第六話「真実~命月~」
ざわめく草木をかき分けながら、早菜と千秋、ハルは急な山道を登っていく。
「ちょっと、まだ登るの!?」
早菜が息を切らして尋ねた。
千秋が振り返り、悪戯っぽい笑みを浮かべる。
「きついならおぶってやろうか?」
「誰が千秋なんかに!」
「早菜、もうすぐだよ」
ハルが優しく声をかけた。
やがて、目の前の草木が途切れ、視界いっぱいに広がる村の姿に、早菜は思わず声を上げた。
「わぁ……本当に村がある……」
村の中へ足を踏み入れると、遠巻きにこちらを窺う村人たちのひそひそ話が聞こえてくる。
「なんか……あまり歓迎されてない雰囲気……」
「僕がいるからかもしれないね」
ハルは静かに答える。
「ここだ」
千秋が立ち止まったのは、古民家風の大きな家屋の前だった。その戸口には、古びた木製の表札が掲げられ、「水雲家」と墨で書かれた文字が、どこか厳かな雰囲気を醸し出していた。
◇◇◇
通された和室で、ハルたちは正座して待っていた。やがて、襖が静かに開き、老齢の男が現れる。男はハルたちの向かいに座ると、ハルに柔和な眼差しを向けた。
「私が宇天だ。君がハルくんだね」
「はい」
ハルが律儀に答える。
「君がこの村を訪ねてくれた二年前、私は修行で村を空けていた。心無い者が君に嘘を教えたと聞く。本当に……すまなかった」
宇天は深々と頭を下げた。
「僕のことはいいんです。今日は、見ていただきたいことがありまして」
ハルは、早菜の方に視線をやった。
「今日、学校に邪慳が現れて、早菜の首元を刺して息絶えました。変な痣ができただけですが、呪いの類いを疑ってます。見て頂けませんか?」
そしてハルは気まずそうに言葉を続けた。
「僕は半妖なので、人の命を見る力がありません。お願いします」
「分かりました」
宇天は頷くと、早菜に近づいた。
「お嬢さん、私の掌に手を乗せていただけますか?」
「はい」
早菜が恐る恐る手を差し出すと、宇天の掌が優しくそれに触れる。瞬間、早菜を包み込むような、淡い光が灯った。
「うーん。お嬢さんの命には、何も傷はついていないようだ。恐らく、邪慳の悪あがきだろう」
「本当か!?よ、よかった……」
千秋は心底安堵したように息を吐く。
宇天はにこやかに微笑んだ。
「ええ、痣もそのうち消えることでしょう」
その言葉に、ハルもまた、ほっと胸を撫でおろした。
「ハルくん。ついでのようで悪いんだが、君に是非見てもらいたいものがある。少し付き合ってくれんかね」
◇◇◇
宇天に案内された部屋は、壁一面に木箱がびっしりと埋め込まれ、部屋の中央には水が流れる土台があり、紅葉の葉が無数に浮かんでいた。
「わぁ!綺麗な部屋!」
早菜が感嘆の声を上げる。
「こんな部屋があったんだな」
千秋もまた、部屋を見回して呟いた。
ハルは、少し離れた場所で立ち尽くしている。宇天は木箱の中から紅葉の栞を取り出すと、ハルを呼んだ。
「ハルくん」
千秋と早菜が栞を覗き込む中、ハルが宇天の元へ歩み寄る。
「これは、あなたのお母さん、雀部桜の記憶だ」
「記憶?」
早菜が首を傾げる。
「命族は、命を捧げることでこの世の者ではなくなる時、紅葉に自らの思いを込めるのだ。思いを伝えたい相手がこの紅葉に触れると、その思いが伝わるようになっている」
「魔法みたい!素敵!」
「それを言うなら術の一種だろ」
千秋が訂正する。
「命族は、命の半分を土地神様に捧げる使命を背負っている。だが、半分の寿命しか持たずに生まれてくる命族の半妖は、生まれてすぐ命を捧げて消える運命なんだ」
ハルは、俯き、ギュッと唇を噛み締める。
「だが、雀部桜は自らが二度、土地神様に命を捧げる代わりに、ハルくんを生かすことを選んだ。だから、この紅葉、ぜひ触れてあげてほしい」
早菜と千秋が、ハルの方を見つめる。ハルは震える手をポケットに仕舞い込んだ。
「ハル……」
早菜が心配そうに呟く。
千秋はハルの手元を一瞥し、明るい声で言った。
「まあ、別に今見なくても良いんじゃね?これ、持って帰ってもいいか?」
「ああ、勿論だとも。そうだ、今日はちょうど村で灯篭流しが行われる日でね。良かったら見ていくといい。雀部桜の灯篭もあるはずだ」
◇◇◇
「灯篭流しって夜だろ〜。どうする、一旦帰るか?」
千秋が尋ねる。
「またあの山道登るの!?」
早菜がうんざりした顔をする。
「早菜、千秋、ごめんね、付き合わせちゃって」
ハルが申し訳なさそうに言う。
「いいのいいの!さ!何して過ごしますかね〜」
その時、背後から声が聞こえた。
「あの」
「ん?あっ!雨!」
千秋が振り返ると、水雲雨が立っていた。
「千秋様。祖父から村を案内するように仰せつかりまして」
「まじかっ!助かる!」
ハルと早菜は、雨をじっと見つめる。
「申し遅れました。宇天の孫の水雲雨です。もしハルさんが半妖でなければ、婚約者になるはずだった者です」
千秋と早菜の声が重なる。
「え!?婚約者!?」
雨は、にこりと微笑んだ。
◇◇◇
静寂に包まれた墓地には、浅い水面が広がり、その中央に一本の木が立っていた。水面には、無数の「命の玉」が沈んでいる。
「きれい……」
早菜が息を飲む。
「幻想的でしょう。ここが命族の墓地なんです」
雨が説明する。
「この玉はなんだ?」
千秋が尋ねる。
「命の玉ですよ。命族は生まれた時、あの木の蕾が咲いて、蕾の中央には自身の名前が刻まれた命の玉を授かるんです。そして、寿命が尽きるとき、命の玉をこの泉にお返しするんです」
「じゃあ、ハルの母さんの玉もこの中にあるのか?」
「きっと、あちら側にありますよ。二年前、千秋様とハルさんに嘘を教えた源内という男。彼は桜さんの大おじでして」
「大……おじって」
千秋が聞き返す。
「祖父の兄弟って意味よ」
早菜が補足した。
「源内さんは子宝に恵まれなかったためか、桜さんのことを大変可愛がっていたんです。今もまだ毎日ここに通っては……」
その時、千秋と早菜が同時に声を上げた。
「あ!」
源内が姿を現した。
「出たな!このやろ!」
千秋が詰め寄ろうとする。
「待って!千秋!」
早菜が制止する。
「だってよ……」
千秋は不満げに呟く。
額から汗を流し、おどおどしている源内。
「千秋様……あの節は本当に申し訳……」
「謝る相手が違うだろ。ほらハル!」
千秋はハルの背中を押して、源内の前に出す。ハルは気まずそうにしていた。
「桜はな……桜は美しくて、賢くて、本当に良い子じゃったんじゃ……掟を破るような子じゃなかった……それを、あの男が……あの男が桜を変えた。許せん……あいつの血を引いてるお前も、憎い……」
「おい!いい加減にしろよ!」
千秋が怒鳴る。
「そうよ!ハルには何の罪もないことじゃない!」
早菜もまた、ハルを庇う。
ハルは静かに言う。
「千秋、早菜。ありがとう。大丈夫だよ。いこう」
「ハルがそういうなら……いいけどよ」
千秋は不満げに呟き、立ち去ろうとする。
「待て!桜の記憶は見たか!?日記にも手紙にも最後の言葉らしきものは見つからなかった。桜は最後、何と言った!?」
源内が叫ぶ。
ハルは振り返り、源内をまっすぐに見つめた。
「あなたには教えません」
ハルらの背中が遠ざかっていく。源内は、その場に立ち尽くしたまま、まるで自分の過ちの重さを測るかのように、ハルの背中をただ見つめていた。
◇◇◇
賑やかな声が響く中央広場では、村人たちが一丸となって、大きな龍の骨組みを作り上げていた。太い竹がしなやかに曲げられ、丁寧に編み込まれていく。彼らの手によって、龍の胴体や四肢が少しずつ形を成し、祭りの熱気が立ち込めていた。
「雨様!見てください!立派な龍ができそうです!」
村人が声を弾ませる。
「これは立派ですね」
雨が応じる。
「あら、お客人ですか?」
村人がハルたちに気づく。
「ええ。今日初めて命族の灯篭流しを見られるんです」
その言葉を聞きつけたのだろう。広場の片隅で遊んでいた子供たちが、目を輝かせながら駆け寄ってくる。
「火の川でー」
「龍が舞いー」
「神楽導く」
「命月!」
子供たちの歌声が響く。
「村に伝わる歌かな?」
早菜が尋ねた。
「お姉ちゃん達しーらないの〜」
「大人のくせに知らないんだぁ」
「てことは馬鹿なんだ!」
「ばーかばーか」
「誰が馬鹿だー!」
千秋が、子供たちを追いかけ回す。
「こら!手伝いなさい、あんたたち!」
子供たちの親らしき村人が、慌てた声で注意する。
その様子を、近くの縁台に座って見ていた老婆が、にこやかに早菜に声をかけた。
「そこのお嬢ちゃんも、もし手が空いているなら手伝ってくれるかい?」
「えっ!?私!?」
早菜と千秋の様子を眺めながら、ハルは雨に話しかけた。
「外部の者に好意的な人もいるんですね」
「ああ。命族の村は大きく分けて、水雲の家系と、雀部の家系で分かれているんだ。雀部家は命族の使命に重きを置く厳格派だけど、水雲家は割と自由でね」
「だから、ハルくんさえ良ければ、私の婚約者はハルくんのままでもいいと私は思ってますよ」
「え!?」
早菜が驚いて声を上げる。
「ん?」
雨が首を傾げる。
「あっ、いやその……たまたま聞こえちゃって」
「ああ、冗談だから、気にしないで」
「冗談……」
早菜の肩から、すっと力が抜ける。ほっとして、安堵の息が漏れた。
「早菜、ほっとした?」
ハルが尋ねる。
「えっと……うん……」
早菜は曖昧に答える。
「早菜、かわいい」
ハルがぽつりと言った。
(ほっとした?私が?)
早菜は、自分の心に問いかける。
「そうだ、ハルくん。これ、どうぞ」
雨は、龍を作る素材の竹をハルに渡した。
「これは……」
「この竹に、命を捧げた者へのメッセージを書くんです。すると、神楽と共に龍が空まで届けてくれるという習わしなんです」
「メッセージ……」
ハルは、竹を見つめる。
「何も思いつきませんか?」
「言葉を紡ぎ出すには、僕は知らないことの方が多いから……」
「なら、知りに行きましょうか」
◇◇◇
「ここは?」
ハルが雨に尋ねる。
「桜さんがハルさんを身籠った際に使われた家です。源内さんの判断でそのまま残されているんですよ」
雨が中に入っていく。
「入っていいんですか」
ハルが戸惑う。
「秘密ですよ?」
雨はいたずらっぽく微笑んだ。
部屋の中を見回すハル。
「じゃあ、私は外を見てるので。何かあったら声かけますね」
雨はそう言い残し、外に出た。
ハルは部屋の中をゆっくりと歩く。机の上に一冊の帳面を見つけた。
「日記……?」
ハルは机の前に座り、帳面を開く。
「六月三十日。祠の前で不審な男に出会った。名は達郎。人間のくせに私に一目惚れだ、付き合ってくれという。断った。」
「八月十五日。毎日達郎が花を持って祠の前で待ち伏せしている。達郎が帰ってから行こうと暫く様子を見てると、怪我したうさぎが現れ、花を置いて、うさぎを抱えて帰っていった。」
「九月二十一日。草履の鼻緒が切れる。歩きづらそうにしていると達郎が私を横抱きにして村近くまで届けてくれた。顔が近くて緊張した。」
「十一月三日。達郎が仕事で半年遠くへいくらしい。がんばって、としか言えなかった。」
「三月九日。達郎は元気だろうか。会いたい。」
「六月三日。達郎に結婚を申し込まれた。お願いしますと返答した。」
「八月十日。子を身籠った。達郎に私の決意の丈を話した。達郎は泣きながら、わかったと言った。」
「四月一日。出産。私に似てとてもかわいい子だった。春生まれだからハルと名付けた。愛おしくて仕方ない。残された時間はあと五日。」
「四月二日。雨が強い。私の不安を掻き消すようにハルが笑う。大丈夫だろうか。誰かにいじめられないだろうか。村の者から虐げられないだろうか。人間の世界でやっていけるだろうか。ちゃんと、生きてくれるだろうか。心配だ。母親というものは難儀だな。」
ハルは、日記の「ちゃんと生きてくれるだろうか」という部分を、じっと見つめた。帳面を閉じ、外に出る。
「お待たせしました」
「何か収穫はありましたか?」
雨が尋ねる。
「はい。連れてきてくれて、ありがとうございました」
ハルは、心からの感謝を伝えた。
◇◇◇
中央広場に話しながら戻ってきたハルと雨。
「おーい!ハル!お前、どこいってたんだよ!」
子供たちと遊びながら、千秋が手を振る。
「ハル!待ってたのよ!」
早菜がハルの手を引っ張り、龍の元へと連れていく。
「龍の尻尾!最後の一個、ハルが持ってるでしょ。はい、筆。書いて?」
「う、うん……」
ハルは、竹を見つめる。早菜は、そんなハルの姿を優しく見守っていた。
◇◇◇
夜になり、土手に座りながら、ハルと早菜、千秋は灯篭流しを見守っていた。
「わあ!本当に火の川だ!」
早菜が感動したように声を上げる。
雨は微笑んで言う。
「まだまだこれからですよ」
空を命族の神楽が舞い、それを追いかけるように、龍も夜空を舞う。
「火の川で、龍が舞い、神楽導く命月……か。詩の通りだな」
千秋が呟く。
「この光の数だけ、救われた命があるってことよね」
早菜が、問いかけるように言った。
「そうだな」
「でもこの光の数だけ、命族の人が命を落としている……」
早菜の言葉に、ハルは黙り込んだ。
「それは違いますよ」
雨が優しく言った。
ハルたちが雨の方を見る。雨はにこりと微笑んだ。
「雨ってどこからやってくるか知ってますか?」
「雨?んー?上から?」
千秋が首を傾げる。
「馬鹿。海からよ。海の水が蒸発して雲になって、雨となり、川に流れ、海に戻るのよ」
早菜が、得意げに解説する。
「満点の回答です。我々は、いわば海なんです。消えるはずだった命を繋ぎとめることで、その命が化学反応を起こす。世界を変えることができる。その喜びや慈しみは、必ず我々の元に返ってくる。命族にしかできない奇跡なんです」
「奇跡……」
早菜が呟く。
「だから我々は命を落とすではなく、『捧げる』と表現する。その方が、愛を感じるでしょう?」
ハルは、ゆっくりと顔を下に向けた。
「ハル……?」
早菜が心配そうに覗き込む。
「僕は大馬鹿者だな……二年前、僕は死ぬ運命を背負いながら、どう生きていけばいいかわからなくなった。命を捧げることに意味なんて……」
ハルは、歯を食いしばる。
「僕に与えられた時間こそが母の愛だったのに。僕は……」
「ハル……」
早菜はハルを見つめ、千秋はハルの肩に手を回す。
「事情知らなかったんだから仕方ないだろ。これからいっぱい、笑って、怒って、母ちゃんの分まで生きていこうぜ」
「……うん」
ハルは、小さく頷いた。
「そういえば、ハル。龍の竹にはなんて書いたの?」
早菜が尋ねる。
「ああ。知りたい?」
「う、うん……」
ハルはにこりと笑う。
「ひみつ」
彼らの見上げる夜空を、雄々しく舞う龍。その背には、ハルの書いた竹がしっかりと結ばれている。闇を裂く炎の輝きの中で、その竹に刻まれた「ちゃんと生きるよ」というひたむきな誓いが、遠い母の元へと届けとばかりに、一条の光となって夜空を駆け上がっていった。