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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

囚われの絵描き

作者: 夏八木 葵

真っ白な部屋の中。絵を描くだけにしては広く天井も高い。

教会の礼拝堂を連想させるようなアーチ状の天井に、奥の壁には大きな窓が一つ。そして床の真ん中には、部屋に溶け込むような真っ白のイーゼルと木の椅子が、ポツンと置かれている。


この部屋に入るまでの記憶は何故か無い。部屋の白さを見てようやく意識を取り戻したような、不思議な感覚だった。

ただ、今わたしの両隣にいる青年2人にここまで連れてこられたことはわかっている。

多分わたしより2、3歳は年上だろう……二十歳前の青年が2人。

背格好はよく似ていて、違いといえば髪がストレートかくせっ毛かというところぐらい。

2人はカーキ色の軍服にトレンチコートを羽織り、手にはライフル銃を持っていた。

そのうちの1人、ストレートの髪の青年が、その物々しい武装に反してとても穏やかな口調で、ここで絵を描いてほしいのだと告げた。


改めて部屋の中を見回す。

壁には大小さまざまなキャンバスが立てかけられていて、部屋の右隅にはベッドが、左隅にはカーテンで間仕切りされているちょっとした空間があった。

青年に聞いてみる。

「あのカーテンの中は何?」

「シャワーとトイレだよ」

本当にこの部屋の中だけで過ごすのか、この部屋の中だけで絵を描き続けるのか、と思った。青年は続ける。

「改めて説明すると……君は芸術家に向いている遺伝子を持っていることがわかったから、ここで絵を描いてもらうことになったんだよ。他の仕事に就くよりも効率が良いというデータが出ているからね」

「何を描けばいいの?」

「何でもいい。思い浮かんだもの、描きたいものは何でも」

何でもと言われるとかえって難しい。返す言葉を見つけられずにいると、もう1人の青年が明るい口調で話し始めた。

「食事はすべてこちらで用意するから心配しないで。毎日3食、定刻になったら運んでくるから、何か用事があったらその時に言ってね」


そして青年2人は部屋を出ていった。

今日はもう夕刻のようだった。とりあえず部屋を見て回り、状況の再確認だけしておくことにする。

カーテンで仕切られた空間には、疑っていたわけではないが本当にシャワーと浴槽、トイレが置かれていた。

あと目につくものは、ベッドと小さな丸テーブル……そしてイーゼルと椅子と絵具と、たくさんのキャンバス……だけ。

目に入ってくる色はほとんど白だ。そういえば今着ているワンピースも白だった。

これは自分で選んで着たのだろうか。その記憶もない。

窓の外には背の高い木々が生い茂っていて空は少ししか見えない。

どうやらこの建物は森の中に建っているようだ。

窓をよく覗いてみると、ガラスがやたらと分厚いことに気がつく。硬いもので力一杯殴ったとしても割れなさそうなほど、頑丈な窓ガラスだった。

そして入口のドアも、白く塗られてはいるが分厚い鉄のドアで、外から鍵がかけられているのだろう、全く動く気配がなかった。


日が暮れると、先ほどの青年の1人――えーと、くせっ毛の方――が食事を持ってきてくれた。

白い器に赤い人参の色がきれいに映えたビーフシチューと、緑色が美しいブロッコリーとポテトサラダ。また別の小皿にはまさに小麦色のパンが2つ添えられている。

見るからに食欲をそそる色合い。この白く冷たい部屋とは打って変わって、料理自体もそうだが作り手の温かみも感じられるものだった。

ありがたく受け取りテーブルに置いた後、これは明日の服だよと言って、今着ているものと同じ白いワンピースが渡された。

温かいシチューとは裏腹に、そのワンピースは冷たく感じられた。


翌朝、太陽の光で目が覚めた。大きな窓のおかげで部屋の中は明るい。

代り映えしない白いワンピースに着替え、ベッドの上で絵の構想を巡らせていると、鉄のドアが開く音が聞こえた。

昨日夕食を持ってきてくれた青年とは別の青年――ストレートの方……何か良い呼び方はないものか――が朝食を持って来てくれた。

ピンク色のハムに黄色いプレーンオムレツ、レタスとミニトマトのサラダに白いドレッシング、あとはヨーグルトに赤いストロベリーソース。色鮮やかなものばかり。

「これは貴方が作ってくれたの?」

思わず聞いてしまった。

「そうだよ。食事は僕たちが交代で作ってるんだ」

「そうなんだ……ありがとう」

素直に感謝の気持ちが言葉に出た。青年はすぐに去ろうとしたので慌ててもう一つ聞いてみた。

「あの、名前を教えてほしいのだけど……」

彼は僅かに沈黙し、

「……僕はビリジアン。もう一人の方はネイビーだよ」

と答えた。

――色の名前だ、と思った。人の名前らしくない答えに少し戸惑ったが、青年は全く気に留める様子もなく、「では」と言って部屋を出ていった。

多分、コードネームか何かだろう。忘れかけていたが、軍人さんだもの。わたしは、彼らに少し親しみを感じ始めていた自分を恥じた。


朝食後、とりあえずキャンバスに向かってみる。

何も思い浮かばない……でも何でもいいって言っていたな…………窓の外は今日も木々の緑が美しく、空も快晴だ。

しばらく眺めていると青い羽根の鳥がやってきて窓際にとまった。

青い鳥って本当にいるんだ!そうだ、この眺めを描こう!

わたしは大きめのキャンバスを選び、イーゼルに固定した。

早速、下描きを始める。描き始めると時間を忘れるものだ。青い鳥はとっくにいなくなっていたが、先ほどの光景が目に焼き付いていた。

途中で昼食をとったはずだが覚えていない。

絵具で全体に大まかな色をつけたあたりで夕刻になった。

そろそろ夕食時かと思っていると、鉄のドアが開き、ビリジアンが入ってきた。キャンバスに近づき絵を眺める。

「大きな絵だね。出来上がるのが楽しみだよ」

そう言って夕食を置いてくれた。

今日の夕食は、白い器に赤い人参の色がきれいに映えたビーフシチューと……昨日と同じだった。

あとは、変わり映えしない白いワンピースも一緒に受け取った。


翌朝、太陽の光で目を覚ました。起きてすぐにキャンバスの前に座り、居ても立っても居られず続きを描き出した。

しばらくすると朝食の時刻になり、鉄のドアが開いてネイビーが入ってきた。毎食交代で持ってきてくれているようだ。

朝食は、薄々感づいてはいたが、ピンク色のハムに黄色いプレーンオムレツ、レタスとミニトマトのサラダ……といった、昨日と同じメニューだった。

ここでは食事は毎日同じものが出るらしい。そう言えば昼食は覚えていないな……と思いつつ朝食を済ませ、再び続きを描き出した。

――長い間、集中していたようだ。気が付くともう日が傾いている。この調子だと明日には完成しそうだ。

夕食の時間になり、ネイビーが入ってきた。彼もキャンバスに近づき絵を眺める。

「大きい絵だね。いつ頃完成しそう?」

と聞くので、明日には出来そうであることを伝えると

「そっか、じゃあ楽しみにしてるね」

と嬉しそうに言い、昨日と同じ、白い器に赤い人参の色がきれいに映えたビーフシチューと白いワンピースを置いてくれた。


翌日、夕刻に絵は出来上がった。

この絵は、この部屋から見た景色だ。

夕食の時間に、入ってきたビリジアンに完成を告げる。

彼は夕食を置き、嬉しそうに絵を一通り眺めた後、「では、髪の毛を1本採らせてほしい」と言って、有無を言わさず軽々と1本抜き取った。

意味が分からない様子で彼の顔を見ていると、

「これをキャンバスに縫い込むんだ。間違いなく君の作品だということを証明するためだよ」

そう言って、急に顔に霧状の何かを吹きかけられた。

香水のような、何か香りのする液体だったが、直後に目の前が見えなくなって意識を失った。


気がつくと朝になっており、絵はなくなっていた。


朝食時、ネイビーから絵を回収したことを告げられた。

それにしても乱暴な回収の仕方だった。そう思って抗議すると彼から柔らかな表情が消え、

「お前にそんなこと言う権利があると思っているのか」

と冷たい目で言われた。心臓がキュッと握られたように痛くなり動悸がした。心が傷ついたことを実感した。

「しかし、毎回意識を失うのも確かにどうかという気はするな。考えてみるよ」

彼は元の柔らかな表情に戻っていたが、胸の痛みと動悸は治まらなかった。

考えてみるとは言ってくれたが、より苦痛な方法にならないことを祈った。


朝食をなんとか終えたものの胸の痛みは治まらなかった。

しかしこの痛みは過去に体験したような気もする。長い間、この痛みに耐えながら生きていた気がするのだ。

ネガティブな感情は創作意欲を掻き立てる。

直近のことは思い出せないが、断片的に思い出せる感情や風景があった。

そうだ、次はこれら過去の感情や風景を思い出しながら描いていこう。当面は題材には困らないはずだ。

そう思った頃には胸の痛みは少し和らいでいた。


過去のことを思い出そうと努めていると、昼食の時刻になった。今日初めて昼食を意識して見た。

ピンク色のサーモンと緑色のホウレン草が綺麗なクリームパスタだった。

鮮やかで透き通ったコンソメスープとスライスされたラディッシュの乗ったグリーンサラダ、苺やパイナップル、キウイフルーツなどの果物も添えられている。

昨日も一昨日もきっと昼はこれをいただいていたのだろう。

食事は幸せな気持ちにさせてくれる。この部屋ではなおさらそれを強く感じた。

しかし幸せな気持ちは創作意欲を溶かしていく。そう言えば絵が描けない場合、どんな仕打ちが待っているのだろうか。

もちろん直接聞くわけにはいかない。彼らが穏やかなのは今だけだと思って描き続けるしかない。


そう思って、わたしは毎日毎日、過去のことを思い出しながら様々な大きさのキャンバスに絵を描いていった。


  □


僕らは絵を売っている。

別に自分の意志でもないし生活のためでもない。上から指示されたからだ。

数多くある指示事項の一つとして、彼女が描いた絵をDNA鑑定書付きで物好きな蒐集家に売り付けている。

彼女の絵は高く売れる。何でも、彼女の遺伝子が良いらしい。彼女が描いたというだけでどんな絵も高く売れる。

絵の価値とは何だろうな。ともあれ高く売れるのは良いことだ。金さえあれば大抵のことはできる。

――と、相方の姿が見えた。交代の時間には少し早いはずだが……。

「交代か?少し早くないか?」

「ちょっと今日は君と話をしようと思ってね」

「何だ」

「あの子の絵。独創的になってますます高く売れるようになってきたね」

「そうだな。ありがたいことだ」

「知ってた? 芸術家に向いている遺伝子を持つ者は精神疾患を発症しやすいらしい。独創的な作品が作れるのは、自分の不安定な精神状態を投影するからなんだと 」

「ああ、聞いた事がある。だからあの子をあんな白い部屋に閉じ込めているんだろう」

「そうなんだよ。あの子はどうなると思う?」

「さあな……」

さして興味はない。だが、一番作品が高く売れる状態を維持したいものだ。

そんな話をしているうちに交代の時刻になった。僕ら2人は交代でこの建物の見張りと彼女の世話を命じられている。

後を託し、少し休憩した後、別の仕事に取り掛かる。

いつもと変わらない、平穏な日だ。


  □


ここに来てどれ程の月日が流れただろう。

何枚絵を描いたかももう覚えていない。壁に印でも刻んでおくんだった。今日からでも遅くないか、今日から刻もう。

白いキャンバス。壁と同じように白い。キャンバスの前に座り、ぼんやりと見つめる。

何も思い浮かばない。手が進まないまま3日は経っている……と思う。

食事は相変わらず3食同じもの。ただ、来た時と変わったものがふたつある。

ひとつは、かつて窓際にとまった青い鳥を捕まえてきてもらったことだ。いま鳥籠の中で飼っている。

独りでは寂しくて話し相手もいないので、窓から見える小鳥を一羽連れてきてほしいと頼んだのだ。

ビリジアンに頼んで正解だった。小鳥を一羽、としか言っていないのに、彼は、わたしがかつて絵に描いた青い鳥を捕まえてきてくれた。

嬉しかった。この小鳥を大事にしようと思った。

もうひとつは、部屋の中に枷が置かれたことだ。これも見た目は白く塗られているが鉄でできている。

絵の回収の際に変な薬を吹きかけられるのを抗議したところ、代替策として、この手枷、足枷、首枷を付けた上で、目隠しとヘッドホンを付けて椅子に縛り付けられることとなった。絵の回収後は解放される。

何故、絵を回収するときは拘束されるのだろう。隙ができるのだろうか。だとすると、その時が一番逃げられる可能性があるということか……でも逃げ出したところで何処へ行く?……そんなことを毎日ぐるぐると考えては日が過ぎてゆく。

絵を描き続けるにしても、少しくらい外へ出してほしいのにな。外の空気を吸わせてもらえれば、何か新しい発想が得られるかもしれないのに……。

脅迫されていないだけマシなのかな……。小鳥も連れてきてもらったことだし、食事もいただけていることだし……。

この状況を受け入れることさえできれば、平和といえば平和だ。そんなことを考えているうちに、いつの間にか眠ってしまっていた。


夢を見た。

だだっ広い川の中州に取り残されている。

空は夕暮れ時だろうか。西の空は夕焼けのグラデーションが美しく、東の空は青暗く星が見えている。

川岸には西洋風の街並みが並び、オレンジ色の街灯で照らされている。まるで夕暮れ時のモンサンミッシェルのようだった。

気温は暑くも寒くもなく、少し強めの生暖かい風が吹いていた。

すると空から大量のピンクの花びらが舞い落ちてきた。薔薇の花びらのような大きさで、花吹雪のように大量に降り注ぐ。

川も地面も夕焼けに染まったピンク色で覆いつくされ、でも時折吹く強風で再び舞い上がっていく。

日が暮れた星空に花びらが紫色になって溶け込んでいく。

美しく、心地よいひと時だった。過去に見たことのない光景だった。

目が覚めたあと、自分の脳が作り出してくれた光景に感謝し、今後は夢から着想を得て描いていこうと決めた。


その作品は高く売れたという。

その日以降、見た夢を忘れないように目が覚めたらすぐに反芻して脳に焼き付け、また時には文字に起こすように努めた。

1枚の絵を描くのに時間がかかるようになっていたが、その分、非現実的で幻想的な絵は高く売れるようになっていった……らしい。


そうして何十枚描いただろう。

最初は順調に描けていたが、だんだん夢を見ても同じような内容ばかりになり、新たな絵を描くのに苦労するようになってきていた。

しかもいつでも望んで夢が見られるわけでもない。何か夢を見なくてはと焦るあまり、夜はなかなか眠れなくなっていった。

眠れないせいで体調も気分も優れない日が多くなり、絵を描く気力も湧かず集中力も続かないため、ある時、食事を運んできたビリジアンに相談してみた。

「最近あまり眠れなくて体調が良くないの。絵を描くのにも支障が出ているのだけど、睡眠薬か何か貰えないかしら」

「そうか……そうだな……。少し時間がかかるかもしれないが、何か用意しよう」

そう言ってくれた。ビリジアンには比較的頼みごとがしやすい。

2日ほど経った後、食事の時に薬を持ってきてくれた。透明な瓶に白い錠剤がたくさん入っている。

「これを夕食後に1錠飲むといい。寝る頃には効いてくるはずだが、もしそれでも眠れないようであればもう1錠飲むように。ただ……」

なんだろう。ビリジアンが何かを言いよどむなど、珍しい。

「薬を渡したことは、ネイビーには黙っていてほしい。あいつは薬が嫌いなんだ」

「……そう……わかった。どうもありがとう」

意味はよく分からなかったが、そう答えるしかなかった。


その日の夕食後、早速薬を1錠飲んだ。

寝る頃には効いてくるはずだ、そう言ったビリジアンの声が思い出される。

シャワーを浴び、白いシーツのベッドに入って目をつむった。確かに気持ちは穏やかだった。ひとつ大きく息を吸ったと思う。

気が付くとわたしは夜のオフィス街に出ていた。街灯はわずかにしか灯っておらず、目を凝らしてようやく足元が見えるほどに暗い。

この暗闇の中、誰かに追われている気がした。捕まってしまえば、殺されるというよりは生きたまま内臓を抉られそうな、そんな恐怖を感じていた。

脂汗が滲む。何処か明るいところへ、皆がいる安全なところへ、そう思って目に付いた近くのタワービルへ駆け込んだ。

タワービル内は電球色のような薄暗い明りが灯っているのみだった。薄暗いせいで壁の隅は暗く、死角となりそうな場所が多くある。そして、人はいるものの、思いの外まばらだった。

このビルは60階以上ある。ひとまず上の方の階へ逃げるべく、エレベーターホールへ向かった。

エレベーターは合計6基。3基ずつが向かい合う形で設置されていた。

上行きのボタンを押し、エレベーターに乗り込む。ひとまず適当に、最上階に近い63階のボタンを押した。

追手が上の階を目指して来たタイミングで自分が下の階に移動してビルから出れば撒けるかもしれない、と思った。

エレベーターの中には自分以外はいない。自分の姿が見られる心配もない。ひとまずホッと一息ついた。

63階に着き、エレベーターのドアが開く。反射的に降りたが、その階はもうすでに戸締りがされて電気が消えており、月明かりだろうか、外からの青白い光が射し込んでいるだけだった。

しまった、と思った。今の時刻はわからないが、間もなくこのビル自体も戸締りがされて消灯されるのだろう。

このビルに追手と二人きりで取り残されてはたまらない。1階へ戻らなくては。しかし今戻ると鉢合わせるかもしれない。

なんとなく直感的に、20階ぐらいまで降りればまだ誰か人がいるのではないかという気がした。このビルは上階から順に施錠され消灯しているような気がする。

エレベーターの下行きのボタンを押し、急いで乗り込んだ。20階のボタンを押す。エレベーターの中では、途中の階で止まりませんように、20階に誰か人がいますように、と祈っていた。

無事20階に着き、扉が開く。電球色の薄暗い明かりが点いている。少しホッとしたが、それも束の間、エレベーターホールに1人だけスーツ姿の男性がいて少し驚いた顔つきで

「この階はもう締めるよ」

と言った。この人がこの階の最終退出者のようだ。

この人と一緒に1階まで降りよう、そう思った。しかしふと向かいのエレベーターの表示を見ると、1基のエレベーターが48階から降りてくる表示が見えた。

不意に胸騒ぎがした。ここより上の階は施錠されているはずだ。そこから降りてくるということは追手に間違いない。何故かそう確信していた。

早く降りなくては、と焦って目の前の男性がエレベーターに乗るのを待たず、扉を閉めて1階のボタンを押した。

19階、18階と降りていく表示がとても遅く感じる。早く1階へ!

もう間もなく着くというところ、少しの振動と共に表示が2階で止まった。どうした、故障か?いや違う。2階で誰かがボタンを押したんだ。

扉が開く。20階と同じ、電球色の明りが射し込む。が、扉の前に黒いハットをかぶった細身で背の高い男が立っていた。

ハットと同じ黒のロングコートを羽織っている。一見、紳士のように見える姿だったが、その右手には拳銃が握られていた。

こいつが追手だ、と直感し、反射的に後ろに下がってしまった。エレベーターの壁に背中を打ち付け、錐のような細い何かが刺さったような痛みを感じる。

背中の左側、心臓の裏あたりが痛み、背を反らす体勢になったところで男が左手を開き、5本の指をわたしの下腹部に突き立ててきた。

内臓を抉りだそうとするかのような強さで指を立てられ、あばら骨が浮き出てきた。

痛みで呼吸ができない。辛うじて息を吸うことはできても、声を上げることなどできなかった。

苦しい。死ぬ……いや、いっそひと思いに銃で殺してくれ――

そう願ったところで目が覚めた。いつもの見慣れた真っ白な天井が視界に入る。

そうか、夢だったのか。だけどしばらくは激しい動悸と脂汗が止まらなかった。背中と腹部もまだ疼く。

しかし――これは新たな体験をした。改めて思い返すととても緊張感があり刺激的で興奮する体験だった。

夜空にそびえ立つ真っ黒なタワービル、電灯色の明り、青白い月明かり、追われるスリル、そして腹を抉るあの痛み。

これらを題材に数枚は絵が描けそうだ。そう思うと嬉しくなってきた。


この頃に描いた絵はまた一段と高く売れるようになったという。

画風が変わったことで広く一般受けはしなくなったものの、熱狂的な客が増えたらしい。

わたし自身も、昏くも美しい絵を描くことにのめり込んでいった。

自分の中に確かに狂気が存在する。そういう昏い感情を増幅させるために自分自身の心をさらに追い詰めていった。

哀しいことを考えるのは楽しい。悲劇、絶望、崩壊、虚無……。わたしはかつてこういう感情を抱いた記憶がある。

具体的な記憶はないのに感情だけ覚えている。わたしは一体、どんな人間で、どんな環境で生きていたのだろう――……。


  □


彼女に薬を渡してから3日ほど経った頃だろうか。

久しぶりにまた、交代の時刻よりも早くに彼が現れた。理由の察しはつく。

「話か?」

「そうなんだ。察しがいいね」

違う。察しがいいのはお前の方だ。彼は隣に座り、神妙な顔つきで話し始める。

「彼女に何かした?」

やっぱり気づいたか。こいつは勘が鋭いからな。何よりこっちがこうやって思考しているわずかな沈黙の間でもう判った事だろう。観念して正直に話す。

「……少し前に夜眠れないと相談されてな。絵を描くのにも支障が出ているという話だったから……薬を渡したんだ」

彼は、ふっと一息ついて元の柔らかな表情に戻る。

「やっぱりね……君はすぐ薬を使うんだから。自然に壊れていく様が見たいのに」

「それはお前の趣味だろう」

「ふふ……まぁいいけど。でももう末期かなぁ」

「何を言ってるんだ。ようやく固定客もついてきたんだ。これからだよ」

「どうかなぁ。君は甘いからなぁ」

そう言って宙を見上げた後、こちらの目をしっかりと見据えて彼は言った。

「判断を誤るなよ。時を見誤るなよ」

忠告か。

「わかったよ」

交代の時刻になり、僕は立ち上がった。

彼の懸念はわかる。だが彼女は今、最高のパフォーマンスを発揮している。この状態を維持したい。

そんなことを考えながら、次の仕事へ向かった。


  □


真っ白だった部屋はやがて絵具で汚れるようになっていった。

床や壁、天井にまで何かしらの色が付く。絵具の飛沫で彩られる。服に絵具が付いても気にならない。そのままベッドに入ることもある。

楽しい。そう言えば小鳥に餌をやったのはいつだっけ。絵を描くのが、絵を描いて自分を解放するのが楽しすぎて忘れていた。

鳥籠から出してみる。少しやつれたかしら。元気がないようにも見える。可哀そうに。ほら、餌をお食べ。

小鳥を鳥籠に戻し、しばらく餌をやらなくてもいいように器に沢山盛ってやった。

そういえば椅子を壊してしまったの。外に出てみたいなと思って椅子で窓ガラスを思い切り殴ってみた。

すると窓ガラスの方が頑丈だったの。信じられない。少しだけ引っ掻き傷ができただけで割れる気配がなかった。

椅子の足が折れてしまったから食事の時に彼らに言わなきゃ。彼ら……いつも同じ食事を運んできてくれる彼ら……名前、何だっけ。

どうしてわたしをこんなところに閉じ込めているのだろう。意味あるのかな。こんな非力なわたしを閉じ込める意味が。

夢を見るのは楽しい。夢は、ここではないどこかへ連れて行ってくれる。この部屋から出て自由に行動させてくれる。

美しい夢もいいけど悪夢が見たい。悪夢は刺激的で、わたしの中に眠っている狂気を解放してくれる。それが絵を描く原動力になる。

悪夢を見た後は感情が昂ぶり、すぐにでも描きたいのに手先が思うように動かせず、キャンバスにでたらめに描き殴ってしまうこともあった。

この衝動をどう制御したらよいものか。破壊衝動にも似たこれを。

思いのままに絵具を叩きつけ、滅茶苦茶にキャンバスを、部屋を彩る。あぁ、筆もいくつか折れてしまった。

わたしは、どうなってしまうのかな――。


  □


彼女が椅子を壊したという。

普通の壊れ方ではなかった。意図的に固いものにぶつけて破壊したようだ。

壁に傷は無かったから、恐らく防弾ガラスの窓にぶつけたのだろう。脱出を図ったといったところか。

彼女自身も壊れかかっている。

部屋の床や壁を絵具で汚し、服も汚したり破いたりする事が多くなってきた。

視線も合わない。常に何かを空想しているように独り言も増えていた。

そろそろ限界だと僕は思うけどなぁ。彼はいつまで引き延ばすつもりかなぁ。

一応注意するように言ったつもりだけど、彼は聞かないからなぁ。

仕方ない、様子を見ておいてやるか。


  □


悪夢を見るために、昼間にも薬を飲んで眠る。

だんだん薬が効きにくくなっている自覚はある。でも絵を描くためには飲まなくてはならない。これがないと夢が見れないから。

だけど夢を見ても絵に描けなくなってきた。うまく表現できなくなってきたの。

起きてすぐに夢の内容が霧散してしまう。確かに何かを見ていたはずなのに。

ただ自分の中に煮えたぎる衝動だけが残っていて、それを上手く吐き出せない苦しさが自分を暴力的にさせた。

自分の背丈より高く大きなキャンバスに爪を立てて引っ掻く。キャンバスが抉れるとともにわたしの爪も剥がれ、指先が血で染まった。

だけど絵が描けない苦しみに比べれば、こんなものは大したものではなかった。自分の胸を掻きむしらないだけマシ。

キャンバスについた血の跡をなぞりながら頬を擦り寄せる。

あぁ、このキャンバスを壊してしまいたい。この部屋もわたし自身も滅茶苦茶に壊してしまいたい。

ふと視界に鳥籠が目に入った。鳥籠から小鳥を取り出す。少し弱ってはいたが青い羽根が美しい。

そうだこの美しい青をキャンバスに飾り付けてはどうかしら。

気づくとわたしは、まるで果実をもぎ取るように、その子の羽根をもいでいた。


  □


食事の時間だ。直した椅子も一緒に持って入るべく、入室の準備をする。

彼女が椅子を壊したと聞いた時は驚いた。そこまで進行しているのかと。

直に様子を見た彼は淡々と話してくれたが……何か対処が必要だな。

入室すると、彼女は床に座り込んでいた。壁に立てかけた大きなキャンバスを見上げる形で座っている。

キャンバスの上の方からは赤い液体が滴っていた。彼女の手が届くぎりぎりの高さに、飼っていた青い小鳥が磔にされている。

内臓が抉られ、小鳥自身の骨で磔にされていた。

「これは……」

それ以降の言葉が出てこない。すると彼女はこちらに気付いたのか、話し始める。

「もう描けないの。描きたいのだけど、描こうと思うと壊してしまう。もう描けなくなってしまった。描けない画家は不要でしょう?」

ついに壊れてしまったのか。いや、でも意識はまだはっきりとしている。

彼女がこちらに顔を向ける。右目からは涙を流しているものの感情が読み取れない。白く、無表情な顔で淡々と続ける。

「だから。終わらせてほしいの。この子の隣に。その銃で。わたしを撃ってほしいの」

「何を言っているんだ。そんなことできる訳ないだろう。これからも君には描き続けてほしい」

描き続けてほしいというのは本心だ。

「どうすれば撃ってくれるの?あなたに反抗すればいいの?」

こちらの声は響いていない。

彼女はゆっくりと立ち上がり、両手を赤く染めたままこちらに近づいてくる。

彼女に何かができるとは思わないが、恐れるものがない人間は厄介だ。

彼女の手が届くよりも先に腹を思い切り蹴り飛ばし、背負っていたライフル銃を構えて倒れた彼女に突き付ける。

「動くな」

この一連の動作は癖のようなものだ。別に本気で撃とうとは思っていない。

彼女は両腕で腹を抱え、呻き声とも泣き声とも取れるような声を上げてうずくまった。

しかしキャンバスに右手を掻け、ゆっくりと上体を起こそうとしている。その様子を、銃口を突き付けたまま見届けていた。

彼女が顔を上げ、目が合う。目が潤み、泣いているような震えた声で幸せそうに笑う。

直後、彼女の体が大きく跳ね、真っ赤な血飛沫が大きなキャンバスに飛び散った。

彼女は力なくキャンバスにもたれかかり、そのままずり落ちて赤い滝のような形が描かれる。

銃声を聞いたような気がした。自分のものではない。音の出処を見る。部屋の扉の近くだった。

そこには正しくライフル銃を構えた彼が立っていた。銃を下ろし、こちらに歩いてくる。

「『動くな』と言って動いたら撃つのが鉄則だろう。何を考えてたんだ?」

「……見ていたのか」

「ちょっと心配になってね。あと、人を撃つときは目を合わせちゃ駄目だよ。基本だろう?」

そこまで見られていたのか。ばつが悪い。

大きくため息をつく。緊張感から解放されたような、肩の荷が下りたような、そんな感覚だった。

彼はいつもと変わらぬ調子でキャンバスに手をかけ、

「最後にこれを売ろう」

と言った。

「そうだな」

それ以外に言葉が出てこなかった。



-- END --

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