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第九話「本心~時雨~」


 鈍色の空が広がる秋の午後。山北高校、3年D組の教室は、午後の気だるさに包まれていた。窓枠に肘をかけて、紙パックの牛乳を傾ける千秋の背中に、軽い衝撃が走る。振り返るまでもなく、それが木村だと分かった。


「おい、一人黄昏れてどうしたんだよ」


 悪戯っぽい声が、千秋の耳に届く。窓の外には、校庭の片隅にあるベンチ。そこで、ハルと早菜が楽しそうに昼食をつついていた。笑い合う二人の姿は、まるで一枚の絵のようだ。


「いや……」


 千秋は曖昧に答える。だが、木村はそんな千秋の様子を敏感に察していた。


「千秋、学園祭ら辺から如月さんとめっきり話してなくね?」


 図星を指され、千秋は思わず牛乳を吹き出しそうになる。


「お前らがマヨネーズ王子なんて無理やりやらせるからだろ……!」


「まじ……?それが原因だったの?」


 木村の純粋な問いに、千秋は苦い笑みを浮かべた。


「……ちげぇよ。実際は、俺が避けてる」


 自嘲気味に呟いた千秋の言葉に、木村は真顔で畳み掛ける。


「やっぱ、雀部と如月さんが付き合ってるって噂、本当なのか?」

「俺が知るかッ!」


 苛立ちを隠さずに叫んだ千秋の言葉は、乾いた空気に吸い込まれていく。

 木村はそんな千秋の感情の機微を見逃さなかった。


「もし本当だったら、お前どうすんだよ」


 千秋は窓の外に目を向けた。早菜とハルの楽しそうな笑い声が、風に乗ってここまで届く気がした。胸の奥が、ぎゅっと締め付けられる。


「俺は一生、何があっても早菜が好きだ。でも、早菜が決めた人なら……応援するよ」


 絞り出すような声だった。木村は何も言わず、千秋の背中をポンポンと軽く叩いた。その手の温かさが、やけに心に染みた。


「俺は、お前のような男が幸せになれないことが辛いよ」


 木村の言葉に、千秋は唇を噛み締める。


「……ハルにも幸せになってほしかったんだ。これで良いんだ」


 ぎゅっと拳を握りしめる。爪が手のひらに食い込む痛みが、この感情が紛れもない現実だと教えてくれた。


◇◇◇


 古文の授業中。3年A組の教室は、張り詰めた静寂に包まれていた。早菜とハルは、黒板を見つめる。教壇には、陰湿そうな顔をした今村先生が立っていた。チョークが黒板を滑り、流れるような文字で一首の和歌が記される。


「千早ぶる 神代もきかず 龍田川 からくれなゐに 水くくるとは」


 重々しい声が響く。


「この現代語訳を、如月、答えろ」


 早菜が立ち上がる。すらりと伸びた背筋が、どこか清々しい。淀みなく、その美しい歌を現代語に訳していく。


「はい。神々が住み、不思議なことが当たり前のように起こっていた、いにしえの神代でさえも、こんな不思議で美しいことは起きなかったに違いない。奈良の竜田川の流れが、舞い落ちた紅葉を乗せて、鮮やかな唐紅の絞り染めになっているなんて」


 今村先生は満足げに頷いた。


「よし、いい。じゃあ、次、雀部。この歌の心を答えろ」


 途端に、教室がざわめき始める。ひそひそと囁き合う声が聞こえる。


「心って、正解なんかないじゃん」

「あれだよ、今村の主席いびり」

「ほんとねちっこいよな、あいつ」


 今村先生が咳払いをする。途端に静まり返る教室。


「うるさいぞ。ほら、雀部、答えれんのか」


 早菜が席に着くのと入れ替わるように、ハルが立ち上がる。

 その顔には、一切の動揺が見えない。


「この和歌は屏風歌で、在原業平と恋愛関係にあった藤原高子に送った歌と言われています。ですが、藤原高子が天皇と結婚することになり、在原業平は藤原高子への思いを歌で表現したのだと思われます」

「当時の恋を思い出せという恋愛説か。学年主席がこの程度じゃ……」


 今村先生の挑発にも、ハルの表情は変わらない。


「勿論、当時の恋を思い出せという見方もできますが、僕の主観で回答していいのなら、この歌はそんな未練がましい歌ではありません」

「ほう?」


今村先生の眉がぴくりと動く。


「『からくれなゐに』は紅葉のことを表現しています。紅葉の花言葉は大切な思い出、美しい変化。在原業平は紅葉の葉に藤原高子との思い出を染めて、変わらぬ愛情を抱きながら、移ろいゆく藤原高子を見守る気持ちを込めたのだと僕は捉えています。……テストの解答用紙には書けませんが」


 ハルの言葉に、今村先生はたじろいだ。まさか、そこまで踏み込んだ解釈が出てくるとは思っていなかったのだろう。その顔には、僅かな驚きと、静かな衝撃が混じっていた。


「まあ、いいだろう」


 その時、チャイムが鳴り響く。


「お前ら、復習しとけよ」


 今村先生の声が、空虚に響いた。


◇◇◇


 授業の終了を告げるチャイムが鳴り終わるや否や、廊下を走る足音が聞こえた。ガラリ、と3年D組のドアが勢いよく開かれ、早菜が顔を出す。


「千秋!」


 千秋は慌てて教卓の陰に隠れ、そこにいた江里に「シーッ!」と慌てて合図を送る。

 江里は一瞬戸惑いながらも、小さく頷いた。


「あっ!小室さん」

「はいっ!」


 江里はわざとらしく大きな声で返事をした。


「千秋、いない?」

「えーっと……」


 江里の視線が泳ぐ。そのぎこちなさに、早菜は眉をひそめた。


「いない……よ?」

「えー!?あいつ!ここんとこ昼も帰りも朝もどこいってるのよ!」


 早菜の不満そうな声が響く。そこに、ハルが静かにやってきた。


「早菜。千秋に会えた?」

「まったく。隠れ身の術でも使ってるのかってくらい会えない」


 ハルは、教卓からはみ出た千秋の手に気づく。だが、何も言わない。ただ、静かに微笑んだ。


「お昼、いこうか」


 ハルの言葉に、早菜は少しだけ不満げな顔をしながらも、D組を出ていく。二人の足音が遠ざかるのを確認し、江里は千秋に視線を合わせるように屈んだ。


「ちょっと。如月さんを避けるなんて春夏冬くんらしくないんじゃないの」

「俺らしいってなんだよ」


 千秋は不貞腐れたように呟く。


「猪突猛進っていうか、雀部くんに取られたなら、取り返すっていうか」


 江里の言葉に、千秋は小さく息を吐いた。


「それして誰が幸せになんの?そもそも早菜は物じゃねぇ」

「あっ、そうだね……ごめん」


 江里はバツが悪そうに謝る。その時、校内放送が響き渡った。


「3年D組春夏冬千秋ー。至急職員室中田のとこまで。バックレたら、課題増やすからなー」


 拡声器から響く中田先生の声に、千秋は思わず顔をしかめた。


「あー……まじかよ」


◇◇◇


 千秋に会うことが出来ず、早菜は渋々といった様子でハルと共にA組へと戻ろうとしていた。その時、校内放送が教室の喧騒を切り裂くように響き渡る。ハッとしたように立ち止まった早菜は、隣を歩くハルを見上げた。


「ごめん、ハル。私、いってくる」


 ハルは早菜の視線を受け止め、その意図を瞬時に理解した。口元に浮かんだのは、いつものように穏やかな微笑みだった。


「うん。いっておいで」


 早菜は小走りで駆けていく。その背中を、ハルは静かに見送った。


◇◇◇


 職員室では、中田先生が険しい顔で千秋の進路希望調査票を見ていた。用紙は真っ白で、何も書かれていない。


「おい、春夏冬。進路表。真っ白ってなんだよ、この時期に」

「あー……」


 千秋は曖昧な返事を返す。


「悩みでもあんのか?」

「いや……」

「まあ、聞いてやんねーけど」

「おい」


 千秋は思わず声を上げた。


「お前は家業があるだろ。クラスの中で一番悩まなくて済むはずだよな」

「そうっすけど……もうちょい時間ください」


 千秋は目を伏せた。家業。確かに、決められた道がある。だが、今は、それが重荷でしかなかった。


◇◇◇


 職員室から出てきた千秋の元へ、早菜が駆け寄ってくる。その顔には、心配と怒りが入り混じっていた。


「千秋!」


 千秋は早菜を無視して、その横を通り過ぎようとした。早菜は反射的に千秋の腕を掴む。


「ちょっと!」


 振り向く早菜の目には、涙が滲んでいた。


「最近、私のこと避けてる?……私なんかした?ねぇ!」


 懇願するように問いかける早菜の言葉が、千秋の胸に突き刺さる。


「なんもねぇよ。わるい、暫く一人にしてくれ」


 千秋は腕を振りほどき、足早にその場を立ち去った。

 早菜は掴んだ腕の感触が残る手を、虚しく見つめた。


◇◇◇


 放課後、町内を並んで歩く早菜とハル。

 早菜の足取りは、どこか不機嫌そうだった。


「もう千秋なんて知らない!何が暫く一人にしてくれ、よ!かっこつけちゃって」


 早菜の口から出るのは、千秋への不満ばかりだ。

 ハルはそんな早菜の横顔を、静かに見つめていた。


「千秋のこと、気になる?」

「ぜ~んぜん!」


 早菜はわざとらしく声を張った。

 公園から、野球をする子供たちの声が聞こえる。その声は、早菜の心を少しだけ和ませた。


「ここの公園、私が千秋に1000勝目を飾った記念の公園。何だかもうなつかしなあ」


 早菜の瞳に、遠い日の思い出が蘇る。


「早菜と千秋の一戦目ってなんの勝負だったの?」

「ん?ああ、あれは小学校の入学式で」


◇◇◇


 桜舞い散る入学式の日。きらきらと輝く新しいランドセル。

 早菜の席に、ひとりの男子が駆け寄ってきた。


「如月早菜!好きだ!結婚してくれ」


 突然のことに、早菜は目を丸くする。


「え?誰?」

「俺、春夏冬千秋!よろしくな!」


 満面の笑みで名乗る千秋に、早菜は顔をしかめた。


「へ、変な人。いやだけど」

「え?」


 千秋の笑顔が固まる。


「い・や!だってば」

「なっ!じゃあ、じゃんけんで俺が勝ったら結婚だ!いいな!?」

「くだらない。いや!」

「負けるのが怖いのか!」

「違うよ!」


 早菜の言葉に、千秋はニヤリと笑った。


「じゃあ、勝負だ!じゃんけん……ぽんっ!」


 千秋がパーを出し、早菜はチョキ。勝敗は、早菜の勝ちだった。


「うあああああああ!」


 千秋は頭を抱えて崩れ落ちる。


「男子ってほんとばかね」


 早菜は呆れたように呟いた。だが、その顔には、小さく笑みが浮かんでいた。


◇◇◇


「ははっ。千秋って昔からあんななんだ」


 ハルの笑い声が、早菜の耳に心地よく響く。


「そうよ。保育園の時も……ん?あれ。保育園は別だったかな。とりあえず、ほんとばかで、一直線で、口を開けば、私の名前呼んで」


 早菜の言葉は、まるで千秋への愛情を語るように聞こえた。


「好きなの?」


 ハルの問いに、早菜はぴくりと反応する。


「えっ!違うよ!私が好きなのは」


 言葉に詰まり、俯く早菜の頭に、ハルの手が乗せられた。


「早菜、大丈夫。すぐ元通りになるよ」

「うん」


 早菜は小さく頷いた。

 ハルは、早菜の頭に置いた自分の手に、そっと唇を寄せた。


「早菜、春の匂いがする」


◇◇◇


 夕焼けが、駄菓子屋「タタンメン」の古い看板を赤く染める。ベンチに座り、肉まんをぼんやりと頬張る千秋の隣に、ハルが腰を下ろした。


「よう、学校生活ご満喫じゃねぇか」


 千秋の言葉に、ハルは穏やかに応える。


「うん、もっと早くに来てたらよかったかも」


 千秋は残りの肉まんを口に詰め込み、立ち上がろうとする。


「じゃあな」


 しかし、ハルの言葉が千秋の足を止めた。


「早菜が千秋の話ばかりするんだ」


 千秋は気まずそうに目を逸らす。


「そ、そうかよ……」

「一緒にいるのは僕なのにね」


 ハルの声は、どこか切なさを帯びていた。


「単に付き合いの長さの問題だろ。じゃあ、俺行くから」


 千秋は焦るように言い放つ。だが、ハルの次の言葉が、千秋の動きを完全に止めた。


「付き合ってないよ」


 千秋は振り返る。その顔には、驚愕の色が浮かんでいた。


「は?」

「早菜と、付き合ってないよ」


 その瞬間、千秋の表情が凍り付く。怒りにも似た感情が、胸の奥からこみ上げてくる。


「はあ!?お前、中途半端なことするなら容赦しねぇぞ」

「千秋こそ僕たちから逃げるの、いい加減にしたらどうなの?」


 ハルの言葉に、千秋は思わず胸ぐらを掴んだ。感情が爆発しそうだった。


「逃げてねーよ!ハルこそ早菜に告りもしないで何やってんだよ!」


 今度はハルが千秋の胸ぐらを掴み返す。二人の視線が、火花を散らすように絡み合った。


「呑気な千秋にはわかりっこないよ!」

「はあ!?とりあえず、男ならちゃんとけじめつけろよな」


 千秋はそう言い放ち、その場を立ち去った。

 ハルは残されたベンチに座り直し、自身の髪をくしゃっと掴んだ。夕焼けに染まるその顔には、苦悩の色が浮かんでいる。


「早菜が見てるのは僕じゃないんだよ、バカ……」


◇◇◇


 黒板には大きく「柔道大会」の文字。校内は、高校生活最後のイベントに浮足立ち、いつもより賑やかだった。柔道を見に行く生徒と自習する生徒とで教室は分かれており、殆どの生徒が格闘技場に足を運んだ。


◇◇◇


 活気に満ちた格闘技場。二面ある試合場の一面で、千秋が一本を決めた。


「一本!」


 審判の声に、千秋は吼える。


「っしゃぁぁぁ!」


 女子生徒たちの声が上がる。


「春夏冬つよ」


 人間離れした千秋の強さに色めき立つ。

 江里が隣の友人に囁く。


「春夏冬くん、運動神経だけはピカイチだからね」

「運動神経だけはってとこが春夏冬っぽいよね……」

「うん……」


 その時、隣の試合場から、ひときわ大きな女子生徒の歓声があがった。


「一本!」


 ハルが試合に勝ち、優雅に礼をしている。


「げっ。あっちすごい女子生徒の数」

「さすが雀部くん……」

「如月さん、誰かに刺されるんじゃないの」

「小室っちそこんとこ、なんか知ってる?」

「うーん……それが、あの二人付き合ってないらしいよ」


 江里の言葉に、女子生徒たちが驚きの声をあげる。


「え!?」


 その視線の先で、ハルと千秋が互いを睨み合っていた。

 まるで、二人だけの戦いが始まろうとしているかのように。


◇◇◇


 3年A組で自習をしていた友子が早菜に声をかける。


「はーやな。柔道大会見に行かないの?」


 早菜は参考書から目を離さない。


「いいよ。どうせ今年も千秋の一人勝ちでしょ」

「ふぅん。渦中の如月さんの見解はそのような感じで」


 友子の言葉に、早菜は顔を上げる。


「渦中ってなんの渦中?」


 友子は驚いたように目を丸くする。


「えっ!?知らないの!?」


◇◇◇


 友子の言葉を聞いた早菜は、廊下を走っていた。友子の声が、頭の中で反響する。


「春夏冬くんとハルくんが言い合いしてるところ聞いた人がいて。今日の柔道大会で春夏冬くんが勝ったら……」


◇◇◇


 息を切らした早菜が格闘技場に到着すると、そこには千秋とハルが向かい合って立っていた。二人の間には、張り詰めた空気が流れている。


 審判の声が響く。


「それではこれより決勝戦を開始する。はじめ!」


 千秋がハルに組み手争いを挑むが、ハルは微動だにしない。


「決勝戦まで来れないんじゃないかと心配したけど、そんなことなかったな!」


 千秋が挑発するように声を上げる。


「僕、一応半妖だからね」


 ハルもまた、不敵な笑みを浮かべた。


「忘れてないよな。この勝負、俺が勝ったらちゃんと早菜に告白しろ」


 千秋の言葉に、ハルの瞳が鋭く光る。


「僕が勝ったら、僕たちを避けるのをやめるってのも忘れないでよ」


 ハルが大外刈りでバランスを崩し、千秋は一本背負いに入ろうとする。だが、土壇場でハルは腕を引き抜き、背負い投げが空振りになった。


「お!?」


 千秋の驚きの声が漏れる。


「やめ!」


 審判の声に、千秋は舌打ちをした。


「ちっ」


 二人は距離を取り、再び構え合う。


「はじめ!」


 ハルが大きく息を吐き、再び組み手争いになった。


「中々やるじゃん」


 千秋の言葉に、ハルは涼しい顔で返す。


「そんな喋ってたら舌噛むよ」


 その瞬間、ハルの視界に早菜が映る。


「ねぇ、早菜が見てるよ」

「なに!?」


 千秋の目が一瞬泳いだ。その僅かな隙を見逃さず、ハルは内股フェイントからのすかし技で、見事な背負い投げを決めた。


「一本!」


 千秋は仰向けに倒れ込む。


「くそっ!」


 ハルが千秋に手を差し出す。


「千秋、ありがとう」


 千秋はその手を取る。


「おい!!今のは反則だろ!?」


 その時、早菜が駆け寄ってくる。その顔には、怒りよりも安堵の色が濃く浮かんでいた。


「千秋!ハル!」


 早菜は二人に詰め寄る。


「あんたたち!ほんと何してるの!?」


 ハルが優しく笑い、千秋も苦笑した。


「ばれちゃったね」

「ああ……」

「もう……ふふっ。でも久しぶりだね、三人揃うの」


 早菜は心底嬉しそうだった。その笑顔は、千秋の胸に温かい光を灯した。

 アナウンスが流れ、閉会式を告げる。


「これより、閉会式を行います。生徒は体育館に集まってください」

「じゃ、行こっか」


 早菜が歩き出そうとした時、千秋が顔をしかめた。


「いてっ」

「千秋?」


 ハルが心配そうに声をかける。


「わりぃ。ちょっと手首挫いたみてぇだ。保健室行ってくるから先行っててくれ」


 早菜が心配そうに千秋を見つめる。ハルはそんな早菜の気持ちを察したように、優しく微笑んだ。


「先生に言っとくから、千秋についてってあげて」


 早菜は千秋に視線を戻し、笑顔で頷いた。


「ありがとう。そうする!」


◇◇◇


 保健室の長椅子に腰掛ける千秋の、手首に包帯を巻く早菜。応急処置とはいえ、その手つきはどこかぎこちない。


「先生、どこいっちゃったんだろうね」

「ああ」


 千秋は生返事をする。


「柔道大会、3連覇ならなくて残念だったね」

「ああ」

「ハルが柔道強いなんて、ちょっと意外よね」

「ああ」


 千秋の生返事に、早菜はイラっとしたように顔を上げる。


「ちょっと!人の話ちゃんと聞いてる!?」


 千秋は早菜の目を見つめた。


「早菜」


 その声は、いつもより少しだけ真剣だった。


「なに?」

「ハルのこと好きか?」


 早菜は顔を赤くし、急いで包帯を巻き終えた。まるで、その質問から逃れるように。


「なっ!なに急に。はい!応急処置はおわり!もどろう!」


 立ち上がろうとする早菜の手を、千秋が椅子に押し留める。


「誤魔化すなよ。好きか?」


 千秋の真剣な眼差しに、早菜は観念したように俯く。


「たぶん……好き、なんだと思う」


 その声は、蚊の鳴くように小さかった。


「たぶんってなんだよ」


 千秋は早菜の顔を覗き込む。


「わからないの!ハルといるといつもすごくドキドキして、優しくて、でも私が触れたら消えちゃいそうで。これ以上、近づいていいのかわからなくなる時がある」


 早菜の瞳が揺れる。その言葉には、戸惑いと、切ないほどの感情が込められていた。


「うん」


 千秋は静かに早菜の言葉を聞いている。


「でも、私、ずっと待ってる人がいる気がするの。それがハルなんじゃないかって。ようやく会えたんじゃないかって」

「うん」


 早菜は自嘲するように笑った。胸の奥で、現実が幻想を打ち砕くような音がした。


「ごめん、こんな妄想……」

「気持ち、伝えろよ」


 千秋の言葉に、早菜は顔を上げる。


「え?でも」


 千秋は、早菜の目を見て、柔らかく笑った。その笑顔は、どこか晴れやかで、清々しかった。


「俺はさ、結局、自分が大切に思ってる人達が笑顔でいてくれたらそれでいいんだわ。頑張れよ!」


 千秋の笑顔は、早菜の心を温かく包み込んだ。

 保健室の外では、千秋と早菜を待つハルが、静かに空を見上げていた。

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