ダニエルの手元を指さした。そこにはジャムを挟んだ白パンがある。
「食べるなら魚か海老にしてくれ」
「このジャムはどこのジャム? 木苺?」
「アルマート産の紅砂ベリー蜂蜜ジャム。俺も13で初めて食べた時は甘さに驚いた」
「なるほど。木苺にしては赤がキレイだもんな」
テオバルトに言い返しながら、ダニエルは手元のパンをカゴに戻した。その様子を確認したユルリーシュは香り高い紅茶をゆっくり飲む。
一息ついたユルリーシュは、幼馴染みふたりへ笑顔で仕事に向かうと告げると部屋を出た。
そうして部屋を出た瞬間、ユルリーシュの顔から笑みが消えている。
この後すぐにでも「孤児院出身者に対する寄付の義務」を法律から撤廃させなければならない。
だがそれは政務長官を説得すればどうにでもなることだ。
もちろんそこに竜王陛下代理や、シルヴァン・モルレの存在を匂わせることはしない。それは政治を担う者として己が引き受けるべき批判だ。
無自覚に差別を向けていた己は、政治を担う者として未熟だった。その責任を負うのは当然のことだ。
そして同時に、王城財務局在籍する50人の上級文官の中から、竜神殿の俸給に関する文官を探すことになる。それに関しては人事に関する下級官僚を動かして調べさせれば良い話ではあるが、大っぴらにそれをすれば相手に気づかれるかもしれない。
それ以前にテオバルトは俸給横流しに関する事案そのものを任せてくれた。ならばその事案に関する容疑者を全員見つけることが求められている。
俸給を横領しているのか、あるいは文字通りどこかへ流しているのか。
何にしても隅々まで調べ上げて全員を吊るし上げればテオバルトの期待には応えられるだろう。もちろんそのために一族郎党がどうなろうがユルリーシュの知ったことではない。
かつてアンベール侯爵を名乗り好き勝手していたあの男が、独房の冷たい床に座らされて臭う身体を清めるためと氷水をぶちまけられる程度のことは容易い。
しかも氷水をかけられたあの男が、自分から「テオバルトに刺客を送っていた」と告白してくれたので罪がひとつ増えたがそれは自業自得だ。
人は誰しも己の行動の責任を取らなければならない。
そしてかつて侯爵を自称していたあの男も今回のドブネズミどもも、テオバルトを煩わせたという大罪のツケから逃れることはできないのだ。




