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第十話「本心~雪消~」


 冬の柔らかな日差しが、3年D組の教室に斜めに差し込んでいた。午後の授業が終わり、ぼんやりと窓の外を眺めていた千秋の耳に、軽やかな足音が近づく。そのまま机の横に立つ気配に、顔を上げるまでもなく早菜だと分かった。


「よっ」


 いつもの快活な声が響く。

 千秋は肘をついたまま、早菜の顔を見上げた。


「おう!どうした?」


 早菜は少しだけ頬を染め、いたずらっぽく目を輝かせた。


「今日の放課後ね、調理室借りてみんなでバレンタインチョコ作るの。いる!?」


 千秋は一瞬、きょとんとした表情を浮かべ、すぐにニヤリと笑った。


「バレンタインチョコって、何らしくないことしようとしてんだよ」


 早菜は、途端にムッとした顔になる。拗ねたように唇を尖らせ、プイと顔を背けた。


「わかった。じゃあ、いらないんだ!」


 踵を返して立ち去ろうとする早菜の背中に、千秋は慌てて声をかける。


「おい、待てよ!いる!いります!」


 早菜は大きくため息をついた。その表情には、呆れと、隠しきれない笑みが浮かんでいる。


「もう、素直じゃないんだから。じゃあ、作ってあげる。千秋は義理チョコだけどね」

「ああ。義理でもいい!くれ!」


 千秋の前のめりな返事に、早菜はくすりと笑みをこぼした。


「ふふっ。じゃあ、明日、楽しみにしてて」


 早菜の言葉が、千秋の心をじんわりと温める。たったそれだけのことが、こんなにも嬉しいなんて。


◇◇◇


 放課後の調理室は、甘いチョコレートの香りと、女子生徒たちの楽しげな声で満ちていた。それぞれのテーブルで、思い思いにチョコをデコレーションしていく。早菜もまた、集中した面持ちで作業に没頭していた。


「ちーあーきーの、ばーかっと。よし!出来たー!」


 チョコペンで文字を書き終えると、満足げに小さな声で呟いた。

 隣で作業をしていた友子が、早菜の作ったチョコをちらりと見て、悪戯っぽく尋ねた。


「早菜ってさ、雀部くんのこと好きなんだと思ってた」


 友子の言葉に、早菜は固まった。顔がカッと熱くなり、視線は宙を彷徨う。


「え!?いや、それは、その……」


 必死に取り繕おうとする早菜を、友子は面白そうに見つめる。


「でも、デコってるとこ見ると、なんか春夏冬くんの方が楽しそう」

「そ、そんなことないよ」


 早菜は否定するが、声は上ずっていた。心臓の音が、やけに大きく聞こえる。


「告るの?どっちかに」


 友子の直球な問いに、早菜は唇を固く結んだ。言葉が、出てこない。


「それは……」


◇◇◇


 翌朝。凛とした冬の空気が肌を刺す中、千秋と早菜は並んで通学路を歩いていた。吐く息が白く、空に溶けていく。


「朝一でチョコ貰いに来るなんて、ほんと呆れた」


 早菜は呆れ顔で呟いたが、その声にはどこか楽しさが滲んでいる。


「いいだろ、好きな奴のチョコなんだからそれくらいしても」


 千秋は臆することなく言い返す。その言葉に、早菜は小さく笑みをこぼした。


「そんな千秋にお似合いの言葉、チョコに書いといたから」

「まじか!手作り!楽しみだぜ」


 千秋はニヤニヤと笑い、期待に胸を膨らませる。


 その時、千秋はふと、旅館の二階の窓に視線を感じた。

 見上げると、ハルがこちらを見ている。千秋は手を振って声をかけた。


「おーい」


 千秋の視線に気づいた早菜も窓を見上げ、ハルと目が合った瞬間、驚きに目を見開いた。


「え!?ハル、まさか今日学校来ないの!?」


 窓越しに、ハルが申し訳なさそうに答える。


「ごめん、今日行けない」

「そ、そんなぁ……」


 早菜の落胆した様子に、千秋は大きな声でハルに呼びかけた。


「おい!ハル!放課後寄るから、空けとけよ!じゃあな!」


 早菜は千秋の言葉に首を傾げた。


「放課後、何か用事あるの?」


 千秋は、当然のように答える。


「ん?チョコ渡すんだろ、ハルに」


 早菜は、言葉に詰まった。胸の奥が、ずきりと痛む。


「う……うん……」


◇◇◇


 午後の授業中も、早菜の心は落ち着かなかった。時間ばかりが気になって、教科書に集中できない。そっと鞄に手を伸ばし、中に入っているチョコをちらりと確認する。手のひらに感じる小さな箱の重みが、ずしりと心に響いた。


◇◇◇


 夕暮れが迫り、空が薄い茜色に染まり始めた頃。友江旅館の前に、千秋と早菜が向かい合って立っていた。冷たい風が、二人の間を通り過ぎていく。


「ここにいるから」


 千秋の言葉に、早菜は不安げな表情で千秋を見上げた。


「いいの?自分で言うけど、千秋、私のこと好きなんじゃ」

「すげー好きだよ。でもそれとこれは別だし」


 千秋は、早菜の言葉を真正面から受け止める。


「ありがと……じゃあ、待ってて」


 早菜は、意を決したように呟いた。声が、少しだけ震えている。


「おう!待ってる」


 その時、遠い日の声が、早菜の脳裏に蘇る。


「待ってる」


 早菜はハッと顔を上げ、周囲を見渡した。


「え?」


 千秋は早菜の様子を見て、からかうように言った。


「どうした?びびってんじゃねーぞ」

「わ、わかってる」


 早菜は自分に言い聞かせるように呟き、旅館の敷地へと足を踏み入れた。その足取りは、ひどく重かった。


◇◇◇


 旅館の中庭は、冬枯れの木々が静かに佇んでいた。夕闇が迫り、薄暗くなり始めた中庭の奥に、早菜はハルの姿を見つける。深呼吸をして身なりを整え、鞄の中に入っているチョコをもう一度確認した。ハルは、一本の木に止まったルリビタキをじっと見つめている。


「学校サボって何してるかと思えば、野鳥観察?」


 早菜の問いに、ハルはゆっくりと振り返った。


「ルリビタキだよ」

「ルリビタキ?」


 聞き慣れない名前に、早菜は首を傾げる。


「幸せを運ぶ青い鳥。千秋と早菜が幸せになれますようにと思って」


 ハルの言葉に、早菜の胸にちくりと痛みが走る。まるで、針で刺されたかのように。


「ハルは?」

「僕はいいよ」


 ハルは穏やかに微笑んだ。その笑顔に、早菜は胸の奥が締め付けられるような感覚を覚える。


「じゃあ、私がハルの幸せを願う」


 早菜は、精一杯の気持ちを込めて言った。ハルは、ニコッと微笑んだ。その笑顔は、ひどく優しかった。早菜は意を決して、ハルに語りかけようとチョコに手をかける。


「ハル、私今日ね――」


 その言葉を遮るように、ハルが口を開いた。


「昔、バレンタインデーに学校に行ったら、学校中の女の子からチョコを貰ったんだ。全部食べようとしたけど、途中で気持ち悪くなってしまって、それからチョコは苦手で」


 ハルの言葉に、早菜の手がぴたりと止まる。持っていたチョコが、鉛のように重く感じられた。


「え……」


 ハルは早菜の視線を受け止めた。


「今日、サボった理由」


 早菜はなんとか言葉を絞り出す。


「そ、そっか!モテる男は大変だなぁ」


 早菜は鞄からそっと手を引っ込めた。胸の奥が、きゅう、と締め付けられる。


「好きな人に好かれなきゃ意味ないよ」


 ハルの言葉に、早菜の心臓が大きく跳ねる。


「ハル、好きな人いるの?」

「片想いだけどね」

「そ、そう……なんだ……」

「早菜は千秋にチョコ渡した?」


 ハルの問いに、早菜は曖昧に頷く。


「あ、うん。義理だけど」

「そんなこと言ったら可哀想だよ」


 ハルの優しい声に、早菜は顔を逸らした。

 ハルは、早菜の視線を真っ直ぐに捉えた。


「早菜、思い出して。早菜が待ってる人は僕じゃない」


 ハルの言葉に、早菜の心は大きく揺さぶられた。脳裏に、遠い日の記憶がフラッシュバックする。


「なに……言ってるの?」


 ハルは早菜に向き合い、その瞳を真っ直ぐに見つめた。


「僕は早菜に興味がない」


 その言葉は、早菜の心臓を鷲掴みにするかのようだった。呼吸が、苦しい。


「まだ……まだ何も言ってないのに!」


 早菜は叫ぶように声を上げ、その場から駆け出した。振り返らずに、ただ、ひたすらに。


◇◇◇


 旅館から飛び出してきた早菜の目には、大粒の涙が浮かんでいた。視界が滲む。

 千秋は、そんな早菜の様子を見て、ぎゅっと拳を握りしめる。


「冗談じゃねぇ……あいつぶん殴ってくる」


 千秋が怒りに震え、ハルが向かった中庭の方へ足を踏み出そうとする。だが、早菜は必死に千秋を制止した。


「待って!いいの!いいから!」


 早菜の腕を掴む千秋の手に、力がこもる。千秋は早菜の顔を覗き込んだ。


「早菜……泣きたかったら、泣けよ」


 千秋の優しい言葉が、早菜の心を揺さぶる。だが、早菜は必死に涙を堪えた。唇を噛み締め、首を横に振る。


「泣かない。だって、今千秋の前で泣いたら、私ずるい女になる」


 千秋は小さく息を吐いた。


「今更なにいってんだよ」


「ごめん……」


 早菜は消え入りそうな声で呟いた。


「まあ、何百回振られてる俺に比べたらマシだろうよ、そんなへこむな」


 千秋はいつもの調子で、早菜を励ます。その言葉の奥には、変わらない優しさが宿っていた。


「うん……」


 早菜は小さく頷いた。千秋は、空を見上げた。


「俺ずっと考えてたんだけど。前世で好きだった奴を生まれ変わっても好きでいる必要ねぇよなって」


 千秋の突拍子もない言葉に、早菜は目を丸くした。


「何の話?」

「だから、早菜も今好きな奴を全力で追いかけろよって話。応援すっから!」


 千秋はニシシッと、悪戯っぽく笑った。その笑顔は、冬の冷たい空気に、温かい光を灯す。


「千秋がいてくれてよかった」

「当たり前だろ!俺がいる限り、早菜の隣には俺がいる!」


 千秋の言葉に、早菜は思わず吹き出した。


「何それ。ふふっ」


 冬の柔らかな日差しの中、早菜と千秋の笑い声が響き渡った。


◇◇◇


 3年A組、放課後。チャイムが鳴り響く中、早菜はハルの席へと向かった。


「ハル!一緒に帰ろう」


 ハルは早菜の言葉に、穏やかに頷いた。その表情は、どこか吹っ切れたようにも見える。


「うん」


◇◇◇


 並んで歩くハルと早菜。卒業を間近に控え、いつもの帰り道も、どこか寂しげだった。


「千秋はどうしたの?」


 ハルの問いに、早菜は小さく息を吐いた。


「ああ。今日は学校休みなの。一家を上げての妖退治だとかで」


 その時、頭上でカラスが何羽も鳴きながら空を飛んでいく。黒い影が、夕焼けの空に不気味な模様を描く。


「ん?なんかカラスが騒がしいね」


 ハルは空をじっと見つめる。すると、空から一羽のカラスが、ハルの腕に降り立った。ハルは、カラスの足に結び付けられた小さな文を見た途端、顔色を変えた。その瞳に、焦燥の色が浮かぶ。カラスを放ち、ハルは突然、走り出した。


「え!?どうしたの!?」


 早菜の問いに、ハルは振り返りもせずに叫んだ。


「早菜は来ちゃだめだ!」

「来ちゃだめって、もしかして千秋に何かあったの!?」


 早菜はハルの後を追って、道路際の林の中へと足を踏み入れる。雪の上に、鮮血が点々と付いているのを見つけた。赤い色が、白い雪の上で異様に際立っている。


「多分、千秋の血だ……」


 ハルの声は、震えていた。早菜は血の量に目を見張る。胸の奥に、言いようのない不安が広がった。


「すごい出血量!急がないと!」


 早菜は、血痕を追い、ついに千秋の姿を見つける。千秋は、苦しそうにうずくまっていた。顔は青ざめ、息も荒い。


「千秋!」


 早菜の叫びに、千秋は辛そうに顔を上げた。


「うっ……なんでお前らがここに」

「カラスが教えてくれたんだ……とりあえず移動しよう。歩けるかい?」


 ハルは千秋に肩を貸す。その背中を見つめる早菜の脳裏に、一つの疑問が浮かび上がった。


(確か前もこんなことがあった……私、何か忘れてる……?)


◇◇◇


 千秋の部屋の前で、ハルと早菜は主治医の診察が終わるのを待っていた。重い沈黙が、廊下に漂う。早菜は不安げに、右手で左肘をぎゅっと掴んでいる。主治医が部屋から出てきて、二人に会釈すると、そのまま足早に立ち去った。早菜はいてもたってもいられず、急いで部屋の中に入る。


「千秋!」


 千秋はベッドに座り、胸部を包帯で巻いていた。まだ顔色は青いが、先ほどよりは落ち着いている。


「おう、心配かけたな」


 ハルが千秋に近づき、心配そうに声をかける。


「大丈夫?」

「出血はすごかったが、傷が深いわけじゃなかった。運が良かったってよ」


 千秋はぶっきらぼうに答える。早菜は、千秋の上半身を見て、その腹部に刻まれた、痛々しい傷に気づいた。


「千秋、その傷……」


 千秋は慌てて上着を着る。まるで、傷を隠すかのように。


「なんでもねぇよ」


 その瞬間、早菜の目から、大粒の涙がとめどなく溢れ落ちた。止めようとしても、止まらない。

 ハルが早菜の様子を心配そうにのぞき込む。


「早菜、どうしたの?」


 早菜は涙を拭い、無理に笑顔を作る。その笑顔は、ひどく歪んでいた。


「あれ、なんだろ……安心したのかな?へへっ」

「大丈夫だから。すまなかった」


 千秋は早菜に謝る。だが、早菜は首を横に振った。


「もうやめてほしい……こんな仕事……いつ命落とすか分からないじゃない」

「ヘマしなきゃ大体は大丈夫だからよ」


 千秋の言葉に、早菜は激しく反論した。声が、震えている。


「ヘマ……?そのヘマ一つで、お腹に風穴空くなんて耐えられないよ!」


 早菜はそう言い放ち、部屋を飛び出した。その背中は、怒りと悲しみで震えているようだった。


「あ、おい!いってぇ……」


 千秋は痛みで動きを止める。

 ハルは、そんな千秋に一瞥をくれ、早菜の後を追った。


「僕が行くよ」


◇◇◇


 冷たい風が吹きつける中、早菜を追いかけるハル。白い息が、冷たい空気の中に溶けていく。


「早菜、待って」


 ハルは早菜の腕を掴もうとするが、早菜はそれを振り払った。その瞳には、大粒の涙が浮かんでいる。


「ハル……知ってたんでしょ……」


 早菜の問いに、ハルは静かに頷いた。


「うん……」


 早菜は、堰を切ったように言葉を続ける。


「ごめん。ハル……ハルに興味がないって言われて、じゃあ何で花火の時、手を握り返したの?私に優しくするの?何でって思って、すごくショックだった」


 ハルの瞳には、悲しみが滲んでいた。


「うん……」

「酷いことしてたの、私の方だった。私の心の奥にいたのはハルじゃなかった」


 早菜は、自らを責めるように呟いた。ハルは、早菜の言葉を静かに受け止める。その瞳は、すべてを理解しているかのようだった。


「うん、そうだね……」

「私は千秋が好き、大好き」


 早菜の言葉に、ハルの顔に優しい笑みが浮かんだ。その笑顔は、どこか晴れやかで、清々しい。


「それ、千秋に言ってあげて」

「うん……うん……!」


早菜は大きく、そして何度も頷く。その瞳は、もう迷いを抱えていなかった。


◇◇◇


 黒板には大きく「卒業式」と書かれている。冬の終わりを告げるような、清々しい春の気配が、窓から差し込む光の中に感じられた。

 校庭のベンチに座る早菜の元へ、千秋がやって来た。


「おい、こんなとこに呼び出してどうしたんだよ」


 千秋は首を傾げる。早菜は、楽しそうに笑った。


「花見よ、花見。当分帰れなさそうだから」

「どういう意味だ?」


 早菜はくすくすと笑う。


「ふふっ。今ね、ハルに告白する女子生徒が行列作ってるの。ありゃ時間かかるだろうなぁ」


 千秋は、早菜の隣に腰を下ろした。


「あのなぁ。一応、俺も今日は忙しいんだぞ」


 早菜は千秋の頬に貼ってあるガーゼに気づいた。


「頬っぺた、どうしたの?」


 千秋は頬に貼られたガーゼに触れ、わずかに目を逸らした。


「ああ、昨日親父とちょっとな」


 その声には、どこか歯切れの悪さが滲んでいた。


「ねぇ、千秋……」


 早菜は千秋を見つめた。言葉にならない想いが、その沈黙の中で募っていく。そして、意を決したように、早菜は小さく唇を開いた。


「好き」


 春風が、二人の間を優しく吹き抜けた。

 千秋は一瞬、時間が止まったかのように固まった。そして、呆けたように目を瞬かせた。


「え?ごめん、もう一回言ってくれね?」


 早菜はムッとして、千秋を睨みつける。頬を膨らませるその仕草は、昔と少しも変わらない。


「はあ!?聞き逃したの!?最低!」

「ごめんて!次はちゃんと聞くから!」


 千秋は慌てて謝る。早菜は小さく息を吐いた。


「もう……仕方ないなぁ。言うよ……」

「おう」


 千秋は真剣な表情で、早菜の言葉を待つ。早菜は耳に髪をかけ、膝の上で手を組んだ。


「私、千秋が好き」


 その言葉に、千秋は一瞬固まったあと、手で目を覆い、深く俯いた。震える肩。早菜はそんな千秋の様子を心配そうに見つめた。


「今さら好きって言われても困るでしょうけど、でも好きなものは好きなのよ。それにただ言いたかっただけだから」


 早菜の言葉に、千秋はゆっくりと顔を上げた。神妙な面持ちで、早菜の前に立つ。


「千秋……?」


 早菜が不安げに声をかけると、千秋は、その瞳を真っ直ぐに見つめた。


「早菜」


「なに……」


 千秋は、ゆっくりと早菜に手を差し出した。その掌は、しっかりと、力強い。


「家業継ぐの辞めた。もう早菜を泣かさない。だから、俺のお嫁さんになってください」


 早菜は目を丸くした。一瞬の沈黙。千秋の言葉の重みが、早菜の心を揺さぶる。そして、顔を赤くして、少しはにかみ、小さく頷いた。


「はい」


 早菜が千秋の手を、そっと握り返す。千秋は、早菜に満面の笑みを返した。

 その笑顔は、春の陽光よりも眩しく、早菜の心を温かく包み込んだ。


 その時、教室の窓からハルが顔を出す。


「おーい」


 ハルの声に気づいた早菜と千秋は、揃って窓を見上げた。

 ハルが、笑顔で二人に問いかける。


「どうだった?」


 早菜は千秋の方を見る。千秋は、大きく両手でマルを作った。完璧な、OKのサイン。

 ハルは、心からの笑顔で二人に告げる。


「おめでとう!」


 早菜はハルに呼びかけた。


「ハル!」

「なに?」

「三人で帰ろう」


 ハルは優しく微笑んだ。


「うん」

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