7.お嬢様の小さな冒険
「……それにしても、ユリウスはどこに行ったのかしら。今日はこれから、王国史について勉強する予定でしたのに」
一緒にリルケの町に行ったり、ルイーゼについて話したり。そうして、相互理解に一歩近づいたと思っていたのに。まさかその矢先に、行方不明になるなんて。
いつも彼と勉強している部屋で、じれったさを覚えながらひたすらに待つ。今、オットーと使用人たちが、ユリウスの行方を探してくれている。
「まさか、わたくしたち相手にかくれんぼをしているなんてことは……ないと思いたいわね」
そうつぶやいて、首をかしげる。とにかくユリウスは、謎が多い。
こうして一つ屋根の下で暮らし、一日のほとんどを一緒に過ごし、あれこれお喋りしているというのに、彼についてはほとんど何も分からないままだった。
彼がどこで生まれたのか、どこで育ったのか、ここに来る前はどうしていたのか。家族は、友人は。
それに、オットーとどんな契約を交わしたのか。ユリウスは貴族の暮らしにあまり魅力を感じているようには思えない。わざわざそんなところに自分を縛り付けようなんて、普通なら考えないだろう。
いったいオットーは、契約の対価に何を差し出したのかしら。想像もつかないわ。
そんなことを延々と考えていると、部屋の扉がノックされた。
「お嬢様、ユリウス様の行方について、なのですが……」
そうして入ってきたオットーは、何とも言えない複雑な顔をしていた。笑いたいのに、一生懸命に真面目な顔を作ろうとしているかのような。
……覚えがありますわ、彼のこの顔。四歳のわたくしがお母様のスカートの中に隠れてオットーを驚かせた時に、ちょうどあんな表情をしていた。
そして彼の後ろには、若いメイドが一人。明らかにうろたえ、震えている。
「あの……ユリウス様は『飽きたから少し町に行ってくる。じきに戻るから心配するな』と、そう言い残されて……」
「……もしかして、ついでに口止めとかされた?」
「は、はい。『俺が行方知れずだとばれてから、一時間くらい黙っておいてくれ。お嬢様はそれくらい許してくれるさ』とも……申し訳ありません、お嬢様……」
メイドは泣きそうだ。まったくユリウスったら、わたくしを困らせるだけならまだしも、使用人を巻き込まないでやって欲しい。
「大変だったわね、あなたは悪くないわ。さあ、仕事に戻ってちょうだい」
いつも以上に優しく笑いかけ、メイドをなだめる。彼女はぺこぺこと頭を下げながら退出していった。
そうしてオットーと二人になってから、静かに問いかける。
「……彼はいったい、どういうつもりだと思う?」
「息抜きをしたい、ということかと……ついでに、お嬢様をからかいたかった、といったところでしょうか」
「あなたもそう思う? まったくもう、息抜きならそう言ってくれれば、きちんと休みの時間を作りましたのに……」
これからどうしましょう。町で自由にしているのなら、無理に連れ戻さなくてもよさそうですけれど。でもこのまま、彼の思うつぼというのも……。
小さくうめいたその時、ふと思いついてしまった。
わたくしが一人で町に繰り出し、ユリウスを見つけることができたなら。きっと彼は、大いに驚くだろう。
彼には何度も町に連れ出されているし、平民らしいふるまいも身についてきたと思う。その成果を見せて、ついでにからかわれた分のお返しをする。あら、面白そうですわ。
「……わたくし、ちょっと探してきますわね!」
そう宣言して、全速力で部屋を飛び出した。一瞬だけ、オットーがぽかんとしているのが目の端に見えていた。
平民の服に身を包んで、意気揚々と町を歩く。最初にユリウスが調達してくれたものに、素朴なリボンやスカーフなどを追加していったものだ。これでわたくしも、どこからどう見ても平民の娘ですわ。
大通り沿いなら、わたくしが一人でふらふらしていても大丈夫。そのことはユリウスから教わっていた。
「あの、ちょっと人を探しているんですけど……」
人の好さそうな通行人を選んで、そろそろと声をかけてみる。口調も仕草もばっちりだ。誰も、わたくしを怪しんではいない。
そうして足を止めてくれた人たちに、ユリウスについて説明していく。
わたしと同じくらいの年頃の、柔らかく波打つ綺麗な栗色の髪が目を引く少年。
生き生きとした目は、雲一つない青空の色。ちょっと皮肉っぽい笑みをよく浮かべているけれど根はいい人で、とても軽やかにふるまう人で。
まだ成長し切ってはいないけれど、あと数年もしたら凛々しい素敵な男性になりそうな、そんな感じの人。
といった感じで一生懸命に説明していたら、なぜかみんなとっても温かい目でわたくしを見ていた。何かしら、こう……子供を見守る親のような? いえ、恋話に花を咲かせる令嬢のような?
あっ、というかオットーも、よくこんな目をしていますわね。特に、ユリウスが来てからは。何なのかしら。
周囲の人々の奇妙な視線に戸惑いつつ、教えてもらった方向に進む。ユリウスは人目を引くからか、割と彼のことを覚えている人も多かった。
そうして明らかになった、彼の足取り。まずは大通りで買い食いをして、それからふらふらと色々な店をのぞいて。
「ここまで追いかけてきたのはいいけれど……」
じきにわたくしは大通りの片隅で、立ち尽くすことになった。目の前には、狭苦しくてくすんだ雰囲気の路地。気のせいか、ちょっと空気もよどんでいるような。
「……この奥に行ったみたいだよって、言われても……」
路地に掲げられたいくつもの看板を見すえて、小声でつぶやく。
この路地のあちこちには、酒場があるらしい。確かこういうのを、飲み屋街……って言うのだったかしら。
リルケの町は割と治安がいいところだが、それでも飲み屋街には近づくなよ。
そんなユリウスの声が頭の中にこだまする。何でも、こういったところには酔っ払いがくだを巻いていて、そういうのにうっかり絡まれると面倒な目にあうこともあるのだとか。
「……でも、ここまで来て引き下がれないもの」
たぶんあとちょっとで、ユリウスに追いつける。根拠はないけれど、わたくしはそう確信していた。
ちょっと身震いして、力強く進み出る。こうなったら、彼を見つけるまで帰らない。そう、決意しながら。
「……薄暗いですわ、何だか臭いますわ、誰もいませんわ、怖いですわ、帰りたいですわ……」
意気込んで路地を歩き始めてそう経たないうちに、わたくしはもうくじけかけていた。平民の娘の演技を忘れてしまうくらいには。
幸い、酔っ払いにこそ出くわさずに済んでいるけれど、この路地ときたらやけに薄暗くってごみごみしていて、どうにも居心地が悪くて……。
せめて通行人でもいればユリウスの行方を聞けたし、多少は気もまぎれたのに。
辺りにはたくさん酒場があって、何となく人の気配がしている。けれど、そこに自分から突っ込んでいって話を聞くだけの度胸はなかった。
「……やっぱり、戻ろうかしら……」
立ち止まって、そっと後ろを振り返る。いつの間にかわたくしは、そこそこの距離を進んでしまっていた。今いるのは、ちょうど路地の真ん中だ。
「……もう少し辛抱して進めば、向こうの大通りに出られそうですわね……」
背後の道よりも、前に続く道のほうが明るいように思えた。戻るより、たぶん進むほうが怖くない。
ぶるりと身震いして、またそろそろと歩き出す。けれどその時、路地に積まれた木箱の陰で、何かが動いた。
「な、何ですの……?」
その答えは、すぐに分かった。というか、分からないほうが幸せだった。
丸々と太った、大きなネズミ。それが木箱の陰から出てきて、こちらに向かって走ってきたのだった。
「っ、きゃああああああ!!!!」
当然ながら生まれて初めてのそんな事態に、わたくしは腹の底から悲鳴を上げていた。