8.お嬢様の知らない世界
悲鳴を上げるわたくしの足元を、ネズミは悠然と駆け抜けていった。よかった、何もされませんでしたわ。ああでも、本当に驚いた……。
「おう、何だ何だあ?」
「また可愛い嬢ちゃんがいるなあ」
気がつけば、あちこちの扉が開いてたくさんの人たちが顔をのぞかせていた。あっ、これがユリウスの言っていた酔っ払いですのね! 大変、逃げなくては!!
「何やってんだ、コンスタ……コニー。こんなところで」
全力で走りだそうとしたとたん、聞き覚えのある声に呼び止められた。踏みとどまってつんのめって、声がしたほうを見る。
少し離れたところの扉が開いて、そこからユリウスが顔をのぞかせていた。目が真ん丸だ。わたくしがここにいることに驚いているらしい。よし、狙い通りですわ。
「あっ、ユリウス! 見つけましたわ! 突然いなくなるから、探しましたのよ!」
そう叫ぶと、彼は猛烈な勢いでわたくしのそばまで駆け寄ってきた。顔を寄せて、ひそひそと耳元でささやいてくる。
「おい、こんな裏路地でそんな上品な口調で喋るな。妙なのに目をつけられたら大変だろ」
「あら、気遣ってくださるのね……じゃなかった、気遣ってくれてありがとう。もしかして、今しがたわたくし……わたしのことを愛称で呼んだのも、関係があるの?」
さっき彼はわたくしの名を呼ぼうとして、急に『コニー』と呼び変えた。あんな風に呼ばれたは初めてで、驚いたけれど……案外悪くないかもと、そう思ってしまった。
「そういうことだ。あんたの名前は、ちょっと大仰に過ぎるからな」
そうやってひそひそしていたら、周囲から戸惑いがちな声が飛んできた。
「なあユリウス、その嬢ちゃんはあんたの知り合いか……?」
「さっきの叫び声、ものすごかったが」
「大丈夫か? 何があった?」
路地にいた人々は、どうやらわたくしのことを心配してくれているようだった。というか、既にユリウスとは知り合いになっているみたいですわね。いつの間に。
……もしかしなくても、みんなごく普通のいい人なのでは? ユリウスがあんまりおどかすものだから、つい過度に警戒してしまいましたわ。
「おい、油断はするなよ。俺はともかく、あんたは自分の身一つ守れないだろうが。人さらいにつかまっても知らないぞ」
そんなわたくしの心を見透かしたように、ユリウスが低く言葉を続ける。
「ひ、人さらい……っ!」
「……なんてな。この町は治安もいいから、そういう連中はまずいないよ。もし出たとしても、俺が何とかしてやる」
「あ、ありがとう……?」
やけに頼もしげなユリウスに、言葉に詰まってしまう。すると、周囲の空気が変わった。困惑から、ほっとしたものに。
「なんだ、大丈夫そうだな」
「おーいユリウス、その子ちゃんと家まで送ってやれよ」
そんなことを口々に言って、人々はそれぞれ扉の奥に引っ込んでいってしまう。そうして、路地に元通りの静寂が戻ってきた。
ふうと息を吐いて、ユリウスが自分の頭をくしゃくしゃとかき回す。
「……しっかし、あんたが一人でここまでやってくるとはなあ……」
「あなたに教わったことの成果を、見せたかったの。わたしもこんなに成長したのよって」
「俺、何か教えたか? 成果って何だ?」
「平民らしいふるまい方。それを活用して、ここまで追いかけてきたの」
はっきりきっぱりとそう答えたら、ユリウスは目を思いっきり見開いて固まった。口をぽかんと開けて、わたくしをじっと見ている。
「……本当に、あんたはおかしなお嬢様だよ」
そうして彼は、小さく笑い出す。おかしくてたまらないといった顔で。けれど彼のそんな態度を、不快だとは思わなかった。
「まったく、こんなところまで来るなんてなあ。……ま、ちょっと寄ってけよ」
たいそう楽しそうな笑みを浮かべて、ユリウスは手招きをした。そのまま、彼が出てきた扉をくぐって建物の中に入る。
「……食堂……? にしては、人がいないわね」
「ここは酒場だからな。夕方から、ものすごく人が増えるらしいぞ」
そこは薄暗くがらんとした広い部屋で、テーブルがいくつかとたくさんの椅子が置かれていた。
部屋の奥には木のカウンターがあり、その向こうではふっくらとした中年男性がのんびりと何かを煮込んでいる。他に人はいない。
ぱっと見は、大通りの食堂に似ている。でも何というか、全体的に粗末だ。
「おかえり、ユリウス。いやあ、すごい叫び声だったねえ」
「あれ、こいつだった。俺を探しにきてたんだよ」
「へえ、頑張ったねえ。若い女の子はこの路地にはめったに入ってこないから」
さっき路地中に叫び声が……わたくしの叫び声ですけれど……響き渡ったというのに、男性は全く動じていない。鍋をかき回しながら、ユリウスに呼び掛けている。彼が店主だろうか。
「カールのおっちゃん、こいつ……コニーに、ジュースか何か頼む。酒精の弱いやつ」
そう言いながら、ユリウスはカウンター席にすとんと腰を下ろした。
よく見ると、その席には飲みかけのグラスと料理の小皿が置いてあるし、隣の席には荷物が置かれている。たぶんわたくしが悲鳴を上げるまで、ユリウスはここでくつろいでいたのだろう。
彼の隣、荷物が置かれているのとは反対の席に座ると、すかさず男性……カールがグラスをわたくしの前に置いた。きめ細かな泡が立った、透き通った液体が入っている。
「さあ、お嬢さんにはこちらをどうぞ」
「あ、ありがとうございます……」
ちょっと戸惑いながら、出されたグラスに口をつける。こんな薄暗くて粗末な店にはまるで似つかわしくない、上品で味わい深いリンゴのワインだ。
「これ、とてもおいしいですね。どこで売ってるんですか?」
ついそんなことを尋ねたら、カールが嬉しそうに笑った。
「これは、僕のお手製なんだ。たくさんは作れないし、僕も飲みたいからねえ。店に出すのは、ほんの少しなんだよ。毎年、あっという間に売り切れる。君は運がいいね」
「へえ、そんな珍しいものなのか。コニー、ちょっと俺にも分けてくれよ」
言うが早いかユリウスは手を伸ばし、わたくしのグラスをひったくってしまう。すぐに一口飲んで、なるほど、と納得したような顔をしていた。
「ちょっと、ユリウス! 行儀が悪いですわ……じゃなくて、行儀が悪いわよ」
「いやあ、味が気になったからさ」
「だったらカールさんにもう一杯頼めばよかったでしょう?」
「待ち切れなくて。それに万が一俺の口に合わなかったらワインを無駄にするだろ」
しれっとユリウスはそんなことを言っている。貴族としてはありえないふるまいだけれど、そのことについては目をつぶる。今わたくしたちは、平民としてここにいるのですし。
問題は、わたくしが口をつけたグラスにためらいなく口をつけられたことであって。何というか、その……妙に胸がざわざわしますの。変な気分ですわ。
などと考えていたら、ユリウスは別のグラスをわたくしの前に置いた。
「悪い悪い。俺ばっかり味見するのは公平じゃないな。ほら、飲んでいいぞ」
どうやらこのグラスは、さっきまでユリウスが飲んでいたもののようだった。そしてそれを飲めと、彼はそう言っている。
飲んでしまっていいのかしら。なんだかとってもいけないことをしているような気分なのですけれど。
そろそろとグラスに手を伸ばし、そっと顔を近づけてみる。次の瞬間、思い切りむせそうになった。
「……これ、ものすごく強いお酒……」
「まあ、蒸留酒だしな」
「あなた、昼間っからこんなものを飲んでいたんですの?」
「コニー、口調。口調がおかしくなってるぞ」
「……本当にもう、あなたという人は」
そうやってお説教しつつ、手にしたグラスに一応口をつけてみた。喉を焼くような強い感触に、案の定せきこんでしまった。
ちょっぴり恨めしい目でユリウスを見つつ、自分のワインをもう一度飲む。けれどこんなめちゃくちゃなやり取りが、ちょっと楽しいと思えている自分がいた。
それから干し果実をつまみつつワインを飲んで、ユリウスやカールとお喋りした。
ユリウスがこの店を見つけたのは、つい最近のことらしい。
なんとユリウスは、自由時間に屋敷を抜け出しては町を散策していたのだった。裏路地に出入りしているなんて知られたらわたくしに叱られるかもしれないなと思って、内緒にしていたのだそうだ。
「それでさ、今日はこれを買いに来てたんだよ。選ぶのに時間がかかりそうだったから、伝言を残して出てきた」
「その伝言をもらった子、困ってたわよ。もう少しやりようを考えて」
「ああ、次はもうちょっと工夫するさ」
「……また勝手に抜け出すつもり? 言ってくれれば普通に休みにしたのに……」
「ちょっと悪さをしてるっていう感じが面白いんだよ」
そんなことを言いながら、ユリウスは荷物の中から何かを取り出した。そうして笑顔で、わたくしに差し出してくる。
「これ。……あんたに、やるよ」