第五話「真実~雲間~」
凍えるような空気の中、長い石段が地底へと伸びていた。千秋とハルは、その薄闇の中をひたすらに降りていく。やがて、足元が広がり、壁一面に奇妙な扉が並ぶ広間へと出た。そこには、怯えた表情の友江旅館の宿泊客たちが、身を寄せ合うように座り込んでいる。
「おい、大丈夫か!?」
千秋の声が、静寂に沈む広間に響き渡る。
宿泊客の一人が、顔を上げ、か細い声で答えた。
「旅館の方ですか。どうやら旅館に悪い妖が入ったらしく、土地神様がここまで連れてきてくださいました」
その視線の先には、岩に能面が貼り付けられたような異形の存在が鎮座していた。ハルはゆっくりと近づき、その面に問いかける。
「あなたが、この土地の神様ですか?」
「左様。……おや、あなたは命族の……」
土地神の言葉に、ハルは静かに応じる。
「半妖の雀部ハルです。今回の神隠しは、あなたの仕業ですか?」
「そうです。この旅館に陰惨の邪慳が入り込みましたので」
「邪慳だと!?今も旅館の中にいるのか!?」
千秋は、血相を変えて詰め寄る。土地神は、表情を変えることなく淡々と告げた。
「安心なさい。既に私の結界が邪慳を封じ込め、弱体化させています」
ハルが冷静に尋ねた。
「邪慳の狙いは、分かりますか?」
「恐らく、私の命を奪いに来たのでしょう。しかし、奴の命はあと数日と持たない」
「仕留めなくていいのか!?」
千秋が前のめりになる。
「放っておけば自然と尽きる命。争う必要はないでしょう」
千秋は不満げに舌打ちした。
「ところで、命族の半妖よ。私に、何か聞きたいことがあるのではないですか?」
土地神の言葉に、ハルは微かに身体を震わせ、俯いたまま絞り出すように答えた。
「…………いえ……」
「いつもあなたのことは見ています。雀部桜が命をかけて守った子。だからこそ、あなたの命は、あなただけのものではありませんよ」
ハルは、土地神を睨みつけるように顔を上げた。
「じゃあ、土地神様のものだとでも言うんですか?」
「違います。不運にもあなたは愛を知らずに育ってしまった。ですが、もう自らの命を粗末にするような真似はお止めなさい」
「僕の命をもらうだけのあなたが、上から物を言わないでもらえますか」
ハルの言葉に、土地神は諭すように続けた。
「雀部桜の子よ。何を勘違いしているのか分かりませんが、あなたが儀式の使命から外れたのは桜の愛に他なりません。あなたの命は、あなたのものですよ」
「え……?」
ハルは、理解が追いつかず呆然とする。
「おい!使命から外れたってどういうことだよ!二年前、命族の村でハルは二十歳で土地神に命を捧げる使命だって言われたんだぞ!」
千秋が憤慨する。
「村長と桜が交わした契りを知らない者が適当を言ったか……あるいは命族は半妖を認めない風習が……」
「はぁ!?こんな大切なことを適当に言われてたまるかよ!」
「千秋、土地神に怒っても仕方ないよ」
ハルが、静かに千秋を宥める。
土地神は穏やかに言った。
「宇天という者が村にいます。その者を一度訪ねてごらんなさい」
「宇天か……いや待てよ……そうか!おい、そういうことか……!」
怒りの後に段々と理解が追い付く千秋。
「ハル!俺たち、爺さんになっても親友でいられるってことだろ!?やったな!」
千秋は満面の笑みでハルの肩を叩く。
「うん……」
ハルは、ようやく感情がこもった声で小さく頷いた。
「ハルよ、あなたは明日世界が終わるとしたら、一緒に過ごしたい人はいますか?」
土地神の問いに、ハルは俯きがちに小声で答えた。
「いや……」
「いずれ、そう問われた時、心に浮かぶ人ができるといいですね。きっと、そういう人生を桜も望んでいたことでしょう」
ハルは、ただ黙ってその言葉を聞いていた。
「邪慳を捕らえているなら、もう旅館の危機も去ったはずだ。客を誘導しようぜ」
千秋が促し、二人は客のもとへ向かおうとする。
「お待ちなさい、人間……」
土地神の声に、ハルが振り返った。
「どうかされましたか?」
「申し訳ない……どうやら邪慳が私の結界を抜け出したようです」
「はあ!?」
千秋は、耳を疑う。
「あなたたちが入ってきた際に結界が歪み、そこを突かれました」
「邪慳が旅館に出たのか!?お前、本当に神かよ!」
「邪慳を侮っていました」
「おい!早菜に何かあったら、許さないからな!」
千秋が声を荒げる。
「千秋!」ハルの呼びかけに、千秋は「わかってる!」と答え、二人は急いで階段を駆け上がっていった。
◇◇◇
たぬ汰と遊んでいた早菜の前に、壁から邪慳がヌッと現れた。
「たす……けて……助けろ……助けなきゃ……」
早菜は思わず「だ、大丈夫ですか!?」と声をかける。
「私の名は邪慳……酷い仕打ちを受けてきた……どんな仕打ち?教えてよ……教えて……こんな仕打ちだー!」
邪慳は、その醜悪な顔を歪ませ、早菜に噛みつこうと飛びかかる。しかし、早菜は素早く回し蹴りを放ち、邪慳は壁まで吹き飛ばされる。
「ゲフッ」と邪慳が呻く。
「たぬ汰くん!」
早菜は酷く怯えるたぬ汰を抱きかかえ、部屋を飛び出した。
◇◇◇
女将と前田、佐藤が話しているところに、早菜が息を切らして駆け寄ってきた。
「女将さん、この子をお願いします!今、二階から邪慳という妖がやってきます!」
早菜はたぬ汰を女将に預ける。
「邪慳だって!?」佐藤が驚く。
早菜は指の関節を鳴らし、戦闘態勢に入る。
「馬鹿!さっさと逃げるよ!」前田が叫ぶが、邪慳は床に体半分を沈めながら、そろりそろりと近づいてくる。
「蹴った……誰が蹴った……女が蹴った……許す?許さない……どこだ……どこだぁ」
「来ちまったよ!もう!」
佐藤が顔を歪める。
「仕方ないね、腹括るよ」
前田は覚悟を決める。
「あれやるのかいな」佐藤が尋ねると、前田は「ああ、そうさ」と答えた。
佐藤は変化の術で巨大な手裏剣に姿を変える。前田はろくろ首になり、手裏剣を口で咥え、首を捻らせて回転力をつけ、邪慳に投げつけた。手裏剣は邪慳の耳を切り裂く。
「チッ!外したか」
前田が舌打ちする。
「いたぁい!逃げようよ。そうだ、逃げよう。いじめた奴、絶対許さない。でもここは危険。早く外へ」
邪慳は痛みにもがき、逃げ出そうとする。
「待ちなさい!」
早菜が追おうとしたその時、
「早菜!近づくな!」
千秋の声が響く。早菜の元に千秋とハルが駆け寄ってきた。
「大丈夫?怪我してない?」
ハルが早菜を気遣う。
「大丈夫だけど、逃げちゃったじゃない」
「とりあえず、早菜が無事ならそれでいい。ちょっと親父に電話するから、ここで一旦待機だ」
千秋はそう言って外に出た。
「そっちはどうだったの?」
早菜が尋ねる。
「ああ。土地神様に会えたんだけど……」
ハルは祠での出来事を話し始めた。
「え!?命捧げなくていいの!?」
早菜が目を丸くして驚きの声を上げる。
「うん……まぁ……」
「じゃあ、ハルはもう普通の高校生なんだね!」
「普通の……高校生?」
ハルは、その言葉の意味を噛みしめるように繰り返した。
「そうだよ!これから私達と楽しいこといっぱい経験して大人になっていくんだよ!」
「僕が大人に……そ、そっか……」
電話から戻ってきた千秋は、ハルの嬉しそうな顔を笑顔で見つめ、ハルに言う。
「ハル!ハルの母親もきっとそれを望んでたんじゃねーか。まあ、詳しくは宇天に聞きに行こうぜ!」
「命族の村に行くの!?次は私もいいよね?」
早菜が、期待に満ちた瞳で千秋を見上げる。
「どうする?ハル」
「勿論、早菜も一緒に行こう」
ハルの返事に、「やったー!」早菜は飛び跳ねて喜んだ。
「じゃ、明日学校終わったらな。今は邪慳だ」
◇◇◇
春霞町の至る所で、和服を纏った千秋家の従者たちが、邪慳の捜索にあたっていた。街は、普段の活気とは裏腹に、張り詰めた空気に包まれていた。
◇◇◇
山北高校では、いつものように生徒たちが登校していく。
「早菜ー!」
友子が早菜に抱きつき、「人を食う悪い妖が出たって聞いた!?」と興奮気味に話す。
「う、うん……」
早菜は頷く。
「この町には土地神様がいるから大丈夫だって、お母さん言ってたけど、怖すぎ!」
「千秋の家の人も総動員してるみたいだから多分大丈夫だよ」
「あ〜!土地神様〜!土地神様〜!」
友子は、まるで祈るように両手を合わせた。
自席からその様子を見ていたハルの元に、千秋がやってくる。
「よっ」
「千秋。もう結界は張り終わったの?」
「ああ。これで校内は安全だ。でも相手は邪慳だ。油断はできねぇ」
チャイムが鳴り響く。
「じゃ、俺いくから早菜のこと頼んだ」
「うん、またね」
◇◇◇
授業の合間、担任からノートを運ぶように指示され、長い廊下を一緒に歩く早菜とハル。
「ごめんね、ハル、日直じゃないのに手伝ってもらっちゃって」
「大丈夫だよ」
ハルは周囲を訝しげに見回す。
◇◇◇
人気のない階段に一人座る千秋の前に、双影が現れた。
「千秋様、結界が破られました。恐らく邪慳かと」
「来たか。場所は?」
「一階の家庭科室の前あたりから邪気を感じます」
「家庭科室……」
千秋は階段を降り、窓から向かいの二階下の廊下を覗き込むと、家庭科室前の廊下を歩く早菜とハルの姿が目に入った。
「な!?来い!双影!」
「はっ」
千秋と双影は急いで階段を駆け下りる。
◇◇◇
廊下に体を沈めながら、早菜とハルの後ろをそろそろとついていく邪慳。
「僕をいじめたあの女。食う?そうだ、食ってやろう。許さない……許さない」
ハルがふと後ろを振り向くと、邪慳がぽつんと立っている。
「許さない……食ってやるー!」
邪慳が早菜に飛びかかるが、ハルが早菜を壁に押し付け、間一髪で躱す。
「え!?なに!?」
「邪慳だ」
◇◇◇
階段を猛ダッシュで駆け下りる千秋。早菜との過去がフラッシュバックする。
「間に合え!間に合ってくれ!」
千秋の心の中で叫びが響く。
◇◇◇
肩を負傷し、血を流すハル。
「ハル!血が!」
膝をつくハル。
「僕は大丈夫。早菜、逃げて」
「恨めしい……あの女が恨めしいよ。でもあの男も邪魔をした。そうだ、二人とも食べてやろう。憎い、憎いよ」
邪慳は憎悪を滾らせる。
邪慳の方を振り返り、指をポキポキと鳴らす早菜。
「ここで逃げたら別の人が襲われるだけ。やってやろうじゃないの」
「男の方、弱ってる……男憎い。男からにしよう。死ねー!」
邪慳がハルに飛びかかる。
「危ない!」
早菜が間に入り、邪慳を殴りつけて床に沈める。
驚いて早菜を見るハル。
「なんだ、案外弱いのね」
早菜は涼しい顔で言う。
「人間にやられたまま終わってたまるものか……でももう寿命が少ないよ。死んじゃうの?死にたくない。じゃあ、どうする?」
邪慳は苦しそうに呻く。
その時、千秋が走り込んできた。
「早菜!そいつから離れろ!」
「え?」
「このまま死ぬぐらいなら道連れにしよう。そうしよう……死ね!」
邪慳の舌が早菜の首に突き刺さる。
「いたっ」
「人間、お前に死の呪いをかけた。いつか必ず後悔する……ざまぁみろ……ざまぁみろ……」
「双影」
千秋が命じると、双影は刀を抜き、邪慳を真っ二つに斬り裂いた。
「早菜、大丈夫か!?」
千秋が駆け寄る。
早菜は突然しゃがみ込む。
「おい!どうした!?大丈夫か!?」
早菜はニッとダブルピースして笑った。
「大丈夫」
「はあ!?そういう冗談はやめてくれよ」
千秋はへたり込む。
邪慳に刺された首元を触る早菜。
「早菜、首元見せて」
「え、う、うん……」
「痣になってる。千秋、邪慳がこの程度で死ぬとは思えない。早菜の命に傷がついてないか調べるべきだ」
「そうだな。まあ元々行く予定だったし、早菜のことも見てもらおうぜ。命族の村で」
◇◇◇
木箱に入った紅葉を見つめる宇天。「桜……」と呟いた。