32.大人たちの思い
ユリウスの言葉に、ゆったりとうなずく。
「ええ、そうですわね」
「あんたは、反対しないのか? ……その、リルケの家にも大きく関係することだが……」
アンドレアスの願い。それは、こんなものだった。
無事にわたくしとユリウスが夫婦となったら。その時はユリウスの母エミーリアに、リルケの家の一員としての地位を与えてやってくれないか。
きっと彼女は、自分の出自のせいで息子に迷惑がかかりそうになったことを悲しむだろう。だから、今後の憂いを断って欲しい。彼女のために。
「反対なんて、する訳ないでしょう。むしろ、素敵なお願いだと思ったもの」
にっこりと笑って、言葉を続ける。既にこの世にない者を養子として家に迎え入れることは、たまにあることなのだ。故人が故人の養子になることも。
「幸か不幸か、リルケの家に残っているのはもうわたくしだけですし。親戚を説得して回る必要がなくて、ちょうどよかったわ。お祖父様の養子ということにしてしまいましょう」
親戚たちは、みんな逃げだした。沈んでいくリルケの家を見捨てて。だから彼らにはもう、わたくしのすることに口を挟む権利なんてない。
挟もうとするのなら、全力で黙らせるまで。もう、家の存亡を前におろおろすることしかできなかった弱いわたくしとは違うのだから。
「それにあなたは、使用人みんなが信頼しているオットーの親戚。そしてあなた自身も、使用人のみんなに好かれている」
ユリウスが来てから、リルケの屋敷はとっても明るくなった。最初の頃こそ彼はふてぶてしくふるまっていたけれど、使用人たちには礼儀正しく、優しく接していたのだ。
「あなたのお母様であるエミーリアに、リルケの一員としての地位を与える。そのことに反対する人間なんて、今のリルケにはいないわ」
本当は、帰ってすぐに手続きをしてもいい。でも今のわたくしはリルケの当主代行に過ぎないから、そういった重大な案件を取り扱うのはあまりよろしくない。
だからエミーリアをリルケに迎えるのは、わたくしたちが結婚して、ユリウスが当主になってから。二人で話し合って、そう決めた。
隣のユリウスとお喋りをしながら、なんだかとってもくすぐったく、そわそわするものを感じていた。
◇
その頃、ヘルツフェルトの屋敷の一室。
カスパルとアンドレアスの兄弟が、差し向かいで酒杯を傾けていた。メイドすら退出させて、二人きりで。
「家を飛び出してからずっと腑抜けていたお前が、こんな形で動き出すとは思わなかった」
「それを言うならそちらこそ、力ずくで私を連れ戻したくせに、こんなにもあっさりとこちらの条件をのむとは思わなかった」
厳格なカスパルと穏健なアンドレアス、まるで逆の雰囲気の二人は、こうして見ると面差し自体はよく似ていた。
「年を取って丸くなったか、カスパル? あるいは、自分も人の親となって気が変わったか?」
どことなく皮肉っぽく、アンドレアスが言い放つ。カスパルの子パウルとラファエルが生まれたのは、アンドレアスがヘルツフェルトの家に無理やり連れ戻された後のことだった。
「……かもしれんな。だが一番の理由は、お前がやっと我が一族の一人としてふさわしいふるまいをするようになったからだ。覚えておけ」
いつもと同じように悠然と言い返しているカスパルの顔には、ほんの一筋の気まずさと、申し訳なさのようなものがにじんでいた。
そうして、二人の間に沈黙が流れる。それぞれ目を合わせないようにして、ただワインを口にしていた。
「……お前がわざわざ、ここに留まろうとするとは思わなかったぞ、アンドレアス。ユリウスはもう、ヘルツフェルトの一員として正式に認められた。お前の目的は果たされたのだ。もう、ここにいる理由などないだろう」
やがて、カスパルがぽつりとつぶやく。
「私に、その資格はない」
アンドレアスが、短く答えた。
「お前と母の手により、私は愛するエミーリアやユリウスと引き離され、ここへ連れ戻された。母がその直後に急死しなければ、あの二人の身も危なかったかもしれない」
兄のほうを見ないまま、彼は静かに言葉を紡ぐ。
「それは私にとってこの上ない不運であり、苦痛だった」
その言葉に、カスパルがそっと目を伏せた。
「だが……そこから先の不幸については、私にも責任がある」
アンドレアスの声音が、緩やかに変わっていく。静かで弱々しいものから、力強さを奥に秘めたものに。
「私が嘆きの中に溺れていなければ、ロジーナを不幸にすることはなかった。コンスタンツェを苦境に立たせることもなかった」
そうして彼は、兄をまっすぐに見つめた。似ているようで似ていなかった二人は、今はとてもよく似ていた。
「私はその分の責任を果たさねばならない。償いをしなくてはならない。そうしなければ、胸を張って息子に向き合えない」
アンドレアスは思い出していた。自分を殴った息子の力強さを、その言葉を。かつて引き離された時は小さな子供だった息子は、今や立派な青年に成長していた。
そしてアンドレアスは、そんな息子に恥じない父でありたいと、そう思っていた。
「……まったく、お前は強いのだか弱いのだか……」
急に態度の変わった弟を見て、カスパルがしみじみと息を吐いた。手にしたグラスを一気に干して、弟を正面から見つめ返す。
「私たちのいさかいは、ヘルツフェルトのゆがみは、そもそも父母の不仲から始まった」
突然、カスパルはそんなことを言い出した。アンドレアスは少しも動揺せずに、黙って耳を傾けている。
「母は私を、父はお前を手駒として争い続けた。両親がもっと長生きしていたら、ヘルツフェルトの家は傾いていただろうな」
そう語るカスパルは、無念と安堵とが複雑に入り混じった苦笑を浮かべていた。
「……そんなくだらない争いは、私たちで終わりにしよう。大切な息子たちに、このゆがみを受け継がせないために」
カスパルは、先日のことを思い出していた。夜遅く、やけに真剣な顔をしたラファエルが、ユリウスたちを連れてきたあの時のことを。幼い息子は、初対面の従兄ともう打ち解けているように見えた。
「ああ。……いつか、私たちの子たちが親しく交流する、そんな日が来るように」
アンドレアスがカスパルのグラスに、そっとワインを注ぐ。
そうして同じ顔の兄弟は、笑顔でグラスを掲げた。
◇
のんびりと馬車に揺られ、わたくしたちはリルケの屋敷に戻ってきた。ほっとしたような顔のオットーが、真っ先に出迎えてくれた。
「お嬢様、ユリウス様、そしてみなさま。本当に、ご無事でようございました」
「ただいま、オットー。見ての通り全員元気よ。そちらは留守の間、何もなかった?」
「舞踏会やお茶会のお誘いが数件あったほかは、いつも通りにございます」
そんな言葉を交わしていると、ユリウスが進み出てきた。手に革の書類挟みを持って。
「ヘルツフェルトとの話もついた。ほら、収穫だ」
彼は笑顔で書類挟みを開き、一枚の紙――カスパルに書いてもらった、あの紙だ――をオットーに示す。オットーは礼儀正しくその紙をのぞき込み、顔いっぱいに驚きを浮かべた。
「な、なんと……こんなに早く、手に入ったのでございますか……」
「あっちで色々あったけどな、かえって話がとんとん拍子に進んだ。勢い任せだったけど案外うまくいったぞ」
わたくしもオットーも、覚悟はしていた。おそらくヘルツフェルト家にユリウスを認めさせるには、かなりてこずるだろうと。
ユリウスが社交界で評判になりつつあるから、それを利用して……とか、認めてもらえるまで何度も通って誠意を示す……とか、あるいはもっと分かりやすく、金品を積んでお願いするとか。
ところが蓋を開けてみたら、まったく予想外の形でけりがついてしまった。予想外すぎてまだちょっと現実なのか疑ってしまうくらいにあっさりと。
「あ、それと……父さんにも会えた。俺がリルケの当主になったら、母さんをこの家に迎え入れることになった。ま、形だけ、だけどな」
あら、なんだかオットーの様子がおかしいような。ユリウスの言葉を聞いているうちに、かすかに震え出したような……どうしたのかしら。
「……ああ、ようございました。本当に、本当に……」
やがてオットーが、ふりしぼるように言った。いつも張りのあるその声は、かすれてしわがれていた。
「これでリルケの家も、お嬢様も救われます。そしてユリウス様、エミーリアの忘れ形見であるあなたも……」
涙交じりのその声に、ユリウスがこっそりと「救われるも何も、俺、ここに来る前から幸せだったけど」と小声でつぶやいている。どうやら、オットーの感動っぷりに照れ臭くなったらしい。
「このオットー、ようやく肩の荷が下りた気がいたします……」
感涙にむせび泣くオットーを、みんなで優しく見守っていた。
まるでわたくしたちの心の中を写し取ったような、気持ちのいい青空の下で。




