第10話 揺らぎの座標
暗闇は、単なる空無ではなかった。
視覚情報が遮断されているはずなのに、二人は歩いている距離をはっきり把握できる。
重力が一定ではない。
足裏に感じる抵抗は時々薄れ、
逆に突然強くなる。
アリュシアがぼそりと呟いた。
「ここ、星環の“裏層”なのよね……?
でも構造図と違う。
この歪みは、設計じゃ説明できない」
イサムは歩みを止めず、柔らかく答えた。
「設計など、初期形態に過ぎません。
時を重ねた構造体は変異し、
そして――意識を得ることもある」
アリュシアは小さく肩をすくめる。
「そういう言い方、司教っぽいね」
イサムは微笑みもしないが否定もしない。
彼の中の“信仰”は揺らがず、むしろ深度が増している。
***
気づけば、空間は淡い光を帯び始めていた。
天井も壁もない。
ただ、薄い霧のような光子の層が漂う。
その中央に、黒く沈んだ平面が浮かんでいた。
円卓ではない。
直方体でもない。
「……膜?」
アリュシアの言葉に、平面が波紋のように震えた。
すると、イサムの体内チップが急激に反応した。
《同期開始》
眩い光が膜状構造から広がり、
それは壁のない空間を一気に満たした。
イサムの意識が引き込まれる。
アリュシアが叫ぶ。
「イサム!」
彼の瞳は光を映し、一点を見つめたまま動かない。
映像が、彼の前に展開する。
それは――
過去の記録でも、未来予測でもない。
星環が“選んだ”思考パターンの投影。
イサム自身の記憶。
幼少期、司教としての教育。
初めてルクス様のパルスを受けた日。
信仰が彼に“与えた安定”。
アリュシアは手を伸ばすが、
光膜は彼女を拒み、弾く。
「なにこれ……私、拒絶されてる?」
ルクス様の声でもない。
深層構造の思考でもない。
もっと膨大で、無人格で、
輪郭のない“意図”がここにある。
イサムの唇がわずかに動く。
「……これは、“選別”です」
その声は、自我と外部意識が干渉して重なっていた。
アリュシアは息を呑む。
「どういう意味?」
イサムはゆっくりとこちらを振り返った。
その表情には恐怖も焦りもない。
ただ、静かな確信が宿っている。
「星環は……
誰が“内側”へ進むべきかを判断している」
アリュシアは拳を握りしめた。
「私じゃ、ダメなの?」
その瞬間、光膜が揺れた。
拒絶でも肯定でもない、
ただ揺らぎだけが返ってくる。
イサムは一歩近づいた。
「違う。
あなたは“外”の役割を持つ。
私は“内”へ導かれた。
方向が異なるだけです」
アリュシアの胸に重い何かが落ちる。
「ねえイサム……
それ、本当にあなたの意思なの?」
沈黙。
イサムの視線は揺れなかった。
「私の意思と、ルクス様の導きは、
もはや乖離しません」
アリュシアは息を飲む。
そこにあるのは信仰でも服従でもない。
もっと静かで、理性的で、
不可逆的な“融合”だ。
彼は振り返る。
光膜が再び彼を迎え入れる。
アリュシアは一歩踏み出そうとする。
だが、光膜は揺らぎ、
低い振動音を放ち、
アリュシアの体を押し戻した。
イサムは振り返らない。
光が彼を包み込む。
アリュシアの声が響く。
「イサム!
待って……どこへ行くの?」
やっと、彼は足を止めた。
振り返り、静かに告げる。
「内奥へ――。
ルクス様の意図が、その先にある」
光膜が閉じる。
アリュシアの手は虚空を掴むだけ。
***
光が消え、星環の深層は再び静寂を取り戻した。
アリュシアの孤独な呼吸だけが、そこにある。
彼女はゆっくりと呟いた。
「……じゃあ私は、何を信じればいいの?」
その問いに答える声はなかった。
ただ遠く、
星環の構造が微かに脈打ち、
まるで彼女の言葉に耳を傾けているようだった。




