第十一話「旅路~夕月夜~」
朝陽が友江旅館の瓦屋根を優しく染め始めた頃。
旅館の中では、早菜が仲居として忙しなく動き回り、笑顔で客を迎えていた。厨房からは、包丁と食材が触れ合う軽快な音が響く。調理師見習いとなった千秋が、真剣な眼差しで腕を振るっている証拠だ。
(卒業して三ヵ月。早菜は仲居として働き、千秋は調理師を目指している。僕はと言うと……)
◇◇◇
友江旅館の玄関には、ハルを見送りに来た早菜と千秋、そして女将が並んでいた。ハルは原稿の入った鞄を手に取る。
「ハル!持ち込み、頑張ってね!」
早菜が、まるで自分のことのように声を弾ませた。
「最初から上手くいくとは思ってないけど……」
ハルが控えめに言うと、千秋が前のめりになる。
「何言ってんだよ!最高の出来だったぜ!」
「内容一割も理解してなかったくせに」
早菜が呆れたように突っ込むと、千秋はムッとして反論しようとした。
「なっ!俺だって……」
「俺だって、何よ?」
早菜が挑戦的に問い詰める。そのやり取りに、女将がくすりと笑いながら、温かい包みを差し出した。
「ハル!これ、お弁当」
「ありがとう」
ハルはそれを受け取る。女将はハルの顔を覗き込むようにして、細やかに気遣った。
「電車の中とかで食べてね。あと原稿、順番とか大丈夫?抜けはない?」
「大丈夫だよ」
ハルは時計に目をやり、そろそろ出発の時間だと告げた。
「そろそろ行かないと」
すると、千秋が何かを握りしめてハルに近づいてきた。掌に乗せられたのは、数枚の護符だった。
「ハル!これ、一応もってけ」
「護符?」
首を傾げるハルに、千秋は真剣な顔で言った。
「命族は狙われやすい。護身用だ」
早菜が、勢いよくハルの肩を叩く。
「ハル!嫌みな編集者に当たったら、一発その護符でぶちかましてくんのよ!」
早菜の言葉に、ハルは思わず笑みをこぼした。二人の温かい眼差しに、胸がじんわりと温かくなった。
「ははっ。うん。わかった。いってきます」
ハルは二人に背を向け、旅路へと踏み出した。
◇◇◇
寂れた駅のホームに、ハルは一人、電車を待っていた。暖かな空気が、頬を撫でていく。どこか遠くで、カラスの声が聞こえた。
やがて、遠くから電車の音が近づき、ゆっくりとホームに滑り込んできた。扉が開くと、一匹の黒猫がひょいとハルの前に現れ、そのまま車内へ飛び込んだ。黒猫はシートの上に堂々と立ち上がり、窓から外を眺めている。その姿は、まるでこの電車の主人のようだった。
ハルは黒猫から少し距離を取り、同じシートに腰を下ろした。
「君、混ざってるな」
いつの間にか、黒猫がちょこんとお座りをして、ハルの方を向いている。
ハルは辺りを見渡したが、乗客は自分と猫以外、誰もいない。
「君だよ。君。そのでかい弁当を持った君」
猫が話している?いや、そんなはずは……。ハルの頭の中で、現実と非現実が混濁する。
「僕?」
「あーよかった。ようやく普通に話せそうな人に出会えたよ」
黒猫は、まるで安堵したかのようにため息をついた。その仕草は、人間そのものだ。
「君は妖?には見えないけれど」
「僕はシャケ!守り神さ!」
シャケは、胸を張るように言った。その声には、自信が満ち溢れている。
「守り神?」
「そう。僕の飼い主が悪い妖に捕まってピンチだったから助けたんだけど、僕、ただの猫だったからさ、その妖に命取られちゃって。でも、土地神様が守り神としてまたこの世に生んでくださったんだ」
シャケは身振り足振りを交えながら、一生懸命に説明する。
その必死な姿に、ハルは少し笑ってしまった。
「何の守り神なの?」
「よくぞ聞いてくれた!それはもちろん!我が主!吉川澄子の守り神だ!澄子を守るためにここにいる!」
「ということは、その悪い妖とやらの脅威はまだ消え去ってないんだね」
「君!話が分かるやつじゃないか!そうなんだよ!吉川澄子とはな!まだ齢八つの小さな女の子だ。だが、その妖は幼い命ほど好んで食らう。早くしないと澄子がピンチだ!」
シャケは必死に訴えかける。
「じゃあ、早くその子の元に行ってあげた方がいいじゃないの?」
ハルの言葉に、シャケはハァと大きなため息をついた。
「ちっとは期待したのに呆れた奴だな。見て分からんのか。僕はいま迷子なんだよ!」
シャケはフンッと、自信満々に言った。
その堂々とした態度に、ハルは開いた口が塞がらなかった。
車掌のアナウンスが響く。
「秋目黒―秋目黒―」
◇◇◇
秋目黒駅のホームに降り立ったハルは、公衆電話から一本の電話をかけた。シャケは、ハルの足元で座り込み、じっと待っている。まるでハルの一挙手一投足を見逃すまいとしているかのようだ。
受話器を置く。
「僕は今、迷子なんだ!」
「それ、自信満々でいうことかな……」
ハルの脳裏に、シャケの言葉が響く。
「僕は澄子の守り神。澄子はもう妖に命を取られ始めているだろう。だから、僕の命をあげるんだ。絶対に救うんだよ」
電話を切ったハルを見て、シャケは突然、お腹を出して寝転がった。まるで、無防備な赤ちゃんのように。
「ほれ、協力感謝する。好きに撫でていいぞ」
ハルはシャケをじーっと見つめる。
「なんだ。いいのか?今日は特別に肉球も触らせてやるぞ」
シャケは得意げに肉球を差し出す。その姿は、どこか可愛らしい。
「シャケ……急いでるんだよね?」
ハルの言葉に、シャケはハッと我に返ったように起き上がった。
「そうだった!よく気づいたな!よしいくぞ!」
シャケはそう言って、元気に跳びはねた。天真爛漫なシャケに振り回されつつも、ハルは小さく微笑みを浮かべた。その背中を追うように、ハルもまた一歩を踏み出した。
◇◇◇
澄子の家を探し求めて、ハルとシャケは秋目黒の町を歩き回った。
住宅街では、シャケがキョロキョロと辺りを見回している。しかし、ふと視界に舞い込んだ一匹の蝶に、シャケの注意はあっという間に奪われる。ひらりひらりと舞う蝶を追いかけ、ハルから少し離れてしまうシャケ。
「シャケ!」
ハルの呼び声に、我に返ったシャケは、小さく首を振ると、自身の任務を思い出したかのようにハルの元へと駆け戻った。
◇◇◇
商店街の魚屋の前では、シャケがガラスケースの中の新鮮な魚をじっと見つめて離れなかった。
「どんな味がするんだろう」
シャケはわざとらしく呟いては、ちらりとハルの方を見やった。
ハルは、そんなシャケの様子に困った顔で微笑むしかなかった。
◇◇◇
小学校のグラウンドを覗き込むシャケ。首を横に振って、残念そうにしている。
◇◇◇
公園のベンチに座り、シャケは焦れたように呟いた。その声には、苛立ちと不安が混じり合っている。
「どこだ!澄子はどこにいるんだ!」
「ちょっと情報が少なすぎるね」
ハルが言うと、シャケはうぅと唸りながら、小さくしょぼんとした。
その小さな肩が、がっくりと落ちる。
「うぅ……時間がないんだ……もう時間が……」
その時、シャケのお腹がぐぅと鳴った。
「一旦ご飯にしようか」
ハルは持参した弁当を広げ、それを食べ始めた。
シャケには、弁当の蓋の裏におかずを乗せて分け与える。
「これは鮭!最後の晩餐に好物にありつけるとは。心して頂くっ」
シャケは目を輝かせ、夢中で鮭を頬張っている。その姿は、とても幸せそうだった。
「ねぇ、さっき言ってた命を分けるって話だけど……何かタイムリミットでもあるの?」
ハルの問いに、シャケは食べるのを中断して答えた。シャケの表情には、決意の色が浮かぶ。
「ああ。正確には、僕の守り神の力を使って穢れを払い落とすんだよ。命を分け与えるなんて奇跡は命族の妖にしかできないからな」
「穢れを払い落とす?」
「土地神曰く、今回澄子に取り憑いた妖の名は残火。人の命にまとわりつき、無理に引き剝がそうとすると、魂ごと持ってかれてしまうらしい。そこで守り神である僕の出番ってわけさ!」
シャケは胸を張って言った。その声には、誇りが満ち溢れている。
「怖くないの?穢れを払い落としたら、君は消えてしまうんだろう?」
ハルの言葉に、シャケはまっすぐハルの目を見つめた。
「なに。澄子の未来に、僕が繋いだ命が咲くなら、僕の命も、無駄じゃなかったって言えるだろう」
シャケの言葉に、ハルは目を丸くした。小さな猫が、こんなにも大きな覚悟を秘めているなんて。その言葉は、ハルの心を深く打った。
「澄子には夢があるんだよ!僕、応援してるんだ」
シャケはニコッと笑った。その笑顔は、純粋で、ひたむきだった。
「さあ!ご飯は食べたか!?命を完全に取られる前に浄化せねば、澄子が危ない!」
シャケは再びやる気を取り戻し、立ち上がった。
「何か手がかりはないの?覚えてる町並みとか、澄子ちゃんから聞いた言葉とか」
ハルが尋ねると、シャケは腕組みをして考え込む。やはりどこか人間らしい。
「うーん……そうだ!僕が死ぬ寸前、人が集まってきて、救急車!って言ってた」
「救急車……そうだ、それだよ!」
◇◇◇
メロウ商店の前に設置された公衆電話で、ハルは一本の電話をかけた。受話器を握る手に、力がこもる。足元では、シャケがじっとハルの様子を見守っている。
「そうですか……わかりました。ありがとうございます」
受話器を置くと、シャケが興味津々といった様子で尋ねてきた。
「どうした。どこにかけている」
「シャケ、澄子ちゃんの居場所がわかったよ」
ハルの言葉に、シャケの瞳が輝く。その喜びは、ハルにも伝わってきた。
「ほんとか!?」
「秋目黒病院だ」
「いこう!急ぐぞ!」
シャケが飛び跳ねるようにハルを急かす。その姿は、一刻も早く澄子を救いたいという気持ちに満ち溢れている。
「ちょっとまって。もう一件、電話してからでいいかな」
ハルはそう言って、別の電話番号を押した。
◇◇◇
秋目黒病院の廊下を、ハルは足早に進んでいた。鞄の中から、シャケがもぞもぞと動いている気配がする。その小さな動きに、ハルはそっと顔を近づけ、小声で言った。
「動いたらだめだよ」
ハルが注意すると、シャケは小さな声で返事をした。
「にゃあ」
「鳴くのもだめ」
ハルはさらに小声で注意を促す。シャケは、小さく頷いたようだった。
◇◇◇
澄子が眠る病室の前にたどり着いた。重い扉が、ハルたちの前に立ちはだかる。ハルは深呼吸をして、シャケに告げた。
「シャケ、ここだよ」
そして、ゆっくりと扉を開けた。その向こうに広がる光景に、ハルは息を呑んだ。
個室のベッドには、吉川澄子が静かに横たわっていた。その小さな体が、どこか弱々しく見える。肌は青白く、唇は乾いていた。
「澄子!」
シャケは澄子のベッドの上に飛び乗った。その小さな体で、澄子に寄り添うように。澄子の小さな手に自分の手を重ね、その体温を感じ取る。
「体温が低い……」
シャケの声には、悲しみが滲んでいた。澄子は苦しそうに、浅い呼吸を繰り返している。その息遣いは、か細い。
その時、辺りが突然暗くなり、部屋の電気が消えた。闇が、ハルたちを包み込む。
「さみしい……さみしい……」
どこからともなく、弱々しく、しかし怨念のこもった声が響く。
「残火か!?どこにいる!出てこい!」
ハルの声に呼応するように、空間が歪み、部屋全体が暗闇で覆われた。その闇は、底なし沼のようにハルたちを引きずり込もうとする。
「僕の出番だな!」
シャケが覚悟を決めたように声を上げる。
「待てシャケ!力を使うな!」
ハルは慌てて制止する。
「ここに来て何を言っている!」
シャケはハルの言葉を跳ね除けた。
「助けて……命が足りない……命が……」
暗闇の渦が、シャケとハルを捕縛しようと迫ってくる。
「お前らは私の邪魔をしに来たのか!」
残火の声が、怨嗟のように響いた。
「違う!残火!思い出せ!お前の名はなんだ!?」
ハルの問いかけに、残火は苦しそうに呻く。
「私の名だと……私の……ウアァァァァァァァァ!」
残火の叫びと共に、空間がさらに歪み、ハルたちの体が暗闇に引きずり込まれそうになる。体が、凍りつくように冷たくなっていく。
「おい!やばいぞ!このままだと二人とも飲まれる!」
シャケが焦りの声を上げた。その小さな体は、震えている。ハルは咄嗟に、千秋からもらった護符を握りしめる。その護符が、ハルの掌で温かく光った。
「光れ!」
護符から、まばゆい光が放たれた。暗闇を切り裂くように、その光は残火を直撃する。
「ギャァァァァアアアアアアア!」
残火の断末魔のような叫びが響いた。
「シャケ!残火は光に弱いんだ!」
ハルの声に、シャケが大きく反応した。
「なら僕も!」
シャケが捕縛から飛び出し、その小さな体から光を放ち始めた。部屋を包んでいた暗闇が、ゆっくりと引いていく。まるで、夜明けが訪れるかのように。
暗闇が晴れると、部屋の中央に、ぽつりと黒い泥にまみれた残火が怯えて立っていた。その姿は、痛々しいほどに弱々しい。
「さみしい……忘れないで……お願い……」
その声は、悲しみと、懇願に満ちていた。ハルはそっと残火に近づき、泥を落とそうと手を伸ばした。
「残火、大丈夫だよ」
残火から次から次へと湧いてくる泥を、ハルは必死に落とそうとする。
「何をしている」
シャケが訝しげに尋ねてきた。その瞳には、まだ警戒の色が残っている。
「知人が言ってたんだ。残火は元はどこかの神様だけど、信仰や人為的な問題で力が失われ、妖になった存在なんだ。だから、浄化させてあげれたら、元に戻るかもしれない」
「澄子を苦しめた奴を助けるのか」
シャケの言葉に、ハルは静かに答えた。
「残火を苦しめた者もいる。どこかで負の連鎖を断ち切る必要がある」
シャケはため息をついた。その様子は、どこか諦めを含んでいるようだった。
「こんなことに僕の力を使うつもりはなかったんだが」
そう言いながらも、シャケは残火に触れる。その小さな体から、優しい光が溢れ出した。
その光は、残火の泥を浄化していく。
「浄化」
シャケの言葉と共に、残火を覆っていた泥がゆっくりと消えていく。泥が完全に消え去ると、残火の目から大粒の涙がこぼれ落ちた。
「ごめんなさい……私は、大変なことをしてしまった……」
その声は、悲しみと、後悔に満ちていた。
「自分の名は思い出せましたか」
ハルの問いに、残火は顔を上げた。
「私は若瀬……秋目黒の山の神だ」
◇◇◇
秋目黒山の麓には、ゴミや廃棄物が辺り一面に散乱し、異臭が鼻をついた。かつては神聖だったはずの祠も、汚れて見る影もない。その光景は、人々の心の荒廃を物語っているかのようだった。
「すごい異臭だ」
ハルが思わず呟くと、若瀬が悲しげな声で語り始めた。
「最初はここに住んでいた妖と協力してごみを捨てる人間を脅かしたり、木々の浄化に力を使っていた。だが、ごみを捨てに来る人間は減らない。私の声は誰にも届かない。孤独な日々が続き、私は諦めてしまったんだ……そうしたら目の前が暗くなって……」
「残火になってしまったんだね」
ハルが続けると、シャケが静かに言った。
「声を出せずに心を閉ざした時、ほんとの孤独がやってくるんだ。忘れてたよ、僕にもそんなことがあった」
シャケの言葉に、ハルは胸が締め付けられる思いがした。孤独の痛みは、ハルも知っている。
「ここを掃除するには、僕と猫一匹じゃ足りないかな」
ハルが冗談めかして言うと、シャケは胸を張った。
「君。僕が誰か忘れたのかい。まだ力は残ってる」
若瀬は、ハルたちを交互に見つめ、涙ぐんだ。
「あなた達。本当にありがとう」
ハルはシャケに尋ねた。その決断は、シャケの命に関わることだ。
「シャケ、ここで力を使い切ってしまってもいいのかい?」
シャケはハルの目を見つめ、にやりと笑った。
「澄子にお別れくらいはさせてもらうさ。でもそうだな。お供え物は鮭で頼むよ」
シャケはそう言って、祠にそっと手を触れた。その小さな体から、まばゆい光が放たれ、山全体を包み込んでいく。穢れが浄化され、清らかな空気が満ちていった。
◇◇◇
病院の廊下を、澄子が必死に走っていた。その小さな体は、不安と焦りで震えている。
「シャケ!シャケ―!」
澄子の声が、廊下に響き渡る。
◇◇◇
病院の玄関前。夕焼けが空を赤く染める中、澄子は必死に辺りを見回していた。
「シャケ……」
その時、背後から聞き慣れた声がした。
「にゃあ」
澄子はハッと振り返る。そこにいたのは、間違いなくシャケだった。澄子の顔に、喜びの光が差す。
「シャケ!やっぱりシャケだった!お母さんがシャケはもう死んじゃったっていうの。でもさっき私を助けてくれたのはシャケだよね!?」
(澄子、僕の声が聞こえるかい?)
シャケの心の声が、澄子の心に直接響く。
「シャケ……なの?」
(ごめんね。僕はもう死んでいるんだ。だから、別れの挨拶をしに来たんだよ)
「何言ってるの?いや!だって、シャケいまここにいるのに」
澄子がシャケに歩み寄ろうとする。その足は、震えている。
(来ちゃだめだ)
シャケは、薄れ始めた尻尾を隠すように、後ずさりした。その小さな体は、光の粒となって、消えかかっている。少し離れた場所で、ハルは静かに二人の様子を見守っていた。
「シャケ、いなくなったらやだよ」
澄子の瞳から、大粒の涙がこぼれ落ちる。その涙は、止まらない。
(澄子、沢山撫でてくれてありがとう。沢山、美味しいもの食べさせてくれてありがとう。沢山、遊んでくれてありがとう。爪切りの時は、ひっかいちゃってごめんね。朝も夜も寝るときは澄子が一緒であったかかった。野良猫だった僕を拾って大切にしてくれてありがとう。沢山沢山、ありがとう)
シャケの声は、澄子の心に語りかけるように響いた。その言葉は、澄子の心を優しく包み込む。その小さな体、手も、徐々に薄れ始めていく。透明になっていくシャケの姿に、澄子は悲しみに打ちひしがれた。
澄子はボロボロと涙を流しながら、シャケの言葉を噛み締める。
「シャケ……ほんとに死んじゃったんだね……」
(うん。ごめんね)
シャケは、悲しみを湛えた瞳で澄子を見つめた。澄子を見るシャケの眼は、澄子への深い愛情に満ちている。
「ありがとう!ずっと忘れないよ。シャケ大好き!大好きだからね」
澄子の言葉に、シャケは精一杯の笑顔を返した。
(僕も。僕も澄子が大好き)
シャケの体が、光の粒となって、ゆっくりと空へと昇っていく。
澄子は、その場で泣き崩れた。小さな肩が、ひっくひっくと震えている。
ハルは、澄子に近づき、目線を合わせて優しく語りかけた。
「シャケは幸せ者だね」
澄子は涙でぐしゃぐしゃになった顔を上げて、ハルを見つめた。
「お兄さん誰?お兄さんがシャケを連れてきてくれたの?」
「僕は……シャケのお友達かな?」
「そうなんだ。ねぇ、シャケはどこにいっちゃったの?もう会えないのかな」
ハルの言葉に、澄子の瞳が揺れる。その問いに、ハルは優しく答えた。
「会えるよ。君が思い出す限り何度でも。亡くなった者たちは、きっと誰かのありがとうの中で生き続けるんだ」
ハルの言葉が、澄子の心にじんわりと染み渡る。
「うんっ!」
澄子は力強く頷いた。
「じゃあ、僕もそろそろ帰らないと」
ハルはそっと立ち上がった。名残惜しそうにハルを見上げる澄子。
「お兄さん、シャケに会わせてくれてありがとう!」
澄子の素直な感謝の言葉に、ハルは振り向く。その顔には、温かい笑みが浮かんでいた。
「そうだ。もしよかったらだけど……シャケに、お供え物をするとしたら、鮭でお願い」
ハルは、いたずらっぽく、そしてシャケが乗り移ったかのようにニッと笑ってみせた。
澄子は目を丸くしてから、ふわりと笑顔になった。
◇◇◇
夜闇に包まれた友江旅館の灯りが、温かく輝いていた。
千秋と早菜が、紅葉の部屋に駆け込む。
「ハル!」
「どうだった!?本になるのか!?」
二人の期待に満ちた声に、ハルは苦笑した。
「そんな簡単には本にならないよ。というか……」
「えーっ!?」
「出版社行ってないってまじかよ!?」
千秋と早菜が、同時に声を上げた。その声は、部屋中に響き渡る。
「色々あって……」
ハルは曖昧に答える。千秋が、ふと何かを思い出したように言った。
「そういや今日残火がどうとか電話してきたな……まさか、ハル……」
「電話!?そんな話聞いてないけど」
早菜が千秋に詰め寄る。二人が自分の心配してくれている姿を見て、ハルは静かに目を細めた。その光景は、ハルにとってかけがえのないものだ。
(いまこの瞬間が宝物になる日がきっと来る。この幸せとありがとうの中で、僕は生き続ける)
夜空を見上げると、月が優しくハルたちを照らしていた。