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砂糖菓子とラピスラズリ  作者: メモ帳
高等部1年
102/119

100.マティアス・ローランの高等部入学準備

 マティアス・ローランにとって父は恐怖の対象だった。

 マティアスの兄のことを周囲は「誰よりも優秀だ」と褒めてくれるのに、父は一切褒めない。まだ足りないまだ足りないと兄を追い詰めるようなことを言う。

 それについて兄がどう思っていたのか知らないが、マティアスにとっては恐怖でしかなかった。

 なにせどれだけ努力をしても、父は一欠片も認めてくれないのだ。だからマティアスはひたすらに逃げた。

 父に評価されたくない、足りないと言われたくないと泣き震え誰かの裏に隠れた。


 だが兄が誰よりも優秀とされていたのは、そんなマティアスの防波堤になった結果かもしれない。

 評価されることが怖いと泣くマティアスを隠すように、あえて輝かしい成果を出したのかもしれない。そうでなければ人に興味のない兄が、あえて他人に評価される場に出ることはなかったはずだ。

 8歳の時に出した魔術論文も、10歳の時に書いた学術論文も、剣術技能を見せる場にも。

 誰にも興味を持たず、誰かの評価を必要としない兄が出る必要はなかったはずだ。

 そう気づいてからマティアスは兄のことが大好きになった。


 そしてさらに昨年、恐怖の対象でしかなかった父の知らない一面を知った。父は誰よりも早く「神聖力しか持たない者」への対策として貴重で高価な精霊石を集めては平民街に配っていたのだ。

 しかもマティアスたち兄弟が、その才能を持って自由に国外へ出ていく事を前提に育てていたという。


 そう知ってしまってはもう父を怖い人だとは思えなくなる。そして知ってからは、夏季休暇の帰省も恐怖ではなくなった。


 兄が王立学園卒業と共に国を出て行き、初めて兄のいない実家で過ごすマティアスは父との会話が増えた。

 勉強のわからないことも、グレイロード帝国のことも何もかも、質問すればすぐに答えが帰ってくる。愛想もないし表情も変わらない父だが質問するとすぐに教えてくれた。

 そこでふとマティアスは、父は昔からこうだったと思い出す。

 幼い兄がどのような難しいことを聞いても父は何事もないような顔で答えていた。学術関係も魔術の話も何もかも当たり前のように答える父だが、それは幼くても神童と呼ばれていた兄より聡明ということだ。


「父上はどうやって勉強したんですか?」


 どうしたら兄の問いに答えられるほど賢くなれるのか。その問いにも父は仕事の手を止めることなく答えてくれた。


「この屋敷にある書物は兄が残したものだが、それを覚えればだいたいのことは覚えられる」

「えっと、書斎と図書室の全部?」

「地下室にも蔵書が積まれている。だが知識などそこまで詰める必要はない。最低限の理解力があれば、あとは必要になった時に調べれば良いのだからな」

「なるほど……」


 書斎で仕事をする父はいつも通りマティアスを見ない。書類に目を通しながら会話をしている。

 そしてそんな書斎の片隅で、3歳の弟がソファに寝転がっていた。この弟はマティアスが王立学園に入学する少し前に生まれた子なので、あまり面識はない。

 ただこの弟がローラン侯爵家の跡取りになるのだろうことはわかる。なにせこの弟は、父いわく魔力も弱く普通の子供らしいから。



 夏季休暇中のマティアスはできる限り父の近くにいて、父が勧める本を読むようにしていた。そしてその本の多くはグレイロード帝国含むガイアイリス大陸の歴史に関するものが多い。

 その点で父はマティアスが帝国に行くことを認めていることが読み取れて嬉しい。


「マティアス、おまえは前髪を切らないのか」


 夏季休暇も終わりに近づく頃、父から初めて話しかけられた。それに驚いたマティアスは自分の前髪に手を当てる。

 そうして思い出すのは4ヶ月前の戦闘実習のことだ。あの時も今の父と同じように前髪を切らないのかと言われていた。


「ノワール様も! おなじこと! 言ってました!」

「そうか」

「かわ…可愛いかおが、かくれっ、る、からと」


 あの時のことを思い出すだけで緊張と感動に言葉が詰まる。そんなマティアスの真っ赤な顔を眺めた父は、それでも真顔のまま「なるほど」と言う。


「転生されたとは聞いていたが、ノワール殿は変わらず愉快な方のようだ」

「父上も可愛いと思います?」


 真面目な顔の父がマティアスの問いかけに停止した。いつものようにすぐ答えを返すでもなく、視線を背けてため息を吐き出す。


「おまえがそのようでは、グレイロード帝国では危険極まりないな。前髪の切る切らないは帝国の友人にでも聞きなさい」

「リリとかアニエスとか…だと、褒めてくれそう」

「おまえが男に口説かれないと良いがな」


 友人のことを思い出している合間に父が部屋を出て言ってしまう。そのためマティアスは自分の前髪をつまみ上げて問題の先送りを決めた。




 ◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇




 夏季休暇の終わり3日間は寮の部屋割が貼り出され、荷物の運び込みが許される。

 高等部は中等部の倍の数の生徒がいるため、学生寮も相応に大きい。だが大きいからと中等部の時のようにひとり一部屋があてがわれるわけではない。

 成績の向上をうながすようにか、Sクラス以外はふたり部屋になっていた。


 そのルールを知ったマティアスは、改めて姉たちの強さを知らされる。

 彼女らは令嬢ならば男を立てるべきと2年生の途中までAクラスで居続けたのだ。特にアドリエンヌなど筆頭侯爵家の令嬢でありながらふたり部屋で甘んじていた。

 そんなことは普通の令嬢なら耐えられないだろう。現にルヴランシュ家のエメーリエはずっとSクラスだったと聞いている。



 高等部の学生寮前で使用人や業者たちが寮内地図を見ては部屋の位置を確認して荷物を運び込んでいた。その様子を尻目に今年度を自室として使う2階の奥の部屋へ向かう。

 中等部の時と比べ人数が多いので寮の建物も増える。

 高等部1年生の寮は普通科だけでふた棟あって表側の棟は2階建てで、1階に食堂や大浴場など共用部分。そして2階は東側にSクラスが使う一人部屋があり、階段を挟んだ西側にAクラスが使うふたり部屋がある。

 そしてその裏にある棟は、Bクラス以下の学生が使うふたり部屋がある。


 そして高等部Sクラスの中では成績4位だったマティアスの部屋は東側の最奥に位置した。ローラン侯爵家の使用人が荷物を運んでくれる後ろをついていき部屋に入ると、角部屋らしい明るい間取りになっていた。

 水回りも備えたSクラスの個室は広く、壁2面に窓から日差しが入り込んでいる。

 学園内の寮でありながらこの環境で過ごせるなら、確かに成績上位を狙いたくなる。そう思うマティアスだが、自分たちのいるSクラスを崩せる生徒はいないだろうとも思う。

 なにせSクラスはずっと成績首席のアニエスから頻繁に教室で勉強会をしているのだ。

 それはきっとアニエスにとっては、リリの周囲を固めるための思惑の1つかもしれない。だがマティアス含めSクラスの生徒にとっては、なにより助かる思惑だ。

 このままSクラスで高等部を卒業できたなら明るい未来が保証されるのだから。



 荷物を運んでくれた使用人たちが帰ると、マティアスは慣れた手付きで荷物の整頓を始めた。衣類は使用人たちがクローゼットに収めてくれている。だが学用品に関してはマティアスが自分でやると決めていた。

 ただそうして本を棚に収めるつもりが、ついついその本を開かせ読んでしまう。

 そうして夕方になる頃、不意に扉が叩かれマティアスは驚き視線をあげた。クラスメイトの誰かが来たのかと慌てて部屋の入り口に走り扉を開かせる。


 すると中等部の時より身長差や体格差が広がった相手がいた。


「こんにちは、ディートハルト君」

「うん」

「どうしたの?」


 ディートハルトが短期留学ではなく、きちんと高等部に入学してくれたことは成績表や部屋割を見て知っている。

 だからと問いかけた先で、3年前よりたくましくなった友人が笑う。その様子を廊下にいた他家の使用人は眺めるだけでいてくれるが、クラスメイトたちは楽しげに見ている。


「マティ、そんな冷たいこと言うなよ。可愛いおまえの顔が見たいから来た以外の理由が欲しいのか?」

「わわわわ…」

「夏季休暇中は忙しくて一緒に過ごせなかったけど、これからは違う。しかも邪魔者も来ないならオレがマティを独占してもいいよな?」

「わかった! 部屋へどうぞ!!


 懐かしすぎるディートハルトの言葉は、廊下にいたクラスメイトたちを爆笑させるには十分だった。気恥ずかしさに慌てて部屋に引き入れたマティアスは、ディートハルトに何をしているのかと問いかける。


「もうそのごっこは終わったと思ってたのに!」

「むしろこれからが本番な気がしてるけど、それよりマティの前髪を切ろうと思うんだ」

「ディートハルト君までそれを言うの」

「ディーって呼んで」

「でも」

「呼ばないなら呼びたくなるまで魔力循環させる」


 脅し文句のように告げられた言葉にマティアスは顔を赤らめた。

 3年前にマティアス自身の身体を癒やすために行われた魔力循環の補助。それはディートハルトが己の魔力を流し込み、マティアスの中にある魔力循環ルートを構築し、魔力を導き、循環させるだけのものだ。だがそうして循環を促される心地良さは、他では味わえないものだった。

 ただクセになるようなその心地良さは、反面でクセになってはいけないものだと思える。だから赤らむ顔もそのままに呼び名を妥協するしかなかった。


「ディーは…」

「真っ赤な顔で呼んでくれるマティは可愛いけど、やっぱ前髪切りたい。切ろう」

「会話をさせて! なんで前髪を切るってことになってるの!」


 どこまでも勝手に決めるディートハルトに、マティアスは慌てて声を上げた。するとディートハルトはなぜかキョトンとした顔を見せる。


「可愛いから以外で理由いる?」

「ラピスラズリごっこじゃない理由だよ」

「いや、ラピスラズリごっこじゃなくて、マティが可愛いからだよ」

「逆にわからなくなるから、説明してほしい。ディーのいろいろすっ飛ばすところはダメだよ」


 3年前は振り回されるだけだったが、マティアスもいつまでも受け身ではいない。そうして問いかけた先で、ディートハルトは部屋の奥に手を向けた。


「説明するからベッドにどうぞ」

「うう……言い方はアレだけど、座って話すほうがいいよね」


 相変わらずふざけているのかわからない。そんなディートハルトにうながされて新品のシーツが敷かれたベッドに腰を下ろす。するとすっかりたくましくなったディートハルトが隣に座った。


「簡単に言うとリリは馬の骨や水色頭とやらを放置してるわけじゃん? 卒業式に婚約破棄したら良いって。たぶんだからアニエスも怒りはあっても動かなかったんだろうし」

「確かにそうだね。むしろリリはミリュエルさんが泣くまでは水色の人を放置してて、本気で興味がない様子だったかな。オリヴィエさんたちを誘惑してくれてありがたいって言ってたから。でもアニエスはリリになりすましてるというか……ラピスラズリ扱いされてることを怒ってた」

「アニエスは、ああいう人間だからそこだよな。でもオレはケンカ売りたい。本家本元のラピスラズリごっこを見せつけて馬の骨を煽りたいわけで」

「それはラピスラズリごっこをするってことだよね? ごっこと関係なくかわ……そういう理由で前髪を切りたいとはならないよ?」

「ん? だから、ごっこ遊びの口説き文句じゃなくて、マティが可愛いから前髪切りたいって言ってるんだよオレは」


 遊びではなく本気で可愛いと言っている。そう言われたマティアスは素直に戸惑った。


「それは本音のところで口説いてるみたいに聞こえる」

「えー? オレは客観的にマティの顔面が良いって話しかしてないんだけど」

「僕が邪推しすぎ?」

「そこ含めて可愛いから良いよ」


 マティアス自身がうがった受け取りをしたせいで変に誤解した。そう反省しようとしたのに、ディートハルトはそこすらも褒めてくる。

 そのためマティアスは赤面しながらもディートハルトのこの言動が悪いと思うことにした。

 だがディートハルトはそんなマティアスの葛藤など気にせず立ち上がる。


「というわけで前髪切りたいけどハサミある?」

「机の引き出しにあるよ。でもディーは髪とか切れる? 僕はそういうの得意じゃないんだけど」

「大丈夫大丈夫。なんとかなる」


 軽いノリで言いながら机の引き出しを開けたディートハルトはハサミを取り出し笑った。



 そうしてマティアスの前髪にハサミを1度入れたディートハルトは、なぜか苦笑を浮かべて「やばい」とつぶやいた。


「自分のことなめてた。大丈夫じゃなかった。ちょっと待ってて」


 そう告げて立ち上がったディートハルトは窓を開けると、そこに足をかけた。


「助っ人呼んでくる!」


 これまでアニエスが戦場などで見せたのと同じように、魔法のように全身甲冑を身にまとったディートハルトが窓の外に飛んでいく。

 そのためマティアスはベッドに座ったまま動けなくなってしまった。むしろ切り落とされた前髪の一部が、そのまま床に落ちているところからどうしたら良いのかわからない。

 今までマティアスの髪を切ってくれていたのは兄だった。そして兄はいつも布を下に敷いて、マティアスの身体も布で包んで切った髪が落ちやすいようにしている。

 だがディートハルトは何の準備もしないで切り始めたので、きっとそこから間違っていたのだと思う。




 しばらくそのままベッドに座っていると、不意に蒼銀の甲冑をまとった騎士が窓から飛び込んでくる。

 部屋の中に降り立った騎士は音もなく鎧を消して、夏季休暇前と変わらない爽やかな笑顔を見せた。


「久しぶりだね。私の可愛いラピスラズリ」

「アニエスおかえり。帝国から戻ってたんだね」

「愛しい君に会いたくて予定より早く戻ってしまったよ。でも君のその喜ばしそうな顔を見ると、この選択は正しかったように思えるね」


 中等部時代に多くの女子を虜にした近衛騎士は、今も全力で口説いてくれる。だが2年間でそれに慣れてしまったマティアスは、照れよりも強い安心感に笑みをこぼしていた。


「アニエスを見るとホッとする僕がいるから、それは正しいかも」

「それは嬉しい言葉だ。そして君の前髪を守る意味でも早く戻ったのは正解だと思うよ。ディートハルトも、自分の不器用さに気づけて良かった」

「そうだよな。オレも思ったよ。このままオレが切ったらやばいって。でもそれよりアニーのその口説きに普通にニコニコしてるマティもやばい。アニー、まさか本気出してないよな?」


 アニエスの固くたくましい指がマティアスの前髪をさらりと揺らす。そうして開かれた視界の中でディートハルトが妙に真剣な顔で問いかけていた。

 だがアニエスはいつもの優しげな笑顔を崩すことなくハサミを手にする。


「私は近衛として接しただけだよ。学園にいる小鳥たちを愛でることや、可愛いマティアスを可愛がることは任務と関係なくできることだけどね」

「ダメじゃん!!」


 笑顔でいつも通りの言葉を出すアニエスに、ディートハルトが両手で顔を覆いながら叫んだ。


「帝国でもおまえのファンクラブあるのに! ここでも被害者作ってるじゃん!! しかもオレのマティまで虜にしてるとか!」

「おやおかしいな。ラピスラズリとして扱えと言ったのは君なのに」

「そう言ったけど本気出しちゃダメなんだよ! アニーに勝てるヤツいないから!」

「ははは、ディートハルトはおもしろいな。ところで前髪を切るなら外に行こうか。ここでは落ちた髪で部屋を汚してしまう」


 そう告げたアニエスは自然な所作でマティアスに手を差し伸べてくれる。その紳士的な動きにも笑ったマティアスが立ち上がり、歩き出そうとしたところで背後から抱きしめられた。


「馬の骨より先にアニーと戦わないといけないのか」

「おや、ディートハルトは彼らにケンカを売りたいのかい?」


 1度抱きしめられたマティアスは、すぐ開放されたもののディートハルトに腕をつかまれている。その状態で部屋を出ながらふたりの話を聞いた。


「だってオレ、アニーほど忍耐力強くないし」

「私も偽者への殺意を抑えるのに苦労したよ。でもリリの言う馬の骨はあまり興味がなかったかな」

「なんで? 女ひとりより侯爵家の3匹のほうが罪深くないか? むしろ物理的にやりやすい」

「彼らは既にアドリエンヌ嬢たちから報復されてるからね。あの時は本当に胸がすく思いだったから、そこで満足したのだと思う」

「あー……確かに、本当事者が報復したのを目の当たりにしたらそうなるか」

「というわけで、ディートハルトからケンカを売るのは勧めない。でもあちらが来た場合は物理的にやっても良いんじゃないかな。幸いなことに彼らのひとりは騎士科の3年生だから、決闘を求められたなら堂々と潰せそうだ」

「なるほど、さすがアニー」


 爽やかな笑顔で物騒なことを言うアニエスにディートハルトが嬉しそうに笑う。

 そんなふたりが廊下を歩くと、クラスメイトたちから楽しげに「なぜアニエスが男子寮にいるのか」と指摘された。そしてアニエスも笑顔でクラスメイトたちに返すのだ。愛しいラピスラズリと逢引をしているのだと。


 高等部1年Sクラスのメンバーは、中等部2年からずっとアニエスと過ごしている。なのでマティアス同様に、彼女の冗談のような物言いに慣れていた。



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