109.狂気の目覚め
祝祭月を過ぎて風の月に入ると、季節は冬に飛び込み肌寒い日が続く。雪が降るでも雨が降るでもなく、ただ朝晩が冷え込み過ごしにくい。
オリヴィエ・アンベールはこの季節が嫌いだった。
それこそ幼い頃は使用人に暖炉の火を絶やすなと命じて夜を過ごすこともしている。大人たちから、魔芒石を使えば簡単に室内が暖まると言われても聞かなかった。暖炉の火が好きだったからだ。それに使用人が暖炉の火を守るため徹夜しようがこちらの気にすることではない。
自分はアンベール侯爵家の長男で、この世で最も高貴な存在だった。少なくとも幼い頃のオリヴィエは屋敷の中でそのように扱われ過ごしている。
竜王国最高の爵位である侯爵家。その未来を担う大切な跡取り息子だと両親からも親戚からも言われてきた。
だから暖炉の火を守らせる程度のことで、とやかく言われる筋合いもない。
だというのに、その世界はたった6歳の時に壊れてしまった。
国内には他に侯爵家があるとは聞いている。だがオリヴィエこそが最も賢く優秀で愛らしいと親に言われていたから気にしなかった。
そんなオリヴィエは、鮮やかな空色の瞳と淡くきらめく金色の髪に目を奪われる。
風にサラサラと揺れる髪は陽の光にきらめき、白磁の肌と大きな瞳がいっそう神々しい。
その存在に心を奪われたオリヴィエは、すぐさま両親の元へ駆け込み訴えた。
「アレがほしい」と。
だが両親は苦笑するだけで聞いてくれない。
大人は大人同士で話すことがあるからと、オリヴィエに子供たちの集まりへ行くよう背を押される。
だからオリヴィエは仕方なく直接本人に言うことにした。
「おまえが気にいった。ぼくのものになれ」
オリヴィエは自分のことを世界で最も高貴な存在だと信じていた。だから目の前にいる子供たちも、使用人の子供たちと同様に自分へかしずくだろうと。
だが鮮やかな空色の瞳のキレイなその相手は、オリヴィエを一瞥したが無視した。あげくそばにいる年上の男に対して手元の本についてなにやら話しかけ始める。
そして年上の男は、熱心に質問するその鮮やかな金色の頭を優しくなでた。オリヴィエですらまだ触れていないというのに。
その上で男が親切そうな顔で図々しくもオリヴィエに教えようとしてくる。
ここにいるのは全員が侯爵家の子供で、オリヴィエと同等の地位を持つ。ただそんな侯爵家の中でも序列というものがあるらしい。
そしてオリヴィエの実家であるアンベール侯爵家は序列4位。さらにオリヴィエが自分の物にと望んだ美しい相手は、序列3位のローラン侯爵家の子。
まだ幼いから礼儀をとは言わないけれど、その序列は忘れないほうが良いよ。そんなことを言う男の言葉が信じられなかった。
ただその序列があるから、目の前の美しいオンナは自分を無視できたのだと納得もする。親の地位に守られいい気になっているのだと。
その義憤を抱えて再び親の元へ駆け込んだオリヴィエは教えられたまま序列について問いかける。そこで親からさらに恐ろしい現実を知らされた。
筆頭侯爵家にオリヴィエと同い年の子女がいる。アドリエンヌという名のその女こそがこの集まりの中で頂点に立つ存在なのだと。
けれどその上で優しい母が教えてくれた。
「いい? オリヴィエ、わたくしたちの家は確かに序列4位。けれどあなたの同学年にいる序列上位はみんな女の子なの。だからあなたがいずれ入学する王立学園では学年の頂点に立つことになるのよ」
オンナは男を立てねばならないから。オンナは男ほど賢くはなれないから。
だからオリヴィエが、同い年の中では最も尊いことに変わりない。
母の言葉はオリヴィエに自信を取り戻させてくれた。だがだとしたらあの鮮やかで美しいオンナも、将来的に自分の手に入るのかと優しい母に問う。
そんなオリヴィエが指差した先を見た母は苦笑した。
そうして母から向けられた事実にオリヴィエは絶望することになる。
この場で誰よりも神々しく愛らしい、誰よりも自分にふさわしいオンナはオンナではなかった。
しかも相手は頭脳も魔力も何もかもが優れた神童と、すべての侯爵たちに認められている。
けれどオリヴィエはその事実が認められなかった。
実際に筆頭侯爵家のアドリエンヌよりも誰よりもベルナールは美しい。耳を隠すほど伸びた鮮やかな金色の髪も、長い前髪の隙間からのぞくきらめく空色の瞳も何もかもがオリヴィエの目と心をとらえて離さない。
そうしてオリヴィエが生まれて初めて執着した相手は、オリヴィエのことなど歯牙にもかけない。いつも違う本を手にデュフール家の長男の元へ駆け込み話し込む。
それも憎らしかった。知識に富んだ家系であるからと、序列2位だからとベルナールを独占する男が。
それに何より、あのベルナールが唯一笑顔を向ける存在がいることが許せない。地味な黒髪の小さな泣き虫はいつもウサギのぬいぐるみを抱えている。
男のくせに4歳になってもぬいぐるみを手放せない軟弱者が、あのベルナールの大切な存在なのだという事実が認められない。
しかもベルナールに守られるだけの弱く愚かな男なのだ。自分が弟ならベルナールに褒められる努力もしてやるのに。
だから愚かで泣き虫なマティアスの抱くウサギのぬいぐるみをハサミで切り捨ててやった。4歳にもなってこんなものを抱えるなと。男として恥ずかしくないのかと。
そう罵倒していたオリヴィエは、その直後の記憶が飛んでいる。
気づいたら顔の痛みと共に地面に転がっていた。知らせを受けたらしい母が悲鳴をあげて駆け寄りオリヴィエを抱き上げる。
そうして母に抱かれながら、オリヴィエは初めてあのきらめく空色の瞳と視線が交わった。
オリヴィエが欲しいと願ったその瞳が宿していたのが何なのかわからない。ただ顔が痛くて涙に視界がにじむ。
そんなオリヴィエの目の前で、ベルナールの瞳はマティアスに向けられた。そして誰よりも優しい顔で声色で、ぬいぐるみは直るからとマティアスを慰める。
「ミリュエルからこの小さな友人を治してくれる医者を聞こう。彼女ならきっと助けてくれる。だから泣かないで」
今まで聞いたこともないその言葉はマティアスにしか向けられない。こちらは顔が痛くて涙もあふれているのに、ベルナールはそんな言葉も向けてくれない。
そしてその出来事は、オリヴィエの記憶に深い傷として残った。
オリヴィエには年の離れた2人の姉と妹がいる。姉たちは竜王国の令嬢にふさわしい教育を受け、学園卒業と共に嫁いでいった。
むしろ5歳上の長姉も4歳の次姉とも、学園内では顔を合わせていない。男を立てるのが令嬢の義務だからか、彼女たちはオリヴィエに関わらない選択をしたらしい。
なぜなら彼女らは成績が良くなかったから。
オリヴィエが王立学園に入る前など、夏季休暇で帰省した姉たちの成績について叱られていたのを見ている。
アンベール侯爵家の娘として自覚を持て。こんなことでは侯爵家の令嬢として失格だと毎年のように叱られていた。
だからそんな己を恥じてオリヴィエの前に現れなかったのだろう。しかもそのまま卒業と同時に逃げるように異国へ嫁いだと聞く。最後までアンベール侯爵家の役に立てないとは嘆かわしいことだ。
だがオンナとはしょせんそんなものなのだろう。だから竜王国では令嬢は男を立てるべきという風潮がある。つまりオンナは男を立てることしかできない劣った存在なのだ。
実際にオリヴィエは王立学園に入学して以降ずっとSクラスにいるがそこにオンナはいない。Sクラスの全員が男で、オンナはAクラスに甘んじている。
知識の家系だからと、ベルナールを独占していたあの男の妹ですらAクラスなのだから笑えてしまう。
そしてひとつ年上のベルナールと言えば、王立学園内で騎士科連中から「姫」と呼ばれていた。もちろんその扱いにはオリヴィエも納得する。
いつの間にかベルナールは髪を短くしてしまったが、それでも損なわれない美が彼にはある。むしろ前髪が短く刈られたことで、鮮やかな空色の瞳が際立って見えるようになった。
成長して「神童」から「孤高の天才」に呼び名が変わったベルナールは、いつ見てもオリヴィエに幸福感を与える。
賢すぎて独りぼっちになっても彼は折れることがない。真実この世で最も尊く強く美しい彼は、芸術品のように見ているだけで人を幸せにするらしい。
だがそれでもオリヴィエも人間だった。12歳で王立学園の中等部に入ると毎日のようにベルナールを見ることができる。その美しい姿を見ているだけで満足していたのは少年の時期だけだ。
少年から大人へと成長する間に、オリヴィエの性愛がベルナールで固定されてしまっていた。
親友のシェルマンたちがどんなオンナが好きだと話す中に加われない。好みのタイプを聞かれてもベルナールとしか答えられないからだ。
そうして中等部3年になろうとする頃にはベルナールを押し倒す夢すら見るようになった。ただそこから先の知識がないためか、夢に見るのもそこまでだ。
ただベルナールが高等部に行ってしまう焦燥感がそんな夢を見せたのかもしれない。
ただ実際に中等部3年へあがると寂しさが募る。高等部の敷地が隣にあるとはいえ、校舎内で見ることもできず寮も離れている。
その距離に苦しむオリヴィエは親友たちから噂を聞いた。
中等部1年に絶世の美少女がいる。誰もが恋い焦がれるほど甘いその新入生は砂糖菓子と呼ばれるらしい。
ただ異国から来た裕福な平民らしく苗字はない。その時点でオリヴィエの興味は失せた。むしろどれほど顔が整っていようと、ただの茶色ではないか。
裕福な平民らしいのに、魔法武具で色彩を買えることすらしない。外見に無頓着なオンナなど侯爵家では愛人にもなれない。
そんなオリヴィエの評価を周囲も笑いつつ同意してくれた。
実際にオリヴィエは王立学園へ入学した時点で魔法武具を購入して色彩を変えている。鮮やかな緑の髪と銀の瞳は、誰も持たない唯一無二の色彩として気に入っていた。
むしろこの魔法武具もピンキリあり、鮮やかな色ほど価格があがる。父はその事について安い海賊版が出回っているせいだろうと言っていた。
つまり色彩変化の魔法武具は、正規品と偽物が市場に出回っているらしい。
もちろんオリヴィエの魔法武具はアルマート公国で買い付けさせた正規品だ。だからこそ髪の緑も鮮やかで、瞳の色もきちんと変わっている。
そんなオリヴィエは高等部2年の時に強烈な青の瞳と出会ってしまった。髪の色は水色に近いが、その瞳は疑うべくもないラピスラズリそのものだ。
セシーと名乗る彼女と出会ってオリヴィエの生活は一転した。むしろ彼女みずから作ってくれた焼き菓子を食べた瞬間に変わったのかもしれない。
貴族のオンナは厨房に立たない。だが隣の大陸で育ったセシーは、親が趣味でやっていたからと照れたように笑う。
だが彼女の言う親とはきっとブレストン公爵のことだ。人の腹から生まれた竜でありながら、父親の爵位を継ぐため竜王国の王位継承権を放棄した人。
そんな偉大な存在を「優しい父親」と語る彼女の菓子を食べているうちに、それまで追いかけ続けたベルナールの存在が頭から消えた。
きっとこれは運命なのだろう。彼女はこの国の至宝で、この国を支える未来の女王だ。そんな彼女の相手となれば自分は文字通りこの国の頂点に立てる。
もちろん竜王国の男として、オンナの下につくなどありえない話ではある。
だが愛するセシーを支えることなど苦ではない。セシーこそがこの世界の頂点だからだ。
そんな帝国出身のセシーは昨年、竜王国の冬をまったく寒くないと笑っていた。その頃はただ可愛いと思っていたのに、最近はたまらなく胸が締め付けられる。
そしてそれは今も変わらず、自分や親友たち以外の男の名が出るだけで胸がざわめき締め付けられた。
「こないだディートハルト君と会ったからクッキーをあげようと思ったんだけどね」
食堂の奥には、侯爵家だけが使える個室がある。暖炉に温められた個室で昼食を取りながらセシーは他愛ないことのようにシェルマンに語っていた。
「クッキー、いらないって断られちゃった。なーんかディートハルト君はマティアスのこと大好きみたいなんだよね。あのふたりって付き合ってるのかな?」
「ラピスラズリごっこをやってるんだよ。君という本物がいるとも知らないで」
シェルマンはセシーに慰めの言葉を向ける。そしてセシーも笑いながらそうかもと返した。
「でもディートハルト君って強くてカッコいいから、マティアスも守ってもらえそうだよね。ベルナールがいなくても安心って感じ」
セシーは明るく素直な性格だから、どんな相手も好意的に受け止めていた。しかも侯爵家の人間も平民も皆平等に扱おうとする。それは為政者として優しすぎるが、この平和な竜王国では問題ないだろう。むしろ歴代の竜王陛下と違って愛される女王になるはずだ。
むしろ歴代の竜王陛下たちは共通して人に興味がないような姿を見せていたが、あれは良くないと思っている。竜は尊いのだろうが、実際にこの土地を統治し治安を守っているのは人間側なのだ。
王として安寧に過ごせる事に対して、人間へ感謝や敬意を向けても良い。その点でセシーは平民にすら礼を向けられる優しさがある。
「ねぇ、オリヴィエもそう思うよね?」
「ん…? すまない。考え事をしていて聞いていなかった」
不意に話を振られたため、オリヴィエは笑顔で謝罪を向ける。するとセシーは最近そういうの多いねと言いつつ言葉を重ねた。
「マティアスは可愛いから、ベルナールが卒業してもすぐディートハルト君みたいな人に守られるのかなって話してたんだよ。そしたらシェルマンがローラン侯爵家だからじゃないかって言うの。侯爵家に近づく目的かもって。でもわたしは愛なんだと思うんだよねぇ」
「マティアスが、愛されている、と?」
セシーから出た話にオリヴィエは内心で震えた。弟というだけで、ベルナールの愛を独占し守られ続けたローラン侯爵家の無能。
だと言うのに今度は異国の留学生に愛されているという。
「セシーはどうしてそう思うんだい?」
「マティアスは可愛いからだよ。ほら、最近なんて前髪を切ったじゃない? 目とかベルナールそっくりで美人顔だよね〜」
「可愛いから、愛されて、守られる?」
「そうだよ。どんな物語でもそうでしょ? 可愛い愛されヒロインが兄に溺愛されてヒーローに愛されて守られて幸せになるの。マティアスってそんな感じのかわいさだよ」
セシーから出る褒め言葉はオリヴィエの胸を締め付けるどころではなかった。
確かにマティアスは兄であるベルナールに愛され、今は屈強な留学生に愛され守られている。だがそれはマティアスがローラン侯爵家の次男でベルナールの弟だからだ。
だから地味な色合いなのに、ベルナールに似た顔だの可愛いだのと言われる。
そう考えたオリヴィエは小さな嘆息を漏らしながらグラスの水を飲んだ。だがセシーはそんなオリヴィエの態度など気にすることもなくマティアスの可愛さについて語っている。




