表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
1/12

第一話「運命~朝露~」

世の中にたえて桜のなかりせば、春の心はのどけからまし

──この世の中に、全く桜というものがなかったなら、春を過ごす人の心はどんなにのどかであることでしょう


 春の朝。

 山裾に抱かれるようにして、小高い丘の上に一軒の旅館が佇んでいた。木造二階建て、どっしりとした瓦屋根。築三百年の歴史を刻むその古き建物は、今も変わらず、時の流れに風情を添えながら旅人を迎え入れる風格を漂わせる。

 その名は――友江旅館。


 友江旅館の一室、「紅葉の部屋」では、陽光が差し込む文机の前に、青年が静かに座っている。流れるような銀の髪に、端正な顔立ち。和服をさらりと着こなし、その佇まいからは十八歳という歳に見合わぬ落ち着きと、物憂げな影が感じられる。彼の名は雀部(ささきべ)ハル。手にした分厚い書物から視線を上げると、机の上に置かれた弱々しいカラスが、かすかに震え、やがてぴくりとも動かなくなった。


「逝ってしまったのかい?」


 ハルの声は、まるで朝露のように静かで、空間に溶け込むようだった。彼は無言で帳面を開き、『カラス、二年』と書き記す。そして、亡骸となったカラスの上にそっと手をかざした。すると、掌から眩い光が放たれ、カラスの体が淡く輝く。次の瞬間、そのカラスはぴくりと動き出し、生き返ったかのように羽ばたいた。ハルはカラスを手のひらに乗せ、窓辺へと向かう。


 窓の下、旅館前の坂道を、二人の学生が談笑しながら登校していく姿が見えた。一人は如月早菜(きさらぎはやな)、もう一人は春夏冬千秋(あきなしちあき)。二人は仲睦まじく、楽しげな声がここまで届きそうだ。千秋がふとハルの存在に気づき、軽く手を上げる。


「ん? なに、知り合い?」


 早菜が不思議そうに首を傾げると、千秋は曖昧に答える。


「ちょっと、仕事の……」

「え!? じゃあ、もしかして今の……妖!?」


 早菜の声が弾んだ。千秋は肩をすくめて「さあな」と嘯く。


「やだ、ちゃんと見ればよかった!」


 悔しそうに声を上げる早菜の目の前に、突如、お面をつけた人型の式神・双影が現れる。


「千秋様、今日の仕事についてですが」


 双影が現れるや否や、早菜は目をキラキラさせ、双影を見つめる。双影もそれに気づき、早菜に向かって丁寧にお辞儀をする。


「双影と申します」

「そ、双影さん……」


 興奮気味の早菜に対し、千秋は双影を睨む。


「おい、双影。早菜といる時は出てくんなって言っただろ」

「ですが、今日の妖の詳細を早めに」

「仕事のことはあとでいい。いけ」

「はっ」


 双影は、あっという間にその姿を消した。


「あー! いっちゃった……」


 早菜はしゅんと肩を落とす。


「……そんな落ち込むなよ」


 千秋は、やれやれとため息をついた。


「だって、折角式神に会えたのに。仕事の詳細って妖退治でしょ。聞かなくてよかったの?」

「いいんだよ。どうせ雑魚だ、雑魚」


 二人の声は、坂道を下るにつれて遠ざかっていく。


 窓辺のハルは、手のひらのカラスに優しく語りかけた。


「春だね」


 カラスは黒い羽を広げ、大空へと飛び立っていった。


◇◇◇


 友江旅館の玄関では、女将と仲居たちが一列に並んで客を待っていた。すらりと背の高い前田、小柄で豆狸のような佐藤、目の大きな土井、四頭身で寸胴な栄江(さかえ)、そして、緊張でガチガチになっている新人の新井。彼女らが一斉に声を張り上げる。


「お疲れ様でございました」


 スーツ姿で帽子を深く被り、小太りの男、下戸(げこ)が挨拶を返した。


「まだ五月なのに今日は暑いですね。キンキンに冷えた部屋に早く行きたい」


 女将はにこやかに答える。


「勿論、ご要望通りご用意しております。新井さん、椿の部屋にご案内を」

「はい! あの、お荷物お運びひます」


 新井は緊張で言葉を噛んだ。下戸は気にする様子もなく、優しく笑いながら鞄を新井に手渡す。


「ハハッ! ありがとう」

「すみません、実は下戸様が初めてのお客様でして」


 女将が恐縮すると、下戸はさらに優しく微笑む。


「そうですか。よろしくお願いしますね」

「は、はい! では、こちらです」


 新井は下戸を案内し、奥へと進んでいく。その背中を見送りながら、残った仲居たちはひそひそと囁き始めた。


「悲鳴を上げるにタバコ二本」


 前田がニヤリと笑う。


「私は悲鳴を上げて部屋から飛び出すにタバコ二本」


 佐藤がそれに続く。


「甘いね。部屋から飛び出した後、私達の所にやってきて更に悲鳴を上げるにタバコ三本」


 土井が自信満々に言うと、栄江が呆れたように首を振る。


「やだやだ。分かってないねぇ。私達の所に来て悲鳴を上げ、そのまま外に飛び出すにタバコ十本だ」


 仲居たちの顔には、いたずらっぽい笑みが浮かんでいた。


◇◇◇


 「段差がございますので、お気をつけください。それでは、お疲れ様でございました……」


 新井は、客である下戸を気遣い、畳に足を下ろしながら丁寧に言葉を紡いだ。しつらえられた部屋の入り口でそっと靴を脱ぎ、客の様子を窺う。そして、部屋の襖を静かに開けたその瞬間、もわっとした重い熱気が、まるで生き物のように彼女の顔を包み込んだ。肌にまとわりつくような不快な温かさに、新井は思わず息を呑む。


「……っ!」


 本来ならば、ひんやりと心地よいはずの部屋が、まるで真夏の蒸し風呂のようだ。新井は瞬時に顔色を変え、慌てて室内の隅に設置された室温操作盤へと駆け寄った。表示された温度計は、ありえないほどの高さを指し示している。


「え!? 申し訳ございません! だ、暖房!? うそ、冷房にしたはずなのに」


 下戸が手に持っていた上着を床に落とす。新井はさらに狼狽した。


「お、お客様! 申し訳ございません! 何かの手違いで! 今すぐ冷房に切り替えますので……」


 新井は震える声で謝罪しながら、必死に室温操作機を操作した。しかし、彼女の焦りをよそに、下戸の身に異様な変化が起こり始める。まず、彼のスーツの袖口から、ドロリとしたものが滲み出したかと思うと、それは瞬く間に広がり、肌を侵食するように体全体を覆う。まるで蝋が熱で溶けるように、下戸の輪郭が曖昧になり、やがて粘液のようなものが全身を包み込み、ずるりとその形を変えていく。


「ひえっ!? お、お客様どうされましたか!?」


 新井の悲鳴を聞く間もなく、下戸の体は完全に溶け、床は粘液で覆われた。


「え!? き、消えた!?」


 新井が目を白黒させていると、床に広がる粘液の中から声が響いた。


「私ならここだ」


 ドロリとした粘液の中から、小さなカエルの姿が顔を出す。そのカエルは新井の顔目掛けて飛びかかった。


「キャーーーーーーーーッ!」


 新井はとっさに下戸を力一杯払い除ける。カエルとなった下戸は勢いよく壁にべったりと張りつき、やがてずるりと落ちた。新井はそれを再確認し、再度絶叫する。


「キャーーーーーーーーッ!」


 友江旅館の玄関では、仲居たちが不敵な笑みを浮かべていた。椿の部屋から凄まじい速さで新井が走ってくる。


「み、み、み、皆さん! お客様が! お客様が蛙に!」


 その言葉に、前田の首がにゅるり、と信じられないほど長く伸び、佐藤は愛嬌のある顔立ちはそのままに、ふっくらとした豆狸の妖へと姿を変え、土井は口元は裂け、鋭い牙が覗き、顔の中心に鈍い光を放つ大きな一つ目の妖へと姿を変えた。彼女らは新井の方を振り向く。


「キャーーーーーーーーッ!」


 新井は悲鳴を上げ、裸足のまま旅館から飛び出していった。


「ありゃもう戻ってこないね」


 前田が楽しげに言う。その時、慌てた様子の女将がやって来た。


「な、何事ですか!?」


 地を這うような悲鳴が響いた直後、旅館の奥から女将が血相を変えて飛び出してきた。彼女の顔には、ただならぬ事態への動揺と、わずかな怒りが浮かんでいる。しかし、異形の姿を晒していた前田、佐藤、土井の三人は、何食わぬ顔で元の仲居の姿に戻り、まるで何もなかったかのように澄ましている。

 そんな中、ただ一人、栄江だけが、かすかに口元を歪めて「ヒヒッ。あーやだやだ」と小さく笑った。


「皆さん、あまり人間をからかわないであげてください」


 柔らかな声が、騒がしかった玄関に静かに響き渡った。振り向くと、いつの間にかそこに立っていたのは、ハルだった。淡く輝くその銀髪は、彼が纏う和服の色と溶け合い、まるで絵から抜け出たかのような神秘的な美しさを醸し出している。眉目秀麗な顔には、微かに困ったような、しかし優しい笑みが浮かべられており、妖たちにもたじろぐことなく、静かに諭すようだった。


 土井は戸惑った表情で、反省の色を浮かべながら「お坊ちゃん」と声をかける。

 女将は心配そうにハルに尋ねた。


「ハル! 今日も学校には行かないの?」


 ハルは振り返ることなく、視線だけを女将に向けた。


「すずめに餌をやりに来ただけだから」


 ハルはそう告げると、迷うことなく通用口の方へと歩を進める。その背中は、この世の理から一歩引いた場所に立つ者のようだ。女将は、ただ立ち尽くし、ハルの後ろ姿を見送った。


◇◇◇


 昼休みのチャイムが、山北高校の校舎に鳴り響く。廊下は瞬く間にざわめきと活気に満たされ、友人たちの笑い声や、慌ただしい足音が響き渡る。


 そんな喧騒の中を、早菜はまるで光を放つかのように歩いていた。彼女が廊下を過ぎるたびに、それまで夢中で談笑していた生徒たちが、はっと息を呑んで振り向く。その視線の先に捉えられるのは、息を呑むほどに整った、別格の容姿端麗さ。柔らかな髪が歩みに合わせて揺れ、制服の着こなしさえも、どこか絵になる洗練を帯びている。


「如月さん……」


 誰もが口々に、しかし小声で、彼女の名前を囁いた。その声には、憧れと、わずかな畏敬の念が混じり合っている。早菜の存在は、まるで校舎全体を覆う透明な波紋のように広がり、瞬く間に生徒たちの意識を独占していた。早菜は、その注がれる視線にも気付いているのかいないのか、ただ真っ直ぐに、自身の目的地へと歩を進めていく。


 3年D組の扉が、何の躊躇いもなく開かれた。その先に現れた早菜は、まるで最初からそこにあるべき場所を知っていたかのように、澱みない足取りで教室の奥へと進む。その視線は、一切の迷いなく、ただ一人の人物――千秋の席へと吸い寄せられていく。


「千秋、結果が張り出されたって」

「ついに来たか! よし! 見にいこうぜ!」


 千秋は、待ちに待った瞬間が訪れたとばかりに、椅子を蹴るようにして勢いよく立ち上がった。その顔には、隠しきれない期待と高揚が満ちている。しかし、その隣で彼の言葉を聞いていた友人の木村は、深くため息をつくと、心底呆れたような表情で呟いた。


「お前らまた何か勝負してるのかよ」


 木村の声には、もはや慣れ切った諦めと、ほんの少しの呆れが混じり合っていた。まるで、彼らの日常に組み込まれた恒例行事のように、そのやり取りを見守っているかのようだった。


「おう! 今回は中間試験勝負だ」

「はぁ? そんなの、如月の勝ちだろ。如月は不動の二位の女だぞ」

「そうそう。必ず二位の女なんですよ」

「で、その二位の如月にお前が勝つだなんて」

「ちょっと! さっきから黙って聞いていれば、二位二位って! 今日、私が学年トップになるんだから!」


 早菜は頬を膨らませて抗議した。木村は驚きを隠せない。


「まさかお前ら今回の勝負って……」

「そう。今回はバーサス俺じゃなくて、不動の学年トップ雀部ハルと早菜、どっちが勝つかの勝負だ」

「はあ!?」


 千秋はニヤリと笑った。


「早菜が雀部ハルに負けたら、俺の願いを聞いてもらうんだよ」

「お前、卑怯だな……」


 木村の言葉に、千秋は胸を張る。


「俺はどんな手を使おうが早菜に勝つ! 999敗0勝。今日が念願の一勝目だ」

「悪いけどそれは無理。今回、自己採点したら、700満点中私は697点で、一問しかミスしてなかった」


 早菜は自信満々に言い放つ。千秋は思わず「まじかよ……」と呟いた。


「雀部ハルがどんな秀才か知らないけど、七科目全て満点を取るなんてあり得ない」

「そんなん、わかんねぇだろ!」

「ふっ。まあ、せいぜい遠吠えの準備でもしておくことね」


 早菜は鼻を鳴らし、勝ち誇ったように笑った。


◇◇◇


 学年成績の順位表が張り出された玄関ホール。そこには、青ざめた顔で立ち尽くす早菜と、喜びでキラキラと輝く千秋がいた。順位表には、はっきりとこう記されている。


一位 雀部ハル 700点

二位 如月早菜 697点


「よっしゃーーーーーーー!」


 千秋の雄叫びが、静まり返ったホールに響き渡る。


「あり得ない……」


 早菜は呆然と呟いた。


「早菜、約束は守ってもらうぜ」

「嫌! 絶対嫌!」

「約束だろ!? 俺の告白を聞いてもらう」

「こ、告白って」


 赤みを帯びる早菜の頬。しかし、千秋は構わず、早菜に手を差し出す。


「早菜、俺のお嫁さんになってください」


 その言葉に、ざわめいていた生徒たちが一瞬にして静まり返った。そして、間を置いて、冷やかしの声が一斉に上がる。早菜の顔はみるみるうちに真っ赤になる。


「ば、ばっかじゃないの!」

「俺は大真面目だ」


 千秋と早菜の視線が絡み合う。


「そもそも、他人の力で勝負に勝ってプロポーズってダサすぎ! 卑怯! 卑劣! 汚い! 最低! 臭い!」

「え!? く、くさ……」


 千秋は思わず自分の匂いを嗅いだ。


「この勝負はノーカン! 700点満点なんてズルよ! ズル!」


 早菜はそう言い捨てると、その場を立ち去ろうとした。千秋が慌てて彼女の手を掴む。


「おい、ちょっと待てよ」


 そう言いながら、千秋は立ち去ろうとする早菜の手を慌てて掴んだ。だが、早菜はその掴まれた手をそのまま起点とする。流れるような動作で合気道の技をかけられた千秋は、あっけなく体勢を崩し、宙を舞うようにして地面にひっくり返った。


「武闘家の娘の手に気安く触らないで」


 冷ややかな声が、仰向けに倒れた千秋の耳に届く。彼は腕で目を覆いながら、悔しげに唇を噛み締めた。


「くそ……」


 早菜は振り返ることもなく、その場を颯爽と去っていった。


◇◇◇


 終業を告げるチャイムが鳴り響くと、それまでの授業中の静寂が嘘のように、校舎は生徒たちの活気に包まれた。机と椅子の擦れる音、友人同士の弾んだ声、そして一斉に廊下へと流れ出す足音。瞬く間に混雑するその流れに逆らうように、千秋は目的の場所へと向かっていた。彼の足が、3年A組の教室の入口で止まる。開け放たれたドアの向こうを、探るように視線を巡らせた。


「おーい! 早菜ー!?」


 教室の中を見渡すが、早菜の姿は見当たらない。クラスの女子に声をかける。


「なあ、如月ってもう帰った?」

「あっ、うん……なんかバイトの面接あるって言ってた……」


 女子生徒は頬を赤らめながら答えた。


「なんだそれ、聞いてねーよ。サンキューな」


 千秋は、少し不満げにそう呟くと、そのままくるりと踵を返し、その場を立ち去っていく。教室の後方では、その一部始終を何気なく見ていた男子生徒たちが、すぐに顔を寄せ合い、ひそひそと囁き始めた。


「何気に春夏冬も女子に人気あるよな」

「でも普段一緒にいるのが、あの如月さんだからな。春夏冬でさえ、ちょっと見劣りするよ」

「如月さんに見合う男ってどんなだよ」

「雀部ハルとか」

「え!? お前、雀部見たことあんの!?」

「実は前にテスト中、腹壊して保健室行ったことあんだけど、そこで雀部とテスト受けたことあんだわ」

「はぁ!? まじ!?」

「雀部って保健室登校だったんだ。どっか悪いのか?」

「あれはきっと悪いんじゃなくて良すぎるんだよ」

「は?」

「男が惚れるレベルの美形だった」

「まじかよ。特別扱い受けてる上にイケメンとか、何か呪いかけたくなるわ」

「お前イケメンに厳しいよな」

「みっともないからやめろよ」

「なっ!?」


 図星を指された男子生徒は、思わず声を荒げた。しかし、その反論は、クラスメイトたちの呆れたような視線と、どこか冷めた空気にかき消される。そして、間もなく放課後の喧騒が再び廊下を覆い始めると、彼らのひそひそ話もまた、次第に周囲の音の中に溶け込んでいくのだった。


◇◇◇


 友江旅館の事務室で、女将と早菜が向かい合って座っていた。面接の最中だ。


「じゃあ、志望理由を聞かせてもらえるかしら」


 女将の問いに、早菜は大きく頷いた。


「はい! 妖に会いたいからです!」

「え!?」


 女将は驚きに目を見開く。


「この旅館、妖が出るという噂なんです! 会いたいなって……思ってるんですけど……」


 早菜は少しだけ下を向いた。女将もまた、下を向いている。


「あの……女将さん?」


 しばらくの沈黙の後、女将は震えるような小声で呟いた。


「合格……」

「え?」

「合格よ! よく来てくれたわね」

「ほ、本当ですか!?」


 女将の表情は、驚きと喜びでいっぱいのようだ。


「いつからシフト入れるかしら?」

「いつでも! 今日からでも大丈夫です!」

「元気な子は大歓迎よ。それじゃ、早速仕事お願いしようかしら」


 女将の言葉に、早菜の表情は、期待に弾む心の高揚をそのまま映し出し、みるみるうちに輝きを増した。


 友江旅館の休憩室では、前田、佐藤、土井、栄江が待機していた。そこへ女将が早菜を連れてやって来る。


「今日から入った如月早菜さんです。皆さん、くれぐれも……くーれーぐーれも、よろしくお願いしますね」


 女将は念を押すように言った。早菜は元気よく挨拶する。


「如月早菜です! 未熟な点もあるかと思いますが、よろしくお願いします!」


 その時、女将のピッチが鳴った。


「はい、はい、わかりました。鈴蘭の部屋のお客様が到着されたそうです」


 女将の言葉に、仲居たちは一斉に目を背ける。すると、早菜が勢いよく手を挙げた。


「あの、お客様のご案内、私行ってもいいですか!?」

「え? でもまだ一度しか説明してないし」

「業務は全て覚えました! お願いします!」


 早菜の熱意に、女将は目を丸くする。


「じゃあ……お願い出来るかしら」

「はい!」


 早菜は、満面の笑みで、迷いなく返事をした。その瞳には、これから始まる仕事への期待と、妖との出会いへの高揚がキラキラと宿っている。彼女のその言葉と、純粋なまでのやる気に満ちた表情を見た仲居たちは、互いに顔を見合わせると、口元を隠すようにしてニヤニヤと笑い始めた。


「あのやる気で、今度はどこまですっ飛んで行くのかね」


 土井が煙を吐きながら言う。


「鈴蘭の部屋の客って確か……」


 前田が言葉を選ぶように呟くと、佐藤が嬉しそうに続ける。


「私の親戚だよ、見慣れない人間の娘がついたら脅かすように言ってある」

「ハッハッ! そりゃ、今年一の悲鳴が聞こえそうだね」


 土井が愉快そうに笑う。


「ちょっと、みんな悲鳴上げると思ってんなら賭けにならないじゃない」


 前田が不満そうに言うと、佐藤が栄江に尋ねた。


「栄江さんは? 今回の娘、どう見る?」

「あーやだやだ。まだまださね。あの娘はやる子だよ」


 栄江はニヤリと笑う。


「ふぅん?」

「悲鳴はあげる。だが、黄色い悲鳴さね。タバコ一箱」


 栄江の言葉に、土井はタバコを三本机に置く。


「栄江さん、取り消すなら今のうちだよ」


 前田もまた、タバコを三本机に置いた。


「栄江さんは一度言ったことは変えないよ」


 佐藤は勝ち誇ったように言う。


「私の親戚をなめてもらっちゃ困るよ。目ん玉飛び出してやって来るさ」


 佐藤もタバコを三本机に置いた。彼女らは、これから起こるであろう事態を心待ちにしているようだった。


◇◇◇


「お客様、お上着お預かりしましょうか?」


 早菜は、客である三谷を一歩リードするように、弾む足取りで鈴蘭の部屋へと案内し、入っていった。彼女の顔には、ひょっとしたら妖に会えるかもしれないという秘めたる興奮が浮かんでいる。畳に足を踏み入れると、背後から不穏な空気を感じ取り、振り返って三谷に優しく尋ねた。


「お客様?」


 早菜が尋ねるが、三谷は部屋の隅でブツブツと何かを呟いている。早菜がもう一度声をかけると、三谷はゆっくりと振り返る。そこには、三つの目と長い舌を出した妖の姿があった。


「みぃ〜たぁ〜なぁ〜!」


 三谷の妖しい姿に、早菜は一瞬、息を呑んだ。しかし、次の瞬間、彼女の口から出たのは驚くべき言葉だった。


「ヒャ……ヒャ〜〜〜〜! かわい〜!」


 早菜は、喜びの悲鳴を上げた。三谷は呆然とした顔で、もう一度振り返る。


「あ……あれ……みぃたぁなぁ……」


 早谷は三谷の姿をまじまじと見つめる。


「三つ目人間!? 写真撮ってもいいですか!?」


 三谷は困惑したように呟く。


「あれ……何故驚かん……」


 早菜は、キラキラした目で三谷の手を握った。


「ずっとお会いしたく思ってました」


 そう言って、三谷と一緒に写真を撮り、上機嫌で部屋を出ていく早菜。


(ほんとに妖に会えちゃった! 千秋に自慢しなきゃ)


 早菜は満面の笑顔で休憩室へと向かった。


 休憩室のドアから顔を出した土井は、早菜が来たのを確認すると、急いで顔を引っ込めた。


「来たよ!」


 早菜が休憩室に入ってくる。


「お疲れ様です〜」

「は〜い」


 土井、前田、佐藤は、それぞれ妖の姿となって早菜の方を振り返った。


「えーーーーーー!? 皆さんも妖だったんですか!?」


 早菜の言葉に、土井、前田、佐藤は目を丸くした。


「ヒヒッ! じゃあ、これは頂くよ」


 栄江はそう言って、机の上に置かれたタバコを回収する。


「こりゃたまげた。お前さん、怖くはないのか?」


 佐藤が驚いたように尋ねると、早菜は笑顔で答えた。


「全く! 友人が退治屋やってて、妖には良い妖と悪い妖がいると聞いてます。皆さんは良い妖でしょう?」


 その言葉に、前田、佐藤、土井は笑い出し、前田が早菜に話しかける。


「人の子にしちゃ骨のある子が来たようだね。名前、なんだっけ?」

「如月早菜です!」

「早菜、指導は厳しくやるからね。よろしく頼むよ」

「はい! お願いします!」


 早菜は、一切の迷いなく、朗らかな声でそう答えた。


◇◇◇


 夜。仕事を終えた早菜は、更衣室に向かう途中、中庭に人影を見つけた。そっと中庭に入ると、桜を見上げていたハルに声をかける。


「お客様、お風邪を召されるといけませんので……」


 その声に誘われるように、ハルがゆっくりと早菜の方を振り返った。降り注ぐ月の光が、彼の銀糸のような髪と、精緻に彫り上げられたかのような顔立ちを、闇の中に白く浮かび上がらせる。その瞬間、世界のすべてが音をなくし、まるで時が止まったかのように、二人の視線が絡み合った。


「あ……やかし……?」


 早菜の唇から、意識とは無関係に、小さな吐息のような言葉が零れ落ちる。ハルは首を傾げた。ハッと口元に手をやる早菜。


「も、申し訳ございません! あの、お風邪を召されたら大変です、何か羽織る物を」


 早菜が踵を返そうとすると、ハルがその手を取って握った。


「待って」


 早菜は耳を赤くし、握られた手を見ておどおどする。ハルの声は、夜の帳に溶け込むように静かだった。


「半分、正解」

「半分?」

「妖? って言ったでしょ。半分正解」

「じゃあ……半妖……?」


 ハルは切なそうに笑った。その笑顔には、どこか寂しさが滲んでいるようだった。


「うちの従業員と仲良くしてくれてありがとう、如月早菜さん」

「うちの……従業員……え! す、すみません……女将さんにご子息がいたとは聞いてなくて」

「……気にしないで」


 気まずい沈黙が流れる。早菜は努めて明るく声をかけた。


「夜桜を鑑賞されてたのですか?」


 ハルは早菜の手を放し、再び桜を見上げた。そして、静かに口を開く。


「世の中にたえて桜のなかりせば、春の心はのどけからまし」

「在原業平?」


 早菜の言葉に、ハルは小さく頷いた。


「流石だね。今日、君を見てこの歌を思い出したんだ」


 ハルの言葉は、夜風に乗って、まるで甘い囁きのように早菜の耳に届いた。その声には、単なる賞賛ではない、もっと深い意味が込められているように感じられる。彼の視線が、桜の向こう、闇に沈む遠い景色を見つめていることも、かえってその言葉の重みを増した。


「そ、それって」

「そういう意味だよ」


 早菜の頬は、みるみるうちに赤く染まった。胸の奥で、まだ出会って間もない青年が、自分に向けて古典の恋歌を引用した――それも「そういう意味だよ」とまで告げた――という事実が、熱い波紋を広げていく。どう反応していいか分からず、彼女は視線を宙に泳がせ、指と指をきつく、そしてぎこちなく交差させた。その仕草は、彼女の心の動揺と、慣れない状況に対する戸惑いを雄弁に物語っていた。


「すみません……私、そろそろ……」

「うん、お疲れ様」

「お疲れ様です……」


 かろうじて絞り出した声は、ひどく上擦っていた。早菜は、逃げるようにその場を後にする。足早に更衣室へと向かうその背中は、見るからに落ち着きがなく、彼女の頬は夜桜の色に染まったかのように熱く火照っていた。胸の奥では、ハルの言葉が甘く、そして切なく、忘れかけた香りのように燻り続けている。夜の闇に溶け込む桜の残り香が、早菜の乱れた心をさらに揺さぶるかのようだった。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ