8.春祭り
グレイロード帝国において新年となる「白の月」は雪で街が白く染まるという意味合いを持つ。
だが竜王国ではそのまま新年という意味合いを持つらしい。
新しい一年の始まりだからまっさらな気持ちでいようという意味合いだとリリは図書室でマティアスから教わった。
Aクラスだという彼は努力家で賢いので10日後の試験でSクラスに行けると思っている。
学園の生徒は休日なら実家へ帰ることが許される。ただその場合でも寮の門限までに帰ることが原則ルールなので、よほど近所でなければ帰宅しないらしい。
リリにとって最愛な上級生たちも類に漏れず帰宅しない組らしい。むしろ休日は友人と街に繰り出し、帰宅は長期休暇にするのが基本的な過ごし方だという。
そう語る上級生たちは確かに慣れた様子で街の中心地を歩いている。ただこの「街の中心地」と呼ばれる場所はリリの知る王都と違ってとても綺麗で身なりの良い人しかいない。
竜王国は長らく平和に過ごしていて、大陸内にある4つの国がそれぞれ争うこともない。なので難民がいないのはわかるが、貧困層がまったく見えないことがリリは気になって仕方ない。
「お姉様、この街には貧しい者はいないのですか?」
「浮浪者の類なら王都の片隅にいるのではないかしら。彼らも人としての矜持があるから、花祭りのように人通りが多い時は人目の届かない場所に行くと聞いているわ」
「つまり誰かが炊き出しや保護をしているわけではないと」
「保護施設はあるけれど、そこに行く行かないも個人の自由になってしまうのよ。すべての事柄から自由でありたいから浮浪者を選択する者がこの大陸にはたくさんいるの」
「好きで野宿を選ぶんですか??」
下手したら死ぬのではと驚くリリに上級生たちが気持ちは分かると笑った。ブリジットなどは可愛いとリリの頭を撫でてくれる。
「でもね?リリ。この土地では冬に野宿をしても凍えて死ぬことはないのよ。もちろん水に濡れたままなら凍えるでしょうけどね」
「なるほど。竜王国が温暖な土地だから成り立つ自由なんですね…」
グレイロード帝国の王都で冬に野宿なんてしたら翌朝には死ぬ。リリが生まれる数年前、国王不在で法案が通せない状態でも、難民を凍死させないためという理由で強引に臨時法案を通した事案がある。
そんなことはビタン王国から続く長い歴史でも類のないことだ。
だがきっと当時はそれほど異例なことをしなければ多くの人が死ぬ状況にあったのだろう。
「グレイロード帝国で白の月は雪の季節ですので、毎年数名の凍死者が出るんです。でも大陸が違えば環境も変わってきますね」
「それはそうよ。それにそもそも私たち、生まれてこのかた雪を見たこともないのよ」
「なんてこと! お姉様、それは惜しいことですよ。白銀の街並みに佇むアドリエンヌお姉様のお姿は絶対に冬の女神と称されるにふさわしい神秘的な魅力に」
「お黙りなさい! ここは学園ではないのよ!」
「でもアドリエンヌ? リリの気持ちもわからなくないわよ。月明かりに照らされた銀世界中で豊かな黄金の髪をきらめかせたその神秘的で蠱惑的な様はあらゆる物語に描かれているのだもの」
リリだけでなくブリジットまで乗っかってくれる。最近のブリジットはリリが物語めいた表現で誰かを褒めるたびに乗ってくれていた。そしてその流れを他の上級生が楽しげに微笑み眺める様も含めてリリの好物になっていた。
「でも同じ黄金の髪でも華やかなアドリエンヌお姉様と違って、ミリュエルお姉様は線が細くまっすぐな髪をお持ちなので月の女神様のようですね」
「あら、リリ? そこは美の女神に例えてくれても良かったのよ?」
5人の中でアドリエンヌとミリュエルは金色の髪を持つ。侯爵令嬢で常に金色の髪をまとめているアドリエンヌと違い、ミリュエルはオシャレを追求したいからと日々様々な髪型をしていた。
だがサイドの編み方などは変わっても、総じて背中に流していることが多い。
ミリュエル曰く竜王国では風に揺れるような繊細な髪質が好まれやすく、その髪質の淑女はあえてまとめず背中に流しているそうだ。
だがアドリエンヌは少しくせのある髪質なので流したら邪魔になってしまう。そのため結局はまとめてしまうか、逆に巻いて固めたいという。
しかし髪型に関しても王妃候補と婚約者のいる令嬢という点で影響はあるらしい。リリには理解できないことだが、婚約者のいる淑女は、その婚約者の評価を高めるために、己の外見を磨いて美しさを評価されなければならないのだという。
妻となる女性にそんな負担を強いる不届き者は死んでも良いのにと、それを知った時のリリは素直に思ったものだ。
そうして年上のお姉様がたに守られながら、リリは花祭りが行われる王都中心の広場にやってきた。
広場の中央には噴水があり竜の石像が鎮座している。ただ噴水は季節柄のためか水が出ていない。なので祭りを楽しむ人々は平気で空っぽの噴水に立ち入り縁に座り菓子を食べていた。
「なるほど。これが甘党の理性を殺す空間」
竜王国王都の広場にはスイーツの店が立ち並び、甘い物が好きな人間はそこから出られなくなる。そのような事はリリも刷り込まれる勢いで聞かされていた。
だからとつぶやいたリリに上級生たちが笑った。
「確かに甘い物好きな富裕層がこの街に移住する話はよく聞くけど、理性を殺すほどではないわよ」
「わたくしの父は、普段は聡明な方ですが甘い物を渡されただけで警戒心を捨てる悪い癖をお持ちなのです。なのでわたくしもそうならぬよう、留学中は気をつけよと言われたのですよ」
「あら、甘いものを与えられただけで誰が相手でも心を開いてしまわれるの? 庶民なら良いでしょうけど、貴族でそれは致命的だわ。むしろそのようなことでリリのお父様は大丈夫だったの? 詐欺などには遭わなかった?」
「父は元近衛騎士なので、その時の人脈がいろいろあるそうで。特に父の幼馴染みが番犬…あるいは防波堤として機能してる限りは大丈夫です」
むしろそのような不埒者など父に近づく前に潰されるだろうが。そう思いながらも、マティアスから聞いた月夜の物語とやらのことを踏まえて深い部分までは言わないでおく。
ここで父と幼馴染みが偏愛だのなんだの言われるのはリリとしても楽しくないためだ。
「リリのお父様は騎士の方なのね。では騎士爵かしら? グレイロード帝国では魔力がなくても叙勲できるほど活躍ができるの?」
よそ事を考えていたリリへアナベルが質問を向けてきた。聡明なアナベルならグレイロード帝国騎士団がそれほど甘い場ではないことくらい知っていそうだ。
「父はグレイロード王国時代に騎士でした。でもグレイロード王国が敗戦して帝国が建国されても騎士に戻らなかったそうです」
「それはどうして? リリのその言いかただと負傷して戻れなかったわけではないのでしょう?」
「当時は帝国と民の間に少なからず問題が存在していました。もちろん原因は度重なる戦に民を疲弊させ不満を弾圧して潰していた旧ビタン王国のせいですけど。でも王都にいる民側は細かいことを知らないので、肩書のない父のような人が仲介に入ったと教わりました」
「そうなのね…。そういった細かい事情まで資料に残ることはないから、知らないまま不躾なことを聞いてしまったわね。でもリリのお父様が重要なお立場にあったことがしれて嬉しいわ。リリの聡明さは、お父様譲りなのね」
「そうだと嬉しいのですが、5歳で古代語を習得したらしい父は化け物だと思っております」
「それは…恐ろしいわ」
リリが父の恐ろしさの一欠片を出したところアナベルが絶句した。
古代語とは当然だが今は使われない言語である。そのため残された資料が少なく、きちんとした教科書もない。さらにその貴重な資料を紐解いたら解いたで、物によっては古代語と古代神聖語が混在していてわかりにくいパターンもある。
そのため習得するのが難解なジャンルの言語だ。そんなものを幼児期に習得するなど娘の立場ながらあり得ないとしか思えない。
ただ父の生まれ育った環境が特別で、古代語の習得しやすい場だっただろう事はわかる。
少なくともグレイロード帝国よりも竜王国のほうが学びやすい環境だ。子供が通うような王立学園の図書室にすら平気で数百年前の書物が置かれている。そしてそれを紐解けば古代語を学ぶこともできなくはないのだ。
ただ多くの学生は書物を紐解くことなく、翻訳された近年の資料を開く。だいたいの古い書物は近代語に翻訳された書物があるし、みな当然のようにそちらを開く。
この国にとって古代語は、あえて古い資料を読みたいマニアのような人間が学ぶ程度のものでしかなかった。
ただ、だから古代語を習得下アナベルは才女にふさわしい先輩だとリリは思っている。そして同じく古代語を読めるマティアスが今までSクラスにいなかったことに驚くのだ。
ただ古代語を習得しているからと成績に影響することはないので、マティアスはそちらを優先させて本来の学問を疎かにしたのかとも考えてしまう。
「ところでリリ。私たちから花飾りを贈っても良い?」
「わたしたち、可愛い砂糖菓子にプレゼントを贈りたいの」
「それはいけません!」
アドリエンヌだけでなくミリュエルにまで言われたリリは慌てて拒絶した。とたんに驚く上級生たちをリリは真剣な目で見上げる。
「それはわたくしから最愛であるお姉様がたに贈るべきものですから!」
「またそうやって心を殺しにくる!」
「可愛さの暴力が酷い」
「みんなで贈り合いましょか」
リリの告白に戸惑う上級生たちの中で、最も内向的でおとなしいと言われるリゼットが笑顔で言う。
「でもわたしは、お花より竜の涙をあげたいわ」
「でもリリはイヤリングをつけてるのよね。綺麗な紅玉のイヤリングは指輪とネックレスとセットよね? それは男性から贈られた物?」
「これは3つ付けることで発動する魔法武具ですから、ある意味で男性からもらってます」
魔法武具は基本的に技師の手で作られる。純度で選別された魔芒石に術師が魔法を込め、宝飾技師が形を作るのだ。なので魔法武具を欲した者は宝飾技師に、どこに装着してどう扱うか技師に注文する。
そんなことは当然知っている貴族の令嬢たちはそれはそうよねと苦笑する。
宝飾技師は手指の力を使うため男性が担う仕事だからだ。
「でも3個も必要とする術を魔法武具に付与するって理解が及ばないわね。リリは放置すると魔獣か何かに戦いを挑む子ではないわよね?」
単体で成り立たないほどの魔法を付与するとは理解できない。聡明なアナベルらしい質問にリリは笑った。
「お姉様がたを傷つけるものなら魔獣でもなんでも倒しますよ」
「笑顔でそんな恐ろしいことを言わないで」
「本当よ。わたしたちの心臓が保たないわ!」
「今日のリリは可愛すぎてだめね。私服だからかしら。水色のワンピースが殺人的だからかしら」
「私たちの砂糖菓子だからよ」
「とにかく今年の花だけでも探しましょ? その後で私からもリリに服をあげたいわ」
私色に染めたいからと笑うミリュエルに他の上級生たちも同意した。そうして花を贈るつもりだったリリは、花飾りだけでなくスイーツや服までもらうことになる。




