9.夕暮れの町で
ユリウスが屋敷を抜け出してまで買いにいったもの。そして彼は、それをわたくしにくれるという。
思いもしない展開にぽかんとしながら、差し出されたものを手に取り、じっくりと見てみた。
「これ……スカーフ?」
青い花をびっしりと描き込んだ、小ぶりだけれど手の込んだ品。この手触りは絹ではなく木綿だし、素朴な雰囲気だ。でも思わず見とれるくらいに、素敵な品物だった。
「俺なりに感謝の気持ちもあるからさ、何か贈り物くらいしてもいいかなって思ったんだよ。その、俺も……一応、あんたの婿……になる予定だしさ」
珍しくもちょっぴり照れた様子でそう言うユリウス。そのことに驚きつつも、もっと別のことが気になってしまう。
「……わたし、感謝されるようなことをした覚えは……」
むしろ、嫌われるようなことをしたのではないかとずっとそう思っている。そんな言葉を、どうにか呑み込む。
こうして町の酒場でのんびりと酒を飲んでいるユリウスは、とてもくつろいでいて自然体だ。たぶん彼にとっては、こっちの世界のほうがなじみのある、落ち着く場所なのだろう。
彼はリルケの屋敷に来てから、貴族と同様の暮らしをしている。食事やら寝具やらの豪華さを喜んではいるものの、貴族の考え方や貴族の社会については、
けれどわたくしは、そんな彼を貴族の世界に引きずり込んで、閉じ込めようとしている。リルケの家を守る、そのためだけに。
もちろん、彼にはそれなりの対価を払っている、はず。彼とオットーがどのような取り決めをしたのかは未だに教えてもらっていないから、はっきりとは断言できないけれど。
……でもやっぱり、わたくしは彼に色々と無理を強いてしまっているのだなと、こうして一緒に町で過ごしているとよく分かる。
しゅんとしてしまったわたくしに、ユリウスはささやきかけてきた。
「真面目だな。そんなあんただから……信頼できるのかも、な」
それは聞こえるか聞こえないかの、かすかな声だった。きっと、鍋をかき回しているカールには聞こえなかっただろう。
でもその声は、わたくしの心を温めてくれた。胸の中によどんでいるちくちくとした後悔を、そっとぬぐい去ってくれた。
「ありがとう。このスカーフ、大切にするわ」
「ああ、そうしてくれると嬉しいぜ。選ぶの、結構苦労したからな」
「……そうなんだ」
ユリウスがこっそり町に出てきて、わたくしへの贈り物を懸命に探している。そんな姿を想像したら、もっと心があったかくなるのを感じた。
そうしてカールの酒場を後にして、二人で屋敷に戻っていく。
つい長話してしまったせいで、もう夕暮れ時になっていた。大通りには人の姿も少なくなっていて、ひんやりとした風が悠々と吹き抜けている。
隣を歩くユリウスの顔も、自分の首に巻いた新しいスカーフも、薄闇に包まれてぼんやりとしている。
まるでここにわたくしとユリウスの二人しかいないような、そんな錯覚を感じてしまう。
だからなのか、わたくしの口はひとりでに動いて、こんな言葉を紡ぎだしてしまっていた。
「……ねえ、ユリウス。どうして、あなたはわたくしのところに来てくれましたの?」
「オットーと取引した。そう言ったろ」
彼はこちらを見ないまま、すぐに答えた。ちょっとぶっきらぼうに。
「ええ、それは聞いたわ。でも……知りたいの。あなたがオットーから、何を受け取る約束になっているのか」
言ってしまってから、あわてて付け加える。
「あ、あなたとオットーは二人ともしっかりしているから、取引の内容自体を不安に思っている訳じゃないのよ。ただ単に、気になっているだけで」
「その辺の事情についてはせんさくするなって、そうも言った気がするんだが。俺の気が向いたら説明するからって」
ユリウスは少しいらだっているのか、それとも戸惑っているのか。その声が、いつもよりこわばっている。
「……そもそもあんたは、なんでまたそんなことを知りたがるんだ。好奇心か?」
「いえ。……そうね」
否定して、すぐに肯定する。実のところわたくしも、まだ自分の思いをきちんとつかみ切れていなかった。話しているうちに少しずつ、自分の思いがはっきりしていくのだ。
「わたくしは興味があるの。あなたという人に。あなたは踏み込まれたくないのだと、分かってはいるのよ。なのに、知りたいと思ってしまう。どんなささいなことでもいいから、って」
これが、偽りない気持ちだった。
人と人の間には、踏み越えてはならない線がある。そしてユリウスは、初めて顔を合わせた時にしっかりとその線を引いてみせた。そこからこっちには、入ってくるなよ、そう念を押しつつ。
けれどわたくしが今抱いている感情、彼のことをもっと知りたいという感情は、明らかにその線を越えていこうとするものだ。
ユリウスは何も言わない。どんどん暗くなっていく大通りを、二人並んでただ歩く。
やっぱり言わないほうがよかったかしら。まだ、早かったんじゃないかしら。
新たな後悔がふつふつと浮かびかけたその時、ユリウスがぽつりとつぶやいた。
「……俺さ、孤児院の出なんだよ」
その言葉に、ただ驚くことしかできなかった。彼について知りたいとはいったけれど、いきなりこんなことを教えてもらえるなんて。
「人生の半分くらいは、孤児院で過ごした。もう俺にとっては、あそこが家みたいなものだな」
ということは、ユリウスにはもうずっと前から身寄りがないということなのだろうか。あるいは、親族がいても頼れないということか。どちらにせよ、苦労してきていることに違いはない。
孤児院の暮らしは大変だと聞く。貴族たちは、平民のみなしごになど興味はないから。お父様も、孤児院には最低限の援助しかしていなかったし。
そんなことを思い出していたら、ふと気がついた。
相次いで両親を亡くし、親戚たちから見捨てられて一人残されたわたくし。
貴族の血を引いていながら平民として暮らし、なぜか孤児院で過ごすことになったユリウス。
……わたくしたちは、思っていたよりも似たような境遇なのかもしれない。もっともそんなことを口にしたら、ユリウスは気を悪くするかもしれないけれど。
夕闇のおかげか、ユリウスはわたくしのそんな考え事に気づいていないようだった。彼はまっすぐに前を向いて、ちょっと切なげな声で話し続けていた。
「ところが、その孤児院が財政難に陥った。このままだと、子供たちはみんな飢えちまう。だから俺は、オットーを頼ったんだ。……色々あって、あいつとは面識があったから」
彼の手、しっかりとしているのに決して無骨ではない手が、ぎゅっと握りしめられる。
「それに、この状況をどうにかできそうな人間を他に知らなかった」
「……そう、でしたの」
つい暗くなってしまったわたくしに、ユリウスが一転して明るく話しかけてくる。
「そういうことなんだよ。で、オットーと相談して、俺がリルケに婿入りする代わりに、俺の大切な孤児院に援助をしてもらう。そういう約束になったんだ」
オットーはずっとリルケに仕えてくれているし、今では使用人たちを取りまとめる重要な役を担ってくれている。
彼の妻もずっと働いていたという話だし、彼の娘は裕福な家に嫁いでいった。たぶんオットーは、かなりのお金を持っているのだと思う。
だからって、それをなげうってまでユリウスを連れてきてくれるなんて……彼の忠義には、ちゃんと報いなくちゃ。いつか折を見て、その分のお金を補填しましょう。……オットーが受け取ってくれるという、そんな自信はないけれど。
じんとしながら決意したその時、ふと気がついた。
「……もしかして、わたくしとさらに契約を結んだ時に、対価としてお金を要求したのも……」
「そっちの金も、孤児院に送った。ここで暮らす分には、金はほとんど必要ないし」
そう答えるユリウスの声は、ちょっぴり照れ臭そうだった。そんな彼にくすりと笑いかけて、言葉を返す。
「……いずれ、リルケの家を守り切れたなら。わたくしも、その孤児院を全力で支えますわ。あなたの大切な実家なのですから」
「期待してるぜ。……ありがとうな、コンスタンツェ」
ユリウスの声は、とても優しかった。
そんなことがあってから、ユリウスは少しずつ思い出を語ってくれるようになった。孤児院での貧しくも温かな日々について。
けれど、孤児院に入る前の暮らしについてはほとんど話してくれなかった。両親と一緒に、ごく普通の暮らしをしていた、ということしか。
ただその内容から、おそらく彼の父親が貴族の出らしいと推測はついた。どこの家かまでは全く分からないけれど。
もっとも、無理に聞き出すつもりはなかった。自分の出生を証明する手段を持っている、そんな彼の言葉を信じていたし。
わたくしの望みは、わたくしたちの婚姻届が無事に受理されて、ユリウスがリルケの当主となり、リルケの家が守られること。
ユリウスがどこの家の血を引いていようと関係ない。わたくしにはそう思えていた。どこの誰であろうと、彼は彼だ。
彼と過ごす時間は穏やかで、そのくせ刺激的で。リルケの家が危機に陥らなければ、彼とこんな日々を過ごすこともなかった……などと考えると、ちょっと複雑な気分ではあるけれど。
お父様のしたことはまだ許せないし、リルケの家を一人で背負っているという重圧は苦しかった。
でもそんなことがなければ、わたくしは普通にどこかの貴族の令息を夫として、ずっとあのリルケの屋敷で過ごして……。
駄目ですわ、物足りないですわ。想像しただけで退屈ですわ。
などとおかしなことを考えつつ、わたくしはユリウスといつも通りに楽しく過ごしていた。わたくしはさらに平民のふりに磨きがかかっていったし、ユリウスの勉強もちゃくちゃくと進んでいた。
ところが。
ああ、とっても順調ですわ……などと満足していたところに、またしても面倒事がふらりと舞い込んできてしまったのだ。
やけに豪華な手紙が二通、わたくしたちのもとに届いた。片方はわたくしあて、そしてもう片方は。
「これ、俺あてだな。『コンスタンツェの婚約者様へ』だとよ。俺がここにいるって、確信してやがるな、ルイーゼのやつ」
そう言って、ユリウスは深々とため息をついた。