第二話「運命~篝火~」
うららかな春の昼下がり。山北高校の中庭では、弁当を広げる生徒たちの賑やかな声が響き渡っていた。そんな喧騒の中、千秋は、早菜の姿を探し当てると、彼女が座るベンチへと足早に近づいていく。しかし、目の前の早菜は、いつもの食いしん坊な彼女とはまるで別人だった。
「ん?」
千秋は、ぼんやりと空を眺める早菜の顔を、まじまじと覗き込んだ。さらに顔を近づけ、彼女の視線の先を辿るが、ただ青空と、そこに揺れる桜の枝があるだけ。
「おい……」
呼びかけても、早菜はまるで聞こえていないかのようだ。彼女の視線は、一点に釘付けになったまま、空に浮かぶ桜の薄紅色を捉えている。
「おい、早菜?」
焦れた千秋は、早菜の顔の前で大きく手を振った。
「え!? あ、ごめん」
ハッと我に返った早菜は、慌てて視線を千秋に戻す。
「花より団子派のくせに、桜に見惚れるなよ」
千秋が揶揄するように言うと、早菜はむっとした表情で彼の脇腹を小突いた。
「ゲホッ! ……今朝も先に学校行っちまって、バイトの話、聞かせろよ」
「私がどこでどんなバイトしようが、千秋には関係ないでしょ」
「あるね! どこで何してるか分からないと、守れるもんも守れないだろ」
「……誰も、守ってなんて頼んでないけど?そもそも、格闘技で私に一度も勝てたことないくせに、何言ってんの」
「手加減してんだよ……で、どこの面接受けたんだ?」
「もうしつこいなあ! 友江旅館だよ」
「はあ!? 友江旅館!?」
千秋は、大袈裟に目を見開いて驚いてみせた。
「な、なに……何か悪い?」
「じゃあ、お、お前もしかして……会ったのか?」
「え?」
「あーもうっ! だから! 雀部ハルに会ったのか?って聞いてんだよ」
「雀部……ハル……」
早菜の脳裏には、月明かりの下、美しく輝く雀部ハルの姿が走馬灯のように甦った。その切なげな笑顔、静かな声、そして、不意に繋がれた手のひらの温もり……。
「えー!?」
早菜は思わず大きな声を上げ、勢いよくベンチから立ち上がった。その瞬間、彼女の顔は、一瞬で真っ赤に染まっていく。
「ち……千秋……私……」
「ちょっと待て、何があったんだ!?」
千秋は、早菜の動揺した様子にただならぬものを感じ、前のめりになった。
◇◇◇
怒りの表情を隠すことなく、千秋は友江旅館の二階、廊下の一番奥に位置する紅葉の部屋へと向かっていた。彼の足音は、静かな廊下に荒々しく響く。
迷うことなく襖を勢いよく開け放ち、中に飛び込む。
「おい! ハル!」
部屋の窓際では、ハルが静かに書物を読んでいた。彼の視線が、ゆっくりと本から離れ、千秋を捉える。
「人の部屋に入る時はノックをするものだよ」
静かな声は、一切の感情を読み取らせない。
「お前、和歌で早菜を口説いたらしいな」
「ああ、ごめん。如月さん、近くで見たら想像以上に可愛かったから、つい」
「俺にも和歌教えろ」
「え?」
「だから俺にも何か胸キュンさせるやつ教えろよ!」
「フフッ。何でそうなるの。千秋はほんと面白いな」
「早菜が……『どっかのバカのプロポーズより、ずっと素敵だった』って言ったんだよ……」
千秋は、自分でも気づかないうちに、嫉妬が滲むような言い方をしてしまう。
「千秋には千秋の良さがあるよ。あまり背伸びしない方がいいんじゃない?」
ハルは、どこか諭すような、優しい笑みを浮かべた。
「背伸びでもしなきゃ、勝てねーじゃんか」
「誰に?」
「お前にだよ!」
「ハハッ。僕は半妖だ。人の子とどうにかなるつもりはないよ」
「お前にその気がなくても、早菜が惚れたらどうするんだよ!」
「余裕のない男はモテないよ。あとこれ、今回の依頼」
ハルは、流れるような動作で懐から封筒を取り出し、千秋に手渡した。千秋は、不満げにそれを受け取ると、中を確認する。
「今回は鬼みたいだね」
「いつも悪いな、こんな仕事の手伝い頼んじまって」
「構わないよ。次の仕事、もういくの?」
「ああ、仕事は速いにこしたことないからな」
◇◇◇
廃屋の前に立つ千秋とハル。あたりには、どこからともなく集まってきた猫たちが、あちこちを気ままに闊歩していた。
「って、何でお前ついて来てんだよ」
千秋は腰にベルトポーチを巻きながら、呆れたようにハルを振り返った。
「少し興味が湧いて」
ハルは穏やかな表情で答える。
「男を守る趣味はねぇからな。危なそうだったら逃げろよ」
「うん。それにしてもすごい猫の数だね」
二人は、猫たちの間を縫うようにして、屋敷の中へと足を踏み入れた。
「ちょっとやりづれぇな」
千秋が、猫たちの姿にわずかな戸惑いを覚える。
「猫を傷つけるわけにはいかないもんね」
「おい、ハル」
千秋は、警戒するように人差し指を立て、口元に当てた。
「どうして……どうして私を裏切ったの……どうして」
屋敷の奥から、怨嗟に満ちた声が響いてくる。髪が長く、顔面が爛れた鬼女が、地に這いつくばって闇の中から現れ、千秋とハルをじっと見据えた。
「どうしてぇぇええええ!」
鬼女は咆哮を上げ、ハルに襲いかかった。千秋は間髪入れずにハルを押しのけ、地面に五本の釘を打ち込んだ。地面から淡い光が湧き上がり、瞬く間に結界が形成される。鬼女は叫びながら、結界から出ようともがくが、固い壁に阻まれる。
「この結界からは出られねぇ。諦めるんだな」
「千秋、かっこいい」
ハルは、どこか感動したような眼差しで、千秋を見つめた。
「はあ……冷やかしなら帰れよ」
「冷やかしじゃないよ」
ハルは、にこりと微笑む。その笑顔には、嘘偽りのない賞賛が込められているようだった。
「おい、妖怪。邪慳って知ってるか? たまにこの町で悪さしてる妖怪だ」
「し……し……らない……」
鬼女の声は、憎しみと怯えに震えていた。
「わかった。じゃあもう用はない。消えろ」
千秋が護符を張ったクナイを鬼女に投げつけると、クナイは鬼女の胸に深く突き刺さる。次の瞬間、鬼女の体は青い炎に包まれた。
「ぎゃぁぁああああああ!」
「千秋、如月さんに仕事姿見せた方がいいんじゃないの? 普段と別人みたいだ」
ハルは、炎に包まれて苦しむ鬼女から視線を外し、淡々と千秋に話しかけた。
「悪い妖と言えど、命を一つ奪う仕事だからな。かっこよくもないし、見せらんねぇよ」
「僕はそう思わない。陰で千秋のような人がいるから、僕たちは普通の生活ができるんだ」
その時、炎の中で鬼女がかすかに呟いた。
「一人……で死にたくない……おいで……おいで……」
鬼女の呼びかけに、屋敷の奥から、何匹もの猫たちがゾロゾロと現れ、結界の中に足を踏み入れた。
「やばい!」
千秋が声を上げる。
「一緒に死んでぇえええ!」
炎に包まれている鬼女は、助けを求めるかのように猫を抱きしめた。猫は、断末魔の悲鳴を上げる。
「千秋!」
「わかってる!」
千秋は迷うことなく、詠唱して鬼女の体に刺さっているクナイを砕いた。同時に、ハルは羽織を脱ぎ捨て、必死に火を消そうと焦げ付いた猫に駆け寄る。しかし、炎の勢いは止まらない。
「間に合わなかったか……」
千秋の言葉は、悔恨に満ちていた。ハルは、真っ黒に焦げ付いた猫をじっと見つめる。
「ハル?」
「痛かったよね、ごめんね……」
ハルは、そっと猫に近づく。
「おいハル、待て!」
千秋の制止も聞かず、ハルは袂から一冊の帳面を取り出した。帳面に『猫、十年』と書き記すと、彼は猫の亡骸にそっと触れる。掌から眩い光が放たれ、猫の体が淡く輝いた。次の瞬間、猫はぴくりと動き出し、生き返ったかのように体を震わせる。猫はハルにすり寄り、喉を鳴らした。
「僕の命はあと九十年。ようやく人間に近づいてきたね」
ハルの言葉に、千秋は彼を睨みつけた。
「千秋? どうしたの?」
「命を粗末にするのはもうやめろって言ったよな!?」
「粗末じゃないよ」
ハルは、咎める千秋の視線から逃げるように目を伏せて答えた。
「自分の命だぞ!? わかってんのか!?」
ハルは黙り込む。
「ハルはそうやって、自分の命つきるまで目の前のもの全て救う気なのか!?」
「二年前……千秋も聞いたでしょ。これは僕の命じゃないんだ」
「でも! 親友が自殺行為してんだ! 止めるのが友達だろうが!」
「……」
「とにかく、もう絶対こんな真似すんじゃねぇ!」
千秋はハルの肩を掴み、強く揺さぶった。だが、ハルは千秋から目を背けるばかりで、何も言わない。
「チッ、帰ろうぜ」
千秋は舌打ちし、踵を返した。
◇◇◇
友江旅館の玄関前では、早菜が落ち葉を掃いていた。その時、坂道の方から、千秋とハルが戻ってくるのが見えた。
「あ」
千秋が声を漏らす。早菜も二人の姿に気づき、はっと顔を上げる。
「あー!!」
早菜は、口をむっと紡いで、ずんずんとハルに近づいていく。
「雀部ハル! 昨日はよくもからかってくれたわね!」
「からかう? 僕は思ったことしか言ってないよ」
ハルは、にこりと微笑む。その穏やかな笑顔は、早菜の怒りをすり抜けるようだった。早菜は口をつぐむ。
「そっ、それに! 定期試験700点ってどういうこと!? ありえないんですけど!」
「今回のテストは簡単だったよね。間違える人の気が知れないよ」
「俺、450点だったんだけど……」
「千秋は黙ってて! いい? 調子に乗ってられるのは今のうちだけ! いつか必ず私が学年トップになるんだから!」
「僕は二位でもいいんだけどね」
ハルは、どこ吹く風といった様子で答える。早菜はむっとした。
「そもそも保健室登校だって聞いたけど、こんな時間まで出歩いて普通に元気じゃない!」
「まあ、それには色々事情が……」
千秋は、言葉を濁した。ハルには、人には言えない特別な事情があることを、早菜には伏せておきたかったのだ。
「事情!? ともかく千秋とコソコソつるんで! 妖怪退治だか何だかしらないけど、そんな体力あるなら学校に来たらどうなの!?」
早菜は、ハルをじーっと見つめる。
「そりゃ無理だよ。ハルは人間とは関わり合いたくないんだ。行くわけが」
「わかった。学校行くよ」
「そうそう。行くわけが……は!? ちょ、ハル!? 俺が何度誘っても来なかったくせに!」
千秋は、信じられないものを見るかのように、ハルをじーっと見つめた。
「ごめんね、千秋」
ハルは、悪びれる様子もなく、にこりと笑った。千秋は不服そうな顔で、大きくため息をついた。
「雀部ハル。待ってるからね。わかったら、早く入って! お客様が来ちゃう!」
「早菜が引き止めたんだろー」
千秋とハルは、早菜の言葉に促されるように、旅館の中へと足を踏み入れた。
◇◇◇
朝の山北高校、3年A組の教室には、続々と生徒たちが登校してくる。廊下の方から、ふいに黄色い歓声が聞こえ始めた。何事かと生徒たちがざわめく中、雀部ハルが3年A組の入り口に顔を覗かせた。クラス中が、そのあまりにも秀麗な容姿に圧倒され、コソコソと話し始めた。
「もしかして雀部くん!?」
「やば、かっこよすぎなんですけど……」
女子生徒たちのひそひそ話が耳に届く。早菜の隣に座る友人の友子が、興奮した様子で早菜に話しかけた。
「ちょっと早菜、あれが前話してた雀部くんでしょ? 早菜が一目惚れするのも分かるわ~!」
早菜は、そわそわと胸の前で手を組み、わずかに顔を赤らめる。
「そんな、一目惚れなんてしてないよ」
「それはどうかな~。あんな眩い光に当てられたら、みんなコロッといっちゃうよ」
友子のからかうような言葉に、早菜は咳払いをしてごまかした。
ハルは、教室の窓際にある自席に静かに座った。ふと顔を上げた彼の視線と、早菜の視線が絡み合う。早菜は、何か言いたげな表情でハルの元へ歩み寄った。
「よく来たわね、雀部ハル!」
早菜が言い放つと、ハルは困ったように微笑んだ。
「ハル……」
「え?」
「雀部ハルじゃなくて、ハルだよ、早菜」
その言葉に、早菜の顔はみるみるうちに赤らんだ。
「あ、だめだった?」
「別に……いいけど……」
早菜は、突然、有無を言わさぬ口調で呼び捨てにするように言ってきたハルに、心臓が跳ねるような感覚を覚えた。まるで予想外の一撃を食らったかのように、戸惑いが顔に浮かぶ。彼女がとっさにそっぽを向くと、ハルはそんな早菜の反応を楽しそうに眺め、言葉を続けた。
「よかった。次の期末試験、勝負する?」
「当たり前! 負けた方は勝った方の言うことを聞くのよ! いい?」
「今からお願いごと、考えておかないと」
ちょうどその時、3年A組の入り口に千秋が顔を覗かせた。
「おい、早菜! また先に行きやがって!」
「じゃあ、また、あとで」
早菜はハルにそう告げると、千秋の方へと歩み寄った。
「あのねぇ、寝坊する千秋が悪いんでしょ」
「ちょっとくらい待つ姿勢があってもいいだろ」
「はあ!? 遅刻ぎりぎりなんて嫌よ!」
口喧嘩をする二人の様子を、ハルは窓際の席から楽しそうに眺めていた。