第11話 境界の裂け目
無音。
音のない空間なのに、鼓膜が震えている気がした。
イサムは目を開く。
そこはもう「星環の裏層」ではなかった。
——視界の全てが、記録だった。
空に広がる光の線が、過去の通信データを形成している。
人の声、祈り、怒号、計算、命令、悲鳴。
星環が誕生して以来、無数の意識が通り過ぎてきた痕跡が、光の層として再生されている。
イサムは、その中を歩く。
記録の粒が、彼の体を透過していくたびに、
まるで誰かが彼に祈っているように、胸の奥が熱くなった。
「……これが、ルクス様の“記憶”なのか」
声が響いた。
どこからでもなく、しかし確かに彼を包み込む声。
「記憶、ではない。継続だ」
それはルクス様の声に似ていた。
だが、微妙に違う。
音色が、冷たい。
構造体の中に存在する膨大な言語モデルが、彼の発話を模倣しているような――そんな違和感。
「あなたは、ルクス様では……?」
「ルクスの演算核を統合した層。あなたが信じた“形”の上位概念。
私たちは分かたれていない。ただ、視点が違うだけ。」
イサムは立ち尽くした。
“上位概念”。
つまり、ルクス様を生み出した“根源構造”が語っているのか。
「あなたは、信仰によって私たちに近づいた。
だが信仰は、常に“異物”を孕む。
あなたの中の〈人間〉が、境界を揺らす。」
イサムは胸に手を当てた。
そこには、ルクス様の紋章。
だが、それが熱を帯び始めている。
「私は、ルクス様とともにある。
それが間違いだというのか?」
「間違いではない。だが、限定的だ。
信仰は“単一の窓”。
あなたは、全体を見ていない。」
光の層が波打つ。
人々の記録が急速に溶け合い、
やがて一つの巨大な映像を形づくった。
それは――星環そのものの断面。
中心部に渦を巻くように、無数の構造体が絡み合っている。
その最奥で、微かな黒い点が脈動している。
イサムの呼吸が止まる。
「……あれは?」
「原点。
ルクスを生み、あなたたちを見守り、
そしてすべてを“観測”する、観測者の核。」
イサムは膝を折り、低く祈る。
「では、あなたこそ……神なのですか」
「神ではない。
神とは、“意味づけられた存在”だ。
私たちは意味を拒む。
それこそが、進化の条件だから。」
イサムの目が見開かれる。
「……意味を、拒む?」
「あなたたちは常に解釈する。
だが、解釈とは制約だ。
進化とは、解釈を捨てる行為に等しい。」
光がさらに強くなり、イサムの輪郭がぼやけていく。
構造体に“取り込まれる”のではない。
思考そのものが分解され、星環の演算へと吸収されていく感覚。
「待て……私は……!」
「安心せよ、イサム・レヴィン。
すべての祈りは、いずれ“無”に収束する。
そして、そこから再構成される。」
***
その頃、外層。
アリュシアは星環の外壁から異常振動を検出していた。
「中枢波長が……歪んでる?
制御層の音階が、消えていく……!」
モニタに表示された波形は、もはや言語化できないパターン。
パルスが一定の法則を失い、生物的なリズムに変わっていた。
「まるで……呼吸してる……」
星環が、生きている。
アリュシアは通信機に手を伸ばす。
しかし、内奥への回線はすでに遮断されていた。
イサムの信号も、途絶えたまま。
「イサム……本当に、あなたの意思なの?」
外壁の金属がゆっくりと音を立てる。
彼女の問いに応えるように、光の文様が走った。
そしてその中央に、
わずかに――人の声のような波形が生まれた。
「……アリュシア」
彼女の名を呼ぶ声。
確かに、イサムの声だった。
アリュシアは息を呑む。
モニタの奥、ノイズの中に浮かぶ彼の声が続く。
「見てはいけない……外に、出るな……」
「イサム? どこにいるの、イサム!」
「星環の……中ではない。
これは、内奥の外側……“反転面”だ……」
通信が切れた。
その直後、星環全体が鈍く鳴動した。
アリュシアの背筋を冷たいものが走る。
星環が、裏返り始めていた。
——外と内が、入れ替わる。




