それじゃあまたね
夕暮れの交差点、信号が赤に変わって人の流れが止まった。
横に立つ彼が、じっと信号を見ながらぽつりと呟いた。
「今日、暑すぎじゃない?」
「うん。アスファルトから湯気出そうだよね」
そんな他愛のない会話が、やけに胸に残った。普段ならただ笑って流してしまうのに、今夜はすべてが最後の言葉になるようで、妙に耳に焼き付く。
「蝉、まだ鳴いてるね」
「うん、でももうすぐいなくなるでしょ。…夏って、短いね」
彼の言葉に私は少し黙ってしまった。短い、という響きが、どうしても別れに繋がって聞こえる。ごまかすように笑って返した。
「でもさ、暑いのは嫌いじゃない。汗だくでも、なんか生きてるって感じがする」
「そういうとこ、変わんないね。前からそう言ってた」
会話はいつも通りなのに、言葉と一緒に心の奥に沈んでいく重さがある。駅の屋根が見えてきて、私は思わず足を遅らせた。
「もうすぐだね」
「うん」
それ以上、何も言えなかった。駅の改札の光が近づくほど、言葉は喉に詰まって出てこなくなる。
「…なあ」
彼が立ち止まって、私を見た。
「言っておきたいこと、ないの?」
「え?」
「こういう時さ、なんかあるじゃん。映画とかだと、泣きながら『元気でね』とかさ」
「そんなの、私に似合わないでしょ」
「まあな」
ふっと笑い合う。その笑いは、どこか苦くて、でも優しかった。
「元気でねって言わなくてもさ、ちゃんと元気でいるから。心配すんな」
「……私も」
一瞬の沈黙。胸の奥で言葉が暴れるけれど、形にならない。代わりに、彼が柔らかく笑った。
「ほら、最後まで不器用だな」
「そっちこそ」
改札の向こうへ彼が歩き出す。振り返らない背中を見送りながら、私はようやく声を出した。
「またね」
彼には届いたか分からない。でも、それでよかった。
駅を離れて歩き出したとき、靴紐が緩んでいて、右の靴が脱げかけた。しゃがみ込んで直しながら、私は苦笑した。たぶん、この不格好な瞬間まで、彼なら笑って見ている気がした。
その笑い声を思い出すだけで、胸の奥がほんの少し温かくなる。別れの痛みと一緒に、その温度を抱えて帰り道を歩いた。