31.晴れやかな朝
「なんだか、あっけなかったわね」
馬車の中で首をかしげているわたくしに、これまた少々呆然とした様子のユリウスが答える。
「ああ。ヘルツフェルトに乗り込んだ時は、ここまであっさり片が付くとは思ってなかった」
そう言って、彼は窓の外に目をやった。ヘルツフェルトの屋敷が、遠くに小さく見えている。
「カスパルは明らかに、俺にいちゃもんをつける気だなって、あの手紙からはっきりと見て取れたし。で、実際に会ってみたらその通りだった。これは厄介そうだなって、そう思ったんだが」
「……そうね。でも、あの時のカスパルの顔ったら。ふふ……」
「おい、笑ってやるなよ……って、確かにおかしかったけどさあ……」
わたくしたちは、昨夜のことを思い出して笑っているのだった。
あの後、わたくしたちは全員でカスパルの部屋に押しかけた。
カスパルは先頭に立っているラファエルを見て少し驚き、わたくしの手にある指輪を見てさらに驚いた。
そこでまず、ラファエルが一生懸命に父親に訴えた。
自分がたまたま指輪の存在を知ったこと、一度はユリウスからその指輪を奪ったこと。しかしユリウスと話して彼の望みを聞き、これは話し合いで解決すべきことなのだと感じたこと。
「あの時のラファエル、とてもしっかりしてたわね」
「ああ。まだ五歳の子供とは思えなかった」
その言葉を聞いて、カスパルはしぶしぶわたくしたちとの交渉の席についてくれることになった。
わたくしたちの要求はとても簡単だった。ユリウスをヘルツフェルトの一員と認めれば、指輪を返す。そして今後は、ヘルツフェルトに迷惑をかけないよう、関わらないよう努力する。
ところがそんなことをユリウスが言おうとしたとたん、アンドレアスがいきなり声を張り上げた。
「私はこの指輪を、ずっと隠していた。亡き父の願いを聞き届けて。しかし今、最愛の息子のために、父への思いを曲げる。ユリウス、手を」
そうして彼は、戸惑うユリウスをわたくしのそばにつれてきて、指輪の石に触れさせたのだ。
当然ながら、石はいつも通りに光っている。それを見たカスパルが、何とも言えない微妙な表情になった。
「ほら、ユリウスはきちんと私の血を引いているだろう! カスパル、エミーリアに謝ってもらおうか!!」
するとアンドレアスは、いきなりそんなことを叫び出したのだ。珍しく、青筋を立てて。
……ああ、ユリウスがヘルツフェルトの血を引いていないと主張するのであれば、彼の母であるエミーリアがふしだらな女だったということになってしまいますものね。
「……分かった。不本意ではあるが……謝罪しよう」
苦虫を噛み潰したような顔でカスパルはそう答え、アンドレアスがまだちょっと怒りの名残を浮かべたような顔でうなずく。
「なあ、父さん。何をそんなに怒ってるんだ? 見当はついてるけど、一応確認させてくれ」
「……カスパルは言うに事欠いて、お前が私の実の子ではないのではないかと言い出したのだ」
「やっぱりな。つまり俺、母さんが浮気してできた子かもって疑われてたんだな。なるほど、カスパルがどうにもうさんくさそうな目で見てくると思ったよ」
おかしそうに小さく笑うユリウスと、まだ怒っているアンドレアス。ユリウスは父親をなだめるように笑いかけ、それからカスパルに向き直った。
「ま、俺としてはあんたがどう考えてようが興味はない。ただ、俺をヘルツフェルトの一員と認め、貴族としての籍を作ってくれれば、それでいい」
「それさえかなえば指輪は渡すし、もう二度とここに足を踏み入れない。それでいいだろ?」
その言葉に、ラファエルがちょっぴり悲しそうにしていた。たぶんこの子、ユリウスのことを意外と気に入っているのかも。
「……分かった。少し待て」
カスパルはぐったりと疲れた様子で、部屋の片隅に置かれた机に向かう。正式な書類を作る時に用いる豪華な便せんを引っ張り出し、さらさらと何かを書き付けている。
「……ほら、これで文句はないな」
そこに書かれていたのは『ユリウス・ヘルツフェルトは我がヘルツフェルトの者である』という文言と、当主であるカスパルのサイン。
この紙があれば、ユリウスは貴族の籍を手に入れられる。貴族の令息として、我がリルケの家に婿入りすることができる。ずっと願っていたものが、すぐそこにある。
ところがカスパルは、その紙を手にしたまま、わたくしをまっすぐににらみつけていた。
「まずは、その指輪を渡してもらおう。この書類を渡すのは、それからだ」
「……わたくしたちが約束を破って指輪を持ち逃げするような、そんなあさましい人物だと?」
カスパルの物言いにかちんときてしまって、そんなことを言い返す。昔のわたくし、ユリウスと知り合う前のわたくしであれば、あいまいに笑ってごまかしていただろう。
でも今のわたくしは、もうただの深窓の令嬢ではなかった。ユリウスを通して、様々なことを学んだ。馬鹿にされて黙っているなんて、もうできなかった。
今までおとなしく話を聞いていただけのわたくしに反論されて、カスパルが言葉に詰まっている。
「コンスタンツェ、あんたの気持ちはよく分かる。が、ここは大目に見てやってくれよ。あんたと違って、カスパルは結構頭が固いからさ」
「……おまえ、父上をわるく言ってはいないか?」
「いいや、褒めてるんだよ。お前の父親はとっても真面目です、ってな」
難しい顔で口を挟むラファエルを、ユリウスがさっさとけむに巻いている。
「ねえユリウス、本当にこれ……渡しちゃっていいのよね?」
カスパルはわたくしたちが指輪を持ち逃げすることを危惧しているようだったけれど、わたくしはわたくしで心配していた。指輪を渡したとたん、カスパルはあの書類を破棄するのではないか、と。
そうしてためらっているわたくしに、ユリウスはすぐに笑いかけてきた。春の陽だまりのような、さわやかで温かい笑みだった。
「ああ。俺はカスパルを、彼の貴族としての誇りを信じてる。もしものことがあったら、それは俺に見る目がなかったってことだな。……あんたも、もう覚悟はできてるんだろう?」
「ふふ、そうね」
わたくしは、ユリウスといられればそれでいい。そんな自分の願いに、もう気づいている。
この上なく慎ましやかに微笑んで、カスパルに向かって進み出た。
そうしてつつがなく、指輪と書類の交換は完了した。
ちなみにカスパルは、この上なく複雑そうな顔で打ち明けてくれた。
彼はユリウスとアンドレアスが親子であることを、最初から疑ってはいなかったのだそうだ。
そして彼は、あの指輪が今はユリウスの手にあることも予想していた。ヘルツフェルトに連れ戻してからのアンドレアスの言動から。
だから彼は、理由をつけてユリウスとアンドレアスを会わせた。そうすることでアンドレアスが何か口を滑らせて、指輪のありかを喋るのではないかと期待していたのだとか。
ちなみにあの別荘の使用人たちは予想通りアンドレアスの見張りであって、わたくしたちの会話を壁の向こうで盗み聞きしていたのだそうだ。
「あなたとアンドレアス様が指輪のことを口にしなかったの、意味があったのね」
「用心して正解だったってことだな。……しっかし父さん、ほんっと隠し事へただな。態度からばれてたなんて。そういうとこ、昔からちっとも変わってない」
くすぐったそうにつぶやいて、ユリウスがもう一度窓の外を見た。もう、ヘルツフェルトの屋敷は見えない。
「……父さんの願い、かなえてやらなきゃな」




